オレンヂ色の夕焼けと、すっかり輪郭だけになった町の、真っ暗な影。
あちこちに建てられた錆だらけのポールには、いかにも古ぼけた、安っぽいつくりのスピーカーが並んでいる。
かつては白かったであろうそれらは、今やすっかりくたびれたアイボリーだ。
――午後五時。
昼と夜との境界線。
それらのスピーカーは一斉に――あるいは、ほんの僅かに間を空けながら、「ぶつり、ざざざ」と音を立てた。
そうして間もなくその雑音は、どこかで聞いたことがあるような、けれども名前も思い出せないような、なんとも懐かし気な音楽を、夕暮れ時の町中へと響かせていく。
幸夫はその――いかにも田舎臭い町内放送が、どうしても好きになれなかった。
いや、あるいは都会でも同様に、夕刻を告げる音楽というのは有るのかもしれない。
こうして流れるのかもしれない。
しかし、少なくとも幸夫の知る限りの――狭い世界の中ではどうしても、田舎の古臭い習わしのように思えて仕方ないのだ。
「鉄臭いし、錆っぽいし」
幸夫は、思わず唾でも吐き捨てたくなるような気持ちを堪えながら、工場へと続くなだらかな坂道を眺める。
音の割れたスピーカーがノイズ混じりの音楽を流し終えて間もなく、辺りは俄かに活気づいてきていた。
丘の上に建てられた工場からは、真黒に煤けた男たちが、笑いながら語らないながら、横並びに坂を下ってくる。
まるで町の影をそのままくり抜いてきたかのような彼らは、鼻を突くほどにひどい鉄粉――あるいは油のにおいを漂わせて、幸夫は今にも反吐が出そうだった。
そんな彼らは坂を下りきると、一部はそのまま帰路へ付き、もう一部は坂の入り口辺りに建てられた、トタン張りの小屋へと入っていく。
小屋――と言っても、錆の浮いたトタン板で壁と天井が作られただけの吹きっ曝しで、その中には古木を丸々一本切り出したかのような、腐りかけた丸太の長椅子がひとつ、置かれているだけだ。
彼らはその長椅子に腰かけて、尚も談笑している。
――と、まるで示し合わせたかのようなタイミングで、傷や凹みをあちこちに浮かべたマイクロバスが、その小屋の前へと付けた。
どうやらその小屋は、工場の男たちを送迎するバスの停留所だったらしい。
よくよく見てみれば確かに、「工場前」と書かれた錆だらけの看板が、コンクリ製の土台から生えたポールへと、雑に溶接されている。
そこには手書きと思しき時刻表が、風に吹かれてひらひらとはためいて、今にも吹き飛ばされてしまいそうだ。
男たちは我先にバスへと乗り込むと、バスは今にも壊れそうなほどにギシギシと音を立て、前後に左右に大きく揺らぐ。
幸夫はその様を眺めて「可哀想だ」と思った。
ただでさえ、傷んでボロボロになった古臭いマイクロバスの中は、鉄に錆に油に汚れた男共がすし詰め状態で乗り合っている。
幼い幸夫にとっては、その姿がひどく痛ましく見えるのだ。
「坊や、誰かのお迎えかい?」
気が付くと幸夫のすぐそばに、一人の小男が立っていた。
そいつは他の男共と同じく、随分と薄汚れていて、それにひどく臭う。
ニヤニヤとした軽薄そうな笑みを浮かべ、幸夫の表情を窺うように、わずかに身を屈めているが、あるいは案外に人並みの背丈くらいはあるのかもしれない。
幸夫は得体のしれない男に思わず身震いをしながら、それでも声を張るようにして「はい、お父さんの」とだけ答えた。
男はそれを聞くと「そうかそうか」と笑いながら頷いていたが、幸夫はその間中もずっと「気色の悪い男め、あっちへいけ」と、胸の内で悪態を吐いていた。
男はなおも幸夫にあれこれと訊ねる。
「お父さんの名前は?」だとか「どういうお仕事をしてるか分かる?」だとか聞かれ、幸夫はその度にはっきりしない言葉ではぐらかし、坂の方を眺めては、父がやってくるのを今か今かと待ち侘びていた。
