うたかたショートストーリー、またはやる気のない短編集 作:塩崎廻音
時々、自分が何のために生きているのか分からなくなることがある。
昔はこんな悩みはもっていなかった。少なくとも小学校のときは周りのみんなと同じように毎日が楽しかったし、中学校の時は部活に精を出して充実した日々を送っていた。高校ではレギュラーになれなくて試合にもほとんど出なかったけど先取の皆を超えの限り応援したし、大学では一般的な大学生らしい大学生生活を送ることができた。僕の人生は、総じてそれなりにうまくやってきたと思う。
今も、実際のところそれほど悪い毎日を送っているわけでもない。入った会社は別にブラックなアレではなかったし、いつもヘマばかりして課長から怒鳴られてばかりの同期と違って僕はまあまあ上手くやっている。有能ではないけど邪魔にもならない人間だと評されているらしいのを飲み会の時に知った。
ただ、そうして日々を過ごしていると、ときおり無性に「自分の人生はこれでよかったのか」という気分に駆られるのだ。あの時、もっと頑張っていれば僕の人生はもっと素敵なものになったんじゃないか。もっといい会社で今よりも何倍のお金を稼いだり、あるいは可愛い彼女と同棲生活を送ったり。そんな未来もあったんじゃないかと。
そんな妄想に比べて、今の生活はどうだ。毎日遅くまで残業して、晩御飯は変わり映えのないコンビニ弁当。当然、彼女もいない。趣味といえる趣味もないから休日は寝ているかテレビを見ているかだし、たまにゲームをやってみても、最近はいまいち楽しくない。こんな生活が、これからも続いていくのだと考えるとぞっとする。
僕の人生は、こんなものなんだろうか。
という趣旨の愚痴を亜梨紗に語ったところ「妄言はいいからご飯」とすげなく流された。ひどい。
***
亜梨紗はしゃべる黒猫だ。そう言うと自分でも「ははあ、さてはこいつ頭がおかしいな?」と思うことがあるが、実際しゃべるのだから仕方がない。ちなみに、亜梨紗という名前は自己申告だ。
出会いは半年くらい前の会社からの帰り道。『拾ってください』と書かれた段ボールに入った猫というベタな存在を見た僕は、こんなもの本当にあるんだなとある種の感動を覚えながらも、その猫を無視して通り過ぎようとした。なにせ、僕のアパートはペット禁止だ。しかし、通り過ぎようとしたときに『ちょっと待ってよお兄さん』と声をかけられてしまった。最初はどこから話しかけられているのか分からず周りを見回してしまったが、捨て猫が喋っていることに気づいたときは大いに魂消た。リアルに腰を抜かした。
そんな感じで亜梨紗との衝撃的な出会いを果たした僕は、なんやかんや話した結果彼女の要求に従って彼女を自分のアパートで世話することになった(『飼う』という言葉を使ったら死ぬほど怒られた)。あまりに衝撃的すぎて、断るという選択肢が思い浮かばなくなっていたのだ。
ペット禁止という問題に関しては亜梨紗が配慮してくれていて、とりあえずは大家さんにはばれていないらしい。もともとボロアパートで大家さんの関心も薄いから、そんなに心配もなかったのかもしれない。
はじめはしゃべるの猫との共同生活なんてどうなることかと思っていたが、いざ始まってみるとどうということはなかった。亜梨紗の性格が普通に猫っぽいのが大きいのかもしれない。むしろ、口で言って色々な問題を回避できる分、普通の猫を飼うよりも楽かもしれない。まあ、基本的にクソ生意気で言っても聞いてくれないことも多いが。
