なにも変わっていない。少女がそう感じたのは、あの事件から半年が経った頃だった。
人がふたり――信頼していた人がふたり――居なくなった事件。仮に何かが変わったとしても、それはきっと取るに足らないことで、目に見えるものではないのかもしれない。
少なくとも、村は以前の落ち着きを取り戻していたし、誰も事件のことを話題には出さなくなっていた。
◆
ほのかに香る九尾草の香りを感じながら、少女は待っていた。緩やかに進む時計の針が、少女の鼓動と重なってはまた離れてゆく。そのサイクルが幾度か繰り返され暫く時間が経った頃、係の人間が少女を呼んだ。少女はぎこちない動きでその場を立つ。心の準備がまだ出来上がっていない。ただ、引き返したいとは思わなかった。小さくとも意志がある。「だいじょうぶ」と、それは頼りなく囁いている。上がるばかりの心拍数を抑えるように胸に手を当てる。伝わる震動が自分のものでないような違和感を覚えた。
案内されて入った部屋は半年前に訪れたことのある灰色の箱そっくりの造りをしていた。真ん中には声だけを通す小さな穴が空いた分厚いアクリル製の仕切りと、簡素なパイプ椅子が二つ。教会の懺悔室から秘匿性を抜き取ったような、そんな雰囲気の漂う部屋。
まだ時間があるらしく、待つように言われる。しかしこんな場所で特に暇を潰せるような気はしなかったので、大人しく椅子に座って待つことにした。待つ間、少女は考える。気持ちの赴くまま、ここまで来た。彼に会わなきゃいけないような気になった。なにかきっかけのようなものがあったはずだったが、少女は思い出せなかった。
その代わり、かつての一日を夢想した。母が居なくなって、父と二人になったその日の夜、少女は誰かの胸の中で泣いた。その誰かが父だったかどうかを、少女は覚えていなかった。背中に回しきれなかった自分の腕と、自分の背中を包むように回された大きな腕が、とても暖かかったこと。それだけは確かなこととして覚えていた。
心細さと、心地よさ。
同時に感じたふたつの感情。そして微かに香った花の匂い。あれは――
「入れ。面会終了はこちらから伝える」
不意に飛び込んできた看守の声に、少女は過去から現在に引き戻される。
速くなる鼓動と乾いた喉が、意識の中で思考を遮る。なぜこんなにも緊張してしまうのか。いや、理由は解っている。久しぶりに会う。それだけで心が平常でなくなる。たったそれだけのこと。
深呼吸を心がけたが意味はなかった。代わりに、刑務所の重い空気が肺に満たされてしまったような気がした。
「――――」
沈黙。
靴底に鉛でも仕込まれたかのように、その足取りは重かった。面影こそあれど、刻まれた皺が記憶の中の彼を霞ませた。そして、年老いた白狐の尾のような長い白髪は――今の彼を象徴するかのように力なく揺れていた。彼が椅子に座ると、その小ささに少女は驚いた。自分の倍はあるんじゃないかと思えたかつての彼の体躯。しかし、そう感じていた記憶を持つ少女でさえ、今の彼の弱々しさを認めざるを得なかった。
単純に辛いと感じた。どんな想いよりも、「辛い」という感情を真っ先に感じた。
だからこそ、少女は普通を装うことに務めた。哀しさを誤魔化すように。
「――おひさしぶりです。美葉院さん」
少女は振り絞るようにして再会の言葉を告げた。
◆
目の前に置かれた彼の両手は固く結ばれていた。
「何をしに来たのですか」
少女に、美葉院は冷たく言い放つ。その言葉と、結ばれた両手と。ふたつに込められた拒絶に悲しみを感じこそすれど、驚きはしなかった。それが当たり前の反応だと解っていたからこそ耐えうることができた。
「私からは何も話すことはありません」
「わかっています」
「解っていたなら何故、ここに来たのですか」
何故。そう言われて、少女は返答に詰まる。明確な答えを持ち合わせていなかったから。
「わかりません。ただ、会わなきゃいけないような気がして。会いたくなっただけかもしれません。でも、理由がわからないんです」
「それだけですか」
「はい」
素直に答えると、わかりやすく溜め息をつかれた。
「相変わらず、ですね。考えが足りないというか」
相変わらず。
その言葉を、少女は意識の中で反芻した。周囲だけじゃなく、自身も変わってない。暗にそう言われた気がした。
「なにか言いたいことがあるなら、遠慮なく」
「え。えと、そうですね。あの、ごはん……ちゃんと、食べてますか」
「まあ、それなりに」
「眠れてますか? 喧嘩とか、してないですか? あと、えっと」
「他になにか無いのですか」
「ほ、他に」
「…………」
少女は口を噤んだ。気圧されたからではない。
