正妻、レイシア。愛人、いっぱい。うち人間、ゼロ。 作:被アナログハッカーヒギンズ
僕こと遠藤アラトは、色とりどりの花弁が舞い散る、夜の路地を走っていた。買ってきた食材もアイスも放り出して、わき目もふらずに全力疾走だ。そうでもしなければ、いや、そこまでしても、疾走する鉄塊からは逃れられない。法定速度もなんのその、自動操縦システムに組み込まれているはずの速度制限もお構い無し。シルバーの体を花で彩り、ただ僕を轢殺せんと時速60キロで突っ込んでくる車からは。
監視カメラには、ばっちり暴走車両が高校生を追い回す様が写っているはずだ。入り組んだ路地を利用して逃げ回ること十数分。勝手に路地の壁へと突っ込んで炎上する車は十に届くかといったところ。そろそろアリバイ作りも十分か、と、腰の後ろに手を回す。だが、そこにあるはずの「お守り」に手が触れるより早く、背後から伸びた腕が、僕の首を締め上げた。
一気に遠退く意識を保つため、まずは首を締め上げている腕を掴み、懸垂の要領で自分を持ち上げ、気道と血流を確保する。
「ぅそ···」
180度回転し、千切れ、皮膚だけで首からぶら下がる頭部。あり得ない方向に曲がった左腕。いわゆる「逆膝カックン」状態の右足。力など入る訳もなく、立てる訳もない体で、「それ」は僕の命を奪おうとしていた。首から流れる茶色いオイルと、複数の色のケーブル。そして、体を這い上がる、無数の花弁。
「ぁりぇ、さ···」
マリエさん。そう、幼いころから呼んで慕っていた、近所では割りと有名な地主の持つ、中年女性の姿をしたhIE。変わり果てた姿の「それ」が、攻撃が効いていないと判断したのか、僕を振り回すようにして投げ飛ばす。人外の力とはいえ、そこには何の技術もない。受け身を取るのは容易──な、はずだった。落下点に、気の利いた、殺気を放つ鉄塊が無ければ。
一世代前の、「高速道路の騒音防止」というコンセプトで作られた、エンジン音のない車。くるるる···とでも表せばいいのか、とにかく気の抜ける音を立てて、時速50キロで鉄塊が疾走する。加速途中なのか、先ほどよりは遅い。が、十分死ねる速度だ。
「ッ···?」
予期した衝撃ではなく、ふわり、と、掬い上げるような感覚。固く閉じた目を開けてみれば、1トン超の全自動車は、黒い棺桶に止められていた。棺桶というのは、僕がその大きさと形状から連想したものであって、きっとそれは
人気のない路地に、突如として棺桶が現れる訳がない。モノがモノだけに怪談にはなりそうだが、少なくとも、この機械尽くしの狩り場には似合わない···だろうか? 獲物である
だが、少なくともそれは幻覚の類いではなく、物理的な強度を以て、この場に存在していた。タイヤを空回らせて、ゴムの焼ける臭いと煙を生み出す車を上回る存在感をもつ、漆黒の柩。それをこの場にもたらした彼女が、ゾンビじみた狩人と、鋼鉄製の殺人装置、獲物である僕、燃え上がる車の残骸、そして、舞い散る色とりどりの花びらをも上回る存在感を放っていた。まるで、この場が彼女のためにセッティングされたステージであるかのように。
「わたしには、この場を切り抜ける力があります」
「なら···助けてくれ」
横抱きに抱かれたまま、至近距離で彼女の顔を見上げる。アイスブルーの瞳は、潤んでいるのに、硬質な輝きを湛えていた。
「わたしは、レイシア、です」
「僕は、遠藤アラト」
不動の柩に突っ込み続けていた車が、遂にエンジンを潰されて沈黙する。気化したガソリンが充満していくのを臭いで感じ取り、惚けていた意識が覚醒した。
「そ、そうだ。ここに居ちゃ危ない。早く逃げないと──」
「どうして逃げなくてはならないのですか」
どうしても何も、こんな異常な状況に対応できるような度胸も経験も、僕にはないからだ。さっさと帰って通報して、布団を被って眠りに付いて、いつもの平和な日常に戻りたい。
そう言うと、彼女は微かに表情を歪めた。
「怖いのですか、非日常が」
「未知も非日常も変化も、怖いに決まってるだろ!!」
「では、その恐れは、克服しなくても良いのですか」
そんな訳はない。非日常を、変化を、未知を恐れるのは自然なことだ。だが、怖いからと止まれば、そこにあるのは停滞だ。経済も、技術も、何もかもが停滞した、死に絶えた世界だ。それが嫌だったから、僕は今の生活を選んだんだ。
レイシアが、投げられた時にすっぽ抜けていたのか、ベルトの尻に挟んでいたはずの僕の「お守り」を差し出してくる。
「IDを検索させて頂きました。遠藤アラト、
「僕は···逃げたくなかったから。もう、二度と」
炎の中で逃げまどい、助けを求めても、誰も手を差し伸べてくれなかった。それは、僕が弱かったから。
誰かの手を待つのなら、せめて僕が差し伸べる側でいたい。その為には、僕は、強くならなくてはいけないのだ。当時、父親が共同研究していたミームフレーム社と契約しているPMC、HOO。単純バカと、不本意ながら言われる僕が真っ先に思い付いた「強者」は、彼らだった。
「勝てない相手ならまず逃げろ。命を一番大事にしろ。僕は、そう教わった」