それに、ふとした時に愚痴を聞いてもらう相手がいるということで、精神的に助かるというのもある。流石に、サボテンやなんかに話しかけるよりはしゃべる猫に話しかけるほうが精神衛生によろしい。まあ、亜梨紗の方はあまり真面目に聞いてくれないが。
「なんていうか、亜梨紗はホントに『猫』って感じだよな」
「そりゃ猫だもの。で、どういうこと?」
「いや、気ままというか、自由というか。さっきも僕の愚痴を全く聞いてくれなかったし」
「言っておくけどあういう面倒くさい愚痴を聞いてもらえる相手ってそうそう居ないから。私はあなたのお母さんじゃないわ」
「そうかなあ…」
ご飯を食べる亜梨紗に話しかけても、こんな感じであまりまともに答えてくれない。僕としてはけっこう切実な悩みなんだけど…
「人生がどうとか、知ったことじゃないもの。そういうのは、自分で考えて決めなさい」
「手厳しいな」
「当然。人様の人生に首を突っ込めるほど私も暇じゃないから」
「…いつも何もしてないでしょ、亜梨紗」
「あなたにはそう見えるだけよ」
そう言って、再びご飯を食べ始める。もう僕に構うつもりはないらしい。
こんな感じで亜梨紗は僕の話をあまり聞かないことが多い。機嫌がいいときは僕の膝に乗って甘えてきたりもするが、基本が生意気なのだ。特に、ご飯を食べている最中はほとんど僕のことを気にかけない。そのご飯を作ったの僕なんだけど…
「あら、感謝はしてるわ。一応」
「…今、口に出てた?」
「いいえ。あなた、分かりやすいのよ」
そうらしい。
***
「今週末、海に行きましょう。夕暮れの海とかいいんじゃない?」
「…知らないかもしれないけど、今は冬なんだ」
「知ってるわ」
ある日会社から帰った僕に、亜梨紗が突然そんなことを言い出した。とりあえず、お帰りなさいの一言くらいは欲しい。いつも言わないけど。
「別に冬に海に行ってもいいじゃない。水族館とかもあるし」
「いや、まあいんだけど。でもいきなりなんで?」
「隣の家の子が、先週連れて行ってもらったんだって。今日聞いたの」
「へえ、あの家って子供いたんだ」
「そうね。可愛がってもらってるらしく毛艶のいい三毛よ」
「…さいで」
猫かよ。
さておき、亜梨紗はこんな感じてちょくちょく小旅行の提案をしてくる。どうも、周囲の猫から情報を仕入れてくるらしい。人の言葉を話すとはいえ、猫の言葉が分からなくなっているわけではないらしい。
僕は基本的に週末は寝て過ごすので予定はない。だから、亜梨紗の提案を退けるほどの理由もなく、毎回言われた通りに出かけることになる。最初は面倒だと渋っていたのだが、「言ってみれば案外楽しいかもしれない」「寝てばかりいると心にカビが生える」などと言われて押し切られて、今では習慣と言えるほどにになっている。
まあ、亜梨紗の言った通り言ってみれば案外楽しいのは事実なのだが、準備するのはすべて僕なので(しかも、ペット同伴可が条件のため手間が増えるので)面倒なのも事実だ。一応差し引きプラスではあるが。
「海なら日帰りでいいよね?今から宿探すの大変だし」
「いいわよ。久々に海が見たくなっただけだし。あ、でも折角だから新鮮な魚とか食べたいかも!」
「さいで…」
テンションが高い亜梨紗。どうも亜梨紗は旅行が好きらしく、毎回旅行前はこうやってはしゃいでいる。ちなみに、こういう時は普段よりやや素直なので扱いやすい。まあ、準備の面倒くささでトントンな気もするが。
「楽しみね~、前の旅行からだいぶ経ったんじゃない?」
「…いや、言っても一か月経ってないけど。イルミネーション見に行ったでしょ」
「あんなの旅行のうちに入らないわ」
「おい」
地味に遠くて移動が大変だったうえに人込みで見えないとか言って散々苦労させられたんだが?
