本作品には、救いは恐らくありません。
陰惨な、暗く残酷な物語が横たわっています。
陽だまりはありません。
非常にネガティブで、憂鬱な物語となっていますので、そうしたものが受け付けない方は絶対に読まないでください。
八月三十一日、晴天。
夏休み最後の旅行の日。
長野の山の中。
わたしたちは、小さな池で、水遊びをした。
木漏れ日と、蝉時雨と、それから――遠い入道雲。
ふと、未来の声が止んだ。
振り返ると、姿は何処にも無かった。
小さな池の――何処にも。
九月三日、晴天。
二学期が始まって、もう三日。
未来が居なくなって、もう三日。
「――それで、振り返るともう、未来くんの姿は無かった。と……」
まるで、事情聴取のように、師匠はわたしにそう訊ねた。
うんざりだった。
もう三日、同じような話をずっと訊ねられてる。
長野県警の人たち。
師匠や、緒川さんたち。
もちろんそれは、未来を探すための確認だとは分かってる――けど。
「居なかったんです、振り返ったら……もう。未来、さっきまでそこに居たはずなのに、どこにも……」
震えそうな声を押し殺して、あの日の光景を思い出す。
ほんの――ほんの一瞬の事だった。
一瞬ことだった――と、思う。
膝くらいの深さしかない、小さな池。
そこでわたしたちは、一緒に水遊びをしてた。
よくあるアニメやドラマみたいに、笑いあって、水掛け合って。
わたしがよそ見をしたのは一瞬だった。
風が、ざあっ――と吹いて、木漏れ日が、ざわざわと揺れて。
それでわたしは、少しだけその風景に気を取られて。
気が付いたら、未来の声は聞こえなくなってた。
蝉の、うるさいくらいの蝉の声だけが、ざあざあと鳴っていて――それで。
「未来くんについての情報は、何か見つかったか? 緒川」
「いえ、今のところは」
緒川さんは諜報活動が得意で、前のときだって、未来の通信機を見つけてくれた。
けど、今回はまだ、何も見つかってない。
荷物はあの時、全部置き去りになってた。
通信機さえ持っていてくれれば――でも、それもあの日、置き去りにされたままだ。
緒川さんの顔は見ていないけど、声が――少し、暗い。
本当に、きっと何も、手掛かりが無いんだ。
「未来……どこ行っちゃったんだよ……」
胸の奥からこみ上げそうになるのを堪えて、わたしは思わず呻いた。
泣き言みたいな言葉が、口からおっこちた。
特異災害だとか、ノイズだとか、そんなの関係ないところだった。
わたしは――わたしが居たのに、未来は居なくなってしまった。
事件?
事故?
最悪の光景が、いくつも、いくつも頭の中に浮かんで離れない。
小さな池の、綺麗な底に、沈んだままの未来。
浮かんでこれない未来。
眠るように眠る、もう動かない未来。
「ッ……うぶッ……」
「響くんッ!」
「響さんッ!」
思わず、こみ上げたものを吐き出した。
ぢゅくぢゅくとした熱が、胸の辺りから、口の周りに飛び散って、熱い。
ひどく――臭う。
ねぇ、未来。
わたしの中、空っぽだよ。
未来がいないと、ごはんだって食べられないよ。
「未来……未来……」
寒い。
震える。
頭が痛い。
いきがくるしい。
きもちが、わるい。
ぐるぐる、して、ぐるぐる――
目の前が、ぐるん――って、回った、気がした。
ぜぇぜぇと苦しい呼吸の中、わたしはきっと、このまま溺れて死んでしまうんだと思った。
未来がそうしたように、未来のいない世界で。
入院を――した。
正確には、している。
ごはんがのどを通らない。
何も食べてないのに、からっぽの胃が、何かを吐き出そうとする。
胸の奥が、ぐねぐねとねじくれて、踊ってるみたいで、気持ち悪い。
鼻の奥は、ずっとツンとしてて、ときどき、何か刺さったみたいに痛む。
腕に、栄養を入れるための点滴が、ずっと刺さってる。
――未来は、まだ、見つかってない。
九月五日、曇天。
時刻は午後の十四時。
天気は――良くない。
わたしも、あんまり、良くない。
一日中、点滴の落ちるところを見てると、未来のことばかり考えてしまう。
長野県警の人たちと、S.O.N.G.の人たちが、協力して捜査している――と、師匠と緒川さんから聞いた。
