絶えず耳に入る雨音が心を乱す。
目の前には戸山さんがいて、彼女は茫然自失といった様子で机の前に立っていて、目線の先には机に書かれた
「戸山さ――」
名前を呼ぼうとして、やめる。こちらに視線を向けることなく、彼女は静かに、椅子に腰をおろした。
目の前の景色に息が詰まる。
元々自分の世界に入りがちな彼女は、俺の存在に気づいていないのかもしれない。無闇に声をかけて、刺激するのも悪手だろう。
(人が来るまで、どこかで時間でも潰しておこう)
逃げるように、目を背けるように、教室を後にする。
足音は一人だけ。廊下の窓から景色を眺めても、生徒の姿は見えなかった。
(大丈夫、また後で話せばいい。バンドメンバーも彼女の力になってくれるはずだから)
そう考えて頭を振った。後回しに他力本願――それじゃ昔と変わらないじゃないか、と。
(だけど、俺に何ができるんだ?)
天啓の如く解決策が降って来るなんて、そんな美味しい話があるわけもなく。ただ雨の降る景色を、廊下から眺めるしかできなかった。
予鈴が鳴るまであと少しとなった。
逃げるように教室から出て、廊下をぶらついていたらかなりの時間が過ぎていたらしい。
雨音しか聞こえなかった先程とは違い、生徒たちの声が廊下に響いている。未だ降り続く雨への愚痴も聞こえてきた。
「あ、千葉さん。おはようございます!」
「……」
「千葉さん?」
「……あっ、あぁ……おはよう、花園さん」
喧騒をBGMに、ぼーっと窓の外を眺めながら歩いていたら、たった今登校してきたらしい花園さんが傘を片手に挨拶してきた。
やや詰まりながら挨拶を返した俺に疑問を覚えたのか、こちらの顔を覗き込んでくる。それにびっくりして、思わず顔を背けてしまった。
「どうしたんです? 具合悪いんですか?」
「いや、なんともないよ。ただちょっと、雨が憂鬱で」
「……? そうっすか」
不思議そうな表情を浮かべながら、彼女は教室の方へと向かっていった。
それを見送って、再び意識を窓の外へと向ける。
ざぁざぁと降り続ける雨に、心が憂鬱になる。雨音は心を落ち着かせるとどこかで聞いたことがあるのだが、どうやらそれは時と場合によるらしい。
足が重い。だけど教室に戻らないわけにもいかない。
教室へ戻ると見慣れた金髪を見つけた。読書の最中だったらしいが、俺の存在に気がついたのか本を閉じた。
存在感を希薄にした彼女が、戸山さんの方をちらりと見る。そしてそのまま、こちらに声をかけてきた。
「なんかあった?」
「色々」
「了解。まぁ、だいたい予想は着いてるけど」
「流石だな」
「わかりやすいのよ。あの子とあんたは特にね」
頬杖をついたまま、「まぁみんなわかりやすいんだけど」と呟いた。
それだけ言って、有咲は再び本を開いた。同時に、存在感も更に薄まった。視線は既に本の方へと向けられていて、こちらを向いてはいなかった。
戸山さんの方を見れば、彼女も一段と存在感が薄まっていた。牛込はいつも通りだった。
いつの間に我がクラスは忍者の里になっていたのだろう。心の中で茶化してみても、あまり心は晴れなかった。
放課後、バンド練へと引きずられていく戸山さんを苦笑交じりに見送った。
戸山さんの負った精神的なダメージは、未だ残ったままだった。せめて何か美味しい差し入れでも買って行こうかと考えつつ、根本的な解決につながるようなことを何もできない事実に悔しさを覚える。
今朝は書かれていなかった文章が一行、彼女の机に増えていることに気がついたのは戸山さんが教室を出た後だった。
それが戸山さんからサアヤさんへのメッセージで、あることは、想像に難しくなかった。
戸山さんのいない時にそれを見るのは、なんとなく嫌な感じがした。手紙の中身を勝手に第三者が覗き見るようなものだ。間違いなく良い行いであるはずがない。
それを見なかったことにして、通学鞄を肩にかける。
ちょっとした罪悪感と、戸山さんへの心配と、単純なバンドメンバーを労う気持ちとともに、