幸夫のそうした、いかにも警戒している様子を見て、自分が歓迎されていないことに気が付くと、男は苦笑いを浮かべ「きっとお父さんならもうすぐ来るよ」とだけ伝え、背中を小さく丸め、寂しそうに去っていった。
あるいはただ、幼い子供がひとり不安そうにしているのを見かねて、声を掛けただけの優しい人だったのかもしれない――が、幼い幸夫にとって、そうした者はどうしたって、不審者にしか見えなかった。
「幸夫、幸夫じゃないか」
ようやくに怪しい男から解放され、「ふう」と一息ついた幸夫の背中へ掛けられた声。
聞き覚えのある――けれど、どこか少し嗄れたような懐かしい声。
それは、幸夫が決して聞き間違うことの無い、父の声だった。
いや、声だけではない。
振り返った幸夫の目の先にあったのは、随分と驚いた様子の父の姿だった。
幸夫は思わず「おとうさん!」と声をあげると、父の汚れた衣服を気にも掛けず、半ばしがみつくようにして、その腹の辺りへ飛びついた。
「なんだ、一人で来たのか? かあさんは?」
「ぼく一人だよ! 一人で来られたよ!」
父――章嗣は、久々に会う我が子の頭をぐしゃぐしゃと乱雑に撫でまわすと、「そうか、さすが男の子だな。もう四年か?」と、少しだけ腰をかがめるようにして訊ねる。
親子そろって短くつんつんとした髪は、けれども少しだけ白髪が目立ち始めていた。
目元や鼻の横辺りの皺も、前よりずっと深く、多くなってきたかもしれない。
「ううん、もう五年だよ。林間学校へも、今年行った」
それでも、父に会えた事が嬉しくて、幸夫は無邪気に笑いながらも胸を張って答える。
未だ、あどけなさを残しながらも、少しずつ少年らしい頼もしさを備え始めた幸夫の姿に、章嗣は「そうか、もう五年か。早いなあ」と嬉しそうに――けれども、どこか悲しそうに、うんうんと頷いた。
そんな父の心境を知ってか知らずか、幸夫は自慢げに「へへ」と笑う。
その笑顔にもまた、章嗣は郷愁めいた心寂しさを感じずにはおれなかった。
章嗣と、妻である紗希子が離婚という選択をしたのは、幸夫がまだ小学校へ上がって間もない頃の事だった。
離婚の理由は、幸夫には直接知らされていない。
夜になると時々ふたりが何か言い合っている事は知っていたものの、父と離れて暮らす事になろうとは、知る由も無かった。
微塵にも想像したことすらなかった。
何せ幸夫は、とにかくまだまだ幼い子供だった。
けれどある日、紗希子は幸夫の手を引くように電車へと乗り込むと、小一時間掛けて見知らぬ街の、見知らぬ駅へと幸夫を連れ出した。
何も知らぬ幸夫は、てっきりそれを旅行か何かだと思ったらしく、初めて見る景色に目を輝かせながら、しきりに「おとうさんは? おとうさんはいっしょにいかないの?」と、母に訊ねた。
しかし紗希子は何も答えること無く、暗い顔で黙りこくっていた。
そんな母の様子に、幸夫は幼いながらにも何か思うところがあったのか、次第に口数を減らして、浮かない顔で母について歩いていった。
そうして、工場町よりも少しばかり都会じみた街の、けれども薄暗い路地を入った寂しいところへ辿り着くと、小さな二階建てのアパートを指差して、母は「ここが今日から住むおうちよ」と、幸夫に告げた。
茶色いトタン板張りの壁に、同じく茶色いトタン屋根。
日に焼けたプラスチックが、すっかり退色してしまったような二層式の洗濯機が並ぶ宇通路の向うに、二階へ通じる外階段が見える。
けれど、その階段の手すりも、二階の通路に取り付けられた鉄柵も、すっかりペンキがはがれ落ちて、錆に塗れた様相を呈している。
室内は埃っぽく、板張りのダイニングの一角に、小さなシンクが設けられており、奥は畳一間の小さな部屋で、風呂もトイレの床には、玉石のタイルがびっしりと敷き詰められ、ひどく寒々しい。