「すぐに手がかりが見つかるはずさ」と、いつもみたいに笑う師匠の言葉は、だけど嘘だ。
だって、未来はまだ、あそこに沈んでる。
沈んでるはずだ。
どこへも行けなかったはずだ。
だって、わたしが居たんだ。
わたしが居るところから、未来を奪える人なんて、いるわけがない。
わたしが未来を、誰かに渡すわけがない。
ズキン――と、頭がひどく痛んだ。
呼吸が荒くなってるのが、自分でも分かる。
お医者さんからは、「考えるな」って言われた。
師匠たちからも。
でも、考えずにいられるわけがない。
わたしが未来の事を考えないなんて、そんなこと、できるはずないよ。
胸の奥に、熱がこみ上げる。
まるで内臓を鷲掴みにでもされたみたいに、ぐね、ぐね、と躍る。
浅く、小さく、必死に息をして堪える――だけど、それでもわたしはまた、溺れそうになる。
「未来……未来。助けて、未来。たすけて」
祈るみたいに、未来を呼ぶ。
ううん、祈ってるんだ。
早く出て来てよ。
帰って来てよ。
いつもみたいに、「帰ろう」って言ってよ。
未来、未来――未来。
ぶつり――って、途切れた。
記憶が。
意識が?
わたしは、わたしのことを覚えていない。
でも、お医者さんたちが言うには、「また」だって。
だから、多分わたしは、また、吐き出して、気を失ってたんだと思う。
時計を見ると、もう二十時過ぎだった。
今日が九月五日のままなのか、それとも六日、もっと先の日かも、もう分からない。
病室の外で、誰かの声がした――気がする。
それは多分、師匠と、先生と、緒川さんの声。
みんなのお見舞いは、お断りしてる。
だって、こんなところ見たら、きっと心配かけちゃう。
だから、師匠にお願いして、みんなにはお見舞いさせないで――って。
未来が居ないと、わたしは普通にすることだって難しいみたいで、いつからだろう? って、考える。
装者になってから?
ううん、もっと前。
リディアンに入るよりも、ずっと前から、未来とわたしは、いつだって一緒だった。
いつだって一緒が、当たり前だった。
当たり前だった――はずなのに。
呼吸が荒くなる。
胸の奥が熱くなる。
こみ上げる。
鼻が、鼻の奥が痛い。
気持ち悪い。
ぐるぐる、回り出す。
「響くんッ!」
両肩をガシッと掴まれて、我に返った。
そこにいたのは、すごく慌てた顔の師匠だった。
「師匠」と声を出そうとしたけど、こみ上げてくる水音が、それを遮った。
少しだけ、綺麗にする時間をもらった。
それから、「未来くんのことで、分かったことがあるから」と、一緒に来るよう言われて、着替える時間をもらった。
たった数日寝ていただけで、身体はひどく弱ってたみたいで、立ち上がるのだってやっとだった。
ううん、それは、ごはんを食べていないだけかもしれないけど。
動きやすい服に着替えて師匠を呼ぶと、師匠は「じゃあ、行こうか」とだけ言って、わたしを抱え上げた。
わたしは少し慌てたけど、「歩くのも大変だろう」と言った師匠の声が低くって、何か重大な事が分かったのかもしれない――と思って、師匠の厚意に従った。
病院を出ると、緒川さんが車を用意してた。
わたしは、一応エチケット袋を手渡されて、後部座席でシートベルトを締めた。
もしかして翼さんもいるかな? って、少しだけ気になったけど、着いて来るバイクの姿はなかった。
行先は、長野。
あの池へ行くのだと、道中の車内で師匠は話してくれた。
未来のことには、直接触れてくれなかった。
だけど、何かが分かったのは間違いない――そう、思った。
師匠も、緒川さんも、ひどく、暗い――から。
「響くん、一つ君に聞きたいことがある」
「はい、なんでしょう……」
わたしは、必死に、空っぽになった身体の中からひねり出すように、声を出した。
我ながら、随分と弱々しい声になってしまった事が、恥ずかしい。
未来だって、こんな声のわたしを見たら笑っちゃうだろうなぁ。
ううん、もしかしたら、真剣に――泣き出しそうな顔になって、心配するかもしれない。
未来、未来――未来。
心の中で、繰り返し呼ぶ。
会いに行きたいと、今すぐ会いたいと、叫ぶ。
けれど、それは出来ない――出来ない?
