リクエストをいただいた『駄菓子屋の招き猫と女の子』で書きました。
とある町のとある駄菓子屋。
薄汚れた店には縁遠いであろう少女は、しかしある事を契機に、その店先を毎日通うこととなる。
「にゃあ」
「にゃあ」
それが、彼女――あるいは、彼との初めての会話だった。
私の住む町は、都会と呼ぶにはあまりに何もない、けれど田舎と呼ぶにもそれほど緑も多くない、そんな町だった。
遊ぶ場所と言えば、住宅街の中にある公園か、少し離れたところにある小さなデパートのゲームコーナー。
それから、このボロけた木造平屋建て、築何十年経っているかも分からないような駄菓子屋くらいだ。
それでも、こうしたところへ来るのは大抵男子ばかりで、私たち女子はお店の事だけは知っているものの、入ったことなど何一つなかった。
薄汚れたビニール製の軒先には、いくつものガチャポンの機械が並び、十円玉でカードを吐き出す機械だとかが並んでいる。
奥を覗くと、灯りすらついて無さそうな狭い家の中に、所せましと安っぽい包装の品々が並び、大半は埃をかぶっている。
そんなお店の店頭に、『猫』が居た。
それは、小さな十センチほどの大きさで、三毛猫模様をした陶器の招き猫だった。
私はその日、何を思ったか。
なんとは無しにその『猫』へと声を掛けただけだった。
「わ、び……びっくりした!」
まさか招き猫が返事をしようものとは、夢にも思わない。
ただの陶器の猫が喋るなどと、小学生だった私でさえ、考えたことも無かった。
「ねぇ、しゃべれるの?」
「にゃあ」
その『猫』は、確かに私の言葉に返事をしていた。
もちろん猫だけあって、返事はいつだって「にゃあ」だとか「にゃん」だとか、そうした言葉ばかりだ。
声だってあんまりきれいじゃない。
僅かに掠れて聞こえるそれは、言ってしまえば不細工な鳴き声と言えただろう。
けれど、返事をする招き猫に感心した私は、次の日からその駄菓子屋の道をお気に入りの下校コースにしたのだった。
春先の、うららかな陽射し注ぐ暖かい日も。
梅雨時の、じめっとした重苦しい雨の日も。
夏前の、雷鳴轟く夕立の日も。
真夏の、ぢりぢりと肌を焦がすような暑い日も。
晩夏の、少し寂しそうな夕暮れの日も。
秋口の、肌寒くなり始めた日も。
紅葉の、目を奪うほど鮮やかな日も。
冬前の、吐く息が白くなり始めた日も。
真冬の、うっすらと雪の積もる日も。
雪解の、世界が息を吹き返した日も。
春前の、草木が緑に色づき始めた日も。
幾日も、幾月も――そして幾年も。
私はその駄菓子屋の前を通っては、今日は何があったのか。だとか、今日のお昼ご飯は何が美味しかったのか。だとかを始めとして――
誰と誰が喧嘩をして怖かった。
あのお店で買い食いをしたら怒られた。
好きな人に、別の好きな人が居た。
また、別の人を好きになった。
夏祭りが楽しかった。
花火がきれいだった。
銀杏の下が臭かった。
お父さんと喧嘩した。
ストーブを使い始めた。
とうとうこたつが押し入れから出て来た。
新しい年になった。
雪合戦をしたら風を引いた。
桜の季節になったら、どこかへ花見に出かける。
――といった、他愛もない話を、私はいつだってその『猫』に話していた。
その度に『猫』はいつだって「にゃあ」だとか「にゃん」だとか、同じ返事ばかりを繰り返すものだから、私は時折ふざけて「それしか言えないの?」と笑ったりもした。
当然かえってくる言葉は「にゃあ」だとか「にゃん」ばかりだった。
小学校を卒業して、中学へ通い、そしてまた卒業した私は高校へと通うようになった。
毎日の下校コースは徐々に道を変えていき、いつしか私は滅多にそこへ通わなくなっていた。
それも不思議じゃない。
高校生ともなれば、招き猫が喋るだなんてこと、あり得ないと理解できる。
きっと何か仕掛けがあって、鳴き声がしているだけなんだろう、と想像することが出来る。
不思議な体験は、私に知識が積み重なるにつれて、下らない思い込みだったと感じられるようになっていった。
心躍るような夢物語なんて、どこにもないと思い知らされるようになった。
部活や受験。
バイトや、人間関係。
そうしたものを重ねていくにつれて、夢見る少女の私は擦り切れて、擦り減って。
そうして血の滲んだ大人になっていくのだと、いつしか私は将来を憐れむようになっていた。
大学を卒業後、近くの商社に入ってからも、相変わらず冷たくごつごつとした日々が続く。
心は相変わらずに打ちのめされて、恋も仕事も上手くいかず。
