うたかたショートストーリー、またはやる気のない短編集 作:塩崎廻音
本をたくさん読む人間を読書家と呼ぶことがあるが、さて読書家というのはどこから適用される言葉なのだろうか。私はいつもそれを疑問に思う。
私は人と比べると本をよく読む方だと思う。家に帰ってからはもちろん授業の合間にも大抵何らかの本を読んでいるし、読む本がなくなる前に次の本を図書館で借りるので本を読まない日がない。単に読んでいる本の量で考えれば、他の誰にもそうそう負けない自信がある。
ただ、私が読む本は酷く偏っていて、基本的にハイファンタジーの冒険ものか恋愛ものばかりを読んでいて、他のジャンルは名作であってもほとんど読んだことがない。読む本の量に対して知っているジャンルの広がりがほとんどないのだ。
無論、この本の読み方に対して自分で思うところはないのだが(あればとうに改善している!)、いつも本を読んでいる私は友人から読書家と見なされているので、そのイメージと実態との乖離に少々居心地の悪さを感じているのだ。一応折に触れて否定はしているのだが、いまいち成果は上がっていない。まあ、結局のところいつも本を読んでいることは確かなので実質的に否定になっていないというのはある。
さておき、今日も私は図書館にやってきた。最近読んでいた小説がそろそろ佳境に入ってきたので、次に読む本を探しに来たのだ。校舎の端にある図書館には(用事がなくても)毎日のように訪れているため、もう無意識でもたどり着くことができる。
この学校の図書館は他の学校より少し大きいようで、入学式の時に校長がその素晴らしさを語っていた。まあ、今時の学生にとって図書館の大きさはさしたる関心の対象にならないので特に話題に上るでもなく流されていたのだが、私にとっては大いにありがたいことだ。読みたい本があれば買うことにためらいはないが、流石に学生の財力には限りがある。親も理解があり読書のための出費であればそれなりに融通を利かせてくれはするが、それでも少し物足りなさはある。あと、物理的な置き場所の問題も。なので、図書館でたくさんの本を借りることができるかどうかというのは、私にとっては死活問題であるのだ。
その点、この学校の図書館は素晴らしい。歴史ある進学校だからというのもあるのだろうが、古典的名作から最新の話題作までずらりと並んだ本棚は私の心を魅了してやまない。本を借りる必要がない日まで図書館にきて何があるかなと物色してしまうのは、これだけの蔵書の多さが私の心を狂わせるからなのだ!
そんなわけで、今日も私はこの図書館に本を探しにやってきたわけだ。
いつも通り、図書館の中では比較手前に位置するファンタジー小説が収められた書架に直行する。天井近くまで何段にも分けられた本棚にぎっしりと収められた本たちは、いくら読めども尽きない無限の蔵書。ここにきて次に読む本を探すだけで軽く一時間はつぶれてしまう。お昼休みに来るときはご飯を食べる時間が無くならないよう要注意だ。
ウキウキと次に読む本を物色していると、ふとカサリと何かが蠢いたような音が聞こえた。本棚の裏に誰かいるのだろうか。少し気になって回り込んでみたが、そこには誰もいない。気のせいだったのだろうか。
元の場所に戻ると、再びカサリと何かが動いた。これは気のせいではない。やはり何かが近くにいるようだ。
音が聞こえた方向に目をやる。本棚の裏に何もいないとすれば、本の間?何か虫でも入っているのだろうか。そう思って当たりを探っていると、本棚の一番下の段で奇妙な光景が繰り広げられているのを目にした。
本棚の一番下の段には本がそれほど収められてはおらず、いくらかスペースが開いている部分がある。そこに一冊の本が倒れているのだが、その本はページが開いた状態になっており、さらに少し時間がたつごとにそのページがひとりでにめくられているのだ。すわ怪談かと思ってよく見ると、実際は本はひとりでにめくられているわけではなく、何か尺取り虫の様な真っ白の虫がその体を器用に使って本をめくっていた。
――『本の虫』だ。
いつか昆虫図鑑かなんかで少しだけ見たことがあるその虫のことを瞬時に思い出す。
本の虫は奇妙な生き物で、成長するために木の葉なんかを食べるのではなく「本を読む」ことが必要になる虫らしい。成虫はそれは見事な翅を持った蝶のような虫であるらしいが、昔はあまり目撃例が多くなかったようでその本には成虫の姿も幼虫の姿も載っていなかった。ただ、図書館などに現れて本を読んで成長することが主らしく、今みたいに横倒しになった本を上手いことめくっていって読んでいく姿が最近はそれなりに目撃されるらしい。
