アラサーニートエリちとキャリアウーマン亜里沙   作:桜川凛

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亜里沙ルート 第三話 12

 懐かしいという感慨すら抱かないほど、その建物のことを印象にすら残したくない。

 目の前に映る建物を見て苦笑交じりの表情を浮かべているのを、

 ユッキが首を傾げながら見上げる。

 この場所で何が行われたかというよりも、

 この場所であの人達が何もしてくれなかったことを思い出すほうが簡単だ。

 思い出したくない事実があると語るよりも、

 思い出に残ったエピソードがなさすぎて、逆に感情が昂ぶって笑みすら浮かぶ。

 

「この場所は」

「私たちが――いえ、家族関係にあった人たちと

 ロシアから来て初めて日本で暮らしを始めた場所よ

 暮らしというか、同居……なんて呼称すれば良いのかしらね?」

 

 今までの記憶と違ってスラスラと過去のことを語る私に、

 気の毒であるとか、不憫であるとか、同情であるとか?

 気を引くために話をしたわけではないけれど。

 ああ、憐憫の情を相手に向けられているとした方が正しいのかも知れない。

 小さい女の子からそのように思われて私自身がというよりも、

 きっかけとなっているあの人たちに対してユッキと同じ感情を抱いてしまうのは、

 ふつふつと浮かんでくる自分の想いをどう捉えて良いものか。

 少なくとも明るいモノではないよね、とは思うんだけど。

 

「誰から見た私……いや、私のエピソードではなさそうね」

「はい」

「だって私はこの場所で何をしたわけでもない、あるとすれば亜里沙」

「送られてきたデータによれば……亜里沙さんが初めて泣いた日」

「……なんていえばいいのかしら」

 

 初めてと言われたところで、あの場所にいた時に妹はたいてい泣いていたから。

 寂しいであるとか、恋しいであるとか、望郷の念があるとか。

 ロシアから来訪して、とにかく妹の生活も、私自身の生活も何一つ上手くは行かなかったのは。

 ああでも、妹の上手く行かなさ具合に比べれば、私のことなんて不出来(笑)みたいなもので。

 

「妹は来日当初日本語ができない……というか、知らなかったのかしら?」

「絵里お姉さんが小学校三年生なので、5歳くらいですか」

「ええ、たぶん、亜里沙の感覚からすれば――

 産まれて気がついたら言語の通じない国に送られてきたのと同じ感覚かも

 ――まるで異世界転生ね」

 

 異世界ファンタジー小説では、最初からペラペラ日本語で交流ができているけど。

 亜里沙は私とおばあさま以外の人間と交流できるようになるまで――

 10歳くらいになってからであるから5年ほど?

 その間、ある程度日本語は理解していたであろうし学んでも来たけれど、

 それでもなお他者と交流を避けてきたのは――バカだな私は。

 避けてきたんじゃない、できなかった。

 教えられてないのだからできなくて当然、私はまだ彼女よりも年上であったし、

 結構コミニュティスキルもあったものだから平気だったけれど。

 ああ、でも、平気ってわけでもなかったか、私でさえ日本なんてきらいだって

 思った時期が結構あったものだし、自分よりもインドアな妹がどのような感情を抱いたか、

 今まで想像すらしなかった私に反吐さえ出そう。

 

「私よりもあなたが心配よ。想像したことのないものが見られると思うわ」

「ハードルを上げますね」

「だいじょうぶよ、たぶん軽く超えられるわ――嫌悪で」

 

 ロシアから日本に来た理由は、表向きではおばあさまの来日で。

 祖母が日本とロシアの往復が年齢を経るに従って厳しくなったというのと、

 年齢を重ねたので面倒をみなければならないという建前を使ったのだ。

 ほんとうは、ロシアで父が働いていた企業が経営難にあり、

 誰の首を切るのかという段階になって真っ先に彼がその対象になったのである。

 あの人自身が言う、自分が仕事で優秀だったという吹聴をどこまで信じれば良いのか。

 まあ、これっぽっちもあの人のことの言うことを信用したくないからどうでもいいんだけど。

 とにかく、ロシアで作った友人や生活を置いて来日とあいなって。

 

