うたかたショートストーリー、またはやる気のない短編集 作:塩崎廻音
あの階段の先は異世界につながっているに違いないと、ずっとそう信じていた。
僕はけっこうな田舎の出なのだけど、その田舎に住んでいたころの最寄りの駅には全部で五つの路線があった。僕は小学校のころ、中学生の兄と一緒に、その駅から五つくらい隣の駅まで週一くらいの頻度で電車の乗って通っていた。習い事の先生の家がそこにあったのだが、何の習い事ったかは覚えていない。多分、習字だったと思う。
ところで、僕の家の最寄り駅の話しなんだけど、その駅の五番線はちょっと妙な感じだった。そもそも、一番線と二番線、三番線と四番線がそれぞれ上りと下りの組になっているところに五番線だけ一人でぽつんと置かれているのがおかしいといえばおかしい。それに、五番線の入り口だけなんだかちょっと古ぼけて薄暗い感じで、僕はずっと、それは何か不思議な世界の入り口だとばかり思っていたのだ。
僕は何度か、その五番線のホームに下りてみようと試みてみたことがある。しかしながら、その階段から漂ってくるなんとも奇妙な雰囲気と言ったら!どことなく生ぬるいような、埃臭いような風がゆるゆると吹き込んでくる感じが何とも不気味で、結局あの最後一回以外は、入り口をちょっとのぞき込んだだけで終わってしまったのだ。
ところがある夏の日、その「最後の一回」の日だが、その日はちょっとその階段の様子が違った。夏の強い日差しで半透明の屋根が照らされて明るくなっていたのが原因なのか、それとも熱くなった空気が逆に吹き込む風の気持ちの悪い生ぬるさを打ち消したからなのか。その日、その階段はいつもの不気味さは薄れ、まるで僕をその内側に誘い込むような雰囲気を放っていたのだ。
少しだけ迷って、僕はその階段を下りて行った。今となっては妙なことだが、その時誰も、僕のことを止めなかった。一緒に来ていたはずの兄も、駅員の誰も。兄はもしかしたらどこかそっぽを向いていて気づかなかったのかもしれないが、駅員が誰も気づかなかったとは思えない。狭い田舎の話だ。駅員の誰も彼も僕が本当に用事があるのは三番線だということを分かっていたはずである。
ともかく、僕はその階段をかつかつと降りていった。実際に降りてみるとやはりその階段は他の路線へ向かう階段とは違って、段の部分が敷石ではなく金属でできていた。後から聞いた話によると、その路線は本来貨物列車のために作られたもので、作業員の硬い靴で上り下りしても傷がつきづらいように金属でできているのだとか。
そんなわけで、普段と違った金属の階段は僕の足音をことさら強く響かせ、階段の中ほどでは反響した足音がゴンゴンと大変うるさかった。
階段を降りると、そこには一両の電車が停まっていた。不思議な話だ。いつも三番線から眺めていた時、このホームに電車が止まっていたことは一度もない。ただ、当時の僕はそんなことは気にも留めずに、この「異世界」の電車に夢中になっていた。電車は見たところ、普段乗っている電車と同じ車両のように見えた。ただ、まるで呼吸をしているかのように緩やかに揺れ、どこからかシューシューという音が聞こえていたよう思う。
しばらくその電車を眺めていた僕は、やがて誘い込まれるかのようにその電車の中へと進んでいった。電車の中は意外なほどに涼しく、僕は一瞬身震いした。見回すと、乗客は一人も乗っていない。僕は少し迷った後、入ったドアのすぐ近く、運転席に一番近い座席に座り、出発を待った。おかしなことだが、僕はその時、すっかりその電車の行く先に出かけるつもりでいたのだ。
さて、数分くらい待っていると、発車のベルが鳴ってドアが閉まり、電車が走り出した。その電車はとても静かで、普段乗っている電車のようなガタンゴトンといった走行音は全くしなかった。そのくせ電車は酷く揺れ、普段乗り物に酔わない僕でも少し気持ち悪くなってしまった。
その電車は、最初は見慣れた街の中を走っていたけど、すぐに街を外れて山の中へと進んでいった。電車は街中では一回も止まらなかったので、街の外へ出るまでは一瞬だった。しばらく、山の中を進む。電車から見える谷間の景色はなかなかのもので、山からの景色は見慣れたものであった僕もしばらくその景色に見とれていた。やがて、おそらく十数分走ったところで、電車は最初の駅に停まった。その駅は何もない山の中腹にぽつんと建っていて、屋根もないプラットホームと申し訳程度の柵があるだけだった。
運転席から運転手さんが出てきて、降りる乗客がいないかを確認する。その運転手さんはやたらと太っちょなうえに毛むくじゃらで、顔がよく見えなかった。
ちょっとだけ待って、運転手さんは再び運転席へと戻っていった。そのあとすぐに、電車が動き出す。ぽつんと寂しげなプラットホームを尻目に、僕と電車は先へと進んでいった。