生きるために本を読む必要がある生き物。私はその存在に妙な親近感を持ってしまい、しばしその虫が本を読む光景を眺めていた。女の子のご多分に漏れず虫が苦手な私にとっては、その尺取り虫のような見た目(しかも、自力で本をめくることができるくらいには大きい!)は到底見つめることができないようなものであったはずだが、同じ本読みという親近感からか、それほど気にならなかった。むしろ、全身をいっぱいに使ってページをめくるその姿をかわいらしいとさえ思っていた。
しばらく眺めていると、一通り本を読み終わった本の虫が、こちらに気づいた。じっとこちらを見つめ返してくる本の虫の様子を見ているうちに、不躾にも「人」が本を読む姿を観察していた自分の非礼に、少し恥ずかしくなってきてしまった。
「ごめんなさい。ちょっとあなたが本を読む姿が気になってしまって、しばらく見てしまいました」
「…まあ、構わないよ。人間からすると、僕たちは珍しいらしいからね」
私が本の虫に話しかけたのは思わず、と言ったところであったが、予想外にも返答があった。本の虫に遭遇したのは初めてであったので、本の虫が人の言葉を話すことは知らなかったのだ(図鑑にも書いていなかった)。なので、自分で話しかけておきながら「彼」の返答に戸惑ってしまった。
「ああ、えっと、その、いつもここで本を読んでいるのですか?」
そしてその戸惑いそのままに、さらに話しかけてしまう。話しかけられた彼はというと、さしてこちらの態度を気にした風もなくその問いに返答してきた。
「まあね。とはいえ、僕が生まれたのは最近のことなんだが」
「あれ、そうなんですか?」
その返答に少し驚く。もちろん本の虫の若さなんてものは見ても分からないが、その落ち着いた口調は人間で考えれば年上であることは確実である。
「僕たちは本を読めば読むほど成長する。ここでは読む本には困らないから、生まれてすぐといってもだいぶ成長している方だと思うよ」
「ああ、なるほど。そういう感じなんですね」
「うん。とはいえ、この体だと本を引っ張ってくるのも苦労するから、そんなに効率は良くないけどね。誰か手伝ってくれる人間がいるともっと本を読めるんだけど」
そうやって愚痴る本の虫。確かにページをめくることができるくらいに大きいとはいえ虫の体とその大きさでは、一冊の本を倒してページをめくるのも大変だろう。本棚の中からでは背表紙も見えないだろうから、もう読んだ本かどうかを判別するのも大変かもしれない。そうであれば、この小さい『同士』を助けてあげたい気持ちがむくむくと湧き上がってくる。友人は本を読まないので、そういう話ができなくてちょっとつまらないのだ。
「そういうことであれば、私が何かお手伝いしましょうか?」
「…いいのかい?人間の女の子からしたら僕たちの見た目はけっこう嫌なものだと思うけど」
「まあ、なんでしょう。本好きに嫌な子はいない的な?」
実際私が彼の見た目を嫌だと思わない理由はよくわからない。やっぱり、本が好きな同士であるから親近感が湧くとかそういう感じなんじゃないだろうか。
「キミがいいのであれば私としては嬉しい申し出だ。よろしく頼むよ」
「はい。頼まれました」
そんなわけで、私に新しい小さな友人(いや、同士というべき?)ができた。
***
そのあと、彼をこっそりカバンに入れて(教科書とかでつぶされないように工夫するのが大変だった!)家に連れて帰る。図書館は確かに本がたくさんあるが、本の虫である彼が本を読むのにはちょっと適さない。私の部屋であれば、外敵による妨害もなく本を読むことができるので環境としては上だろう。それに、図書館ほどではないが私の蔵書もそれなりのものだという自負がある。
「はい、いらっしゃい。ここが私の部屋です」
「なるほど。本が好きだというだけあって、かなりの量だね」
彼にとってもこの本の量は魅力的に映ったようで、図書館から移住したことに対する不満は特になさそうだ。
さて、本好きが二人部屋に集まればすることは一つ。読書だ。
というわけで、本棚から適当に本を取り出す。私は今読んでいる小説の続きを読むつもりだが、彼が読むための本を用意する必要がある。私の部屋には一晩二晩では到底読み切れないくらいの本がそろっているので、適当に選んで読んでいってもらえば、いずれは成虫になることができるだろう。