生きることを止めようかなどと思い、私は夜明け前に自転車に乗ってひとり、地元の海へと出掛けていった。
春先の冷たい潮風が、海の冷たさを思わせる。
打ち寄せる波の立てる潮騒が、私の心を震わせる。
そのまま海へと歩いていけば、この下らない生というものも、あっという間に終わるのではないか。と、私はひとりそこへ立ち尽くしていた。
東の空が薄ぼんやりと明けはじめ、徐々にその光が強くなっていく。
やがて、山の稜線が眩く切り取られ、その向こうへと太陽が顔を出しても、私はずっとそこへ立ち尽くした。
生きることをやめよう、などといった考えは既に無く。
まるで波に浚われてしまったかのように、私の中に澱んでいたそれらはすっきりと凪いでいた。
自転車を漕ぐだけの体力も、気力も無く、私は朝方のまだ人々の起き遣らぬ町の中をひとり、自転車を押して歩いていく。
懐かしい中学校前を通り過ぎ、小学校前を通り過ぎると、過ぎ去った日々の思い出が、胸の内に去来する。
大勢の友達や、先生たちの顔が浮かぶ。
共に過ごした時間が、思い出が、鮮やかさを伴って、瞼に浮かぶようだった。
私はなんだか懐かしい気持ちになり、いつか毎日通っていたあの帰り道を行く。
相変わらずの廃れた町は、より一層に廃れて――けれど、時折新しい建物が建っていて。
気付かないうちに、随分と遠くへと来てしまったような、そんな心境――あるいは郷愁めいたものが胸を打つ。
しばらく歩いた私の、視線の先。
あの駄菓子屋は、すっかり綺麗な新築の建物へと変わっていた。
薄汚いビニールの軒先も無ければ、ガチャポンやカードの機械も無い。
薄暗い店内など見えもせず、きれいな引き戸がしっかりと中の様子を守っている。
道の端に残された街灯だけが、辛うじて小さな看板にかつての店の名前を刻むだけで、あの駄菓子屋も、招き猫も「もう何処にも存在しないのだ」と、私に突きつけているかのようだった。
私はその建物の前にしゃがみ込むと、あの招き猫が置いてあった辺り――今はエアコンの室外機が置かれた辺りへと、「にゃあ」と呟いた。
応えなど、あるはずもない。
あの招き猫は、もうここには居ないのだから。
少しばかり自嘲気味な笑いをこぼして、私は立ち上がる。
そうして、自転車をまた押そうとしたその時――
「にゃあ」
声が――聞こえた。
懐かしい、声が――聞こえた。
ひどく掠れて、お世辞にもきれいとは言えないような不細工な声。
以前よりもっとガサガサとして弱ったそれは、けれども確かにあの『猫』の声に違いなかった。
私は慌てて振り返ると、室外機の辺りへ視線を走らせる――けれど、姿は見えない。
それでも私は、呼びかけるように何度も「にゃあ」と言った。
そして『猫』は「にゃあ」だとか「にゃん」と応えた。
ようやくに、その視線に気づいたのは、そのやりとりをどれだけ繰り返した後だったろうか。
ふと、視線を上げた私の鼻先数十センチ。
窓の向こうに、爛々と輝く眼が二つ。
真っ黒な姿をしたそれは、招き猫とはひどくかけ離れた随分とボロけた老猫だった。
けれど、私は直感した。
その向こうに、懐かしい姿を見たからだ。
窓の奥。
黒猫の向こうに、一人のお婆さんが立っていた。
そうしてそのお婆さんは、私の姿を見てにこにことしている。
その顔には見覚えがあった。
直接に話したことは無かったけれど、それは間違いなくあの駄菓子屋のお婆さん他ならなかった。
お婆さんは目が合うと、ぺこりと小さくお辞儀をした。
私もまた、つられてぺこりと小さくお辞儀を返した。
あの懐かしい駄菓子屋の頃も、きっとそうだったのだろう。
私が気付いていなかっただけで、窓の奥――その薄暗がりの中で、小さな『猫』は招き猫の代わりに私へと応えていたに違いない。
その『猫』は、それに気づいた私へと「ようやく気付いたか、馬鹿娘め」と言わんばかりに大きなあくびをすると、そっぽを向いてしまった。
なんだか、いろいろと頭を悩ませていた事が、途端に馬鹿々々しくなった。
案外に、一歩遠くから見て見れば、不思議な事だって答えが見えるものだと思ってしまえば、仕事だとか、人間関係も同じように、少し遠くから見れば良い答えが見つかるのかもしれない。
私はまたも自嘲気味に笑うと、あの招き猫へと「ありがとう」とお礼を言った。
『猫』は振り向きもしなかったけれど、私の耳には「にゃあ」と、応えが聞こえた気がした。
すっかり明けてしまった町は、とても色鮮やかで、明日からをもう少し。
もう少しだけ、生きてみようか――なんて、気持ちになったのだった。