日陰者である金貸しと、日向を生きる洋菓子店の娘。
二人の生きる道は、決して交わることなど無いはずであった。
しかし、ある日運命の歯車は狂い始める。
私は、彼女に恋をしていた。
私は――恋をしていたのだ。
決して表立っては歩けない、陽の光の下では生きられない。
日陰者の金貸しである私と、日向を生き続けていた美しい彼女との間に、接点と言えるものなど何一つ無く。
私はいつも、日陰から彼女を遠く、眺めていただけだった。
彼女は小さな洋菓子店の娘で、いかにも陽光や日向を思わせるやわらかな笑顔で、いつも両親の焼いた自慢の焼き菓子を店先に並べては、やってきた客へと、それがどのようにして作られたか――だとか、どのように好まれ、どのように楽しまれているのか――といった、そうした事を嬉々として話すのだそうだ。
――とはいえ、勿論。
私はそれを直接聞いたわけでは無い。
新しく入ったばかりの私の部下へ、それとなく彼女の様子を探らせようと、店へ客として行かせたのだ。
私などが、彼女に触れてはいけない――と、近づけば、関われば彼女の輝きを濁してしまうだろう――と、そう思っていた。
だからこそ、私が直接彼女と話すわけにはいかなかった。
私は、彼女に恋をしていたのだ。
しかし、転機は急に訪れた。
彼女の両親が事故によって急逝し、彼女は不幸にも天涯孤独の身となった。
聞くところによると彼女の親類などは、両親が店を始めた際に資金や遺産の相続などの問題が重なり、縁を切られて久しいそうだ。
彼女にはもう、頼れるものは何一つ無かった。
その上、彼女の店はずっと赤字経営が続いていたそうだ。
両親はそのことをひた隠しにしていたが、その死によって無慈悲にも、事実の全ては彼女に突きつけられたのだ。
ただ一人の可憐な少女に、多額の借金だけが残されてしまったのだ。
奇しくもそれは、私の部下が受け持っていた仕事の一つで、借金の取り立てに関して良心が痛むと相談されたことで、私自身初めてそれを知る事となった。
私は、部下にあれこれと理由をつけると、その案件をたった一人引き継いだ。
私以外の誰かに、彼女の事を任せるわけには行かなかったのだ。
何より、このような好機――逃がせるはずなどあるまい。
製菓作りのノウハウこそ、僅かばかり少しばかりに受け継いでいたものの、彼女は経営についてずぶの素人もいいところだった。
材料の仕入れ先や、店の設備の動かし方もわからず、店を営業再開しようにも、誰へ伝えれば良いのかすら分からなかった。
知らなかった。
そのうえ、積み重なった赤字はどこまでも大きい。
とてもではないが、店を営業し続ける事など、出来そうにはない――と、いうのは、私でなくとも誰もが明白に感じるところであっただろう。
私は、彼女の抱えた借金の一部を、私の権限をもって減額する事を彼女へと提案した。
勿論、ただで――というわけではない。
そういうわけにはいかないし、そういうつもりもまた、無かった。
下卑た話だと思われるかもしれないが、私は、彼女に恋をしていたのだ。
それ故に、私の――自らの持ち得るカードを、切り札と言えるそれを切って何が悪いというのか。
私は、彼女を求めた。
金銭の一部を肩代わりする代わりに、彼女そのものを求めたのだ。
とはいえ、身体だけでも――などと、浅ましい事は望まなかった。
私は、彼女に恋をしていたのだ。
そのような事は望まなかった。
望まなかった――はずである。
彼女は私の提案にしばらく思案した後、暗い顔で答えた。
「少しだけ考える時間が欲しい」――と。
私は、それを快諾した。
迷うのも、悩むのも、当然の事だろう。
自らの人生を捧げねばならないのだ。
人の心はそうまで簡単では無いし、何より彼女にとって、私の提案は検討に値すると分かっただけでも、私は既に嬉々とした心持であった。
勿論、私は彼女を悪いようにするつもりなど毛頭も無かった。
幸せに、両親を亡くした事も忘れられるほど、幸せにしてやりたいと思っていた。
私は、彼女に恋をしていたのだ。
ああ、それなのに――それなのに。
翌日になって私の事務所を訪れた彼女は、テーブルの上に小さな包みを置くと、『それ』を私の方へ差し出した。
『それ』は、印鑑ケースよりもやや小さく、少しばかり上等な生地で包まれていた。
――どうにも、妙だ。
そう感じられたのは、彼女の面持ちが随分と暗いからだろうか。
それとも、その一つ一つの所作に、何か言い知れぬ違和感を憶えたからだろうか。
私は訳もわからぬまま『それ』を受け取ると、彼女の様子を訝しみながらも、ゆっくりとその包みを解いていった。
そして、目を見張った。
私は、彼女に恋をしていた。
いつだって、彼女の姿を遠くから良く眺めていた。
瑞々しい唇も、小さくつんと上向いた可愛らしい鼻先も、つぶらな瞳にかぶさる長い睫毛も、つるりとした愛らしいおでこも。
細やかな首筋と、控えめな乳房。長く美しく伸びた腕――そしてその先に連なる可憐な指先まで。
私は、それらをずっと見て来たのだ。
見紛う事などあるものか。
『それ』は――上等な生地に包まれた『それ』は、彼女の可憐な――可憐な指先に違いなかった。
その関節の辺りにある黒子だって憶えている。
ああ、ああ――夢にまで見た指だ。
『それ』は――『そこ』は、私が、いつか、美しい指輪で飾ってやりたいと、そう夢みていた指だ。
そうだ――そうとも。
彼女の差し出した『それ』は、見紛う事なき彼女の左手――その薬指であった。
