ジナコさんinカルデア 作:クリシュナ実装はよ
ジナコの両親は、敬虔なキリスト教徒である。毎週末は必ず教会に通い、旅行に行くときは必ず教会が近くにあるところを選ぶ。そんな両親が今回旅行先に選んだのは、ルーマニアのシギショアラだった。
シギショアラは十二世紀頃、ドイツ人によって作られた街だ。それゆえに至るところにドイツの面影があり、また今回の目的地の山上教会も、ドイツ語学校に隣接している。長い屋根付き階段を登り、右手に回った先。そこに、白亜の教会は佇んでいた。
楽しげな両親に促されるまま、ジナコは教会の中へと入る。前室の先の入り口を潜り抜けると、その内装の美しさに圧倒された。幾つかの絵画が飾られた先に、荘厳な祭壇がある。
「おや。観光の方でしょうか」
「へ?」
耳慣れたドイツ語で聞こえてきた言葉に、ジナコは思わず首を傾げた。ルーマニア語はドイツ語と似通っていなくもないが、ここまで明瞭に意味が理解できるわけではない。
「驚かせてしまいましたか。申し遅れました。私はこの教会に赴任している神父の、シロウ・コトミネです」
「ここ、プロテスタントじゃないんすね」
神父を名乗るならカトリックだろう。ルーマニアに広く分布しているのは正教会だが、前情報でこの教会はプロテスタントだと聞いていた。自分で言っておきながら思うが、ややこしい組織だ。
「以前はカトリックの教会だったようですね。けれど私は臨時の赴任ですから、数週間ほどで元の牧師と入れ替わりになるかと」
「そういうこともあるもんなんすね。もっと縦割り行政なイメージだったっす」
と、ジナコから出てきた言葉にシロウ神父は目を丸くした。どう見積もっても初等科程度の外見の少女から、世知辛いフレーズが聞こえてきたからである。
「難しい言葉を知っていますね」
「う、そ、そうっすかね。神父様の方が、その、大人って感じっすよ?」
「こう見えても、大人ですから」
そう告げる神父の微笑みは、確かにどこか達観している。けれどもその外見と言ったら、ティーンエイジャーにしか見えない。高く見積もっても、ハイティーンと言ったところか。東洋人の外見ならこういうものなのだろうか。
「……って、パパとママはどこに行ったんだろ」
「入り口の方に人影が見えますが」
シロウ神父の言葉に入り口を見遣れば、確かに二人の姿が見えた。ジナコはそれに内心首を傾げたが、教えてくれたシロウ神父に頭を下げる。
「危うく取り残されるところだったっす。ありがとうございました」
「いえ、お役に立てたのなら何よりです」
そう優しげに微笑む神父に、ジナコは少しばかり感動を覚えた。ここまで完璧に神父らしい神父は、逆に見られるものではない。ジナコの通っている教会の神父と言ったら、厳しい、話がつまらない、愛想がないの酷いコラボレーションだった。
「ああ、ご両親の元に行かれる前に一つお聞きたいのですが」
「ん? なんすか?」
シロウ神父の言葉に、ジナコは何の戸惑いもなく聞き返す。ジナコから見て、この神父は信用しても良いと思える好漢だった。
「世界平和というのは何だと思いますか?」
「世界平和っすか……?」
妙なことを聞いてくると思ったが、一応考えてみる。一分にも満たない思考だったが、口に出たのはジナコの偽らざる本音だった。
「徹底した管理社会。争うことすら許されないほど自己を統制された管理。それくらいはしないと人間は争い続けるっすよ……って、神父さんに言うことじゃないっすけど」
ジナコはそう告げると、決まり悪そうに笑う。実際のところ、それを実行出来るのはムーンセルくらいのものだろう。そしてムーンセルですら、その手法を人間に入力してもらわねば実行には移せない。不完全も良いところだ。
「でも、そこに人間の幸福はないっす。ただ生きているだけの地獄に、ボクは意義を見出だせない」
「そうですか」
シロウ神父はジナコの言葉にそう答えると、ただ黙り込む。ジナコはそんな神父に声を掛けがたく、黙って彼の前から立ち去った。
ジナコは、死ぬのは怖い。死はジナコの大切なものを奪っていった。けれど、生きているだけというのは死んでいるに等しいのも、ジナコはまた知っている。違いは続けることができるか、出来ないかだけだ。
