瑠璃色金魚と音色の水槽   作:沖縄の苦い野菜

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お気に入り登録100件突破、並びに感想、コメント、評価の方、ありがとうございます。励みになりますし、何よりふと見た時に「あぁ、丁寧な方がいらっしゃるんだ」と心がほっこりと温かくなりました。

まだまだ、物語は続きそうではありますが。
これからもどうか、この作品にお付き合いいただければ幸いです。

今回は地の文が多く、その中に久遠と紬に関する過去の描写が、ほんの一部だけ存在します。



 さて、告知は以上です。
 それでは、本編をどうぞ。





偽りの音色

 

 

 ――詩花の公演、本番まで残り一週間。

 

 久遠は今日も鍵盤を触っていた。音を弾き出し、紡いで、コロコロと転がして。遊ばせていた音符は、しかし地を這うように重かった。高い音なのに、足元で不快な音を奏でているように聞こえる。まるで、地獄で音符が悲鳴を上げているように。悲痛に声を歪ませるように。

 

 最悪だ、と久遠は思わず頭を抱えて俯いた後、天を仰いだ。意識しなければ、このドロドロに溶かされたような地獄の音色が漏れ出るのである。それを耳に入れた感覚と来たら、耳の奥にジェル状の何かを垂れ流したような不快さだ。思わず、弾いている自分自身で耳を押さえたくなる気持ち悪さには、もはや溜息も出なかった。

 

「これ、ちょっとまずいな……」

 

 クラシックなら、この音色に合う曲を見繕うことで、その日の不調をカバーすることも出来たが。今回必要なのは、アイドルのステージのための伴奏である。それは間違いなく、星のように光り輝いていて、明日への希望を湧き起こさせるほどキラキラしていて、追い風のように背中をそっと押してくれる優しさに溢れて……そして、歌と主体のアイドルの個性を最大限に尊重した後光のようなメロディでなければならない。

 

 だが、急に誰かのために弾けと言われても。

 ――大切な幼馴染へのメロディも紡ぎだせないのに、他の誰かだけの為になんて。

 

 あの日の彼女を肯定するための曲すら紡げない両手では、愛と希望の輝かしいメロディなど弾けるはずもなかった。

 

 何が足りないのか。何がダメなのか。これだけ気持ちを込めようとしているのに、どうして音色は沈みこんでしまうのだろうか。底なし沼に零れ落ちてしまったかのように、音符はまったく跳ねる様子がない。

 

 軽快に弾こうと鍵盤の上で手を跳ねさせた……泥沼に沈み込むようだ、違う。

 テンポを速くメロディに爽快感を持たせる……全力疾走した音符が先走る、違う。

 昔の楽しい思い出に浸りながら音を弾き出す……指は活き活きと鍵盤の上を滑り、音が少しずつ上調子に跳ねだした、その直後だった。

 

 頭の中に、フラッシュバックした。

 目の前に迫る影。大きな振動と共に迫るのは、見上げるほどの鉄の巨体。あっけなく、跳ね飛ばされる自分の身体。宙に浮いた時の感覚は、自分が鳥にでもなったのかと、錯覚するほどの解放感だった。何の寄る辺もなく、縛るものもなく、ただ自由に宙に舞って。

 

「――っ!」

 

 思わず、無い筈の両目を押さえる。肉を抉るような鈍い痛みが、頭の中をけたたましくノックした。不快でどうしようもない不協和音は、四方八方から鳴り響く。雑音や騒音なんてものではない。これはもはや、音による暴力だった。凶器だ。身体の中身をめちゃくちゃにかき回したかのような感覚に、吐き気すら覚えた。ぐわん、ぐわんと意識が歪み始めて曖昧なものになってきた。

 

 意識が闇に染まりかけたところで、歯を食いしばって必死に繋ぎ止める。鍵盤を乱雑に押さえ、足元から崩落するような落ちる音色を叩き出した。肩に鉛の様に圧し掛かる音符は、しかしどこかに飛びそうな意識を繋ぎ止める重りとしては、十分だった。

 

「はぁ……はぁ……」

 