「散々振り回しておいてその言い草とか…」
「いい女は男を振り回すものでしょ?」
「いい女ねえ…」
じっと、亜梨紗を見る。人と猫の違いとかどうとか以前に、亜梨紗を「いい女」と呼ぶのはちょっと納得がいかない。どちらかというとワガママな姪っ子ポジ?普段がクソ生意気だからますますそう感じる。
「ま、いいか。とりあえず、色々探してみるよ」
「…なんか、変な間があった気がするけど」
「気のせい気のせい」
「…ま、いいわ。よろしくね?」
「はいはい。任されました」
そう返してパソコンに向かい、近くの海を調べる。旅行前で上機嫌な亜梨紗はひょこりと膝に乗ってきた。甘えてくるのはかわいいが、ちょっと膝に乗られると動きづらい。
さておき、海だけならいくらでもあるが、ペット同伴可の水族館とかレストランとかって、上手く見つかるだろうか?こういう時、亜梨紗が人間だったらよかったなと思う。観光スポットもレストランも宿も、猫と一緒にとなると途端に選択肢が狭まる。多分最近は以前よりは楽なのだろうが、それでも手間なのは手間だ。
「やっぱめんどい」
「知らないわ」
膝の上の亜梨紗にこぼすと、すげなく流される。こういうところ、亜梨紗は特にワガママだ。亜梨紗を置いて出かけるなんてするつもりはないが、少しくらい僕を労わってくれてもいいんじゃないだろうか?
そう思って、脳内でそういう亜梨紗をシミュレートしてみる。
『う~ん、やっぱりペット可のレストランって少ないなあ』
『…ごめんなさいね?私が人間だったら、こんな苦労もないのに…』
『いやいや、これくらいだったらなんてことはないよ』
『…ありがとう。いつも私のために色々頑張ってくれて』
『良いの良いの。好きでやってることだから』
『うん…』
キ モ イ ! !
いや、キモイは言い過ぎた。違和感が半端じゃない。だって実際はこうだ。
『う~ん、やっぱりペット可のレストランって少ないなあ』
『知ってる。口より手を動かしなさい』
『…いやいや、これ、亜梨紗のために頑張ってるんだけど』
『(うるさいなあ)はいはい、ありがと。で、見つかった?』
『そんな早く見つかれば苦労しないんだけど』
『じゃあ早くやって』
・・・・・・・あれだ。やっぱり、違和感があっても良いから労わってほしい。そう思いました。
***
ある夏の休日、食後のコーヒーを飲みながらテレビを見ていたところ。膝の上の亜梨紗からこう聞かれた。
「ねえ、私もコーヒーって飲めないかしら?」
「…どうだろう、ダメそうな気がするけど」
亜梨紗は喋る猫という奇妙な存在だからか、やたらと人間の食べ物や飲み物に関心を持っている。いつも用意する食事もキャットフードや「ねこまんま」だとひどく怒られるため色々調理が必要で面倒だ。なにせ、食材だけじゃなく塩分とかも気にしなくてはならない。僕は獣医ではないんだが。
「とりあえず、調べてみるよ。多分ムリだけど」
「はあい。お願いね」
とりあえず、猫がコーヒーを飲めるかどうかを調べる。あれ、そういえばジャコウネコがコーヒー豆を食べるとかあった気がするし、もしかして大丈夫だったりする?