ギターを握ってしまえば、戸山さんの意識は瞬時に切り替わる。多少ギクシャクしているところはあったものの、放課後のバンド練は比較的いつも通り進んだ。
戸山さんに何があったかは、バンドメンバー全員が理解している。有咲が述べていたように、戸山さんとサアヤさんの関係は歪なものであった。故になんとなくこうなるだろうと、有咲は予想できていたようだ。
いつもより少し早めに練習を切り上げて、バンドメンバーたちはパンを頬張っていた。戸山さんの顔が少し明るくなったように見えたのは、「そうであって欲しい」と願った自分の見間違いだったかもしれない。
帰り道、戸山さんのはどこか不安を帯びた表情をしていた。
何か声をかけようとして、やめようとして、変な声が出てしまった。
「千葉くん……? どうしたの?」
それに気づいたのか、彼女がこちらを振り返った。
「あー、えっと……」
「?」
サアヤさんの名前を出すのは、論外だ。話題を探すために、脳をフル回転させる。
「パン、美味しかった?」
「あ、うん。美味しかったよ」
「……」
「……」
悲しいほどにコミュニケーションが下手であった。
「……ごめんね。私が落ち込んでるから」
いらない気まで遣わせてしまった。
「ねぇ、千葉くん」
「何?」
「私ね、どうしてもサアヤちゃんとバンドがやりたい」
「うん」
今にも消えそうな声音で、彼女は語る。
夜風が吹いた。それはとても微かなものだったけど、この風にさえ掻き消されてしまいそうな程に、彼女の言葉は弱々しかった。
「でも――」
言葉の続きが、語られることはなかった。
翌日はいつも通り、少し遅めの時間に登校していた。
昨日の雨が嘘であるかのような、雲ひとつない快晴だ。日差しが眩しくて、思わず目を細めてしまう。
校門の前にたどり着けば、見慣れた背中が目に入ってきた。戸山さんの存在感が昨日以上に薄まっている気がする。
「おはよう」
「おはよ」
有咲が少し疲れた表情を浮かべたまま、挨拶を返した。
「疲れてるようだけど、どうした?」
「ん」
呆れたような声と共に、顎で花園さんの方を指す。
それに従うように彼女の姿を見てみる。そこには背筋を丸めた戸山さんと、ポーカーフェイスの牛込と――
「かすみーん、ほら、深呼吸するといいってば! ほら、かたい顔せず、スマイルだよ!」
頭に稲妻が落ちたような感覚だった。
凄くイイ笑顔を浮かべた花園さんがそこにはいた。
「――え? 何あれ、イメチェン?」
「ちょーっと保護欲が暴走しちゃった感じかなー」
花園さんといえば、『〜っす』という語尾の不器用な後輩系(※同級生)女子だった記憶があるのだが。
牛込と一緒に、まるで介護でもしているかのように戸山さんに話しかけている。昨日までとのギャップというか、変化に適応できそうにない。
「ま、あれは好きにやらせといていいでしょ。かすみんの方が現在進行形で、〝心ここに在らず〟って感じだし」
「そ、そうだな」
花園さんとの関わり方を考えた方がいいだろうかと考えていたが、この話題については一旦考えるのをやめておく。考える余裕もないし、考えたところで意味のないことであるのは明らかだった。
「それよりも……」
「ドラムのこと、だな。問題は」
空白の五人目。未だ埋まっていないドラムの席に関して、どうするか。
サアヤさんに断られた以上、ドラマー探しは継続しなければならないのだが……それは一旦保留にしておくと、昨日のバンド練で決まったのだ。
「戸山さんが昨日書いた『サアヤさんに会いたい』といった旨のメッセージに対する返答待ち、だったよな」
「ええ。私自身も一度は会っておきたいと思ってたからね。脈が完全に〝ナシ〟なのかも確認しておきたいし」
「……根気強く説得する方針でいいのか?」
「打ち込みにも限度はある」と、彼女は少し前のバンド練の時にぼやいていた。
「実際に会ってみて、脈が完全になさそうなら考え直すけど……何度かリトライするくらいは問題ないわ」
「そうか」
「元々、メンバーのあてはなかったんだし」
「……それもそうだ」
「コンテニューはゲームの常套手段だからね」という言葉を最後に、有咲は下駄箱の方へと歩いていった。