「では、とりあえずこの辺りを。最近出たファンタジーですが、先が読めない展開が売りの楽しい小説です」
「なるほど、見た感じだと五巻くらいの長編かな?」
「はい。そしてこっちは、ちょっと昔の恋愛小説です。割と王道でしっかりとした出来ですね」
「ふむ。そちらも面白そうだ」
そんな風に、いくつかのおすすめを紹介していく。予算が限られる中で買いそろえたこの本たちは、あまり衝動買いはせずに事前のリサーチを徹底して買ったもの。どれも胸を張っておすすめできる名作だが、やはりその中でも特に気に入ったものはある。
「あ、こっちのシリーズもいいですよ。ハイファンタジーの王道って感じで…」
「これはちょっと変わり種ですね。勘違いによる複雑な人間関係をテーマにした恋愛小説で…」
「ファンタジーのあるあるネタをちょっともじったようなギャグ調の作品で…」
「私は恋愛ものといっても悲恋はあまり好きじゃなくて…」
「あ、この辺はどうでしょう?有名ですからもう読んじゃってますか?」
「ちょっとこれは人を選びますけど、ハマる人はハマる感じというか…」
「よし、ちょっと落ち着こうか」
ノリノリで本の紹介をしていたら、ちょっと引き気味に制止されてしまった。
…しまった。いつも本について語れないのでフラストレーションがたまっていたようだ。「話せる」同士の到来にテンションが上がってしまい、ついつい語りすぎてしまった。私のあまりの剣幕に、彼もあきれたような雰囲気になっている(顔色は正直よくわからない)。
とりあえず黙って彼が吟味するのを見守る。私としては自信をもって勧めている本ばかりではあるが、本の好みというのは人によって大きく異なる。しかも友人に本読みがいない私は、他人に本を勧める経験が少ない。増して、本の虫なんて言う不思議な生き物に勧める本として、これらが妥当なのかどうかは分からなかった。
彼はまだ本を吟味している。この時間はなんだろう、ちょっと面接か何かを受けているような気分になってきた。「この本を勧めようと思った動機はなんですか?」「えっと、この本を読むことで既存のファンタジー感を見つめなおすことができて、他の本ももっと楽しめるようになるからです!」みたいな?
そんな益体もないことを妄想していると、一通り本を眺め終わったらしい彼が再びこちらに話しかけてきた。
「ありがとう。どれも面白そうだし、とりあえず一通り読ませてもらうよ」
「わあ、良かったです。人に本を勧めるのは初めてだったので、気に入ってもらえて良かった」
「まあ、本の虫にとっては割とどんな本でも読むのに支障はないんだけどね。でも、面白いに越したことはないし」
「…このタイミングで言われと微妙な気分です」
「おっと、すまないね」
おどけるように笑う。本の虫の生態は把握していないが、結構感情豊かだ。下手な人間より人間らしいかもしれない。
「じゃあ、とりあえずその本はテーブルの上に並べておきます。そうすれば、順々に運んで読んでいけますよね?」
「うん、ありがとう。それならあまり苦労せずに本を取れそうだ」
「まあ、行ってもらえれば手伝うので、遠慮はしないでくださいね?」
「了解」
そうして、私と彼は本を読み始める。いままでずっと本を読むときは一人だったけど、こういうのもいいかもしれない。
二人きりの部屋に、ページをめくる音だけが響く。秋の夜長はまだ更けない。
***
小さな同居人はおおむね家族に受け入れられたが、妹だけは猛烈に嫌がっていた。曰く、「お姉ぇは頭がおかしい」。まあ、否定はできない。私も逆の立場なら同じ反応をしたと思う。そんなわけで今までほとんど毎日私の部屋に入り浸っていた妹は、今や部屋の外にすら近づこうとしない。本の虫の移動能力はそう大したものではなく、私の部屋のテーブルから離れることはないのだが、そんなことは関係ないらしく部屋ごと敬遠している。
さて、本の虫を家に置くにあたって、少し生態を調べてみた。子供のころに見た図鑑にはろくな情報が載っていなかったが、ちゃんと調べれば必要な情報は大体出てきた。本の虫は本さえ読めれば特に何も食べる必要がないらしい。十分な本が読めないときはふつうの虫と同じように木の葉なんかを食べて糊口を凌ぐようだが、幸いにして私の部屋ならその心配はない。そして、十分な本を与えれば一年もしないうちに成虫になって飛び去るようだ。今は秋だが、冬を越して夏ごろにはそうなるだろうか。