私は、まるで重苦しいコンクリートの塊で頭を殴りつけられたような、強い衝撃に打ちのめされた。
言葉無く差し出された『それ』は、彼女の強い意思――その表れであろう。
「身体はくれてやっても、心まではお前のものになどならない」と、私へ突きつけているのだろう。
胸が――心が、千々に千切れんばかりに痛む――軋む――ささくれ立つ。
頭の中は、さながら嵐の海のように畝り、荒れ狂い、私は思わず喘ぐように息をしていた。
望んでいたのはこんな事では無かった。
無かったはずだ。
彼女を娶り、幸せにすることを、私は望んでいたはずだ。
私は、彼女に恋をしていたのだ。
だというのに――だというのに。
彼女は、私の動揺する様を見て、僅かに「にやり」と口角を吊り上げて笑っていた。
陽光の様に――日向のようにやわらかく笑う彼女はもう居ない。
それは、下卑た下界の悪意に染まり、自らに課せられた運命を皮肉ってやろうとせせら笑う――私と同じ日陰者の笑みであった。
――ぷつり。
と、私の中の何かが切れた。
――ごとり。
と、私の中で何かが落ちた。
私の中で、何かが打ち壊れ、崩れ、跡形も無く散り散りになったのを感じた。
あるいは――それらは、私の良心か、恋心か。
彼女を見つめる私の胸に湧き上がるのは、最早慕情よりも嗜虐の心だったように思う。
それでも約束は守らねばなるまい。
私は止むを得ず、彼女に課せられた借金の一部を肩代わりし、免除するといった旨の証書を作ると、それを彼女へと突きつけた。
そうしてまた、更なる免除を提案した――勿論、先と同じ条件を課してである。
彼女が私をそうまで拒絶するというのなら、私は彼女が彼女自身を失うまで、『それら』を求め続けてやろうと思っていた。
そうして始まった私たちの縁を、言葉にするのなら何と呼ぶべきだろうか。
はじめのうち、彼女は残る幾つかの指を私へと差し出した。
それらが無くなると、今度は両の乳房を切り落とし、私へと差し出した。
それから耳を、削ぎ落とした鼻を。
くり抜いた右目を、抜き取った歯の幾つもを。
それらも困難になると、今度は髪を――そして陰部の毛を。
左脚を――右脚を。
左腕を――右腕を。
彼女はそうして借金を免除される度、その身体の一部を失っていた。
それでも、その残された左目は、決して私を受け入れることなく拒絶し続けていた。
けれども、しかし。
最早彼女に差し出せるものなど、殆ど残ってはいなかった。
――最後の日。
彼女は私に「殺せ」と言った。
哀願でも無く、懇願でも無く、ただ冷ややかに――命じるように。
あくまでも――どこまでも、心を明け渡しはしないと、その意思だけは揺らぐことなく。
最早私の中にある感情は、愛とも憎ともつかぬ、ぐちゃぐちゃに混ぜ合わさった歪なものになっていた。
解放への欲求と、喪失への恐れが私の頭を掻き乱し、それでも私は泣き笑いのような顔を浮かべて、彼女の首を一息に切り落とした。
あたたかな血潮が噴き出し、私を濡らす。
ぬめぬめとしたそれらは滴り落ちて、床に赤々とした染みを広げていく。
その真ん中に残された彼女の左目は――瞳は、緩やかに光を失っていった。
そこに映っていたのは安堵か――失意か。
確かめる術など、在りはしない。
やがて、間も無くして彼女は、その全ての生を静止した。
動くものなど何一つ無く、反発するものなど何一つない。
完全な彼女を、私は手に入れたのだ。
私は、彼女の全てを手に入れたのだ。
恋しく思った彼女の全てを。
けれども――それでも。
何故だか私は、その断片たちに欠落を感じざるを得なかった。
既に、命と言えるものを失い、物言わぬ虚と成り果てた彼女の亡骸は、保管してあった断片たちと組み合わせれば、彼女そのものを作り上げられるはずである。
ああ――けれど、けれど――もう。
あの陽光に似た笑顔を、日向のように柔らかい笑顔を見せる彼女はどこにも居ない。
いや、それは疾うの疾っくに失われていたのだ。
彼女の良心が死んだあの日に。
あるいは――いや、きっとそうなのだろう。
私が、彼女を求めてしまったあの日。
私が、彼女と関わってしまったあの日。
穢れなき可憐な少女の世界は腐り果て、この結末へと向けて転がり出していたのだろう。
――失望の最中。
私の視界に鈍い光が映る。
彼女の首を切り落とし、赤く染まった『それ』は、どうしてだか、私にとっての救いに思えてならなかった。
当然だ。
彼女を失くした世界に生き続けるなど、これ以上の苦しみがあるものだろうか。
わたしは『それ』を、自らの喉元へ突き立てると、一息に貫いた。
肉を裂き開かれる痛みは、けれども間もなくして異物感へと変わり、それらもまた、まるで身体が石に変わったかのように、鈍麻していく。
水音を立てていた呼吸も、やがて静かに、そして浅くなり、視界は暗く――狭くなっていく。
安らぎが、私を包んでいく。
私は、彼女に恋をしていた。
恋を――していたのだ。
薄れゆく意識と視界。
終わり行く世界――その最中。
私は今更ながらに、はたと気が付いた。
あの日、伝えるべきはそれだったのだろう。
「私は、あなたに恋をした」と、伝えるべきだったのだろう。
それでも、日陰者であった私に、そんな言葉を口にすることは出来なかった。
そうして私は彼女を巻き込み、この暗闇へ落ちていくのだ。
――どうしてそんなことも分からなかったのか。
けれども、私のそんな悔やむ心もまた、間も無くして永遠の静寂の中へと、するり、ぽつりと落ちていったのである――