それからしばらくは、同じ事の繰り返しだった。数分に一回のペースで電車はプラットホームだけの駅に停車し、運転手さんが出てくる。降りる乗客がいないことを確認した運転手さんはちょっとだけ待つと運転席に戻り、電車が走り出す。
そんな流れを何回も繰り返すうちに、僕はこの電車がこのまま山奥に消えて行ってしまうんじゃないかと思った。だって、さっきから同じような何もない駅にとなるばかりで、周りの景色はちっとも変わらない。電車の向かう先を見てもずっと同じような山々しか見えないし、それは何駅過ぎても同じことだった。
「きっと、このままじゃどこかに連れていかれてしまう」
そう思った僕は、次の駅で降りて逆方向の電車に乗って帰ろうと決心した。この山奥のプラットホームしかない駅で電車を待つのはとっても怖そうだけど、このまま知らないどこかへ連れていかれてしまうよりはましなはずだ。そう思った僕は、その数分後に停まった駅で電車から降りた。ざわざわと風に揺らめく木々の音が恐ろしい。運転席から出てきた運転手さんは、僕の姿を見ると近づきながら右手を突き出してきた。僕はその時になって、自分が普段の行先の為の切符しかもっていないことに気づいた。普段通っている駅は五つくらい隣の駅で、運賃は200円くらい。でも、この駅に来るまで何駅も停まったし、電車に乗った時間も普段の何倍も長い。この切符で足りるとは思えなかった。
さらに悪いことに、僕たちの切符を買うお金は兄がすべて管理していた。小学生の弟がお金を粗末に扱って亡くしてはいけないという考えからそうしていたのだが、それがこの時はあだとなっていた。
どうかこの切符で足りますようにと願って、運転手さんに切符を差し出す。運転手さんはちょっとの間その切符を眺めると、これじゃ足りないよといった風に首を横に振った。僕は、「ごめんなさい、今はお金を持ってません」と言った。すると、運転手さんはカッと目を見開いてこちらを睨んできた。
その時になって、僕は運転手さんの顔が猫の物であることに気づいた。いや、顔だけじゃない。手も、脚も、多分服の下の体も猫の物だ。猫の運転手さんは見開いた目のままこちらに近づき、
「お客さん、無賃乗車はいけません。何か別の物で払ってもらわなきゃ」
と言った。僕は、何か払えるものを探そうとかそういうことを思うよりも、まずその運転手さんの恐ろしさにおののき震えて動けなかった。すると、そんな僕を見た運転手さんは、僕がお金を払う気がないと思ったのか、
「お客さん、お金を払いたくないってんならこっちにも考えがありますよ」
と言って、その手の爪を光らせ、その口の牙をむき出しにしてさらに近づいてきた。
――僕を食べる気だ!
僕はそう思い至ったが、食べられる恐怖にますます震え、身動きが取れなくなっていた。
「ぼ、ぼく、あの、この、で、電車が、どこにいくか、き、気になって…」
そうやって僕は、弁明になっていない弁明を行う。猫の運転手さんはニヤっとその大きな口を歪めて、
「好奇心は猫をも殺す。勉強になりましたね」
そう言った。カチカチと爪を鳴らす運転手さんが、ついに僕の目の前までたどり着く。今にももう食べられるという段になって、僕は急いでカバンの中を探った。そこには、お母さんが習い事の教室で食べるために作ってくれたお弁当が入っていた。僕は、「代わりにこれを食べてください」といった趣旨のことをふるえる声で言って、その弁当を運転手さんの前に差し出した。
効果は劇的だった。
「ぎゃあああぁぁぁぁああああ!ふざけるな!お前、それ、そんなものを食べてるのか!これだから人間は!!」
差し出された弁当を見た運転手さんは大きくあとずさり、忌々しいものを見る目でこちらを見た。先ほどまでのニヤニヤ笑いはどこへ行ったのか、心底嫌がっていて余裕のない表情だ。
運転手さんは、運転席に逃げ込むように戻った後、
「お前みたいなやつは知らん!とっとと元の場所へ帰れ!!」
と言って電車を発車させた。すると、急に僕の視界がゆがみ、気付くと僕は、あの五番線の階段の前に佇んでいた。
「みっちゃん、そろそろ電車が来るよ?」
兄の声が後ろから聞こえた。今までの出来事が嘘のように、いつも通りの光景。いや、実際、今までの光景は嘘の物だったのだろうか。少なくとも、階段を下りたときから今まで、あの電車に乗っていた時間ほどの時がたっているようには思えなかった。
僕は、ほんのちょっとの間兄の言った言葉の意味を考え、そのあとすぐに兄と一緒にいつの通りの三番線へと降りて行った。
ところで、後で知ったことなんだけど、あのお弁当に入っていたおかずの中に、「猫またぎ」って言われる種類の魚が入っていたらしい。僕があの猫に食べられなかったのは、その魚のおかげだったのかもしれない。
田舎の駅には不可思議な魅力があるかもしれない。