「なんでせんぱいって、雪乃先輩と付き合ってないんですか?」
× × × × × × ×
今年初めての11月を迎えた日の朝、俺は雪ノ下のいるマンションの中にいた。相も変わらず、1人で住んでいるとは思えないほどでかいな、ここ、なんて1人ごちながら、俺はインターホンを押す。
…いや、正確には押そうとした。
なんだか手が震えてしまって押せない。アル中?
まあ、寒いし、緊張してるしってことではあるのだろうが、それでもここまで体に出てくるとは思わなかった。どうやら俺は皆が思っているよりナイーブみたいなので、今後はもっと丁重に扱ってもらおうと誓いながら、どうにかインターホンを押す。
すると、厚着をした雪ノ下が、中から出てきた。
「…いらっしゃい」
「悪いな、急に。体調は大丈夫か?」
「すこぶる元気よ」
「ふらふらの足取りで言われてもな」
どう見ても元気じゃない雪ノ下。どういう強がりなの?
そう、完璧美女雪ノ下雪乃は、現在風邪を引いている。昨日開催されたハロウィンパーティーをそれで欠席し、女性陣3人がしきりに俺にお見舞いに行けというので、今日馳せ参じた、と言うわけだ。まあもともと行く気だったので問題は無いが。
「別に熱はないわよ。…ほら」
そう言って、俺の額に自分の額を持ってくる雪ノ下。あまりに突然で、避けたりすることも出来ず俺はぼーっと立ち尽くす。
「…いや、熱いよ」
「そう?」
多分熱いのは雪ノ下のせいではないけど。
雪ノ下が、そんなに熱いかしらなんて言いながらベッドに戻る。俺はその横で、見舞い品を広げた。
「しかしまあ、お前も風邪引くんだな」
「言ったでしょう、私、体力だけは無いの」
「他にもないものあるけどな。俺への遠慮とか」
そう言うと、雪ノ下がぽすっと、俺の胸のあたりを殴る。
「…痛えよ」
「病人なのだし、これくらいは許して欲しいわ」
「横暴だ…」
理屈が明後日の方にぶっ飛びすぎてて、地球一周して帰ってきそうなまである。
すると、申し訳なさそうな顔で雪ノ下が言った。
「昨日のハロウィンパーティー、行けなくてごめんなさい」
「病人なんだから気にすんなよ。それに欧米だとまだハロウィン終わってないらしいし」
「とんでもない屁理屈ね…」
「変な理屈をこねるのはお互い様だろ。だから同じ会社に入るハメになったし」
「なに、私と同じ会社で何か不服なの?」
「働くこと自体が不服なんだよなあ」
結局大学4年間で理想の伴侶は見つかんなかったしなあ…。本格的に夢を下方修正した方がいいかもしれない。とりあえず、有給は毎年全て消化し、残業を全くしない、そういう人間に私はなりたい。
「…なら、私が働くから問題ないのに」
「お前が問題なくても俺が死ぬんだよ…」
「…そういうことじゃないわよ」
違うの?俺が死ぬのはいいの?死にたくなるんだけど。
まあさすがにそういう意味ではないのだろうが、そうなるとますます意味が分からなくなる。体調でも悪いのだろうか。悪いわ。今日俺見舞いにきたんじゃねえか。
今日ここに来た本来の意図を思い出し、俺は見舞いの品を袋から取り出す。
「まあひとまずこれ飲んどけ。体力落ちてんだろうし」
「…あーん」
「…は?」
「…私、病人なの。あーん」
いやウィダーインゼリーなんだが。この世で最も食べさせるのに向いてないだろ。
ずっと口を開けた間抜け面をしている雪ノ下。なんだかマーライオンみたいだな。マーライオンとゆきのんってなんだか語感が似てる気が似てないですねすみませんでした。
誰にしてるかも分からない謝罪を心の中でしていると、雪ノ下が俺の袖を数回引いた。口を開けたまま。
「…はやく」
「…すまん。見た目が面白すぎてな」
「ヒキガエル君に褒められるなんて光栄ね」
「ヒキガエルの見た目ディスってんの?…っておい」
ヒキガエルの見た目の良さを力説しようとした矢先、雪ノ下が俺の手を取って無理矢理ウィダーインゼリーを飲む。そのせいで、彼女が俺に無理矢理あーんさせているという奇妙な構図が目の前にできあがった。
…いや、そこまでするなら自分で持てばいいのに。
熱で思考がおかしくなったのか?雪ノ下はiPhoneかなんかか?なんてバカなことを考えているうちに、俺は昨日のハロパでの会話を思い出す。
× × × × × × ×
『なんでせんぱいって、雪乃先輩と付き合ってないんですか?』
