空を眺めている。
ここ数日はバンドの皆と一緒にいることが多くて、こうやってずっと一人でいるのも久しぶりのように思えた。
『小心者のテーマ』と題されたそのノートの中身を考え続けて、どれ程の時間が経ったのだろうか。未だに思考は靄がかかったようにぼんやりとしていた。進捗は、決して良い調子とは言えなかった。
「今、何時くらいなのかな」
昼休みの時間に入ったのだろう。ふと公園の外へと視線を移せば、ちらほらとスーツ姿の人が道を歩いていく様子が見られた。
「おなか、すいてきちゃった」
美味しいパンの味を思い出す。思い出して、また泣きそうになってしまった。
学校を飛び出して、皆が隣にいて、全部うまくいくと思っていた。きっと大丈夫だと、信じて疑わなかった。思えば、有咲ちゃんがわたしとサアヤちゃんの関係を〝いびつ〟と言った時に、その時にちゃんと考えるべきだったのだろう。
悪い癖だ。こうやって一人でいるとイヤなことばかり頭に浮かんで、何もうまくいかないように思えてしまって。そして自分の殻に閉じこもる。バンドを始めて、少しは成長できたと思っていたのに。わたしは、教室の日陰で幸運を待ち続けていたあの時から変わっていない。
わたしにとっての音楽は、一人きりの信仰に過ぎなかった。
CDカバーに写った
――だけど、そんなわたしの歌を好きだと言ってくれる人がいた。
『俺は、戸山さんの作った歌が聴きたいから』
そう言ってくれた男の子の顔を思い出す。わたしの歌が大好きだと言い続けてくれた、わたしのファンだと言ってくれた彼のことを。
こうしてわたしが下を向いている間も、彼は待ってくれている。彼だけじゃなくて、クラパの皆もそうだ。
少し潤んだ眼を擦って立ち上がる。バッグから一枚ルーズリーフを取りだして、念の為にとメッセージを残した。
まだわたしは、わたしに自信を持つことができない。だけど、わたしの歌を待ってくれている人がいる。
そう思えば、なんだか前に進める気がして。気づけば必死に、出口の方へと走り出していた。
####
有咲と別れ、公園へと戻って来た頃には既に戸山さんの姿はなかった。先ほどまで彼女の座っていた場所には、『ヤマブキパンに行ってきます』と書かれたノートの切れ端だけが残されていた。
前へ進む彼女を追いかけるように、メッセージの記す目的地へと歩き始めた。
星と矢印のマークが指し示す方へと歩みを進める途中、差し入れとしてスポーツドリンクを買った。戸山さんと沙綾さんと、沙綾さんのお父さんの分も。
昼休みの終わりが近いのか、少し速い歩調の会社員たちを数人見かけることを除けば、通行人の姿はほとんど見えない。
雨上がりの、湿気混じりの熱気が少し鬱陶しい。念のためにと買っておいた自分用のスポーツドリンクで喉を潤す。喉を通る冷たい感触が心地よい。
「戸山さん、頑張ってるかな」
ノートとにらめっこしている彼女を思って、歩調を速める。がさりと、手に持つビニール袋の揺れる音がした。
ヤマブキパンの店内に、お客さんの姿は見えなかった。耳に聞こえてくるのは、歌詞が英語のロックミュージックのみ。
平日のお昼過ぎ。本来ならば授業を受けている時間帯ということもあり、非日常的な雰囲気がそこにはあった。
店番をしていた沙綾さんのお父さんも「スポーツドリンクを冷蔵庫へ入れてくる」とだけ残して引っ込んでしまい、店内には自分一人だけ。
鼻腔をくすぐる小麦の香りに、腹の虫が控えめにひと鳴きした。昼食を食べていなかったことを思い出して、何かパンでも買おうかとぐるぐる店内を回っていれば、ぱたぱたと少し急ぎ気味な足音が聞こえてきた。
「いらっしゃいませ!」
姿を表したのは沙綾さんだった。
ヤマブキパンは一階がパン屋で二階が山吹家住宅の、所謂店舗併用住宅だ。
二階にある沙綾さんの部屋では現在、戸山さんが作詞作業に精を出しているとのこと。
公園の書き置きの通り、少し前にここへ戻ってきたらしい。
「がんばってるよ、あの娘」
いきなり戻ってきた時はびっくりしたけどね、と沙綾さんが肩を竦めた。
「沙綾さんもお疲れ様。飲み物買ってきたから、良かったら後で飲んでね」
「ありがと!」
向日葵のような暖かい笑顔を向けて、ドアのほうへと駆けていく彼女を見送った。
不思議なもので、その笑みを見るだけで、自然と元気が出てくるような気がしてきた。
「良い子だろう?」
彼女の外出と入れ替わるように店の奥から戻ってきた沙綾さんのお父さんの手には、パンの入ったバスケットが握られていた。
戸山さんへの差し入れとして用意してくれたそれを受け取りながら、彼の言葉に頷きを返す。
『美味しそうなパンだなぁ』とバスケットの中身を見ていれば、肩に手を置かれる感触。
「娘はやらんぞ」
にやけた表情がそこにあった。
「……なんですか急に」
「一度言ってみたかったんだ、このセリフ」
困惑を隠せない様子を見て、彼は少し意地悪げな顔。いたずらが成功したと言わんばかりに彼は笑みを浮かべていた。