生きていられる気候なんかも調べてみたのだが、普通の芋虫の類よりはだいぶ丈夫なようで、よほど寒かったり暑かったりする場所に放り出さなければまず弱ることはないらしい。まあ、本を読んで成長するなんて言う不思議生物にそれほどの心配はいらないというところだろうか。
とりあえず、生態を知らずに粗略に扱って弱らせてしまうということはなさそうだ。せっかく見つけた同士をそんなアホな理由で亡くしたくはない。部屋に彼が生活するためのスペースもしっかり用意したし、何も問題はなさそだ。
と思っていたら、問題は彼の方にあった。
ある日いつものように本を読んでいると、ファンタジーか恋愛もの以外の本が読みたいと頼まれた。もっぱらそのジャンルだけ読んでいる私とは言え、小さいころに読んでいた本も多少は残っている。とりあえずはそれを渡して、その時は話しが終わった。しかし、その本を読み終えた後に、再び彼は別ジャンルの本を要求してきたのだ。
私の部屋にある本(というか、この家にある本)はファンタジーと恋愛ものばかり。そう説明して、彼の要求を断ったところ、結構な勢いで不満を述べだした。
「特定のジャンルの本だけを読むなんて、読書家の風上にも置けないんじゃないか?」
「…いや、私は本好きですけど読書家は自認してません」
「あ、そうだったか。いやしかし、世の中にはたくさんの種類の本がある。食わず嫌いで一部の本しか読まないのは勿体ないのではないか?」
まあ、彼が言うことはもっともではある。しかし、私は当然そういったことも加味したうえでいつものジャンルの本だけを読んでいるわけで、そこに同士とはいえ他人から嘴を突っ込まれていい気はしない。
あるいは、調べた中には載っていなかっただけで、本の虫の成長にはいろいろな種類の本が必要なのではないか、と思い至り彼に直接聞いてみたところ。
――目をそらしやがった…!!
要するに、色んな種類の本が読みたいというのは、彼の『グルメ』嗜好なワガママによるものであって、生きるのに必須な訳でも成長に必須な訳でもないのだ。こいつ、居候のくせにいい根性してるな。
しかしまあ、私は趣味でこのジャンルだけを読んでいるのだが、彼の趣味が違うというなら押し付けるのも気が引ける。幸いにして、我が校の図書館は蔵書が豊かだし、(利用者が少ないためか)一度に読み切れないほどの本を借りることができる。私が読むための本に加えて、適当な他ジャンルの本を借りるのもいいだろう。そう思って、図書館から定期的に無作為なジャンルの本を供給してみたところ、大いに喜んでもらえた。心なしか、いつもよりつやつやしているような気もする。
まあ、ひと手間かけるくらいでこれだけ喜んでもらえるならいいか。そう思って、私の日課にいつもと違うジャンルの本を探すことが加わったわけだ。
***
そんなこんなで彼との共同生活が続き、季節は冬を超えて春が到来していた。色々なジャンルの本を探す日課はずっと続き(なにせ、読んだことがあるジャンルの本を渡すと露骨に落胆しやがるのだ!)、私の図書カードもザ・読書家!といった風になってしまった。
しかも、変わったのは図書カードだけではない。本の虫が要求するにしたがって借りた本ではあるが、読み終わった彼が執拗に勧めてくるため、押し切られて私も色々なジャンルの本を読むようになったのだ。この辺の押しの強さはちょっと引くくらいで、正直なところマナーがなってねえなこいつと思ったのは一度や二度ではない。趣味というは人に押し付けるものではないと思うのです。しかし、確かに勧められた本を読んでみると面白いし新鮮な発見もある。そのため、うるさいとは思いつつもあまり無下にするのもな、という気分で毎回押し切られてしまうわけだ。
この辺の影響は買う本にもちょっとずつ表れている。半年前にはファンタジーと恋愛ものだけで埋まっていた本棚だが、今やその最下段には雑多なジャンルの本が詰め込まれるようになった。最近は最下段からあふれて、上の段に浸食を始めている。この有様は、本の虫様様というべきか、否か。
そんな私の妙な葛藤には気づく様子もなく、今日も彼は本を読む。私ももちろん読んでいるのだが、最近の彼の読書への没頭ぶりはちょっと凄まじい。前は読み終わるたびにその本の感想を述べて、ついでにかなり強引に私にも勧めてきたが、今は一冊読み終わればすぐに次の一冊に手(?)を出す。読むべき本が尽きれば流石に止まるが、その際も次の本に思いをはせているのか、問いかけても返答はあいまいだし特に何かするでもなくぼーっとしていることが多い。
――何か、病気にでもなっていないだろうか?
