本編とはだいぶテイストが違います。
負の御都合主義、悪堕ちのテイストが含まれます。
また、あくまでもifなので無理にお読みいただく必要はありません。
「おはようございます、アティ様」
目が覚めるとすぐ、寝台の傍から声が聞こえた。
四六時中、従者が付きっきりの状態に慣れたのはいつの頃だっただろう。
「入浴の準備が整っております」
「ありがとうございます」
淡々と答えれば、静かな一礼だけが返ってくる。
長い耳を持つメイドは表情一つ変えていない。魔族は馴れ合いを好まない。笑いかけても喜ばないし、存在しない裏を探られるだけ。どころか、向こうも内心ではどう思っているか。
この五十年余りの間に何度、専属メイドが変わったかはもう覚えていない。
寝間着の上からガウンを羽織って浴場へ移動。
着ているものを全て脱ぎ、
湯も一日中、適温になるように調整されている。身体を洗った後でゆったりと浸かり、全身がぽかぽかになるまで温まってから出る。
ちなみに、着替えもアティの身体を洗うのも、全てメイドの仕事である。
――大魔王の后である彼女は最大級の特権を与えられている。
入浴を終えれば朝食が用意されている。
メイドと共に食堂へ向かうと、広い食卓の一番向こうに長身の美丈夫が座して食事をしていた。
「お待たせいたしました、陛下」
「よい。身体を磨くのも后の務めであろう」
鷹揚に答え、大魔王――バーンは手を止めて顔を上げた。
あまつさえ笑顔を浮かべ、純白のドレスを纏ったアティを手招きする。かの王が后へかける深い情愛は、初めて見た者を例外なく絶句させている。
アティは一礼した、ゆっくりとバーンの隣へ腰かけた。
否。
正確には二つ隣、なのだが。
「おはようございます、お母様」
「ええ、おはよう」
美しい白銀の髪を伸ばした幼い少女。
甘えたい盛りの娘は、一生懸命動かしていたフォークとナイフを止めると、高めに設えた椅子から降りてアティの膝に上ってくる。
自分の面影を宿した屈託のない笑顔に心が和む。
食事前に頭を撫でるわけにはいかないので、代わりにぎゅっと抱きしめてやれば、恥ずかしさと嬉しさから頬を染めてくれる。
初めて出産を経験したのは二十年ほど前。
魔族の種は根付きにくいらしく、出来た子は未だに一人だけだ。
とはいえ、当のバーンは「意外と早く懐妊したものだ」と驚いていたので、人と魔族の感覚の違いが甚だしい。
「やはり、其方の美しさはあの時から変わらぬな」
母娘のやり取りに目を細めたバーンはうっすらと笑んで。
まるでついでのように、全く別のことを言ってきた。
「――そうそう。レオナ姫が亡くなったそうだ。王族の老衰としては少々早かったな」
「っ」
不意打ちに、アティは思わず身を震わせ。
不思議そうに首を傾げる娘に微笑み返しながら、胸中には深い絶望を抱いていた。
予想はしていた。
必死に備えていたはずなのに、両の瞳からは涙が一滴も零れなかった。
☆ ☆ ☆
五十年前。
浮上した
「知らなかったのか? 大魔王とは、常に奥の手を隠しているものだ」
パーティを分けての三方面作戦自体は上手く行っていたのだ。
誤算だったのはバーンの対応。
アティが地下格納庫でキルバーンと交戦し、ヒュンケルが中央部入り口を守っている最中、玉座の間を襲撃してきたハドラーを相手に
――天地魔闘という圧倒的な力。
抜剣状態のハドラーを完封。
逆上したアルビナスをも呆気なく粉砕すると、すぐさま、ミストバーンと交戦中のバラン達を襲撃した。
――バーンに身体を返したミストバーンはポップに乗り移っており。
メドローアという切り札を失った仲間達は一人、また一人と倒れていった。
アティとヒュンケルが駆け付けた時、立っている者は誰もおらず、共闘を封じられた勇者一行は『敗北』を認めざるをえなかった。
『愚かな人間共よ。一つ取引をしようではないか』
そしてバーンは言ったのである。
レオナとフローラ、そして残る地上の権力者達に向けて。
『蒼き魔剣の女傑――アティの身柄と、竜の騎士バランの命。それを代価に地上への侵攻を諦めよう。拒否するというのなら即時、蹂躙を開始する。返答は如何に』
設けられた回答期限は短かった。
そもそも、人類に選択肢など無いに等しかったとも言える。何故なら、竜の騎士親子に抜剣者まで加えてなお、破れたのだから、そんな化け物に勝つ方法などあるわけがない。
故に、人類は取引に応じた。
パプニカ王女レオナとカール女王フローラ、そして各国首脳の連名により、大魔王バーンの要求が承諾されて。