この店の常連客になりつつあるからか、単に娘の知り合いだからか。彼の口調は少し砕けたものになっていた。
「君は、今上の部屋にいる娘とは友達なのかい?」
「まぁそんなところ、なんでしょうか?」
「なぜ疑問形なんだ。もしかして彼女だったり」
「しません! 違いますから」
バスケットの中身が、がさりと音を立てた。
恥ずかしさと、少し背筋の冷えるような感覚が襲ってきて、思わず強く否定してしまう。
そんな否定の言葉など何処吹く風と、笑い続ける姿に困惑は深まるばかりだ。腕を組んで、うんうんと頷いて、彼は口を開く。
「高校生活なんて短いんだ。三年なんてあっという間だぞ」
「はぁ」
「……まぁ、今だと実感は湧かないよなぁ」
仰る通り。
困ったような表情を浮かべていた彼は、ごほんと一つ咳をして話を変えるように俺へと問いを投げる。
「君は、好きな物はあるかい?」
「また
顔を顰めてみれば、彼が慌てて手を振った。
「違う違う! 好きなミュージシャンとかそういうの!」
「あぁ」
問いを受けて一番に頭に浮かんだのは、星のように輝く女の子。
それと、彼女の
「好きなバンドがあります。とても好きなものが一つ」
入学から時間は経ったものの、まだまだ高校一年生。受験も就職も、遠い未来の話のように感じているのが現状だ。
彼女達の軌跡を追うことに精一杯で、未来の事を考える暇なんてあるわけがなかった。
(現に、今も学校サボってここにいる訳だし)
そう考えていれば、彼の表情が先程までとは異なっていることに気づいた。
それはまるで何光年も先の星を求めるような、はたまた昨日の夕食を思い出すような。
これまで自分が見たことのない、
「そうか、それはいいなぁ」
どこか穏やかさを含んだ声音で彼は言った。
「……店長さん?」
こちらへ向けられた視線は、俺ではない誰かを見ているようで。思わず呼びかけてしまった。
「あぁ、ごめん。ちょっと昔を思い出しちゃって」
冗談めかして「おじさん臭いですよ」と言ってみれば、「おじさんだからね」と笑って彼は答える。
表情は既に戻っていた。
「俺もガキの頃バンドが好きでさ。中学生だっていうのにライブハウスに入り浸ってて……なんて、おっさんの昔話なんて世界で一番つまらないよな」
「ごめんごめん」と謝りながら、バスケット一杯に積まれたメタリカあんぱんを一つ掴んで、俺へと手渡した。
「あ、ありがとうございます?」
「うん、百二十円ね」
「金取るんだ」
「嘘嘘!」
おっさんの長話に付き合ってくれたお礼だよ。
そう言って彼は笑った。
「極力後悔のないよう、青春を謳歌すること。それが、若者の義務と特権だよ」
その言葉を最後に厨房へと戻ろうとする彼を、反射的に呼び止めてしまう。
妙に大人ぶった態度。どこか演技じみて聞こえた、最後の彼の言葉。
特に、『後悔のないように』という言葉が引っかかった。
後悔なんて、短い十数年の中でも既に数え切れない。小さいものから、大きいものまで。
戸山さんがいなくなった時の情景は、今でも昨日の出来事のように思い出せる。
純粋な疑問だった。
だからこそ聞きたくなった。
躊躇したのも一瞬、思い切って口に出す。
「……店長さんには、後悔とかないんですか?」
その言葉に、彼は今日一番の笑顔を。少年のような笑顔を浮かべてこう言った。
「――後悔ばかりさ! 当たり前だろ?」
####
集中の糸が切れた。
(ちょっと、休憩)
している場合かとも思ったが、ノートに向き合ってみても一文字たりと詩が浮かばないのだから仕方ない。ペンを置き、一つ伸びをした。
部屋に沙綾ちゃんの姿はなかった。
『弟妹を迎えに行く』という旨の記された置き手紙を見つけて、改めて辺りを見渡す。
沙綾ちゃんの部屋。可愛い女の子の部屋。なんかいい匂いがする。
作詞作業にのめり込むあまり、先程まではどこかへ旅立っていた緊張が帰ってきた。
沙綾ちゃんはまだ部屋に帰ってきていない。部屋の中はしんと静まっていて、聞こえるのは己の呼吸音だけ。
……うん、少し外の空気を吸おう。いやでも外に出たら缶詰作業の意味が無いのでは? と、取り敢えず廊下に――
よろよろと立ち上がり、部屋の扉を開けると、目の前には沢山のパンが入ったバスケット。横には何やら文字の書かれた紙が1枚。
公園を出る際、書置きとして置いてきたノートの切れ端だった。
『差し入れです! 作詞頑張って☆彡』
流れ星の絵文字が添えられた、応援のメッセージ。流れ星なのは七夕だからか。
ファンレターというのはこういう感じなのかな。少し照れくさく、それ以上に嬉しさが胸を占めていて。自然と、口元に笑みが浮かんだ。
進捗は道半ば。だけど、まだまだ頑張れる。
緊張も疲労も吹き飛んだように思えて、足は自然と机の方へと向いた。
ノートに書き殴られた詩を見つめる。トクン、トクンと鼓動が聞こえてくるようだった。
わたしのスタートになるうた。わたしのうたはいつだって、星の鼓動と共にあった。
――これはきっと
ペンを握る手に力が入った。
すぐに泣き出して、見て見ぬふりをする。
昨日までの