少し、不安になる。本の虫はやや珍しい生き物であり、育成のための情報は少ない。一応環境には気を使っているつもりだが、不意の病気ともなれば正しく対処できる自信はなかった。
しかしその何日か後、その不安は全くの杞憂であることが分かった。
「もうすぐ蛹になる」
「…え?」
いきなりこれである。もう少し文脈に沿った説明を心がけて欲しい。
「…説明を求めます」
「ああ、いや、申し訳ない。十分な本を読むことができたので、このあと蛹になって、二~三週間で成虫になるんだ」
…あまり情報が増えていない。
「蛹になるのは分かった。おめでとう。けど、私はどうすればいい?蛹になるための場所とか用意したほうがいい?」
「いや、いつもの寝床を使わせてもらうからそこは大丈夫だ」
「じゃあ、蛹になっている間の世話とか?蛹だと本は読めないし」
「いや、蛹になればその辺は不要だ。ただ、読み聞かせてもらえるなら蛹の中からでも聞こえるかもしれない」
ふむ。ということは、私の方から特にすることはないわけで、今まで通りの生活をすればいいのか。一応、本を読み聞かせるくらいはしてやってもいいかもしれないが。
「わかった。私の方は、特に変わらないんだね」
「そうだ。ただ、いきなり蛹になったら驚くだろうから、一応宣言しておこうかと」
「なるほど」
確かに、ある日いきなり彼が蛹になったらかなりびっくりしたかもしれない。しかし、なるとわかっていれば何のことはない。特に準備がいるわけでもないなら放っておこう。
「じゃ、今のうちに読みたい本があれば読んでおいてね。一応暇があれば何冊かは読み聞かせてあげるけど、聞こえるかは分かんないでしょ?」
「うん。そうさせてもらうよ。もっとも、めぼしいのは大体読み終わったけどね。」
その話を聞いてから、数日後。いつもテーブルの家で本を読む彼がいないなと思って寝床を覗くと、そこには一つの蛹があった。本の虫の蛹とはどんな物なのだろうかと思っていたのだが、見た感じはふつうの蛹と同じだった。気の迷いでちょっと匂いも嗅いでみたが、別に書籍の匂いがするわけでもない。そうと聞いていなければ、本の虫の蛹だとは絶対に思わないだろう。
さておき、奇妙な同居人が蛹になって何か生活が変わるかと思えば、別にそう大した変化は起きなかった。なにせ、最近の彼はずっと本にかじりつきだったわけで、特に本の感想を話し合ったりオススメを(強引に)勧めてきたりということがなくなっていたので、図書館で新しい本を見繕ってくること以外は私一人だったころとさして変わらなくなっていたのだ。しかも、借りてくる本自体も最終的に私も読むわけで、そうなるといよいよ以前の生活と全く同じわけだ(妹は相変わらず寄り付かないが)。
そんなわけで、本の虫が蛹になるという一大イベントは、私の中でほとんど何事もなかったかのように処理されていった。マジか。
ただ、一応の約束として暇なときは本を読み聞かせてあげるということにはなっていたので、相変わらず図書館から借りてくる色々な本の中から適当に見繕って、毎日少しずつ読んであげている。聞こえているかは分からないが、他の虫の蛹と同じような状態であれば、多分聞こえていない。そう考えるとやる気がそがれるので、聞こえているかいないかは考えないようにした。最近互いに放置気味ではあったが、貴重な本好きの同士である。どうせ今までも散々ワガママを聞いてきたのだし、今回もその願いは聞いてやろう。あいつ、今まで恩を一回も返してないけど。
というわけで、今日も今日とて蛹に向かって本を読み聞かせているわけだ。はたから見たら完全に精神異常者だが、そこは気にしてはいけない。
***
そして、数週間の時がたった。
読み聞かせは慣れてしまえば案外なんてことはなくて、気付いてみれば毎日飽きもせず続けている。まあ、結局のところ声を出しているとはいえ本を読むことの延長であり、私自身楽しみながらやっているので当然といえば当然であるのだが。
ただ、一度こっそり部屋の中をうかがっていた妹に蛹に向かって読み聞かせをしているところを見られてしまって、それ以来「お姉ぇ、キモイ」と言われ続けている。せめてキモイは蛹に対する言葉だと信じたい。
さておき、蛹に当然動きはない。折角こうして毎日朗読してやっているのだからお礼くらい言ったらどうだ?というのは無茶ぶりが過ぎるが。とはいえ、反応のない相手への読み聞かせはちょっと妙な感じだ。羽化したら文句の一つでも言ってやろうか。
はてさて、そうやってくだらないことを考えていると、突然蛹が動き出した。
――羽化が始まった!