今のジナコの状況は、その中でも例外に入ってしまうのだけれど。
「パパ、ママ、置いていかないで欲しいっす」
ジナコに対して平謝りする二人に、ジナコはそれすら愛おしげに微笑む。ただ、この何でもない日々が幸せだ。そう思える自分の幸運には、感謝の思いが絶えない。
ジナコはまだ、彼の贈り物を巡る因果を欠片も悟っていないのだった。
シロウは腹の内にぐるぐると渦巻く、訳のわからない感情を持て余していた。怒りではない。ただ、自分の考えとかけ離れた答えを告げられたことに、思うものがある。
生きているだけの地獄。その言葉は、シロウの理想の否定でもあった。シロウの理想はただ死を否定するもの。生き続けるということに全てを委ねるものなのだから。
「弱っているようだな」
「アサシン……」
「あの小娘の、中々の案ではないか?」
シロウの自室のソファを占領するセミラミスは、くつくつと小馬鹿にするような笑みを溢した。管理社会とは、なるほど女帝好みの考えではあるだろう。問題は、この女帝はそれを遂行できるほど勤勉ではないことか。しかし、シロウならば。
「いえ、あれは真の平和ではありません」
「そうか? 争いがない、マスターの理想郷ではないか」
「それでも、違うのです」
シロウは個人の生き方にちょっかいを出したい訳ではない。人が人のままで争いをなくして欲しいのだ。それには、管理社会は不適格だ。厳しすぎる法は管理する側の都合に過ぎない。
「それにしても、妙な小娘だったな。人避けと幻覚の結界をなかったかのように通り抜け、斯様なことを口にする」
「魔力を僅かながら感知しました。天性の魔術回路の持ち主なのでしょう」
「それが妥当であろうな。あれの両親は全くの鈍感であった」
シロウはセミラミスの言葉に、少女の両親の様子を思い起こす。教会の入り口で立ち往生する有り様は、とても魔術師には見えない。幾ら才能があったとしても、鍛えることが出来なければ宝の持ち腐れだ。少女の運命は彼女の才に対して勿体ない。
しかし、魔術というものは死の許容だ。それに関わらずに生きてこられたのなら、運が良いとも言える。魔術というのは悪いものを引き寄せるものだ。
このタイミングでシギショアラに来てしまったことだけが彼女の失点だろう。今はどうにも時期が悪い。
「それにしてもあのような小娘に己の本懐について訊ねるとは、これはお前の失点であるぞ?」
「無垢な子どもなら私には思い付かないことを告げてくれるかと思ったのです……これは予想外でしたが」
子どもらしくない返答。しかしどこか実感の籠ったその答え。シロウにはそれが、奇妙という感覚はなかった。どちらかといえば、恐ろしい。その末路を理解して尚告げたのであろう、その選択が恐ろしい。
「うむ。時に童とはお前が思っておるより遥かに賢いものよ。そして無垢故に、残酷が何か理解しておらぬ」
「あなたは案外、子どものことを理解しているんですね」
シロウは白々しい様子でセミラミスにそう告げる。セミラミスは毒々しく笑って答えた。
「そうやもしれぬな」
シギショアラでの旅行は、ジナコの予想より楽しめるものだった。かのヴラド三世の生家は、今ではレストランになっている。勿体ない気もするが、それはそれで感慨深い。尤も、両親はそんなことなど何一つ知らずあのレストランを選んだようだが。
シギショアラでの旅行は二泊三日の予定で、今はまだ一泊目の夜だ。ジナコは両親の寝静まったホテルの部屋で、窓の外を眺める。
そう言えば、道中で出会ったヒッチハイク少女は無事トゥリファスに辿り着けたのだろうか。ジナコは金髪のキリリとした顔つきの美人を思い出す。
あれはジナコたちがルーマニアに来て直ぐのこと。ジナコたちはシギショアラ観光の前に、首都ブカレストを観光していた。当然というべきか、教会目当てである。
その最中、チェントル・ベキを観光していたついでにそこで食事を摂ろうということになったのだが、そこで問題が発生した。