幸夫は、そのとき随分と母に反発したものだった。
「こんなところでくらすのはいやだ」だとか「おとうさんといっしょがいい」だとか、そうしたことを、大声で延々と喚き立てた。
そうした声を聞きつけたのか、近隣の家から見知らぬ人たちがやってきて、遠巻きに眺められるものだから、紗希子もこの時ばかりは随分と参ったものだった。
部屋へ入ってからも、紗希子は幸夫に何度も「これからの事」を話して聞かせたが、幸夫がようやくに『離婚』というものを理解したのは、それからどれくらい経った後の事だろうか。
そんな安アパートの生活にも慣れ、高学年にあがったある日の事。
幸夫が学校から帰ってくると、玄関先に見知らぬ大きな男物の靴が置かれていた。
それは黒光りする革靴で、綺麗に手入れがされていることを、幸夫の目でも見て取れた。
「誰だろう」と不思議に思いながら奥の間へ入ると、そこには紗希子と一緒に男が一人、幸夫の帰りを待っていた。
父でも無ければ学校の教師でも無い。
近所で見かけるおじさんたちとも違うその人物は、物静かな風で穏やかな笑みを浮かべると、幸夫に優しい声で「こんにちは、幸夫くん」と声を掛けた。
まるで窺うような声色で「こんにちは」とだけ返すと、紗希子は幸夫に対面側へ座るよう促した。
その、随分と緊張したような、強張った面持ちの母を見て、幸夫はてっきり「しまった、なにかやらかしたかな」と己の行動を振り返らずにはおれなかった。
小学校高学年ともなれば、やんちゃの盛りである。
学校のガラスをうっかり割ってしまったこともある。
校庭の花壇に入ったボールを取るために、花々を踏み荒らして叱られたこともある。
田んぼの泥溜りへ爆竹花火を突き刺して、辺り一面に泥をまき散らしたこともある。
探検と称して他人様の家の、薄暗い倉庫へ忍び込んんでは、警察に捕まえられたこともある。
幸夫は必死に胸に手を当て考えた。
けれど、心当たりはこれといって見つからない。
この前叱られて以来は、すっかり大人しく過ごしていたはずだ。
「だとしたらこの人は誰で、何の用だろう」と、幸夫はその男へちらりと視線をやった。
男もまた、幸夫の視線に気づいたらしく、にこりと笑みを返すと、隣に座る幸夫の母へと「紗希子さん」と、何かを促した。
そうしてようやくに紗希子は、「お母さんね、この人と家族になろうと思うの」と、幸夫に対して打ち明けた。
紗希子は随分と申し訳なさそうな面持ちをしていたが、けれども幸夫はそうした人が居るのだろうと、薄々と気付いてはいた。
紗希子は夜になると、毎晩のようにどこかへ長電話をしていたものだった。
休日になると、粧し込んで出かけていく事も少なくは無かった。
母の稼ぎにしては随分と高級な洋菓子を、土産として持ち帰る事もあった。
そうした母の様子に、幼いながらも幸夫自身、察するところはあった。
勿論、大人の男女の機微といったところまでは知りようもなかったが、それでも好いた男と逢瀬を重ねているのだろうとは、考えないではなかった。
だからこそ、こうしてその相手がやってきても、緊張こそすれ慌てふためく事なく、向き合っていた。
男は、父――章嗣と比べて、随分と大人しい人に見えた。
工場で働く章嗣は、いつだって汗と油の臭いをむんむんとまき散らし、衣服や身体は真っ黒に汚れていたものだった。
筋肉質で太い手足や、がっちりとした胴体は、如何にも工場の男然として、勇ましくもあり、けれど汚らしくも感じられたものだ。
それに対して、いま目の前に居る男は、随分とすらりとした細身で、濃いグレーのスーツが良く似合う優男だった。
べっこうらしいフレームの眼鏡は、傷や汚れ一つなく手入れが行き届いているらしい。
そうしたところも、この男の繊細さが窺い知れるようだった。
幸夫はそうやって、男を値踏みするようにしばらく眺めると、「うん、わかった」と、紗希子の意思を快諾した。