 呼吸が荒くなってしまう。フラッシュバックが終わったとはいえども、頭の中から衝撃の余韻が引いたわけではない。後を引く頭痛に、混濁した意識。ピンと張られた緊張の糸は今にも音を立てて千切れそうだ。ふと気を緩めてしまえば、全てが手元から飛んで行ってしまいそうな不安が、胸の奥でとぐろを巻いていた。

 

「――伴奏、か」

 

 なんて残酷な仕事なのだろうか。倦怠感の拭えない体を椅子から床に投げ出した。頬を床に当てると、思いの外ひんやりと気持ちの良い冷たさが伝わってきた。熱に浮かされた自分を慰めるような、撫でるような冷たさに、張り詰めていた意識の一切合切が少しずつ緩んでいく。

 

 思えば、久遠という若きピアニストは、たった一人の誰かの為にピアノを弾いたことがなかった。それを弾こうと試行錯誤をすれば、必ずこの状況に行きついた。

 

 勇気も、幸せも、輝きも、楽しいも、肯定も、賛美も、好きも、大好きも、愛しているも、大丈夫も、ありがとう、も。与えられないし伝えられない。

 それなのに。恐怖、不幸、絶望、つまらない、否定、蔑み、嫌い、大嫌い、無関心、不安、罵詈雑言、は。いくらでも紡ぎ出てきては、否応なく相手に伝えて来た。

 

 久遠はそんな自分が大嫌いで。誰かのために音を紡ごうとしたときに、試行錯誤したときに。いつも、自分は何のために音楽をやっているのだろう、と自問自答する。答えは、決まって「証明」だと言っているが。……紡ぎ出した音色は確かに証明していた。あの日を正しかったと証明することが、不可能だと。証明していた。

 

 だが、今更引き下がるわけにはいかなかった。周囲の反対の全てを押し切って、ウィーンへ音楽を勉強するために渡って。まだ地元に居た時に、たまたま出会ったパトロンに、今までずっと面倒を見てきてもらって。確かな結果を叩き出して。意地や恩義だけではない。自分が最も得意とするステージさえも投げ出してしまえば、それは今までの全てを否定することになる。それだけは、久遠にとって何があっても許せるものではなかった。

 

 ――今の自分があるのは、あの日のことがあったおかげだから。あの日があったから、立派になれたんだ、と。

 

 胸を張って、祝福のメロディを奏でたい。聴かせたい。その渇望は荒れ狂う暴風のように激しいのに。音色は、まるで気持ちを伴わない。空っぽどころか、むしろ祝福とは真逆の呪いとなって音符が身体中にまとわりつく。汚く、醜い、泥のような音が。びちゃびちゃ、べちゃべちゃと。

 

(わからない)

 

 久遠は紬のことを、疎ましく思ったことは無い。あの日があったからといえども、責めようなどとは露ほども思わない。真に責めるのは、自分自身。手を差し伸べた自分が、結局彼女を暗い谷底に突き落としてしまった。そんな愚かしい自分への憎悪が尽きない。

 

 だから、久遠の音楽とは、ある一言で言い表すことが出来た。

 

(君に、何色の音を届ければいいのか。わからないんだ……!)

 

 ――贖罪。

 あの日の罪と傷を、それ以上の成果とその報告によって注いで。ぽっかりと空いてしまった穴を塞ごうとする、そんな想いが、彼をピアノへと向き合わせていた。

 

 たった、一人のためだけに紡がれる音楽というものは。

 どうしようもなく悲しくて、訳も分からず切なくて。キミの為だけにと頑なになればなるほど、その先を見つめている自分が震えてしまう。歯をみっともなく鳴らして、背筋に氷でも入れたように冷たい怖気が奔り。そんな臆病な自分のせいで、輝かしかった音色は途端に暗闇に溶けていく。

 

 不安に駆られて、見えもしないのに横を向いて誰かが居ないかと確認してしまう。手の開閉を繰り返し、手を引いてくれる誰かを確認する。……当然ながら、誰も居ない。

 

 まるで取り残されてしまったようだと、力なく天を仰いだ。自覚するほど、身体の震えが止まらない。こんな状態ではまともな音色は紡げない。落ち着くまで、横になっていようと全身から力を抜いて寝そべった。

 

(『4分33秒』でも演奏しようかな……)

 