大きなスーツケースを持ち、トゥリファスと書かれたスケッチブックを持った少女が、目の前で倒れたのだ。なにごとかとジナコは少女を抱き起こした。すると少女が何と告げたか。
「お腹が、空きました」
「バカっすか?」
反射的に罵ってしまったのは失敗だったが、反省も後悔もしていない。取り敢えず見捨てておけず、ジナコは両親を説得して共に昼食を摂った訳である。
聞くところによると、手持ちの金銭が少なく、丸一日食事を抜いていたらしい。よく無事に過ごせていたものだ。
少女は気前よく奢った両親からの無償の施しを固辞したが、食欲と純粋な善意には勝てなかったらしい。中々の量を貪り尽くし、ジナコを圧倒させた。豪快と言うべきか、遠慮しろと言うべきか。
それから、少女が語ったことの顛末。そしてこれからの行動方針も酷かった。純粋培養の御嬢様が冒険しようとして破滅してしまったのを幻視したのやむ無いだろう。
「ヒッチハイクでトゥリファスまで行こうと思って」
「バカっすか?」
一つ言っておくべきことは、ルーマニアは治安が滅茶苦茶良い天国みたいな場所ではない。普通に治安が悪いところは悪いし、年若い女性の独り歩きは自殺行為だ。ヒッチハイクなど、何があるか分からない。
更に言えば、彼女は外見からして十五歳前後。恐らく未成年である。警戒心が足りないとか、そういう次元ではない。
頭が痛くなってきたジナコに、彼女はとうとう止めを刺した。流石に飛行機でだが、彼女はフランスからここまで来たらしい。安易に家に帰れと言うことは出来なくなった。
そんな少女に、両親は一緒にシギショアラまで行かないかと告げた。トゥリファスはシギショアラの隣。一緒に来れば少しは安全だろう。トゥリファスにいるらしい親戚にとっても安心だ。
しかしその提案も彼女は蹴った。そこまで施してもらうのは悪いし、彼女自身も急いでいるとのこと。ジナコからすれば面倒を見ておいて野垂れ死にされる方が迷惑だが、彼女の意志は強固だった。
「ありがとうございました。この恩は忘れません。ジナコちゃんも、ありがとう」
「別に……アンタ、名前は?」
「レティシアです」
少女、レティシアは最後の会話でだけ、柔らかい雰囲気に感じたのは気のせいだろうか。キリリとした少女だと思っていたのだが、あの瞬間だけは普通の女の子だった。勿論、それでも圧倒されるような整った面立ちは変わらないのだが。
それからレティシアは直ぐにジナコたちの前から姿を消した。それからこのシギショアラでも顔は見ていない。そこはかとなく不安を覚える。
ぼうっと見ていた窓の外で黄金の光が瞬いた気がして、ジナコは溜め息を吐いた。きっとジナコは疲れているのだ。
黄金の光。それはジナコにとって懐かしくて、縁の深いものだ。しかし、そんなものをもう見ることができるはずもない。ジナコは再びベッドに潜り込むと、速やかに眠りについた。
シギショアラ滞在二日目の昼。ジナコたちは土産物を物色していた。旅行の予定では、明日シギショアラを発つのだ。土産物の吟味は今日のうちに済ませておきたい。
しかしジナコの選定は直ぐに終わったが、両親のものが中々終わらない。ジナコは元々交友関係が狭いのもあるが、それにしても両親は中々の優柔不断ぶりである。
待つのに疲れたジナコは、早々に昼食を摂ることにした。両親は渋々だが近くの店だと告げるとそれを許す。ジナコは未だ十一歳。一人にしておくにはまだまだ不安な年頃だ。
とはいえジナコは既に精神だけは成熟しているので、無駄に無自覚だった。そうして呑気に店へと歩いていると、正面から人にぶつかる。
いや、訂正しよう。正面ではなく、下の方から頭突きさせられた。
「いった~」
「う、悪い悪い。大丈夫か?」
「うん。痛いのはお尻だけっすし」
ジナコは臀部を擦りながら答える。尻餅をついてしまったためだ。しかし、痣になる程ではないだろう。軽い体重万歳だ。
にゃーんと鳴き声がして顔を上げて見ると、ぶつかってきた相手は高校生くらいの女性だった。手には猫を抱えている。
「なら良かった」
「ここの人なんすか?」
「いや、出身はブリテンだ」
ブリテン、という言い方は引っ掛かるが、それなら流暢な英語にも納得だ。流暢と言っても、どちらかといえばざっくばらんな話し方ではあるが。