自分の中で、そんな結論に行き当って、わたしは思わず驚いた。
自分の考えたこと自体に、戸惑う。
なんで、出来ないって断言してしまったんだろう。
未来は、居なくなってしまっただけで、まだ、あそこへ沈んでいるだけなのに。
見つけてあげなくちゃいけないのに。
「……これ――は……?」
呼吸が荒くなりそうなわたしの目の前に、小さな画面に映った、男の人の顔が差し出された。
見知らぬ――でも、どこかで見たような。
どこで?
「見覚えはあるか?」
「いえ……でも、どっかで……」
師匠にそう訊ねられ、わたしは必死で記憶の中を探す。
どこで見たんだろう。
会ったことは、多分無い。
だけど、見たことはある。
同じようにこうして、誰かが見せてくれた人物だ。
だとすれば、未来から?
でも、未来の通信機に、こんな写真は見つからなかった。
姿が見えなくなったあと、わたしが通信機を確認したから、それは絶対だ。
こんな男の人の写真を、未来は絶対持っていなかった。
だったら――
「これは、未来くんの通信機の写真だ」
「えッ……」
思わず声が出た。
我ながら、拒食で弱っていたとは思えないほどに、しっかりと。
それほどに、わたしは驚いた。
わたしが見たときには、もうそこに残っていなかったはずなのに。
「正確には、こいつは通信機から消されていてな。サーバ側に残ってたデータを、緒川に取り出してもらったんだ」
その話を聞いて、わたしは、やっと納得した。
だから、あのとき、わたしが調べても見つからなかったんだ。
「そう、だったんですね」
「あぁ……」
一つの謎が解けて、わたしは思わずため息を吐いた。
師匠の声が、少し暗かったけれど、それは、未来自身はまだ見つかっていないからだ。
わたしだって、未来自身の事が一番気がかりなんだ。
けれど、今度は別の疑問が浮かんできた。
だとしたら、なんで、誰が、いつの間に、それを消したんだろう。
未来を誰かが連れ去ったとして、荷物は全部そのままで。
それで、わたしが通信機を見るまでに、誰が――
「さて……ここだ。降りられるか? 響くん」
「大丈夫です」
その答えが浮かぶよりも前に、車は山道へ停車した。
わたしは師匠に促され、何とか一人で立てそうだと、ドアを開けた。
ドアを開けたそこは、夜景の見える山の中だった。
夏だと言うのに、空気がひどく冷たい。
だけど、ここは――
「師匠、あの……ここ――」
ここは、あの池じゃない。
未来が居る、あの池じゃない。
こんなところに来ても、未来は居ない。
こんなところへ、来ちゃいけないのに。
池は、もう少し山道を行ったところにあるはずだ。
それを分からない緒川さんでも無いはずだ。
なのに、なんで?
「ここに見覚えはありませんか? 響さん」
緒川さんに訊ねられて、わたしは心臓でも鷲掴みにされたような気持になった。
緒川さんの声は、いつもと違った。
顔付きだって、真剣そのものだ。
冗談や、間違いなんかでここに来たんじゃないって事が、すぐに分かった。
「わたし……こんなところは――」
「本当に、知らないんだな?」
救いを求めるように、師匠の方へそう答えた。
でも、師匠は――師匠も、緒川さんと同じだった。
真剣な顔で、わたしを見る。
じっ――と。
じっ――と。
まるで、全身の血が全部落ちてしまったみたいに、さあ――と身体が冷たくなった。
あの時の未来みたいに――あの時の未来みたいに?
何の話? と、自問自答する。
わたしは、未来の、何の時の未来を、何を――
ぐるぐる回る。
あたまのなかが、ぐるぐる。
ぐるぐる。
ぐる、ぐる、ぐる、ぐる。
頭の中に、光景がちらつく。
未来の姿がちらつく。
見たくもない未来の姿が、見たくもなかった未来の姿が。
頭の中に――頭の中に。
「うそ……うそ、うそ、うそうそうそうそうそうそ! うそ! こんなの、わたし、わたしは――」
浮かんできた光景を、わたしは必死でかき消そうとする。
振り払おうとして、頭を振り回す。
頭を、自分で殴りつける。
嘘だ、うそだ、嘘だ。
こんな記憶を、わたしは知らない。
知らないはずなんだ。
未来は、未来はまだ、あの池の中で――
「今朝、未来くんの遺体が発見された」
「場所は、この崖の下。岩場の影に、草木で隠すように棄てられていました」
未来の――遺体。
遺体?