紗希子はそんな幸夫の快諾に、かえって困惑したらしく、「本当にいいの? この人がこれからお父さんになるのよ」と、しつこいくらいに幸夫に訊ねる。
そうして幸夫は仕方なく、紗希子に対してひとつだけ――たった一つだけ、条件を出した。
「だから、こうして会いに来られたんだ」
一通りの説明を終えると、幸夫は傍らに置かれたチョコパフェを一口分、小さなスプーンで掬い上げた。
それはもう、すっかりと溶けだして、クリームとアイスクリームの境目さえ、とっくに分からなくなっていたが、口に含んだ瞬間に広る甘ったるさに、幸夫は思わず身悶えした。
話し終えるまで我慢していたのだろう。
チョコパフェは、見る間にその嵩を減らしていき、あっという間に空のグラスだけが残されていた。
それらの一部始終を見届けると、章嗣はようやく「うん――そうか。来てくれてありがとうな、幸夫」と、我が子の頭を乱雑に撫でまわすと、頬に着いたチョコレートソースを指で拭ってやった。
そうして胸ポケットから紙箱を取り出し、中に入った煙草を一本、口許へ運んでいく。
けれど、それは、ぽろり――と、こぼれ落ちた。
年季の入った古い木造りのテーブルへ、てん、てんと落ちたそれを拾い上げ、もう一度運ぶ。
けれども、どうしても。
何度拾い上げてみても、煙草はその都度こぼれ落ちる。
唇が、顎の辺りが、がくがくと震えてしまって、上手く咥える事が出来ず、章嗣は「あれ、おかしいな」と誤魔化すように作って笑った。
幸夫もそんな章嗣を心配した風で「お父さん」と声を掛けるが、章嗣は「大丈夫だから」と言って顔を逸らし、手で幸夫の視線を遮りながら、半ば煙草に噛みつくようにして、ようやくそれを咥える。
章嗣は今にも噛みちぎってしまいそうなほどに、紙巻の煙草のフィルターをぎりぎりと噛みしめると、手元にあったブックマッチを探るようにして掴み上げた。
それの表面には、この店の名前が記されていたはずだったが、それらはすっかり滲んでしまって、見えやしない。
恐らくは、喫茶何某だとか、カフェ何某だとか書いてあったのだろう。
堪え切れずにあふれ出た涙の粒は、疾うに章嗣の頬を濡らして、テーブルの上にいくつもの水たまりを作っていた。
それでも、最後に会いに来てくれた我が子へと、少しでも堂々とした、立派な姿を見せたい――と、章嗣は必死に己を繕おうとする。
滲んだ視界。
震える指先。
摘まめているのかどうかさえ分からない、小さく細い紙軸のマッチ。
それでも、そのうちの一本を何とか毟るようにしてちぎると、震える手で何度も擦り付けた。
そうしてようやくに煙草へと火を付ける頃には、擦り損じた残骸が、ガラス製の灰皿の上へと、すっかり山積みとなっていた。
すう――と、吸い込んだそれは、黒と白と灰色とが入り混じった、宛らテレビのノイズに似た灰の奥へと、仄かにオレンヂの明かりを灯す。
章嗣は形の無い疼きと渋みを胸いっぱいに吸い込むと、束の間に溜めた息を、白濁した煙と共に吐き出した。
テーブルの上へ吐き出されたそれらは、やがてゆらゆらと立ち上がり、先端から燻るそれらと混じり合いながら、天上辺りに設置されたシーリングファンに攪拌されていく。
章嗣が一口、また一口と吸い込むた度に、ぢり、ぢり――と、微かな音を立て、オレンヂの灯が奥へ奥へと広がっていく。
二人はしばらくの間、そうして移ろいゆく煙の様を眺めた。
何を話すでもなく、何を交わすでもなく。
ただただ、流れゆく時と変わりゆくその様を、そっと焼き付けるように眺めつづけた。
初めてのお迎えは、そして最後のお迎えだった。
幸夫も、紗希子も、新たに加わった家族と共に、これからを生きていくのだろう。