異世界の賢者アティは大魔王の后に。
正統なる竜の騎士バランは多くの人間が見守る中――まるで、かつてアルキードで行われた処刑劇をなぞるように、人間の魔法使い達によって火刑に処された。
それは。
単に、大魔王がギリギリで慢心を止めたという、些細な違いによって生じた未来だった。
バーンは宣言通り地上侵攻を停止した。
魔王軍を全て引き上げ、投下した『柱』の中にある黒の核晶も回収した上で魔界に戻ったのである。
五十年の長きにわたって再侵攻が行われず。
后であるアティはバーンへの服従を条件、かつ監視付きとはいえ、ある程度の自由を許され――時には地上へ赴いて仲間達と会うこともできた。
ダイとレオナの子を抱かせてもらったこともあった。
マァムからポップとの夫婦関係について相談されたこともあった。
だが、仲間達は一人、また一人と死んでいった。
ある者は病気や寿命で、ある者はアティを取り戻さんと魔界に乗り込み――殺されて。
今や、残る直接の友人はレオナ姫ただ一人だった。
そのレオナも今日、息を引き取った。
☆ ☆ ☆
眩いばかりの蒼い光が広間を包み込む。
先手必勝と接近したアティは、バーンが構えを取るのを認めながら『果てしなき蒼』を振るった。
――閃転突破。
闘気を纏った双界合金の刃が吹雪を纏って大魔王を襲い。
閃いた掌底が刃を弾き返した直後、天からの手刀と剣による二撃目が衝突して相殺。
駄目押しに放たれた不死鳥を、アティは後方に跳びながら呪文で迎撃した。
それは、氷の天使。
暴走寸前まで強化されたマヒャドが不死鳥と衝突して消滅。
「
天地魔闘の構えの一瞬の隙を突き。
超高速で飛んだアティは、遂に大魔王の胸を蒼き刃で貫いた。
迸る鮮血。
凄絶な笑みをバーンが浮かべる。古今東西、単独で彼をここまで追い詰めた者などいなかった。故に、彼は心底から楽しんでいたのだ。
「――カイザーフェニックス!」
大魔王の戦いは豪快にして天下無双。
三つある心臓の一つが貫かれても気にすることなく、左の手のひらに不死鳥を生み出して解放。
追撃を諦めたアティがその場を離れ、同時に不死鳥を回避すれば、三度生み出した
一閃。
アティは、突き刺したままの『果てしなき蒼』に代わり、腰に差していた覇者の剣でこれを切り裂いたが。
その時にはもう、四匹目の不死鳥が眼前に迫っていた。
また、勝てなかった。
仰向けに倒れたアティはその事実を噛みしめていた。
――バーンが求めたのは女としての立場。
戦う者として、人としての立場まで彼は取り上げなかった。
そして言ったのだ。
『其方の挑戦を余はいつでも受けよう。そうして余を殺せたのなら、その時は好きにするがよい』
だから、アティは幾度となく大魔王に挑戦してきた。
頻度は数日に一度。
魔剣の魔力が十分に溜まる度に挑み、挑んだ回数と同じだけ返り討ちにされた。
もう一振りの魔剣『
バーンのものになると決めた時点で繋がりを断ち、リィンバウムにいるアリーゼへと転送した。一方的に剣を受け取った少女がどう思ったか想像しきれないし、想像したくもない。
向こうから探しに来る気配が無いのは、可能な限り講じた転移防止策が功を奏したからだろうか。
いずれにせよ、これでアティは一人になった。
不死鳥の炎で熱を持った床の上でぼんやりと天井を見つめる。
人の成長は早い。不完全な魔剣でバーンに一太刀入れられるようになったのは十分すぎる進歩ではある。アティだけでなく大魔王とて技や呪文のキレを磨いているのだから。
だが、仲間達の元へ還るという願いは叶わなかった。
故郷のみんなだってもういい歳だろう。
こちらの五十年は向こうの二十五年だが、それでも、出会った頃に大人だった者達は老齢にさしかかっている。あの海賊の青年と少女の間にはどんな子が産まれたのだろうか。
「余の勝ちだ」
「……はい」
ゆっくりと歩み寄ってきたバーンに視線を向ける。
魔剣が離れた瞬間から心臓は再生が始まっており、既に目立った外傷は見られない。
血で汚れた衣服を彼は脱ぎ捨てるとアティの元へ屈みこみ
アティは裸だった。
戦いの度に服が綻ぶのは耐えられなかったため、バーンに挑むときは薄い衣一枚と決めていたのだ。その衣が燃え尽きた今は何も纏っていない状態。
「では、女の其方を愛でるとしよう」
逞しくも美しい指が
指を顎、首筋へと下ろした後、大魔王はアティの身体を軽く持ち上げた。背中に両手を回して優しく捧げ抱く体勢は、なんというか宝物として扱われているような気分になる。
「二人目を作らねばならぬからな」
優しい声。