いたい、いたい、頭が、いたい。
むねが、はなのおくが、きもちわるい。
がけのした。
いわばのかげ。
くさ、き。
かくされた、いたい。
みくの、みくの、みくの、みくの、みくの。
押さえつけた頭の奥に、浮かぶ。
浮かんでしまう。
浮かんではいけなかった光景。
コマ送りみたいに、わたしの前から未来が消えた、あの光景。
うそだ、うそだ、こんな記憶がうそだと、あたまがさけぶ。
わたしがさけぶ。
「うそだ! うそ! ぜんぶ! こんなもの! こんなきおく! ぜんぶうそだ!」
半狂乱になりながら、わたしは叫んだ。
だけど、気付いてしまった。
思い出してしまった。
あの日起きた、本当の事を――全部。
向き合ってしまった。
突きつけられてしまった。
見て見ぬ振りが、出来なくなった。
記憶の後ろへ――沈んでくれない。
「こんな……こんなの、ないよ……」
「全部、話してくれるな? 響くん」
泣き崩れたわたしを、師匠は抱えるように抱き起した。
わたしはもう、抵抗することなんて、できなかった。
そんな気持ちさえ、起こらなかった。
わたしは、わたしの記憶を、確かめるように、ひとつひとつ、師匠と、緒川さんに、伝えた。
多分それは、嘘いつわりのない、ほんとうのこと。
八月三十一日、晴天。
夏休み最後の旅行の日。
長野の山の中。
わたしたちは、眺めのいい崖の辺りで、話していた。
照りつける太陽と、蝉時雨と、それから――遠い入道雲。
未来は、朝からずっと、何か言いたげにしてたから。
だから私は、目的地に着くよりも前に、この見晴らしのいい場所で、未来の話を聞いてあげたいと思ったんだ。
隠し事はしない――って、約束したわたしたちだった。
それでも未来は、何かためらってるみたいだった。
「どうしたの?」って、しつこいくらいに聞いて、未来はようやく決心したみたいだった。
通信機を操作して、その中に映る写真を一つ。
わたしに向けて差し出した。
気になってる人がいる――と、言われた。
どこかで見たような、どこにでもいるような、男の人。
わたしは戸惑った。
未来に、そういう人が出来る――なんて、考えたことも無かった。
「よかったね! おめでとう!」と、先走ったような祝福は、だけど上擦った声で、誰が聞いても動揺を隠せてなかったと思う。
未来は、わたしを落ち着かせようとしたんだと思う。
「あのね――あのね」って、何度も何かを言おうとしてた。
でも、わたしは本当に動揺して。
わたしはただ、もう一度写真を見せて――って、手を伸ばしただけだったんだ。
そこから先を、わたしはコマ送りみたいに思い出せる。
わたしが急に伸ばした手に、未来は多分驚いたんだ。
避けるみたいにして、未来は体勢を崩した。
その指先から滑り落ちた通信機が、私の足元へ転がった。
わたしはそれを、慌ててキャッチしようとして、屈んだんだ。
なんだか、重たい感触があった。
背負ってたリュックが、何かを押し退けたような、そんな感触があった。
ふと、未来の声が止んだ。
振り返ると、姿は何処にも無かった。
見晴らしのいい崖の――何処にも。
それから、崖を下るまで、わたしはどれくらい茫然としてたんだろう。
崖の下の未来は、すっかり冷たくなってた。
愛らしい顔は、もう面影も無くって。
大好きな声は、もうどこにも無くって。
まるで悪夢みたいだ――って。
悪夢なら、覚めればまた、いつもの日常になるでしょ?
だから、わたしは、未来に草を、木の枝を、被せた。
覆い隠して、見えないようにした。
今も未来は、一緒に居るんだって、自分に言い聞かせながら、あの池まで、わたしは一人――
そうしてわたしは、その出来事を沈めた。
あの池の中へ。
記憶の奥底へ。
見つからなければ、未来の亡骸が発見されなければ、未来はまだ死んでしまったことにはならない――そんな気がして。
そう、思いたくて。
だけど、もう――
一通りを話し終えて、わたしは空を見上げた。
流れ星が一つ、流れるのを見た。
未来と眺めた流星群のことを思い出した。
でも、もう二度と、同じように眺める事は出来ないんだ。
どうしよう、未来。
わたし、これからどうしよう。
どう生きたら良いんだろう。
生きるって、何なんだろう。
未来、未来――未来?