別の言葉を待っている顔。この場で言わなければならないはずの言葉。それが何であるかを考えるべきだと少女は思う。自分が彼の立場なら、どういう言葉を期待するだろう。贖罪すべき人間が求める答え。
「……責めたりなんてしません。わたし、自分が何を言いたいかさえよくわかってないけれど、それでも責めたりなんてできないですよ」
自分は彼ではない。だから、彼の求める言葉を告げる必要など当然ない。
一人の人間を殺した、ということ。父を巻き込んだ、ということ。それらのある種の裏切りが、自らの中に黒い感情を植え付けてしまっているのではないか、という一抹の不安を少女はどこかで感じていた。会うことで、心にかけた蓋が外れるかもしれないと。ただ、そんなものは既に枯れていたのかもしれない――こんな風に、彼の前で笑えるのだとしたら。
「きっと、とっくに許しているんだと思います」
意図せず言葉が漏れた。美葉院の呆気にとられた表情。目を微かに見開いて、彼は少女を見ていた。それは少女の知り得ない、以前の美葉院にはなかった表情であった。
「う。えと。美葉院さん?」
「――ああ、失礼。少々、意外だったものですから」
どこか不思議そうに美葉院は呟く。緊張が緩んだのか、彼は体の前で組んだ手を解きながら無機質なパイプ椅子の背もたれに体重を預けた。何処を見ているのか。美葉院の視線は、少女の方を向いていなかった。
「事件の総てが解ったとき。私を愚かだと、莫迦だと思いましたか」
「……よく覚えていません。あの時は混乱してたものですから。訳も解らないまま証言台に立たされて。――あの時から、ずっと考えているんです。美葉院さんがどうしてあんなことをしたんだろうって」
「お金欲しさの、何処にでも在る理由です。考えるまでもないでしょう」
「そうかもしれません。でも、そうじゃないかもしれない。裁判のときに弁護士さんが証明してくれました。人はみんな、自分の心に嘘をつくって。気づかないうちにムジュンを作るんだって。在りもしない妖怪の姿に怯えたり、見えないフリをしたりして、そうやって誰かに嘘をついてしまうんだって。もしも美葉院さんが、まだ嘘を抱えているなら――わたし、もっと考えていたいんです。だって、誰も事件のことを話さなくなって、いつか本当に何もかもなかったことになってしまいそうで」
何も変わらなかった――変わったような気がして、それでも元に戻ってしまった――風景が、少女の脳裏に過ぎり陰鬱な影を落とした。
「忘れてしまうことが一番こわいんです」
ああ、そうか――と、少女は自身の動機に見合う言葉を見つけて得心した。
終わらせるということは、綺麗さっぱり無くすということなのではないか。莫迦だと一笑に付すことは簡単で、間違いだとつきつけることは単純で。だけれどそれらは全部、終止符が持つべき役割でしかない。
「わたし、絶対に忘れたりなんてしません。何度だってここに来ます。どうでもいいことでも、聞いてほしいことでも、なんでも話していたいです。それに、美葉院さんは前みたいに……高笑いしたり、香水を吹き付けたりしてるほうが美葉院さんらしいと思うのです。だから、もっと胸を張ってください」
なんだか余計なことまで言ってしまった、と少女は若干後悔した。
しかし静かに耳を傾けていた美葉院は、不機嫌になることもなくそっと笑った。
「変わってない。そう思っていたのですが――案外、強かになったものですね」
その言葉の意味を少女が理解することはなく、ただ首をかしげただけだった。
「それって、どういう」
「こちらの話です。貴女のような小娘には関係のないこと」
「――あ――ふふ」
思わず、少女からは笑みが零れた。その言い回しは、美葉院からしか聞けないものだったからだ。いつもの彼の、強気な言葉。
少女はただ、懐かしさと嬉しさを感じたかったのかもしれない。
――この安らぐような気持ちは、香りのせいだけじゃないはずだ、と。少女は思う。
「……それはそうと」
「はい」
「先程から、微かに九尾草の香りがしているのですが――気のせいでしょうか」
思いの外、この香りは辺りを満たすものらしい。ほんの少しだけ勇気を借りるためのおまじない。
「ずっと前に一度だけ。わたしが泣いていたときに、美葉院さんが優しく抱きしめてくれたことがあったんです。その時の香りを思い出しながら作ったものですけど……」
「……はて。覚えがありませんが。人違いでは」
「どうなんでしょうね。えへへ」
「なにを腑抜けた顔を。で、何を作ったんですか」
美葉院が問う。
答えはそこまで難しくないものだけれど、少女は――ゆめみは小さく、しかし強かながらに笑って「秘密です」と呟いた。