あらゆるものを断つ両手に抱かれ、寝台に運ばれるのも――もう、数え切れないくらい経験していた。
☆ ☆ ☆
大魔王に求められた後は決まって指一本動かせなくなる。
今日もまた、乱れた髪や肌に付着した汚れをどうにかする気力もなく、メイドに抱き上げられて自分の寝室へと向かうことになった。
入浴は朝にして、湯で濡らした布で肌を拭き取られる。
ゆったりした夜着を着せられると、アティは使い慣れた柔らかな寝台の上で目を閉じた。
「いつも、ごめんなさい」
「………」
返事はなかった。
いつもなら「いえ」と簡素ながら答えがあるのだが、どうしたのだろうか。
と。
メイドの靴音が部屋の隅に向かう音。何か重いものを持ち上げて帰ってきた彼女は、アティの傍らに立って呟く。
「
その合言葉はアティの耳に届いていたが。
――激痛。
バーンとの戦いで心臓を狙われたことはない。
彼にとっては愛しい后、戦いを愉しむことはあっても、間違って殺してしまうような攻撃は避けてくる。
だが。
メイドの彼女は間違いなくアティを殺しにかかっていた。
「……復讐、でしょうか」
淡々と問いかければ「そうよ」と答えが返ってくる。
上ずった声が内に秘めた激情を表していた。
「お前のせいで父さんは――ラーハルトは死んだ! お前達が勝てなかったから、大魔王の影に怯える人間達に迫害されて街にも出かけられなかった! それでもお前の悪口なんて一言も言わなかったのに、お前は大魔王の子を育んでいる!!」
「あなたの肌も、耳も、目もお父さん似ですね。性格は、あまり似ていませんが」
「黙れ! 私はお前を殺すためにここに来た! 純血を装って魔界に渡り、メイドとしてここへ入り、隙を窺ってきた! そして今日、お前は死ぬ!」
アティの寝室は宮殿内でも静かな場所にある。
声は反響して大きく響いていたが、誰かが聞きつけてくるにしてもしばらくはかかるだろう。
それまで出血が続けば危ない。
「殺すなら、バーンの方ではないのですか?」
「大魔王? ははっ、何を言っているの!? 大魔王なんてどうでもいい、私が憎いのはあなた! あなたが死んでくれさえすれば、他のことなんてどうなっても構わない!!」
「そう、ですか」
しみじみと、噛みしめるように応えて。
アティは小さく呪文を唱えた。
「
「……!」
槍が傷口から抜け落ち、からんと音を立てて落ちる。
重い身体を持ち上げて立つと、羽のように軽い魔剣を無造作に手にした。
「……呪文使いを相手にお喋りするのは愚策ですよ」
「黙れ!」
槍を手にしたメイド――ラーハルトの娘が突進してくる。
速い。人の世界であれば一流と呼んで差し支えないだろう。
だが、止まって見えた。
「―――」
「ごめんなさい、とは言いません」
一瞬。
半歩動いたアティの剣が、心臓を正確に貫き。
争いを聞きつけた兵が駆け付けてきた時には全てが終わっていた。
「殺したのか」
「……はい、殺しました」
顔を上げるとバーンが立っていた。
疲労困憊のアティに対して余裕のある立ち姿が憎らしい。
同時に、抱き寄せられると安心感を覚えてしまう。
「嫌な思いをさせたな」
「いいえ」
「次のメイドを手配しよう。今度は、お前を煩わせない者を」
「ありがとう、ございます」
知っていたのではないのか。
そう尋ねたくなったが、ぐっと堪えて。
「眠ります」
「それがいい。……明日は娘と共に過ごすのが良かろう」
「……はい」
愛娘の顔が思い浮かぶ。
アティの影響か、素直で心優しい子に育ってくれている。
心からの笑顔を交わすことができるのは――魔王の后と憎まれ怖がられる人間界を含めて――その子一人になってしまった。
今は、無性に娘の顔が見たい。
――いえ、もしかしたら、もう一人。
血に染まったベッドで身を丸め、目を閉じたアティは。
頭を撫でる男の手を払いのけることなく、眠りに落ちた。
☆ ☆ ☆
後の歴史家は、かのバーンの策略を『見事』と評した。
人類の守護者であったはずの蒼の賢者を見事に手懐け――百年の後、彼女と共に地上を攻め滅ぼした手腕は、一度目の侵攻のお粗末さとは大違いであった、と。
蒼の魔剣は輝きを失わなかった。
柔らかさこそ衰えたものの、代わりに揺るがぬ力強さを手に入れ。
人の代わりに己の子供達、夫である大魔王、そして夫の配下とは別に集め育て上げた信頼できる部下達のためにその剣を振るった。
大切なもののためという信念は曲げず、力こそ全てという魔界の理念を受けて。
三界に名を馳せる魔剣姫アティは大魔王バーンと共に永く君臨し続けたという。