うたかたショートストーリー、またはやる気のない短編集 作:塩崎廻音
「いつもごめんなさいね、翔君。あずさったらまた…」
「いえ、気にしないでください。もう慣れっこですし」
美雪さんから受け取ったあずさの夕食を手に、東雲家の階段を上る。美雪さんの作るご飯は本当においしそうで、これを素直に食べに来ないあずさは人生の二割は損をしていると思う。まあ、いまさらのことではあるのだが。
あずさの部屋は二階の一番奥。部屋の前につくと、僕は夕食を片手に持ち直し、その扉をノックせずにゆっくりと開ける。普通なら異性の幼馴染の部屋にノックなしで入るなんて許されるものではないのだが、僕とあずさとの合意によって部屋に入るときはノックをしてはならないという決まりになっていた。
部屋に入ると、中ほどに設置されたソファに体を預けて音楽を聞くあずさの姿が目に入る。今聞いているのはブラームスの交響曲第一番だろうか。あずさに付き合わされるうちにだいぶ覚えてきてしまった。あずさは僕が部屋に入ったことに気付いていないのか、こちらを向くような気配はない。できれば、この段階で気づいてほしかったのだが。
音をたてないように慎重に部屋の中を進み、あずさの隣まで行く。この期に及んでこちらの存在に気づかない幼馴染にいつもながら危機感を感じる。こいつは、いろいろな意味で大丈夫なのだろうか。
ともかく、仕事は果たさねばならない。少し嘆息しながら、あずさの視界の端にかかるように手を振る。数秒そうしているとあずさはこちらに気づいたようで、一気に不機嫌になってこちらを睨む。ここで不機嫌になるくらいなら、最初から夕ご飯の時間にはリビングに下りてきてほしい。
あずさが自分の前のテーブルを指で叩く。いつも通りの、ここに置けという合図だ。
夕食を机に置き、あずさの隣に座る。流れる曲はもう終盤で、後数分もすれば終わる。折角だからこのまま終わるのを待って、あずさと話をしていこうと思う。
あずさは隣の家の一人娘で、僕の幼馴染だ。他の同年代と比べてちょっと変わった趣味としてクラシック音楽好きであるのだが、そのこだわりがちょっと普通じゃない。曰く、曲を聞いている時に途中で邪魔されるのが絶対に許せない。どこからか防音素材を調達してきて部屋を覆いつくしてしまっているので、母親の美雪さんが夕食の呼び出しをしてもまず聞こえない。さらに、曲の途中で部屋に押し入ろうものなら烈火のごとく怒りだしてしばらく鎮火しない。
最初のうちは夕食の時くらいはなんとか引っ剝りだそうとしていた美雪さんも匙を投げ、今ではこうして僕がこっそり?あずさのもとに夕食を届ける係に落ち着いている。
あずさは自分の部屋に他人が入るのが嫌なようで、特に曲を聞いている最中は静かに入っても許さない。ただ、僕だけは例外みたいで、少なくとも静かにしていればせいぜいが睨まれるくらいで済む。美雪さんではなく僕が夕食を運んでいるのはそのためだ。
あずさは毎日学校から帰るとすぐに自分の部屋に引きこもり、大抵の場合は夕食になっても出てこない。前は曲が終わったタイミングで部屋から出てくる時もあったのだが、僕が夕食を運ぶようになってからは意地でも部屋からでなくなってしまった。味を占めてしまったみたいだ。
そういうわけで、今では毎日東雲宅に通い、あずさの部屋に夕食を届けている。部屋に入るときにノックしないのは前々からの約束で、部屋に入るのは自由だが曲を聞いている最中に音をたてるのは許さないとのことでそうなった。外から曲の切れ目を伺おうにも防音素材のせいで何も聞こえないので仕方がない。
しばらく待っていると、曲が終わった。あずさはしばらく目をつぶって曲の余韻に浸っていたが、やがて自分んが空腹であることに気付いたようで、机の上の夕食に手を付け始めた。
「いただきます」
音楽鑑賞の邪魔をされると手を付けられないくらいに怒りだすあずさではあるが、そのほかの時間は比較的普通だ。さっき曲の途中で部屋に入ってきた僕を睨みつけたことなんてすっかり忘れたかのように上機嫌にスープを口にする。
「さっきの、ブラームスだよね?」