「時刻は……朝の9時くらいですか」

「ええ、私は音ノ木坂小学校に通っているころね」

「亜里沙さんは……家ですか?」

「そうよ。私はまだ日本語ができたから良い……いえ、

 妹は日本語が不慣れだったから、父が家から出したくなかったのよ」

 

 意味がわからないと言わんばかりに私を見るユッキ。

 そりゃそうだ。私だって今となっては意味がわからない。

 見栄であるとか、プライドであるとか――

 一つも分からない感情であるけれど、さほど能力も高くないくせに

 自分が他人から下に見られることが嫌いなあの人らしい下劣な感情である。

 ただ、あの人にとって見れば亜里沙や私が悪いのだ。

 能力が高くないから自分の手元において庇護している程度に考え、

 相手のことを理解もせず、想いもせず、世話にもかけず、

 お金さえ払えば、金銭的に裕福であれば、子どもは育つものなんだろうって。

 おそらくあの人は今でさえ、私たちは自分が育てたって思ってると思う。

 μ'sとして表舞台に立っていた時代の私が、あの人の自慢の種だったことを自分は知っている。

 

「私は不安です……」

 

 ぽつりと呟かれた言葉が、一体何を指すのか。

 私は空を見上げ、晴れ渡った空に太陽が出ていることさえ腹立たしかったことを思い出し、

 責任転嫁する習性だけは親譲りなのかも知れないと苦笑した。

 

 

 亜里沙はその場所でテレビを見ている様子だった。

 ただ、目に入れている程度と認識をすれば良いのか、おそらく内容は理解していない。

 そりゃそうだ、生まれてずっとロシアにいると思っているのに、

 こちらの事情を理解すらせずに訳のわからない国に連れてこられたんだから。

 流れてくる言語は一つも分からないであろうし、

 アニメーション映像くらいは流れているなあくらいの認識程度であったと思う。

 

「絵里お姉さん、亜里沙さん食事は?」

「うん? 私たちの幼少時は――

 私は学校で給食があったけど、亜里沙はおそらく一食ね」

「……どのような経緯と聞いてもよろしいですか?」

「父が帰宅して食べる食事が唯一の食事ということよ」

 

 語ることすら億劫になりそうな事実。

 児童相談所に通報されれば立派に虐待として認識されてしまいそうな。

 時代が時代であったし、暴力行為が行われていない以上は

 児相は何もできないし、駆け込んできたところで両親は何もしてはくれない。

 自分が悪くはないのだから改善する理由がない。

 困ったことがあれば十中八九相手が悪いと認識するあの人達らしい態度だ。

 

「――地獄なんかよりも、よっぽど地獄です」

「ふふ、生きている人間のほうが、地獄の住人よりもよーっぽどタチが悪いでしょう?

 しかも、罪悪感の欠片もないし――今になってもね」

 

 テレビ画面にも飽きてきたのか、亜里沙は横になる。

 そういえばおもちゃの一つもない場所だななんて感想を抱いてしまった。

 私たち姉妹の部屋は共同で使っていたけれど、

 亜里沙の楽しみはおそらく帰宅した私との交流であった気がする。

 ただ、ただ、自分の傷を抉るようなことをするならば――いえ、妹に許しを乞うなら。

 彼女のことよりも友人付き合いを優先していた私のことを許して欲しい。

 涙が出そうになって天井を見上げた。

 

「亜里沙さんは部屋から出ないんですか?」

「出られないのよ、鍵がかかっているから」

「お手洗いは?」

 

 私は無言で指差す。

 そこには清潔にしているとは言い難い、おまると呼称すれば良いのか。

 排泄物処理場? 良い例えが思いつかないけれど。

 とにかく、大なり小なりはあそこでするのだ、確か、洗浄は私の仕事だった気がする。

 

「窓は開かないんですか?」

「開かないわね」

「臭いは……?」

「あれの掃除をしていた私からすれば、とても辛い」

 