思い出に縛られること無く、この町に未練がましくしがみつくでもなく、ただ前へ――未来へと向かって歩んで行こうとする我が子を、どうして引き留められようか。
輝かしい未来へ向かうその背へと、どうして縋りつけようか。
章嗣は、煙草を一際大きく吸い込むと、深く――深く息を吐いた。
白く、もうもうとした煙がテーブルの上へと立ち込める。
それは、まるで濃霧の様にしばらくそこへと揺蕩うと、しばらくしてまた立ち昇り、薄れ、消えていく。
その様を見届けると、章嗣は灰皿の底で煙草をぐりぐりともみ消した。
まるで王冠のような形をした分厚いガラスは、けれども滑らかで、押しつぶされた細かな灰は、まるで白く塗したかのように、その表面を彩った。
章嗣は、もう片方の胸ポケットを探るように薄汚れたメモ帳と、使い古したボールペンを取り出した。
そうして片手に開きながらも、器用にさらさらと何かを書き記していく。
二人の間に言葉はない。
章嗣は何かを記し、幸夫はそれを、ただじっと黙って見つめていた。
店内には、穏やかなクラシックが流れ、テーブルの上には沈黙だけが満ち満ちている。
いま、章嗣の面差しは、すっかり穏やかだった。
けれども、何処か寂し気であった。
幸夫は、時折何か伝えようと口を開くが、どうやら言葉が上手く見つからなかったのか、しばらく迷った末に、また口を噤む。
真剣な父を、その姿を邪魔したくないという気持ちが、幸夫にはあった。
立派な姿をきちんと覚えておきたいという気持ちが、幸夫にもあった。
だからこそ、何も言葉にすることが出来ず、幸夫はその姿をただただ目に焼き付けていた。
びりり――という音と共に、その静寂を先に破ったのは、章嗣の方だった。
「幸夫」と声を掛け、小さな手のひらに、今しがた破いたばかりのメモをそっと握らせる。
薄汚れて、端々が折れ曲がったそのメモ帳には、荒々しくも丁寧な文字が、幾つも書き記されていた。
それは、章嗣の電話番号だった。
それから、家の所番地だった。
章嗣の名前も、ふりがなと合わせて姓名で書かれていた。
その内容に一通り目を通し、章嗣の方へ視線をやると、章嗣もまたこちらをじっと見ていたらしく、目が合った。
「困ったことがあったら、いつでもおいで」と、章嗣は精一杯に笑顔を作って見せた。
それは、共に暮らしていた頃と何も変わらない――けれど、少しばかり年老いた、そんな父の笑顔だった。
一緒に過ごした時間を、暮らしていた日々を、まるで昨日の事のように思い出し、幸夫は目頭が熱くなるのを感じた。
幸夫は歯を食いしばり、拳を握りしめ、堪える様に「んんん」と呻く。
平気などではなかった。
不安が無いはずも無かった。
悲しいわけが無かった。
それでも、章嗣に心配を掛けたくなかった。
もう大人になったのだと、安心をさせたかった。
涙など、見せたくは無かった。
それでも、どうしても、硬く閉じた幼い瞼のその隙を、滲むように――あるいはあふれ出るように、ひとつ、またひとつと涙の粒は零れ落ちる。
鼻の奥がツンとして、息が詰まる。
唇がわなわなと震えて、声が――こぼれそうになる。
急に頭をわしわしと撫でまわされて、テーブルの上に幾つもの涙が弾けた。
瞼を開けることも出来ず、章嗣の顔は見えはしなかった。
ただ、頭を撫でる手だけが力強くて――あたたかくて。
幸夫は、とうとう堪えきれなくなったのか、堰を切ったようにわんわん泣き出した。
章嗣は大泣きする幸夫を一生懸命にあやしていたが、ようやくに泣き止んだ幸夫を伴って店を出る頃にはすっかり遅い時間になっていた。
時計を見ると、時刻は疾うに十九時を回っている。
「終電の心配は無いと思うけど」と、章嗣が心配そうにこぼすと、幸夫は「まだまだ平気だよ」と笑った。
曇りの無い笑顔は、けれど瞼の辺りをすっかり濡らして晴れ上がり、鼻先も赤らんでいるようだった。
とはいえ、それは章嗣もまた、同じだろうか。