「そっか。キミのとこの猫かと思ったっすよ」
「こいつ、すばしっこくてさ」
少女は猫を抱き締めると喉を撫でる。すると猫は青い瞳を細め、ごろごろと音を出した。手慣れている。
「おい、セイバー。飯冷めるぞ」
「あ、待てよマスター」
ガタイの良いサングラスをかけた男が少女を呼ぶ。ジナコの勘違いでなければ、あれは日本語だろうか。それに対して英語で返答する少女はいかがなものかと思うけれど。
というか、少女は彼の従者なのだろうか。こういうのも何だが、似合わない。
「おい、お前、名前は?」
「へ? じ、ジナコっす」
「ジィナコゥ?」
少女はもどかしそうに発音する。どうやら苦手な響きだったらしい。ジナコはよく、名前が発音しにくいと言われることがある。ジナコは困ったように微笑んだ。
「呼びにくかったら、ジニーでも良いっすよ」
「じゃ、ジニー。一緒に飯食わね?」
少女の提案に、ジナコはポカンと口を開けた。
結局、両親の買い物が終わるまで相席することになった。しかしジナコはどうにも緊張してしまう。少女の方はまだ良いが、男の方はいかにもな容姿をしている。というか、逃げた方が良いのではないかと薄々思えてきた。
「ジニー、そんなビクビクすんなって。マスターは確かに強面だけど、そう悪いやつじゃない」
「う、うん。えっと、ワタシノナマエハジナコデス。ヨロシク」
「おう。俺は獅子劫だ」
ジナコが拙い日本語で名乗ると、男も名乗り返した。どうやら言葉は通じたらしい。ジナコは英語ならともかく、日本語はほぼ全く話せなかった。聞き取りすらかなり怪しい。シシゴウが姓なのか名なのか。珍しい名前なのかすら分からない。
「出身、生まれはどこなんだ?」
「ワタシノシュッシンワジャーマニーデス?」
「じゃ、ドイツ語で話すぞ」
獅子劫はジナコの怪しさに輪をかけた日本語を聞き取り、日本語で話すのを止める。ジナコはこのとき漸く、英語を使えば良かったと悟った。無理して日本語を話そうとするから通じているか怪しくなるのだ。
「一つ言っとくと、日本語ではジャーマニーじゃなくドイツと言う」
「ダイツ?」
「ま、発音は要練習だな」
獅子劫はそう告げるとカラカラ笑う。そんな異文化交流に飽きたのか、少女がジナコの髪を弄り出す。旅行だからとしてきたヘアセットが崩れていくのにジナコは内心涙した。
「えーと、キミの名前は?」
「オレ? オレはモ」
「こいつはセイバー。変わった姓だろ?」
獅子劫がそう告げた途端、ジナコは嫌な予感がした。獅子劫をマスターと呼ぶ少女の名前がセイバー。そんな状況は、無視して良いものだろうか。こんなまるで、聖杯戦争みたいな呼び方を。
「ジニーの本名の方が変だろ」
「確かにな。名前の由来はあるのか?」
「え、えっと。ボク、混血で、日本ではコってつけるらしいから」
「なんつーか、ズレた両親だなぁ」
どうやら日本人の獅子劫から見ても変な名前らしい。少しショックだった。日本人らしい凛と白野は教えてくれなかったのに。
そんなことをジナコは思ったが、二人は純粋な日本人ではない。凛の育ちは日本ではないし、白野に至っては人間ですらない。
「ま、気にすることじゃない。そんなことよりピザでも食え。奢りだ」
「良いんすか?」
「王が家臣を養うのは当たり前だろ?」
「ボクは家臣なんすか」
いつの間にか家臣認定されていたことに苦笑いが漏れる。こういう王様ムーヴには見覚えがあった。あの金ぴかの方が百倍横暴だが。
「喜べ。オレの家臣はこの世で一番幸福だぞ?」
「怪しい宗教勧誘みたいっすね」
信じなさい。そうすれば幸せになれる。怪しい宗教の常套句ではないだろうか。西欧財閥が似たようなことを喧伝していたのを思い出す。いつの時代も発想は同じらしい。聖堂教会なんて、いかにも怪しい組織であるのは間違いなかった。
そしてこれらの発言はやはり、サーヴァントらしいものだ。ブリテン出身で、セイバーの適正があり、名前がモから始まって、王になろうとしている、或いはなれなかったサーヴァント。という辺りだろうか。