『…はあ?いやなんで』
『だっていつもイチャついてるのに』
『イチャつきの範疇に入ったことをした覚えはねえよ』
『この前のディズニーのとき、せんぱいチュロスで餌付けしてたじゃないですか』
『ただ欲しがってたからあげただけだろ』
『タワーオブテラー出た後ずっと抱きあってましたし』
『…あれだ、吊り橋効果ってやつだろ』
『それに、冗談でも左薬指に指輪なんて付けてるじゃないですか』
『冗談なんだよ。それ以上でも以下でもねえ』
『雪乃先輩、あの指輪見せては男子をフってるって言ってましたよ』
『…方便だろ。あいつはモテるし、大人数の相手をするならそれが楽だろうし』
『…私、一回見ちゃったんですよ』
『なにを』
『雪乃先輩が男子フってるところ』
『…ああ』
『幸せそうに、『私、好きな人が居るの』って言ってましたよ』
『…』
『雪乃先輩は嘘をつかないって言ってたの、せんぱいじゃないですか』
× × × × × × ×
昨日。ハロパに少し疲れた俺がタバコ休憩に行ったときに、一色から言われた言葉。
そう、雪ノ下雪乃は嘘を嫌う人間で。高校時代から、1ミリもそれは変わっていなくて。
風邪を引いているというのに、変わらず左手薬指にはめている指輪が目に入る。くだらない3年前の約束を、まだ彼女が覚えていることが分かって、俺は胸が少し苦しくなった。破ったって、なんならその指輪を捨てたって、全く構わないのに。
もし、一色の言うそれが本当なのだとしたら。
そう考えると、急に今の状況が恥ずかしく思えてきてしまい、思わず振り払おうとする。しかし、思いの外強く握られてて結局外せなかった。病人なのになんでこんな強いの?刃牙なの?
雪ノ下が、空になった容器を口から離す。少し血色が良くなったみたいだ。
「…おいしかったわ」
「…そうか」
「…?どうしたの?」
「いや、別に、何もない。何もなさ過ぎて困ってるまである」
「…小町さんの言う通りね」
「?」
「何かあるときは、普段よりもくだらないことを言うって」
小町…。色々ショックだけど、普段からくだらないと雪ノ下にも思われてることが1番ショックだ。
「今日ずっと挙動不審よ、あなた」
「…あれだ、普段より距離が近えんだよお前」
「いつも通りじゃない」
ですよね。俺も分かってはいるのだが、昨日の会話のせいで変に意識してしまってる。
だが、そんなことを言えるはずもなく。
雪ノ下が、微笑みを湛えて俺の背中を撫でる。彼女の熱が、心地よく俺の脳を揺らす。
「何かあったなら、話してみなさいよ」
優しいおばあちゃんみたいなことを言われて、俺は困惑した。いや、つーかそういうスキンシップが原因だっつの。そんなことが言えるはずもなく。
「…まあ、いろいろとな」
はぐらかして、雪ノ下からそっと距離を取った。少し赤くなった顔を見られたくないなんて、子供じみた理由で。
「…昨日のハロウィンパーティー?」
「時期を特定しようとしないでくれ」
「特定したいのよ。もっと信用してくれてもいいじゃない」
「…信用してなかったら、なんかあったなんて言わねえよ」
「それは、そうだけれど」
心配そうな顔をする雪ノ下。でも、俺が言うことは1つだ。
「病人はしっかり寝て休めよ。ほら」
そう言って、雪ノ下にポカリスエットを渡す。
「…ありがとう」
「ん」
不満げな雪ノ下だったが、やっぱり体調には勝てないのか、素直に床につく。俺の心配をするより、自分の心配をしろよな。
しかし、暇になってしまった。本でも読もうと、俺は、持ってきた小説のしおりに手をかけた。確か、一色が昔よく読んでいた、失恋をテーマにした小説のしおりに。
× × × × × × ×
『そもそも。俺と雪ノ下が付き合わないからって、お前にデメリットねえだろ』
『そういうことじゃないんですよ。乙女の純情を踏みにじるなんてサイテーですね』
『…俺と付き合わない方が、あいつのためになったりするかもしんないだろ』
『雪乃先輩だけじゃないです。私と、結衣先輩の気持ちもです。特に私のことフってるくせに』
『…それは、まあ、すまなかった』
『今はせんぱいのこと全然好きじゃないのでだいじょーぶです!』
『ひでえ…。優しさが逆に痛え…』
『結衣先輩も失恋乗り越えて彼氏作りましたし。でも、せんぱいが雪乃先輩を選ばなかったら、なんか悔しいじゃないですか』