「……ない、な」
「ないわね」
先に教室へと辿り着いていた戸山さんが、机の前で立ち尽くしていた。
何が起こったのか、大方の予想はついている。戸山さんの机を見てみれば、そこには過去のメッセージと、昨日戸山さん自身が書き加えたメッセージだけが残っていた。
「……これはあれよ。きっと学校を休んだのよ」
有咲が、戸山さんを励ますような言葉を投げかける。花園さんも牛込も、それに続いて励ましの言葉を贈った。
サアヤさんが休んだにせよ、登校していたにせよ、この話題の解決遠のいたという事実だけ
俺自身も何か言葉を投げようと、口を開きかけた時だった。
「……違う」
震えた声だった。でもそれは、不安や恐怖から来たものではなかった。
「ねえ、違うよ! これ見て!」
その言葉には、期待を含んだ興奮が載せられていた。
戸山さんが、少し離れた位置を指さす。そこに何かあるのだと、確信を持って視線を移した。
――思い出すのは、再会の日。
『……? なんだこれ……マスキングテープ?』
「――星と」
「矢印――!?」
「これは、有咲が?」
「私なわけないじゃない。確か、かすみんは
「矢印の方向は……こっちだ!」
矢印の方向に沿って、戸山さんが駆け出す。先程までの、今にも消えてしまいそうな姿はどこにもない。
そこにあるのはギターを握った時のような、キラキラした戸山さんの姿だけだ。
牛込が追随する。
有咲が静止する。
花園さんが困惑する。
戸山さんは、止まらない。
「みんな、行こう! 星が呼んでる!」
次から次へ、星から星へ、星座を描くように。
階段を降り、廊下を走り、昇降口を抜けた。校門の外を指す星にたどり着いた時には、期待は確信へと昇華していた。
「あの、みなさん! 学校は?」
「無理よ。あの子、もう止まんないわよ」
「止める必要なんて、元からないだろ」
「千葉さんってかすみんが絡むとおかしくなるっすよね!?」
「それもまたロックンロール!」
本鈴が鳴るまであと少しとなった。
星を追いかけて、走り回っていたらかなりの時間が過ぎていたらしい。
七月七日だった。
今日は七夕で、めぐりあいの日だ。
七夕の天気には、曇りまたは雨が多いらしい。新暦と旧暦の違いなどが関係しているようだ。実際、ここ数十年で晴れだった日の方が少ない……というのを、ネットのどこかで見た気がする。
『雨が降ると、天の川が氾濫して会うことができない』と、親から聞かされたのは幼い頃だったか。〝催涙雨〟などの概念がありはするものの、やはり『晴れた日に再会する』というのが有名だ。
昨日は雨が降っていた。強い、強い雨だ。そんな日に望んだ人とめぐりあうのは、もしかしたら不可能なのかもしれない。
――でも今日は、文句なしの快晴だ。
(なんだ、なんの問題もないじゃないか)
走る。走る。
気づけば、商店街の入り口まで来ていた。ここ最近で、すっかり通い慣れた景色だった。
星と矢印は、とある建物を指していた。
「ここが……!」
(ここって……!)
ここ最近で、すっかり通い慣れた景色。見慣れた装飾に、上がりきっていないシャッター。店名の書かれた看板は既に、店の前へと置かれていた。
たどり着いた先には――ヤマブキパンがあった。
「――あの」
こちらの様子を伺う、優しげな声色が前方から聞こえてきた。
声の主は少女だった。自分達と同年代だろうか。立ち振る舞いは少し大人びていて、どこか暖かな印象を受ける少女だ。
「お客さん、というわけでもなさそうだね」
そう言いつつ、俺達が誰かを彼女は知っている様子だった。
苦笑を浮かべながらこちらを見る彼女に対し、戸山さんが前に出た。息を切らしながら、初めの言葉を語り出そうとしている。
七夕の風が二人の髪をゆるやかに揺らした。
「あの――!」
長い一日は、まだ始まったばかりだった。
七夕の話を九月の頭に執筆してるの頭おかしくなりそう。
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