そんな彼女の髪を、ふと柔らかな風が撫でる。
いや、それは風では無く――
風、風だ――風があたしの髪を撫でてやがる。
さらさらと、弄ばれるような感触。
そういえば、窓を開けたまんまだったか――と、あたしは重い瞼を少しだけ開けると、窓の方へ視線をやった。
そこに見えていたのは見慣れた景色――けれど、見慣れぬ『目覚め』の景色。
どうやら、いつの間にか教室で眠ってしまっていたらしい。
窓は――開いていなかった。
じゃあ、あたしの髪を撫でる風はなんだ?
――と、窓とは反対側へ視線を向けると、思わぬ人物がそこに佇んでいた。
「先輩……?」
「すまない、『風』違いだったな」
柔らかく笑いながら、先輩はなおも指先であたしの髪を撫でる――弄ぶ。
ああ、人違いならぬ『風』違いだ。
どうやら、あたしは寝言でも言ってしまったのだろう。
それにしても、なんで先輩がここに?
先輩は、あたしの眠そうな顔を見てか、くすくすと笑う――まるで優しくそよぐ風のように。
――風。
風鳴 翼――先輩。
目の前にいる先輩は、防人である風鳴 翼ではなく、ただの一人のあたしの先輩として、今そこに佇んでいるらしい。
いつもの張りつめたような空気は感じられなかった。
むしろ、見守るような眼差しで、あたしの髪を撫でて――撫でて?
「は?……先輩ッ?」
回り始めた頭が――思考が、ようやくにあたしの置かれた状況を理解させた。
あたしは、授業後に今日の授業内容を復習しながらうたた寝をしてしまったのだろう。
そして、眠るあたしの元へやってきた先輩は、起こそうともせずにあたしの髪を弄んでいたのか?
状況を理解しながらも、返って困惑したあたしは、幸か不幸か微睡みから一息に覚醒した。
「おはよう、雪音」
先輩だ。
そこに居たのは――居るのは、紛れもなく先輩だった。
夕暮れに静まり返った教室。
あたしの目の前。
とっくに卒業したはずの先輩が、なんでだかそこで笑っていやがる。
一体いつの間にそこに居んだろう。
「な、なんで先輩が学校に居んだよ」
戸惑い、言葉に詰まりそうになるあたしをなおも笑いながら、先輩は小さな首掛けの札を見せつけると「特別に許可をいただいて迎えに来たのだ」と言う。
どうやらそれは、来客用のカードらしい。
先輩の素性は知れているのだから、そんなものは必要なさそうだけど、お堅い大人たちの面倒な決まりの一環なんだろう。
――迎え。
その言葉に、あたしは慌てて端末を取り出すと、何件も積み重なった招集の通知に思わず目を剥いた。
疲れていたとはいえ、気付かずに眠りこけるだなんて、あたらしくも無い。
あいつらに――後輩たちに合わせる顔が無いじゃねぇか。
「わ、悪ぃ先輩!今すぐ準備するから!」
慌てて身支度をしようと、机の上に散らかったノートや文房具へと手を伸ばす。
それはまるで先輩の部屋みたいに散らかっていて、それを見られるのも少し恥ずかしかったんだ――が、それがいけなかったらしい。
あたしは思わず手を撥ねさせて、机の上の荷物をあちこちにばら撒いちまった。
消しゴムが、てんてんと転がっていく。
何本ものペンが跳ねたように教壇の隙間へと落ちる。
ノートや、プリントがあちこちに舞う。
それでも、今にも顔から火を噴きそうなほどに赤くなったあたしを横目に、先輩は嫌な顔一つせず、それらを拾い集めてくれたのだった。
「随分と疲れているようだな……勉強は大変か?」
玄関先で上履きを履き替えて合流すると、先輩は心配そうにあたしにそう尋ねた。
そんなにもあたしは心配な後輩か? と、思いはしたが、さっきの体たらくを見られた以上はそれも仕方ない。
「別に……ただ、それなりの成績は出しておかねぇとあいつらに示しが付かないだろ」
格好悪いところを見せてしまった事が、今更ながらに恥ずかしくなり、あたしはついぶっきらぼうな答え方をしてしまった。
先輩はそんなあたしの心境を察してか「そうか」とだけ答える。
あたしは、二人の――いや、正確には四人の後輩の姿を思い浮かべていた。
出来の悪い二人と、それなりに出来た二人。
その全員に『先輩らしいところ』を見せてやらないといけない。
S.O.N.G.での活動も、学校の成績も。
どちらも両立して見せてやらなければ、先輩面なんて出来ようはずもない。
意固地になっていることは自分でも分かってる。
それでも、あたしを導いてくれた『誰かさん』みたいになりたくて――
「ちゃんと『先輩』しているじゃないか、安心したぞ雪音」
先輩は、そんなあたしの様子に安堵したかのように笑うと、駐車場脇に停めたバイクへと跨り、あたしにヘルメットを差し出した。
「乗れ」という事なのだろう。
ああ、畜生。
カッコいいな。
あたしは絶対に、先輩みたいにはなれやしない。
カッコよくて、大人びて、しっかりとみんなを導けるような人になんてなれやしない。
それでも、そんな先輩をして「ちゃんと『先輩』を出来ている」と言われて、あたしの胸の想いは、ほんの少し――ほんの少しだけ報われた。
そんな気がする。
「誰かさんには、敵わないけどな」
皮肉めいた言い方でそう応え、あたしは差し出されたヘルメットを受け取る。
いつだったか、あたしのために用意してくれたヘルメットは、まだまだ新品さながらで、かっこよく傷ついた先輩のヘルメットには程遠い。
そんな羨望の眼差しを気付かれまいと、そそくさとそいつを被り、先輩のバイクの後ろへと跨る。
脚が浮くのは相変わらずに慣れないけれど、それでも揺らぐことなく先輩はバイクを支えていた。
「飛ばすからな、しっかり掴まっておけ」
「あぁ……うん」
公道へ出ると間もなく、先輩はアクセルを開いてバイクを加速させた。
周りの景色が溶けるように後方へと流れていく。
あたしは先輩の背中へと寄りかかり、落ちないようにしっかりと掴まった。
その背中は小さく――細い。
けれど、どうしようもなく大きくて、力強くて――
ごうごうと叩きつける風の音は耳障りだし、身体を揺さぶるような風圧は相変わらず小柄なあたしを吹き飛ばそうとする。
それでも、その背中だけは優しくて。
そうして走り出して間もなく、あたしの意識は心地よい安堵の中、暖かな微睡みへと、再びゆっくりと――ゆっくりと沈んでいった。