 水洗トイレの素晴らしさが如実に分かるのは、

 おそらく幼少時の出来事が影響しているのだと思う。

 妹がそれほどお手洗いに行かなくても平気な顔をしているのは、

 排泄されたものを処理される行為が卑しいものだと認識しているからだと思う。

 それがたとえ相手が水洗トイレであろうとも。

 

「自分には分かりませんが……その、したばかりのほうが臭うんでしょうか?」

「もう一つ付け加えておくと、あの場所には空調機器がないのよ」

「……真夏もですか?」

「暑い時期には扇風機があったわ」

 

 排泄すればその臭いに自分自身が困るというのももちろんあるけど、

 掃除を姉にさせてしまうというのも妹を苦しめていたのだと思う。

 よくよく考えてみればあの場所に半年も生活していたというのも、

 感覚的に常軌を逸している、真っ当だったら一週間も保たない。

 そういえば亜里沙が家畜人ヤプーとか、それを元にしたエロゲーであったり、

 拷問であるとか、痛々しくて目を背けてしまうような、精神的、肉体的の被虐行為を見ても

 え? 別に? みたいな顔をしているのはこの辺の事情もあったのか。

 そのゲームをプレイしている理亞さんの精神的ダメージはかなりやばかったけど。

 ならブラックサイクは避けたほうが良いと思うのよ。

 デンカレが主題歌歌っているようなのはなおさら。

 

「辛くて涙を流したと?」

「想像でしかないけれど、それはないわね」

「え? でも……」

「残念ながら、感情が昂ぶると泣くのは――そうね、

 精神的に真っ当な人間の思い上がりなんだと思うわ」

 

 残念ながら、人間は追い込まれるとだんだんと感覚が麻痺していく。

 どのような苦痛を刻み込まれようとも、認識をしていなければ大したことはない。

 痛みとか苦しみっていうのは――まあ、慣れていくものであるし。

 感覚を閉ざしていけば、精神的に崩壊しない限りはおそらく平気。

 とあるグループが歌った瞑想に堕ちる闇を聞いて、

 まるで自分のようだと例えた亜里沙と、ぎょっとした顔を浮かべた理亞さんの対比は――

 今思い出してもちょっと面白い。

 

「誰か来ます」

「……おばあさまかしら? 思い出したけれど、

 この時期くらいかしらね、私たちが引き取られることになったのは」

「いえ、子ども……送られてきたデータは……綺羅ツバサ?」

「……あいつこんなところでもしゃしゃり出て」

 

 おそらくギャルゲーだったらメインヒロインを食わんばかりの勢い。

 これがもしも亜里沙ルートと呼称されるお話なら、

 亜里沙の独白とかの前にあいつの独白が入っちゃうくらいだ。

 でも、そういう作者に優遇されてるキャラって人気でないよね。

 

「マンションの壁をよじ登ってますね」

「スパイダーマンみたいなことしてるのね」

「クモ男というのは昭和の時代にいたと聞きます」

「広島市民球場にいたっていう話は知っているわ」

 

 いくらアラサーとは言っても昭和のことなんて私だって詳しくない。

 ナチュラルに昭和時代の住人なのでは? みたいな目でユッキは見るけど。

 その実誤解全開――年齢はごまかしていません。

 どういう目的かは分からないけれど、

 小学校で授業が行われている時間に彼女は何故スパイダーマン化しているのか?