思えば、セイバーと告げられた辺りから彼女の言葉はドイツ語として聞こえてきていた。サーヴァントであることはほぼ間違いない。
真名はさっぱりなので、雑談でもしてみることにする。そもそも、マスターでないジナコには関係のない話なのだ。聖杯戦争なんて、どうでも良い事柄ではある。
勿論、変な輩に願いを叶えられたくはないが。
「シシゴーさんたちは、なんでシギショアラに?」
「仕事だ。悪どい爺に言われてな。まあ、お互いに利のない話でもない。観光も出来るしな」
獅子劫の話を鵜呑みにするなら、彼は依頼を受けて参加してはいるものの、彼自身の願いもあるというところだろう。聖杯に願わなくてはならない願いがあるというのは、余り良い話ではない。
「そういうお前はどうなんだ?」
「家族旅行っすよ。ブカレストにも行ったっす。ここも、あのヴラド三世の出身地かと思うと感慨深いっすよね」
獅子劫はジナコの答えに黙って頷く。一般人の話を聞いても面白いものだとは思えない。だが、ジナコにはマスターに関して心当たりはなかった。
「ってことはお前、父親とか母親がいんのか?」
「今は買い物待ちっす。本人の意思はともかく、あの様子だと直ぐには終わりそうにないっすね」
ジナコも半ば忘れかけていたが、両親の買い物を待っているところだった。両親の姿は未だ近くにない。ジナコのことを見つけられないということはないだろうが。
「なら、今のうちに食っとけ。奢りだ。お前の両親に見つかって、代金払われたらカッコつかねぇからな」
「これ、うめぇしな」
セイバーはピザを食わえると、チーズを伸ばして遊ぶ。シギショアラまで来てピザとは何だかな、という感覚ではあるが。そんなわけでジナコは黙々と食べているのだが、セイバーは実に美味しそうに食べていた。
サーヴァントからすれば、この時代の食べ物はとても美味しく感じるのかもしれない。彼に食べさせたことは一度もなかったけれど。
「それにしても、この時期に旅行は不味かったかもな」
「ん? どうしてっすか?」
獅子刧が漏らした言葉にジナコは反応する。この時期、観光客は少ない。ジナコとて、学校を休んで旅行に来ている。
「この新聞だ」
獅子刧はそう告げると、今日の日付の書かれた新聞を取り出した。ジナコは覗き込んだが、ルーマニア語は読めない。所々それらしい単語を拾っていく。
「ブカレスト……ジャック・ザ・リッパー……心臓……?」
「ルーマニアで連続殺人が起こっている。三日前はブカレスト、そして、段々シギショアラに近づいている」
獅子刧が言うには、心臓が抜き取られた死体がルーマニア中で発見されているのだと言う。屋内、屋外を問わず、そして姿を見たものはいない。警察も証拠一つ掴めておらず、甦ったジャック・ザ・リッパーと言われている。抜き取られたのが子宮なら完璧だったかもしれない。
「出立はいつだ?」
「明日っす」
「なら、気を付けろ。特に夜には絶対に外に出るな」
勿論外に出るつもりはない。しかし、獅子刧の言い様はやけに真剣だった。証拠一つない殺人といい、まさかサーヴァントの仕業だろうか。
「……なんてね」
それこそまさかだ。神秘とは秘匿するもの。それが魔術師の常識だと聞く。地上で聖杯戦争をしているような世界で、それが守られていないはずがない。そんな目立つような真似をしたりはしないだろう。
それからほどなくして、ジナコは無事両親と合流した。奢りのことはお互い秘密のままだ。それから獅子刧たちはすぐ立ち去り、ジナコには家族水入らずの時間が訪れる。ジナコはその中で過ごすうちに、聖杯戦争のことなどすぐに忘れていった。
霧の街とはロンドンの異名だったはずだ。それも、こんなに毒々しいものではない。ジナコは服で口元を覆いながら、全速力で駆け抜ける。夜の街は人がいないかのように静かだった。ただ、ジナコの靴音だけがこだまする。
意識が途切れそうになる度に、ジナコは舌を噛んだ。口の中はもう、血の味しかしない。外から見れば、ジナコはただ走っているだけに見えただろう。しかし、ジナコの目には明確な恐怖が映っていた。
「鬼ごっこはもう終わり?」
幼子が笑う。ジナコを助ける神はいない。