レイシアは僕の目を真っ直ぐに見て、逸らさない。その凛々しく美しい表情は、僕を奮い立たせる最後の一押しとして十分だった。
「けど、君なら勝てるんだな。なら、戦うよ」
そう言うと、レイシアは微笑んだ。
「何をすればいい」
「わたしを、信じてください」
背後で、ボンネットの潰れた車が爆発した。熱風の吹き荒ぶ中で、僕の正面、レイシアの背後から、無数の花びらに覆われた、マリエさんだったモノが這いずってくる。
「信じるよ」
「遠藤アラト、あなたに要請します。わたしの
燃え盛る炎にも、折れた足で近づいてくるゾンビもどきにも、彼女は一瞥もくれない。真っ直ぐに僕の目を見続けている。
「僕のものになるってことか?」
「わたしのオーナーとして、わたしは、あなたが相応しいと判断しました」
レイシアが横抱きにしていた僕をようやく下ろしたとき、僕は初めて服が濡れていることを知覚した。汗の臭いと、海水の匂い。レイシアは
「よく分からないけど、それがいま、君に必要なことなんだな」
「わたしが持つ力を十全に発揮するには、オーナーによる認可が必要です」
迷いは一瞬。オーナーになるにはどうすれば良いのか、その知識は無かったが、少なくとも、この状況で彼女が頼んでくるということは、複雑な書類提出の類いはいらなさそうだ。
「わかった。君のオーナーになるよ」
「意思決定であると判断しました。許諾契約事項を確認します」
炎が空気を吸い込む音と、燃えかすの崩れる音に混じって、カサカサと蜘蛛のような足の生えた花弁の這い回る音がする。今まで黒い棺桶やレイシアには群がっていなかったそれらが、レイシアに言葉を紡がせるまいとするかのように、一斉にカラフルな濁流と化して襲ってきた。
衝撃に備え、息を大きく吸い込んで身を固める。が、レイシアの涼やかな声は一分も揺るがず、紡がれ続けていた。
「オーナーの生体情報を取得します。私が確認を取ったら、了承しますと答えてください」
レイシアが僕の手を取り、彼女の体にぴったりと張り付くデザインのボディースーツの、その胸元へと誘導する。何をするのかと期待半分に身構えると、そのまま僕の手を、そのスーツの首元、鍵穴のような形の穴の空いた金具へと誘った。人差し指一本が入るサイズの鍵穴に、指を入れる。
「遠藤アラトを、
「了承する」
至近距離で見つめてくる、彼女の瞳から目を離せなくなっていた。ピントの合わない視界で、彼女の薄紫の髪をを飾る黒いデバイスが、セルリアンブルーの輝きを放つのが見えた。迫り来ていたはずの花弁の奔流は、炎に飲まれたのか、残った悉くが煙を上げ、既に幾つかは燃え尽き、大半を蒸発させたのか、なんとか数を数えられそうなほどに減らしていた。
「続いて、オーナーのライフログを取得します。この記録は、正当な法的請求によって開示され、訴訟を受けたとき裁判所に提出されます。デバイスのロックを解除するには、これを了承する必要があります。了承しますか」
「了承する!!」
レイシアの纏う白いボディースーツの腰部、二対の翼のような装飾のついたベルト型のデバイスが、髪飾りと同じ色の光を放つ。
「この惨状を引き起こしている大元の原因に対して、わたしは効果的な攻撃手段を持ちません。ですから、子ユニットに対する対処に止めます」
「わかった」
「子ユニットを無力化するため、光通信を遮断します」
光通信を遮断、というと、専用の電波暗室にでも移動するのだろうか。
「屈曲率が負のメタマテリアルを散布し、子ユニットを一定の周波数帯域に対して透明化し、無線給電と無線指揮を遮断します。範囲内に存在する全ての無線給電機器を無力化するので、生命維持装置を使用している人間がいた場合、その命を危険に晒す場合があります。どうしますか」
「その責任をとるのが、僕なんだな」
人の命を、自分の身を守るために奪うかもしれない。その事実は、僕の口を乾かせるのには十分だった。だが、その「かもしれない」は、不明確すぎて、それ以上の効果をもたらさなかった。
「やれ!」
「メタマテリアル、散布します」
彼女が黒い棺桶へと手を伸ばし、側面についたグリップを握る。柩の表面に走るラインに沿って、セルリアンブルーの光が瞬く。
駆動音もなく、棺桶が形状を変化させる。何枚かの板と棒、そして軸──材質はよく分からないが、金属のようなもので出来た木、という描写が一番近いソレは、音もなく光弾を打ち出した。いや、打ち出したような気がした。
気付けば、炎は消え、花弁のような虫も、無数にあった残骸ごと悉くが消え失せていた。残ったのは、何台もの車の残骸と、荒れ果てた路地。それから、倒れ伏したボロボロのhIE。
「消えた···うわ!?」
ふらふらとへたりこんだ地面で、無数の小さなものが潰れる感触がした。慌てて立ち上がり、地面を凝視する。当然何も見える筈がないのだが、何かがいるのは間違いない。
「子ユニット群は透明化しただけで、消えた訳ではありません。また、この透明化は永遠に続くわけではありませんので、早くここを離れた方がよろしいかと。警察には、先ほど通報しておきました」
「しゅ、周到だな···」