「…あ、やっぱダメか」
「やっぱり?」
調べてみるとやっぱり駄目だった。カフェインが危険らしい。
「カフェインが危ないみたい。コーヒーはカフェイン多いからねえ」
「なんだ、つまんない。お兄さんがいつも飲んでるから、どんなものか試してみたかったのに」
「ま、そこは人間の特権ということで。っていうか、人間でも飲みすぎると危ないし」
「あれ、そうなの?」
そうなのだ。致死量が多いから普通は問題ないだけで、人間にとってもカフェインは無害ではない。
「といっても、普通に飲む分にはまず中毒になることはないけど」
「…そんな危ないものを好んで飲むなんて、お兄さんは変態ね」
「なんでじゃ」
別に死と隣り合わせとかいうわけでもないのに罵倒されるいわれはない。有害無害で言えば酸素だって有害だ。
「まあいいや。ちなみに、麦茶とかならカフェインが入ってないから猫でも飲めるってさ。いる?」
「…いる」
「そういえば、亜梨紗って文字は読めるの?」
「読めるけど、なんで?」
器に張った麦茶を嘗める亜梨紗に、そう問う。麦茶はそれなりに気に入ったようで、さっきまでは夢中になって飲んでいた。
「いや、もしパソコンが操作できるんなら、僕がいないときも暇つぶしになるかなって」
「…別に、暇を持て余してるわけじゃないけど」
「まあまあ、試してみようよ。猫といえばキーボードに寝転がって作業の邪魔をすることで有名だし、パソコンの操作くらい何とかなるでしょ」
「全く何とかなる気がしない…」
ぶつくさとこぼす亜梨紗だが、意外にも素直にこちらに来る。麦茶を飲んで機嫌がいいのかもしれない。
「とりあえず、キーボードで何か打てるか試してみようか」
「キーボードねえ……ねえこれ、どこを押せばいいの?」
とりあえず机には登ったものの、キーボードをどう扱えばいいのか分からないらしい。いつも普通の人間のように会話していたからつい失念していたが、猫がパソコンの扱いを知っているわけがない。文字は読めるようだが、まずはキーボードやなんかの概念から説明すべきか?
「おっとそうか。パソコンの概念とかから説明が要ったり?」
「いえ、そこは何となくわかるわ。キーボードが文字を打つものだってのも知ってる。でも、どのボタンを押せば何の文字が出るかは知らないわね」
「…そういえば、いつもパソコンで調べているところは見てたか」
そうであれば教える手間はかなり省ける。ローマ字の概念が分からないようなら日本語入力にしてもいいし。
「じゃあ、例えばあいうえおって打つために、このキーの順番で押してくれる?」
「…こうかしら」
『あいおじゅいえをぴ』
「……」
「……」
ダメだった。何がだめって、猫の手でキーを一つ一つ押せるわけがなかった。
「えっと、こう、爪をたてて一つだけ押せたりしない?」
「…ちょっとそこまで器用なことはできそうにないわね」
「そうか」
「そうね」
「……」
「……」
どうしよう、早くも挫折してしまった。
「あ、そうだ!こう、割りばしかなんかを手に紐で巻いて、一つ一つ押せるようにすれば…!」
「ちょっと、変なのくっつけないでよ」
無視。
「よし完成。これで一つ一つのキーを押せるでしょ?」
「…あとで覚えておきなさいよ」
「ほら、さっきと同じ、あ・い・う・え・おって!」
『あいうえお』
「よしきた!」
「喜びすぎでしょ…」
「いやあ、これはすごいよ?パソコンで文字を打てる猫だなんて…」
「まあ確かに、それは他にはいないだろうけど」
「でしょ?それにこれで、僕がいなくてもパソコンが使えて…」
「いや、この変なの自力じゃつけられないから」
「……」
「……」
「ほら、あれだよ。いつも付けておくとか」
「邪魔」
「……」
「……」
部屋に落ちる沈黙。心なしか、亜梨紗の視線が痛い。
「満足したかしら?」
「…はい」
そういうわけで、パソコン使いの亜梨紗計画はお流れになった。くそう。
でも、後日タブレットを渡したらうまいこと操作できたみたいだ。やった。
***
月日は進む。僕にとって亜梨紗はもういて当たり前の同居人になっており、今では彼女の提案を待つまでもなく週末の小旅行の計画を立てるようになっている。ちょっと前までは面倒だとばかり思っていたのが嘘の様で、今ではむしろ、二週に一度はどこかに出かけないと損をした気分になるほどだ。旅先のグルメを味わうのが定番になった結果、舌が肥えて普段の食事だけでは満足できなくなったのもある。
今週もいつものごとく、外出の計画を立てている。今回は隣の県の山で綺麗な紅葉が見られる場所があるとの情報を仕入れ、ちょっと行ってみようと考えているのだ。隣の県とはいえ車で一時間半ほど。十分に日帰りで言って帰れる距離である。
「亜梨紗、今週末は紅葉を見に行かない?ついでに温泉も行こうと思うんだけど」
「…ん?・・・うん」
「…亜梨紗?」
「……ああ、ごめんなさい。ボーっとしてたわ。で、何かしら?」
最近の亜梨紗は、こうやって上の空なことが多い。一応病院でも見てもらったのだが、至って健康とのこと。精神的なものだろうか?