 疑念は尽きないことではあるけれど――

 

「窓を叩いているわね」

「内からは開けられないんですよね?」

 

 私は頷いて動向を見守る。

 ユッキの発言から彼女のことを綺羅ツバサと認識しているけれど、

 とてもその後A-RISEとして華々しい活躍を遂げる人物と同じとは思えない。

 凛が子どもの時の自分を男の子みたいだったと語るけど、

 ツバサに関しては男の子にしか見えない、髪も短いし、スパイダーマンだし。

 超人的な運動能力は当時から変わっていないのか、今度壁でも登らせてみよう。

 あ、ボルダリングっていうんだっけ? 壁登りみたいなやつ。

 あの人の誤算であったのは、建物をよじ登って部屋を覗かれる可能性を考慮しなかったこと。 

 そして何より、ツバサが当時から何カ国語もペラペラで亜里沙と交流できたこと。

 一目見れば常軌を逸した環境にいることが分かるので、目に入れれば助けようとすると思う――

 それがアメリカのヒーローみたいな、スパイダーマン化しているやつでも。

 ハリウッド映画の一場面みたいに、両足を使って窓を蹴破って中に侵入し、

 亜里沙に状態を聞き、怒りを携えた表情でドアを蹴破り、

 そして自宅の電話で警察に電話を掛けた。 

 このあとツバサは亜里沙のもとに直行し、強く強く抱きしめた。

 妹は最初何が何だか分からないと言った様子ではあったけど、

 もう大丈夫だからと言われた瞬間に堰を切ったように泣き出して――

 ずっとずっと、おまわりさんが駆け込んでくるまでずっと。

 

「……この日のこと、覚えてないわ」

「過去だからですか?」

「いいえ、この家でしばらく過ごして――

 気がついたらおばあさまと暮らしていたという記憶しかなくて」

 

 どういう経緯でおばあさまに引き取られる事になったのか。

 なぜ、両親と別れて生活をおくることになったのか。

 自分が高校に入る頃にはすでに姉妹二人で暮らしていたことを含めて。

 目を背けてしまう記憶がたくさんあって、やるせない。

 このような出来事があってもなお、あの人達と普通に付き合っている妹に

 姉として何にも出来ていなかったと後悔した。

 悔やんでも悔やみきれない気持ちを抱えながら、私たちは温かいぬくもりに包まれた。

 

 視界は切り替わり――

 

「光が見える……あれは?」

「おめでとうございます、絵里お姉さん。お見事です」

「……試練をクリアしたという感じはしないんだけれど」

「正直に白状すれば、時間が経てばこうなったんですけどね」

 

 なにその一定時間が経たないと先に行けないダンジョンみたいな試練。

 ユッキは光の先にあるであろう、生者の世界を見つめ、

 悔やんでいたり、残念そうに思っていたり――

 お別れをするのが惜しいと言わんばかりの表情で私を見上げ。

 

「こうして手を繋いでいたら、一緒に戻れそうじゃない?」

「最後まで一緒にいられることが、私はとても嬉しいです」

「こんなやつでごめんなさい」

「この手のぬくもりや、過去の辛い記憶も、私は忘れません

 もしかすれば、幼くして亡くなったことさえも幸福だったのかと思うくらいの

 とんでもないものを見せられましたので忘れたくても無理です」

 

 ええ、本当にごめんなさい、現世に戻ったらあいつら断罪するから。

 

「あの日」

「え?」

「おばあさまに引き取られて、初めて食べた食事がボルシチだったの」

「亜里沙さんと食べたんですか?」

「ええ、生まれて初めて家族揃って食べた暖かい食事だった――」

 

 だからなのかな。

 カレーを作るにあたってμ'sのメンバーがごねた時に、

 みんなをまとめるようにして、ついついボルシチを作り上げてしまって、

 希にそれを読んでわざわざ材料を持ってきたの? って真顔で言われたの。

 なんとなく――みんなで幸せに囲む食卓で食べるものって言ったら。

 ボルシチって感じで。

 

「――おばあさまのボルシチたべたい」

 

 目覚めた時に真っ先に告げたら、

 なにか勘違いでもされたのか、亜里沙は怒りを携えた表情でナースコールを押して。

 その後しばらく再会できなかった。

 おかげで帰って最初に食べた食事が病院食で――不満はあったけれど、

 お見舞いに来るみんながみんな、口から私の悪口から面会がスタートして、

 心の中でユッキが、こんなに大事に思われて嬉しいですねって言ったけれど――

 バカじゃないのとか罵倒からスタートする想いってなんなんだろうと、絢瀬絵里は考えたりする。


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