 とはいっても、ジョン・ケージの『4分33秒』とは、第一から第三楽章まで、全て休止することしか指示されていない、無音の音楽である。そのため、演奏者は誰も楽器を弾いてはならない。

 

 では、『4分33秒』では何を聴けばいいのか。それは、演奏者や観客の呼吸や生命活動の音であったり、不意に出て来たくしゃみの音であったり。その時間内にあるすべての音が、等しく『4分33秒』の演奏とされる。だから、一つとして同じ音楽には成り得ない……という見解のひとつ。

 

 久遠は演奏者でありながら、耳を澄ませることだけに集中した。

 

 元が防音室なため、外から音が流れ込んでくることは無い。凪いだ海のような静寂の中。しかし、ふとした拍子に、胸を叩く鼓動が聞こえて来た。トクントクン、と生命の音が早鐘を打っている。それを十秒ほど味わっていると、今度は空気の擦れる音が耳に届く。開閉可能な窓などついていないから、外から流れたものではない。自分の鼻から、規則正しく間延びした音が奏でられている。無機質で、無感動で、意識しても特別感じ入ることのない音は。しかしどうしてか、頭の中に浸透するように、荒れた心を凪いでいく。

 

 何も考えず、ただひたすら聴くことに徹した。そうするだけで、不思議と思考はクリアになっていき、鼓動は嘘のように暢気なものに戻っていく。

 

 そうして、第一楽章が終わった。次は第二楽章に移る。……とはいっても、ただ意識を切り替えたように見せかけて、再び耳を澄ませることに注力するだけなのだが。

 

 それでも、第一楽章と第二楽章は違った。第一楽章では初め、早鐘を打っていた鼓動はすっかりマイペースに働いている。呼吸のための鼻の音も、第一楽章より間延びしていた。

 

(これはこれで……仕切り直すには、打ってつけかな)

 

 鼓動と呼吸。二つの音を聴いていると、身体を預けていた床が少しずつ沈み込むような、不可思議な感覚を徐々に覚え始める。まるで安眠に誘われるように、ふかふかのベッドに身を委ねるように。闇の中に安らかに溶けていくような感覚は、ウィーンにいる音楽の師との対話を思い出させる。

 

『いいかい、クオン。君は明るい音とか、希望とか、幸せとか、そんな音色が極端に出せていない。それは自覚があるんだね?』

『はい。どうしても、楽しそうに弾いても、音符が跳ねなくて……』

『正直な話、君の才能から考えれば、それすら自由自在に操れても不思議じゃないのに、弾けない。きっと、過去に何かあったのだろう。君の負の音がそれを証明している。今すぐケリをつけて欲しいところだけど……難しいのだろう?』

『……ごめんなさい』

『言っていても仕方ない。ならば、簡単だ。方向性を変えればいいんだよ。あまりいい手ではないけど、解釈をずらして音を誤認させるんだ。次の小さなコンテストで弾く「平均律クラヴィーア」を、冒涜的かもしれないけど、この方法で試しに弾いてみよう。審査員の評価を、試してみよう』

『えっと、具体的には?』

『あまり、人前では言わないでほしい。というより、これは君にとっても辛い選択かもしれない。それでも、君が人を幸福にする音楽を奏でるには、この解釈が一番適している。……まぁ、つまり――』

 

 ――安楽死、さ。

 

 久遠は師のことを、残酷だとは思わない。むしろ、先生としてはあまりに優秀であったと考えている。踏み込むのではなく、一歩下がった場所から教え子に対してその音色を出させる工夫をするとき、彼の師はあまりに巧かった。偽りの音色だとしても、彼の音楽は確かに大衆の心を掴んで見せた。この成功はひとえに、師のおかげであったと、久遠は感謝を絶やしたことは無い。

 

(解釈をずらすことによる、音の誤認……いけるかもしれない)

 

 安楽死のイメージも、確かこうして寝転がっている時に固まった。全て委ねてもいいという底なしの優しさに、沈んでいく。そのまま、意識を優しさの闇の中に沈めて……そこから先は、何もない。ただ、気持ちの良い音符に包まれて、安らかに光の粒となって消えていく。

 

 ならば、詩花のための解釈とは、一体どうすれば良いのだろうか。

 安楽死は違うだろう。あれは全てを委ねてもいい、という優しさと甘さの中で、心を凪ぐための音色だ。

 