「いや、今週末のことだよ。紅葉を見に行こうかと思ってたんだけど、大丈夫?疲れてない?」
「いえ、大丈夫。ちょっと考え事をしてただけ。良いじゃない、行きましょう?」
「…本当に大丈夫なの?」
「心配しないで。紅葉なんて本当にきれいなのは数日でしょう?だったら行かないと損よ」
「……」
やはり、心配だ。どうにも元気がない。健康だとは言われたけど、本当は何かあるんじゃないのか?
「…ムリしていかなくてもいいよ?別に今だけしか見れないものでも…」
「いいの、大丈夫。お願い、行きましょう?」
「…そんなに言うならいいけど、ムリしてないよね?」
「ええ、平気」
結局、亜梨紗の希望で出かけることが決まる。まだちょっと心配だが、行くと決まれば色々準備しなくてはならない。山のふもとまでは車で行けるだろうがそこからは歩きで登ることになる。亜梨紗には自力で歩いてもらってもいいが、この様子だと抱えて連れていくことになるかもしれない。その準備はしておいた方がいい。
ちらりと、亜梨紗を見る。話し終えた亜梨紗はまたボーっとした様子で空を眺めている。痩せたわけでもないし毛艶が悪いわけでもない。病院でも健康だといわれた。では、どうして亜梨紗はこんなに元気がない様子なんだろうか。
少し、嫌な感じがする。目を離した瞬間に、亜梨紗がどこかへ消え去ってしまうんじゃないか。そんな予感が、僕を襲う。それくらいに、今の亜梨紗は儚げなのだ。
こうなってくると、前まではちょっとは僕を労われと思ってやまなかったあのクソ生意気な口調が恋しい。最近はすっかり素直になってしまった亜梨紗だが、そうなってみてはじめて、僕があの生意気な言い草にどれだけ元気をもらっていたかが分かる。
近づいて、亜梨紗を撫でる。亜梨紗は抵抗しない。それどころか、僕に触れられていることに気付いているかも怪しい。
「亜梨紗」
彼女の名を呼ぶ。返答を期待していなかったその問いかけは、果たして彼女の耳に届くことなく虚空に消える。
――覚悟を、しておいた方がいいかもしれない。
そう思った。
秋の深山に紅葉を望む。昔の自分では考えられなかった自分の行動に、少し感慨深いような気持ちになる。今の時代、ネットで少し調べれば美しい紅葉の写真や動画なんてすぐに見つかる。わざわざ外出しなくてもそれを見れば十分じゃないか。と、前はそう思っていた訳だけど。実際に自分の足で山に登って、その目で本物の紅葉を見て見ると、画面越しじゃ分からない美しさがあるんだということに気付かされる。なんていうか、雰囲気が違う。
今日のこの景色に限ったことではない。亜梨紗に強引に誘われて色々な場所に出かけた思い出は、どれも予想をはるかに上回る素敵な思い出となり、僕の中に息づいている。
腕に抱いた亜梨紗に目をやる。思っていた通り、亜梨紗は山にきてしばらく歩いた後足を止めて動かなくなった。話しかければ反応するものの、その返答も遅い。再び歩き出すのを待っているわけにもいかないので、首から下げるバッグを使って亜梨紗を抱え上げ、山頂まで登ることにした。幸い、この山は山頂までの道がかなりきちんと整備されているので、亜梨紗を抱えたまま山道を上ってもそれほど苦にはならない。
山道を上る。ボーっとして動かないように見える亜梨紗ではあるが、道すがらの景色は見えているらしい。ときおり、思い出したかのように首を動かしては周囲を眺め、またボーっと動きが止まるといった動作を繰り返している。