そんなあずさに話しかける。曲の最中には恐ろしくてとても声がかけられないから、あずさと話しがしたければ食事中は絶好のタイミングだ。
「そ。何度聞いても名曲だ。それにしても、翔もだいぶ曲を覚えてきたよね?」
「まあ、ほとんど毎日あずさが聴いてる曲を聴いてるからね」
「一部分だけでしょ」
「いや、後で曲名で調べて全部聴くこともあるよ?」
「ふうん…」
あずさ自身はクラシック音楽が好きだが、その割には周りがそういった曲をどう思っているかには関心が薄い。あまり他人と趣味を共有しようと思うタイプではないみたいだ。なので、友人の趣味を理解しようとする気持ちもほとんどない。前に一度オススメの本を紹介して「読んでみたら?」と置いて行ってみたのだが、一か月たっても一ページすら読んでいなかった。マイペースが過ぎる。
「ところで、夕飯の時間くらい下に降りたら?いつも七時くらいでしょ?」
「別に、曲のキリがいいときはちゃんと降りてるの知ってるでしょ?」
「いや、そうじゃなくて。七時に合わせて終わるように曲を選べないいじゃん」
「無理。じゃあ聞くけど、翔はちゃんと夕飯の時間に読書を終わらせてるの?」
「終わらせてるよ」
ナメんな。
「というか、僕までそうならこうやってあずさの部屋に夕食持ってこれるわけないでしょ」
「確かに」
「確かにじゃないよ…」
全くこの子は。
***
僕とあずさが通っている高校はけっこうな進学校なので、テストの内容もそれなりに厳しい。僕はそれなりに真面目に勉強しているので特に心配はないのだが、あずさはこの通りなので成績はいつもギリギリだ。というか、このまま放っておくと確実に留年する。この高校に入っただけあって中学の時はかなり成績が良かったので地頭が悪いわけではないのだが、なにせ毎日音楽を聞いてばかりで食事すらまともに取らない人間だ。当然、予習復習などするはずがない。宿題もやらない。
そんなわけで、定期的に僕があずさをつついて勉強させるというのも、長く習慣になっていることだ。今日あずさの部屋に残っていたのは、これが目的である。
「じゃあ、先週の範囲から復習しよっか。まずは数学からでいいよね?」
「……ねえ、『春祭』流しながらでもいい?無音で勉強するとやる気が…」
「ダメ。そっちに集中するでしょ」
「…ケチ」
ケチではない。前にその提案を受け入れて音楽を流しながら復習を始めたところ、開始五分で音楽の方に夢中になり、勉強を進めようと話しかけた僕を部屋から蹴り出したのは忘れていない。あずさの音楽に関係する忍耐力を過信してはいけない。こいつは、夕食すら放棄して音楽を聴き続けるジャンキーである。
「はい。参考書出して」
「……あ、ほら、参考書学校に置き忘れて…」
「じゃあこれ使って。僕は横から見れば十分だから」
「…はあい」
悪あがきするあずさを封殺して勉強を始めさせる。始めるまではああだこうだとぐずるあずさだが、いざ始まってしまえば復習はすいすいと進む。集中力もかなりの物なので、こうなれば放っておいてもそれほど問題にはならない。
そういうわけで、僕は僕で自分の勉強をする。日々の復習くらいであればもう終わらせてあるが、入試を視野に入れたプラスアルファまで考えればこの時間を有効活用しない手はない。まあ、そう急ぐものでもないので読書をしていてもいいのだが、彼女のためとはいえ強引に勉強を始めさせたあずさの横で自分は趣味に興じるというのもちょっと酷な話だ。
持ってきた参考書を取り出し、勉強を始める。この部屋はあずさの異常なこだわりのおかげでとても静かなので、勉強の妨げになる雑音が少ない。すぐ隣にあずさが居るとはいえ、いまさら一緒にいて障りがあるよな関係ではない。集中して勉強するのにはもってこいだ。
しばらく、ノートに鉛筆が走る音だけが響く。
「…翔って、えらいよね」
「……?どうしたの、いきなり?」
不意に、あずさが話しかけてきた。珍しい。僕もあずさも集中すればもくもくと勉強を進めるほうなので、この時間はいつも、一言も言葉を交わさずに過ぎ去ることがほとんど。たまに話すとしても、分からない部分を相手に聞くか、シャーペンの芯や消しゴムを借りる時くらい。こんな風に、雑談をしながらなんていつ以来だろうか?