『…』
『まあ、私達のことより、せんぱいたちの気持ちの方が全然大事ですけどね。雪乃先輩せんぱいのこと好きですし、』
『せんぱい、雪乃先輩のこと好きなんですよね?』
× × × × × × ×
ふと目が覚めた。読んでいたはずの小説は閉じられてしまい、膝にはなぜか毛布が掛かっていた。
「あら、お目覚めかしら」
後ろから、少し元気になった様子の雪ノ下の声がする。ああそうか、雪ノ下がかけてくれたのか、毛布。
「…ああ、寝ちまってたのか。悪い」
「お茶、飲む?」
「飲む。サンキュ」
雪ノ下から渡された熱いお茶をそのままずずっとすすって、2人で笑う。こんな時間が心地いいと、心の底から思う。
昨日、一色から言われた言葉。彼女によって掘り起こされた感情。
こんな日が続けばいいなんて、漠然と思って、何もせずぼんやりとしていた。そのためなら、この関係性で構わないと思っていた。ずっと続くはずはないのに。高校時代にそんなことは学んだはずなのに。
彼女の横に立つべきは俺ではないと、ずっと感じていた。雪ノ下に踏み込んで、関係を築くのは、逃げ癖のついている俺であるべきではないと、平塚先生の言ってた誰かは別の誰かであるべきだと。モテる雪ノ下なら、もっといい相手がいるんじゃないかと。
でも、いつか世界が変えられてしまうなら。変わってしまう世界の中で、俺達が変わらずにあるためには、どうするべきか。
きっとまたどこかで計算ミスをしてたのだ。守るべきものを偽って、むやみに考えることを増やして。
考えるべきところは、あの奉仕部が崩壊しかけていたときと同じで、たった1つだ。
雪ノ下が好きかどうか。
比企谷八幡はどうだ?
そんなの、
『大好きに決まってんだろ』
「それで、比企谷君」
「あん?」
「昨日、何かあったの?」
「…え、この話まだ続いてたの?」
「病人に言えないのなら、健康な私になら言えるでしょう?」
なかなか鋭いとんちを言ってくる雪ノ下。お前は一休さんかよ。
「…本当に、たいしたことはねえよ」
「…あなたに言われると、本当に説得力無いわね」
「信じてくれよ…」
「冗談よ」
クスクスと、口に手を当てて笑う雪ノ下。
その仕草に、しばらくみとれる。
「なあ、雪ノ下」
「何?…、ちょ、比企谷君?」
数秒溜めて、俺は雪ノ下の背に手を回した。普段もよくやるのに、今日はなんだか緊張するし、それでも変わらず心地いい。
「…やっぱり何かあったんじゃない」
「…別に、傷ついたりしたわけじゃねえよ。むしろ決意がみなぎってるまである」
「珍しいわね、比企谷君にしては」
確かにな。いつもなら諦めるところなのに。
でも、今回は諦めない。なんと言ってもかわいい後輩に諦めることを許されてないし、なにより俺も諦めたくない。
初めて計算し尽くせなかった、割り切れない感情。
だから。今できる最大限を、しなくては。
「…なあ、雪ノ下」
「…ん」
「…大学卒業したら、2人で旅行行こう」
「…どこに?」
「…どこに行きたい」
「1ヶ月かけて世界一周旅行がしたいわ」
「…もうちょっと現実的なところで頼む」
「…じゃあ、あなたの隣」
「…そんなんでいいなら」
「…そこがいいの」
そう言って、雪ノ下が俺の背に手を回す。抱き合う姿勢になって、部屋の寒さが少し和らぐ。
俺に出来る最大限がこれって、本当にもうクソザコナメクジというかなんというか…。
「…サンキュ」
「ねえ、比企谷君」
「何?」
少し自己嫌悪に陥っていると、雪ノ下が深く息を吐いて、呟いた。
「…好きよ」
瞬間、心臓がどくんと跳ねる。
「…え?」
「…コスプレよ」
「…なんの」
「あなたのことが大好きな人の、コスプレ」
雪ノ下の赤い頬を見つめながら、俺は息を吐く。
「…それなら、仕方ないな」
「ええ」
そう、コスプレなら、仕方がないから。
思わず心の声が漏れ出すのも、普通だから。
「…俺も、好きだ」
「…それも、コスプレ?」
「…ああ」
雪ノ下のことが大好きな人の、コスプレ。
「…ふふ、なら、仕方ないわね」
「…ああ」
今はまだ、仮の台詞しか言えないけれど。仮装していない本当の台詞は、旅行の時に言おうと、そう決意する。
彼女の体温と匂いを感じながら、きつく抱き合う。今夜はまた、眠れない夜になりそうだと、雪ノ下の心音を聞いてそう思った。