「亜梨紗、あの谷間に見える黄色い部分、他とのコントラストで綺麗だね」
「……そうね。綺麗だわ」
亜梨紗が動き出したのに合わせて話しかける。返答はかなり遅れていたが、聞こえてはいるらしい。どこか夢見るような口調ではあるが。
「もうすぐ山頂だね。上から見た景色は、どんな感じなんだろう」
「……どうなのかな…気になる…」
亜梨紗の返答はますます緩やかになる。焦るように、僕は歩調を速くする。急がないと、頂上に着くまでに亜梨紗は寝てしまう。最近の傾向からして、そうなれば明日まで起きない。それはマズイ。亜梨紗に、頂上からの景色を見せてやりたい。
やがて、僕たちは山頂にたどり着く。山頂の一部は切り立った岩肌の崖になっており、そこから下の景色を一望できる。連なる紅葉の山々、谷間に流れる川、そこに流れる霧。そのすべてが、視覚を通して僕の精神に直接たたきつけられる。これは、やはり思っていたよりもずっと素晴らしい光景だ。
「ほら、亜梨紗。ここからの景色、すごいよ?」
胸元の亜梨紗に語りかける。急いだ甲斐があって、亜梨紗は夢うつつながらもまだ起きている。僕が語りかけると、彼女はゆっくりと崖からの景色を見やった。
「…すごいわ。とっても、きれい」
亜梨紗は、何かとても尊いものを見つけたかのような声で、そう呟く。まるでそれは、末期の夢を見るかのようで。僕は彼女に、何も言えなくなってしまった。
「ありがとう、いい思い出ができた……」
そうつぶやいた亜梨紗が、すっと眠りに入る。これでもう、今日は起きないだろう。でも、亜梨紗にここからの景色を見せられたことに、僕はホッと安心した。
――多分次は…
そんな予感を胸に抱えながら、僕は元来た道を降りることにする。
最後に、もう一度山頂の光景を振り返る。目が覚めるような、鮮やかな紅葉。神代にもないこの紅の景色は、きっと忘れられない思い出になる。亜梨紗と一緒に旅した最後の光景になるだろうそれをもう一度目に焼き付け、僕は山道を下って行った。
その数日後、亜梨紗は僕の前から姿を消した。
***
猫は自らの生涯を終えるとき、誰の目にもつかない場所へと身を隠すという。それを、自分の身で体験することになった。
亜梨紗は別れの言葉を残さなかった。いなくなる前の日もいつものようにボーっと空を眺め、ときおり我に返っては僕に一言二言語りかけては、また上の空になる。そんなことを繰り返して、いつものように眠りについた。
きっと、ずっと前から亜梨紗は自分の最後の時がいつになるのかを分かっていたのだろうと思う。何も言わなかったのは、もう別れの言葉を残すだけの気力が無かったから?今となってはもう分からない。
ふと、机に置かれたままのタブレットに目が行く。パソコンに挑戦したときは渋々だった亜梨紗だが、タブレットの方は気に入ったようでしょっちゅういじくりまわしていた。猫の手でもそれなりに操作できたようで、度々変なものを見つけてきては僕に見せてきたのはいい思い出だ。
日記も書いていたらしく、毎晩何やら楽しそうに書き込んでいたのを覚えている。
――タブレットを見れば、亜梨紗の日記が残っているかな?
人の日記を勝手に見るのは良くないとは思いつつも、消えてしまった亜梨紗の残滓があるかもと思うとどうして求められない。フリックしてロックを外すと、ホームに日記アプリがあるのを見つけた。ここに、亜梨紗の日記があるのだろうか?