「私は音楽バカだからいっつも勉強サボっちゃうけど、翔はいつでもばっちりだし。それに、もう受験に向けて準備を始めてるでしょ?」
「ん、まあねえ。一応やれるだけやっておかないと不安だし…」
「それ、すごいと思うよ?そう思って、ちゃんと頑張れる人ってあんまりいない。私だって受験は不安なのよ?」
「あれ、そうなんだ。音楽さえあれば関係ないって感じだと思ってた」
「そんなわけないでしょ。そこまでお気楽じゃないわ」
「そうだったのか…」
ちょっと意外。
「でも、不安に思っても実際の行動はできない。そういう意味だと、翔が言う通りなのかもしれないけど」
「…まあ、そんなもんじゃない?」
「そうね。でも、だからこそ、そこで頑張ってる翔はすごいと思うの。今まで言わなかったけどね?」
「むむ……もしかして、学校で何かあった?」
「…まあね。でもそっか、翔にはわかっちゃうか…」
「そりゃまあ、付き合い長いから」
あずさは基本的に頑固だ。そして、弱音を吐くことが少ない。こういうことを言うときは大抵何かあって落ち込んでいる時だ。
「別に、大したことじゃないんだけどね。昨日、恵理が進路を決めたって言ってて、それでちょっと勉強始めたって」
「うん」
「そしたらなんか、まだ何も考えないで毎日こうやって音楽を聴いてばっかりな私が、ちょっとだけ情けなくなっちゃって…」
「でも、そんなに焦らなくてもいいんじゃない?まだ余裕はあるし」
「そうなんだけどね。でも、恵理だけじゃなくて佳織も色々考えてるって言ってたし、翔だっていつも将来のために頑張ってる。だからちょっとね…」
「……そっか」
あずさの悩みは、多分ずっと前から少しずつ積み重なってきたものなのかもしれない。頑固でワガママなあずさは昔からやりたいことに全力で突撃していたけど、将来を見越しての行動となるとあまり得意ではなかった。それでも、一度決めてしまえば持ち前のガッツでしっかり成果を上げてきたわけだけど、その裏で悩みがちょっとずつ蓄積していたのだろう。
「私はいっつも目の前のことだけだ。いつかの将来のことになると、とたんに目を背けて考えなくなっちゃう。それが良くないってことは分かってるんだけど…」
そう言って、あずさは俯く。その姿は、どこか親に叱られた幼子の様ですらあった。
「いや、それでもいいんじゃないかな」
「え?」
そんなあずさに、僕はそう返した。あずさが思い悩んでいたことには気付いていなかったが、僕は僕であずさに対して思っていたことはある。
「僕はあずさのこと、すごいなって思ってたよ?だって、自分の趣味に対して、ここまで本気になれる人って早々いないじゃん」
「…いや、だってそれは、ただワガママを言ってるだけだし…」
「僕はそれがすごいと思うけどね。だって、僕は今まで一つのことにこんなに本気で向き合ったことはなかったし」
「でも、将来のためにやるべきこととか、翔はいろいろやってるし…」
「僕としては、今やりたいことがないからとりあえず将来に備えておく、って程度のものだし」
「…そうなの?」
「そ。今は今、将来は将来。先のための勉強を疎かにしていいとは言わないけど、僕は今やりたいことのために全力を出せる人がすごく好きだ」
「……」
あずさは、そうやって語る僕をじっと見る。何だろう、ずっと一緒にいたのに、こんな風にあずさと話したのははじめてな気がする。
「だから、こんな恥ずかしいことは一回しか言わないけど。僕はあずさのこと、けっこう尊敬してるよ?」
そう伝えると、あずさの目から涙がこぼれた。いきなり泣き出したあずさにぎょっと固まってしまう。正直、我ながら恥ずかしいことを言ってしまったから、揶揄われるかなと身構えていたくらいなのだが。
しばらく泣いたあずさは、色々吹っ切れたように微笑んだ。もう、さっきみたいな劣等感はないみたいだ。
「…じゃあ、今日はもう勉強は終わりにしよっか?色々疲れただろうし」
「ううん、大丈夫。続きをしましょう?」
僕としては解決したとはいえいろいろ悩んでいたあずさを気遣ってみたつもりだったが、あずさからしてみればそんな必要はなかったらしい。先ほどの泣き顔が嘘のようなけろりとした雰囲気で、ちょっとびっくり。
「まあ、僕はいいけど」
「じゃ、決まりね。今週分の復習、とっとと終わらせちゃいましょう」
そしてあずさは、今日一番の笑顔でこういった。
「なんたって、私は今やりたいことに全力を出せる人間だからね!」