誰も、答えてくれない。
応えてなんて、くれるはずない。
わかってる、全部、もう。
ねぇ、未来。
わたし、もう、これから先の
一歩、二歩、それから――三歩。
まるで、リズム良くステップしたみたいに、後ろへ向けて。
そうして、わたしは満天の星空の中へ、飛び込んだ。
叶うなら、あの空へ沈みたいと願いながら――
九月十三日、雨天。
立花は、随分と元気になった。
警察とS.O.N.G.による事情聴取からも、ようやくに解放され、私たちの面会も一昨日からは許可されている。
叔父さまからは、事の顛末を聞かされた。
それは、やはり悲しい事故だったのだろう。
それでも私は、立花が自らの生を諦めた事が、残念でならない。
いや、今の立花にそのような事を話したところで――
「あ、翼さん! わざわざお見舞いに来てくれたんですか!」
「あぁ……具合はどうだ?」
私の姿を見るなり、立花は表情を綻ばせた。
あの日、飛び降りた立花を救ったのは、当然叔父さまと緒川さんだった。
意識を失っていた立花は、衰弱についても懸念され、即座に病院へと搬送された。
検査の結果は、衰弱以外に異常は無し。
落下時に木枝でつけた擦り傷以外は、外傷も無い。
肉体的には、何一つ問題は無いはず――だったのだが。
「いやぁ、それがですねー……なぁーんか大切な事、忘れちゃってる気がするんですよね。さっきクリスちゃんたちも来てくれたんですけど、みんなすごく浮かない顔しちゃってて」
「そう……か」
立花は、すっかり元気だ。
今では食事も一日三食しっかり食べ、それだけでは飽き足らず、売店でおにぎりをこっそり買っているらしい。
医師からも「もう退院して構わない」と言われているくらいだ。
「本当に、すっかり良いのだな。ところで立花、課題はちゃんと済ませてあるのか?」
「ぎくッ! やめてくださいよ翼さん、折角忘れてたのに……」
やはり、立花は立花なのだろう。
事が事だけに、提出物の締め切りは伸ばしてもらっているはずだが、それでも立花は悪びれながらもまた、遅れて叱られるのだ。
安心したような、呆れたような、こちらがそんな複雑な気持ちになってしまう。
「立花らしいな」
「どういう意味ですか翼さん! ……でも、へいきへっちゃらです! なんたってわたしには心強い――」
呆れたよう笑った私へと、立花は威勢よく噛みついた。
噛みつこうとした――しかし、その言葉尻は掻き消える様に弱々しい。
「んー?」と唸りながら、何かを思い出そうと首をひねっている。
「さて、私もそろそろ戻るとしようか」
私は、その姿がどうにも痛ましく、逃げるように病室を後にした。
去り際に「また来てくださいね」と笑う立花は、本当に嬉しそうで、私はそれが余計に心苦しいのだ。
病棟を出た頃、通信機には、マリア達からのメッセージが入って来ていた。
皆、立花のことをどうするか、考えあぐねているのだろう。
そしてそれは、私とて同じこと。
小日向 未来という少女はもう居ない。
この世のどこにも。
そして、立花の中にも。
真実を思い出したあの日、立花は全てを語った後に、再び小日向の事を忘れてしまった。
今度は、別れ際の事だけでは無く、小日向の存在そのものまで。
そうすることで、立花はいま、自らを守ろうとしているのかもしれない。
だが、立花が日常の生活の中へ戻ったとすれば――
通信機の中、映像データを眺めていると、その多くの部分に小日向の姿が見つけられる。
私ですらそうなのだ。
立花が、小日向の存在に気付くまでに、そう時間は必要ないだろう。
そうなったとき、立花は真実を受け入れられるだろうか。
それとも、今と変わらず、記憶の中から浮かんでこないのだろうか。
願わくば、もう浮かばないでやってくれ――と、映像の中の小日向に私は祈った。
でなければ、立花はまた、生きる事を諦めてしまうだろう。
いや、もう全て取り返しのつかないところまで来てしまっているのかもしれない。
浮かばないのだ――私にも。
立花を取り巻く現実に、明るい