日記アプリを開く。何か月にもわたる亜梨紗の日記がそこに、と思っていたが、実際に残された記録は一つだけ。タイトルは「お兄さんへ」。ドキリとして、反射的にその日記を開いた。
――お兄さんへ
亜梨紗の日記を見ようだなんて、お兄さんは変態ですね。
でも、残念でした。日記はすべて消してしまいました。もう、必要ないから。
お兄さんがこれを読んでいる頃、私はもういないと思います。
今も、自分がだんだん消えていくのがわかるから。
私は喋る黒猫だってお兄さんにはいったけど、実はちょっと嘘ついてました。
実は、私は生霊だったみたいで、人間の霊が猫に取り憑いて、それで言葉が分かったんです。
体は、普通の黒猫でしたけど。
本当の私は、別の場所の病院でずっと寝たきりになっていた女の子で、
外の世界が見たい、色々か物を見てみたいという思いが積み重なって、
私の魂を体から押し出してしまったみたいなんです。
漂ううちに黒猫の体に入ってしまった時は驚いたけど、
お兄さんに拾ってもらってからの毎日は、本当に夢の様でした。
お兄さん。
色々な場所に連れて行ってくれて、ありがとう。
色々なものを見せてくれて、ありがとう。
あなたのおかげで、私は世界を沢山知ることができた。
毎日が、新鮮な発見の連続で、本当に幸せでした。
ホントはもっとずっと一緒にいたかったのだけど、私の体の方が限界だったみたい。
今はもう、あまりお話しすることもできていないですよね。
ごめんなさい。
もう、ほとんどいつも意識がどこかに引っ張られるみたいになって、
自分が今どうなっているのかも分からない時間がほとんどなんです。
だから、私の言葉をここに残します。
見つけて、見てくれたら嬉しいな。
今までありがとう。
幸せに、生きて。
亜梨紗より
***
いつも通りの休日。ここのところ残業が長い日が多くて遠出する余裕はないが、今週を過ぎればだいぶ落ち着く。来週末はどこかに出かけてやろうと、残業続きで疲れの抜けない頭で考える。
会社生活はそれなりにうまくやっているが、上手くやっているせいで最近は周りから頼りにされ始めている。そんなに良い先輩だとは思っていないのだが、後輩からもやけに慕われている気がする。解せぬ。
僕としては、もっとこう、いてもいなくても変わりないくらいの気軽なポジションで細々やっていけたらそれでよかったのだが。どうも、亜梨紗の影響で色々体験するようになったせいで、若手の中では博識な方だという認識を受けているらしい。これは、喜ぶべきか…
とにかく、そのせいで割と忙しい僕は、最近小旅行の機会が減っている。すっかり旅に出ることが趣味と化してしまった僕にとっては、最近の有様はなかなかストレスになる。今回ばかりは眺めに有休をとって、いつも以上の遠出をしてみようか。そんな風に考えていた。
回らない頭で冷蔵庫を覗き、昼ごはんの算段をつける。ここのところは上手く自炊ができていないので、冷蔵庫の中身は乏しい。一応卵とベーコンはあるので、それで何か作ろうか。冷食くらい買い込んでおけばよかったかもしれない。
そんな風に昼ごはんをどうすべきかを悩んでいると、玄関のチャイムが鳴った。一瞬、何事かと思う。ネットで買い物をした覚えもないし、友人が突然我が家を訪れることもまずあり得ない。この辺は新聞の勧誘とかもないみたいだから、僕の家を訪れる人間なんていないはずだ。
――隣の部屋に誰か引っ越してきたとか?
そんな雰囲気はなかったが、考えられるのはそれくらいか。とりあえず、居留守をしても仕方がないので出てしまおう。
ドアを開ける。初夏の熱気が体を襲い、思わず声が出る。
「はい、どちらでしょう?」
ドアの向こうの人影に、声をかける。
白いワンピースに、白い帽子。夏らしい爽やかないでたちのその少女は、にっこりと僕に微笑みかけ……