 詩花はみんなが楽しめて笑顔になれるステージにしたい、と言っていた。つまり、笑顔になれるのであれば、そこに涙が伴っても構わない。その先が絶望だとしても、紡がなければ問題ない。

 ならば、解釈をずらそうではないか。そう聞こえるように、偽りの希望を輝かせよう。それを後押しに、詩花を舞台の上で最高の太陽に仕立て上げるのだ。イメージするのは……そう。

 

 ――蜘蛛の糸を登っている最中。

 

 まだ、下を見ていない。まだ、途切れることを知らない。希望だけの無垢の状態を、音符に乗せようではないか。その先さえ弾かなければ、これはまさしく、希望と光の音色になるだろう。

 

 気が付けば、『4分33秒』は第三楽章まで終わっていた。もう、あるべき無音は存在しない。音に起こすことこそが、今やるべきことなのだから。

 

「――」

 

 立ち上がってすぐに椅子に座って、呼吸を一度整える。意識を切り替えて、連想するのは希望を見出した人間の姿。天へと登るための蜘蛛の糸を見つけて、その光に泣きながら飛びついて、幸せそうに登る姿。

 

 イメージしながら、彼は詩花に向けた音色を奏で始める。どこまでも希望に染めて、向こう見ずな、偽りの光の音色を。嬉しそうに、楽しそうに、泣きながら笑うように、音符を跳ねて弾ませ綻ばせ。天から降り注ぐ星のファンファーレを紡ぎ出す。

 

 下を見ない。未来を見通さない。停滞したまま、ただ繰り返し幸せを描き出す。

 その先に例え、絶望と悲しみに染まっていたとしても、今が幸せなのだから。

 

 ならば問題はない。

 ――その先を知っているのは、僕だけだから。

 

 さぁ希望を登れ。その輝きを全霊に浴びろ。その向こう見ずな幸せと平穏を存分に享受するといい。奏者が居る限り、絶望は全て引き受けた。

 

 だから、前だけを向いて進めと、追い風のように音符の波で後押しをする。

 

『そこで貴様の出番だ。精々、詩花を引き立てる、その礎となることに全力を注ぐがいい』

 

 これで、いいのだ。これこそが、今のベストなのだと、自分に言い聞かせ続ける。

 

『必ず、笑顔にします。演奏中の、クオンさんも』

 

 透明な言葉の刃が胸を抉る。思い出した詩花の言葉を、しかし必死で振り切って。演奏を中断させることなく、弾き切った。

 

「………」

 

 手には、何とも言えない気持ち悪さが残った。これで終わりじゃない、と魂が叫んでいる。まだ弾かなければ完成しないと、手が震えて訴えてくる。この第一楽章だけで終えてはならないと、第二楽章へと進めそうになってしまう。それを必死に抑え込み、ピアノの蓋を半ば叩きつけるように閉じた。絶望の音色が、閉じ込められるように蓋の中で鳴り響いた……気がした。

 

「紬ちゃんには、あまり聞かせたくないなぁ……」

 

 今まで、自分の事を知らない審査員のことは、いくらでも騙してきた。だが、後藤久遠という人間を深く知っている相手だけは、騙せないかもしれない。

 

 ――あぁ、音楽ってなんて難しいんだろう。

 

 似た音は出せるのに、それが偽りだなんて。

 だからこそ、願わずにはいられない。

 

(どうか、誰も第二楽章には気づきませんように……)

 

 弾くのは、第一楽章だけなのだから。その先まで知らなくてもいい。

 これは、演奏者だけが胸に秘めた秘密。ピアノの奥底に封じ込められた深淵なのだから。

 

 だからどうか、覗いてくれるなよ、と。

 

 彼はピアノをひとつ撫でた後、防音室を後にするのであった。

 

 

 





そうして、第一楽章……物語の第一部は終わりへ近づいていく。
三部構成か、二.五部構成か。それくらいの長さになると思われます。今回の話は、本当にゆっくり進めていく形をとっていき、その過程を楽しんでいただく、というのをメインにしていこうと考えています。

その間に、キャラクター同士の描写をしっかり出来ていければと思いつつ。
本日は、これにて締め切らせていただきます。


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