駅へと向かう道すがら――それから列車を待つ間。
二人はぎこちない様子で、これからの事を語らった。
それはどこか夢物語のように朧げで――けれど希望に満ちていて。
章嗣は、「いっそこのまま電車が来なければいいのに」と、内心に願っていた。
けれども、世界はどうしたって現実的で――
かん、かん、かん――と、遠くの踏切がベルを鳴らし始めると、間も無く前照灯の明かりがやってくる。
ごととん、ごととん――と、重苦しい音と共に、列車はオレンヂ色の車体を、堂々たる振る舞いで駅のホームへと滑り込ませていく。
客席の明かりが、点滅するかのように二人を照らしていく。
――別れの時が近づいているのだ。と、章嗣は痛いほどに感じていた。
幸夫もまた、同じようにい気付いているのだろうか。
列車が止まる。
ドアが、開く。
指先で数えられるほどの乗客が、ホームへと降り立ち、散り散りに去っていく。
けれども、幸夫はホームに居た。
ただの一歩を踏み出す事も出来ず、その場へ立ちすくんでいた。
その、躊躇いに満ちた背中を章嗣はぐいっと押し出した。
「わっ」と短い声を上げ、幸夫はよろめくように列車へと乗り込む――いや、乗り込まされたというべきだろうか。
驚いた様子で振り返った幸夫へと、章嗣は「じゃあな」とだけ声を掛ける。
幸夫はそんな章嗣へ、同じように「じゃあね」とだけ応えた。
夜の静寂を切り裂くかのように、警笛が「ぴりりりり」と鳴り響く。
前方の踏切が、かん、かん、かん――とベルを鳴らし、遮断機を降ろしていく。
そうして列車のモーターが回り出すと、くぐもったような声のアナウンスを合図に、扉が閉じられていく。
その間も、二人はずっと、互いを見合っていた。
微動だにすることなく、その姿を目に焼き付けるように。
――ごとん。と、重苦しい音が響く。
列車は緩やかにその大きな車体を滑らせると、ゆっくりと――けれどもあっという間に、その速度を上げていく。
幸夫は、狭い車内を後部車両へと駆けながら、章嗣に向けて何かを叫ぶ。
大きく――大きく手を振って、そうして一生懸命に笑ってみせた。
章嗣もまた、それに応えるように、大きく――大きく手を振った。
何度も、何度も――何度も。
一生懸命に手を振って、声がかれるほどに幸夫の名を呼んだ。
やがて車体の影に隠れ、幸夫の姿が見えなくなっても。
列車の明かりさえ遠い夜の中へ溶け込んでしまった後も。
目に焼き付いたその姿を、章嗣はいつまでも――いつまでも見送っていた。
列車の明かりがどこかへ隠れ、踏切のベルの音も無く。
遠い山々に、ただただ線路と車輪の音だけがこだましている。
そんな、誰も居なくなった静かなホームを、章嗣はようやくに後にした。
――見知らぬ土地の、見知らぬ町。
幸夫の住む町の名を、章嗣は知らない。
訊ねる事はしなかった。
聞いてしまえば、会いに行かずには居れないだろう。
行ってしまえば、移り住むことだって考えてしまうかもしれない。
だからこそ――だからこそ。
閑散とした無人駅のホームを出ると、町の佇まいはすっかり夜のそれへと変わっていた。
見上げれば欠けた月がぼんやりと浮かんでいる。
オレンヂ色の夕焼けなど、もうどこにも面影一つ残ってはいない。
――別れ際、ちゃんと笑えていただろうか。などと、今更ながらに考えながら、いかにも田舎臭い古ぼけた町並みを、章嗣はひとり歩く。
時折通りを吹き抜ける風は、もう随分と冷たく、冬の訪れを感じさせた。
章嗣は思い出したように、慣れた手つきで胸ポケットから紙箱を取り出すと、中の煙草を一本――器用に口へと咥え込む。
そうして、何某と書かれた喫茶店のマッチを一本、勢いよく擦り付けた。
けれど、それはすっかり湿気ってしまったのか、何度擦り付けたところで、もう決して火が付くことは無かった。