もぞもぞと蠢く本の虫の蛹。やがて、蛹の頭?の部分が割れて中から少しずつ成虫が這い出す。まじまじと見てしまったが、結構キモイ。どうしよう、なんていうか目を離す機を逃した感があるが、これ夢に出てきそう。グロイ。え、これ大丈夫だよね?R-18とかじゃないよね?
なんて混乱しているうちに羽化は進む。一分ほどで(体感はその何倍も!)蛹から成虫がすっかりはい出て、その美しい翅を広げた。
おもわず、息をのむ。黒を基調としたその翅は何種類もの宝石が重なったような複雑な光沢をもち、さりとて悪趣味なギラつきはない上品な艶を持っていた。黒曜石をもっと色鮮やかにしたらこんな感じなのだろうか。
しばらく、私の時間は停止していた。やがて、息苦しくなってきたことに気が付き、慌てて息を吸う。
――息をするのも忘れるほど、なんて本当にあったんだ。
驚きとともに、改めて成虫となった本の虫に目をやる。彼はその美しい羽根をいっぱいに広げ、今にも飛び立ちそうだ。
「ありがとう、詩織。キミのおかげで立派な成虫になれた」
彼がそう礼を言う。孵ったら文句を言ってやろうとか、朗読に対するお礼を言ったらどうかとか、蛹でいた間は色々思っていたのだが、いざ彼が羽化してみると何も言えない。すっかり彼の姿に圧倒されてしまっていた。
「本当はもっといろいろ語り合いたいところだけど、僕はもう行くよ。成虫になった僕に与えられた時間は少ないからね」
そう言って彼は、窓の外へと飛び去ってしまった。後には、ずっと放心して何も言えないままでいた私が、ひとり取り残されていた。
***
後で知ったことだけど、本の虫の成虫は幼虫時代に読んだ本の種類が多ければ多いほど多彩な美しい翅になるらしい。そうであれば、グルメでワガママな彼の要求にきっちり応えた私の献身があの美しい翅を生んだことになる。だったら、あの苦労も甲斐があったかな。自分でも現金だと思うけど、そう思った。
それに、彼に付き合って色々な本を読むことになって、私の世界がずっと広がったのも確かだ。もうすぐ進路を決める時期。半年くらい前までは何をしたいのかも分からなくて進路を決めかねていた私だったけど、今はやってみたいことが多すぎて逆に進路が定まらない。こんなことになるなんて、ちょっと前のわたしからしたら想像もできなかっただろう。でも、そうやって広がった世界を生きることは、きっととっても楽しいに違いない!
さて、とりあえず進路のことは今日悩んでも明日悩んでも同じ。というわけで、今日は悩みを捨て置いて、図書館から借りてきた本の続きを読むことにする。読む本はフランツ・カフカの『変身』。そういえば、彼は本の虫というにはやたらと人間臭かった。もしかしたら彼も、元は人間から変身した虫だったのかも?
――リンゴをぶつけてやればよかったか?
いや、そんな残酷な真似は致しませんが。
「詩織、今日も本を読んでるね」
そうやって妄想をしていると友人の志保に声をかけられる。彼女にとってみれば本を読む私は慣れっこ。続く言葉もだいたい決まっている。
「まったく、詩織は読書家なんだから」
「いやいや、私は読書家じゃないってば」
いつものようにそう否定し、でも、今日はちょっと言葉を続ける。これも、あの美しい翅の彼の影響?
「そうね、私のことは『本の虫』とでも呼んでちょうだい?」