もう一度姉になる為に 作:水銀の蛇
※この小説内では『星に願う短冊』及び『秋時雨に傘を』のイベントストーリーは無かったものとして扱われます。
※氷川姉妹の誕生年は、原作アプリのリリースが始まった2017年を高校二年生と仮定し、2001年の3月とさせていただきます。
※メルクリウス超ウゼェェェェェェ!
ではどうぞ。
人生をやり直したいと思ったことはないだろうか。
数多ある過去の分岐点。生きてきた中で踏みにじってきた選択肢の枝分かれ。それらをもう一度選び直したいと思ったことはないだろうか。
たとえば友達と喧嘩して仲直りができていないとか。たとえばテスト前にもっと勉強しておけばよかったとか。たとえば進路を間違えたとか。たとえば、たとえば、たとえば。
そういった、振り返って空想することしか叶わぬイフルートを、現実のものにしたいと思ったことはないだろうか。
否とは言わせぬ。誰しも後悔というものをその身に抱え、戻ることの出来ない過去に想いを馳せる時の亡霊であるが故に。過去の轍を、通り過ぎる前に戻したいと願わない人間がどこにいるというのだろう。
ならばその機会を与えよう。いつかの過去、かつて己が抱いた気持ち故に、血を分けた半身を拒絶した氷の少女よ。今、かつての過ちをやり直す時だ。
では、今宵の
◇◆◇
〝夜というのは、まさに私そのものだ〟
氷川紗夜はかつて、己を鑑みてそう考えた。
時刻は夜の帳が降りた午後八時過ぎ。お堅い空気を感じさせるスーツに身を包み、紗夜は夜の街に靴音を響かせる。
その様を見れば誰もが仕事帰りのキャリアウーマンだと思うだろう。事実それは現実であり、氷川紗夜という女は大手企業に勤めるエリートとしてその地位を確固たるものにしていた。
向かうのは都内のマンション。彼女は大学時代には既に実家を発ち、アルバイトと仕送りで一つの部屋を借りて生活していた。今もそこから住居を変えることなく在している。
オートロックを解除し、エレベーターに乗り込む。ふと、紗夜は今の部屋を借りたときの心境を思い出した。
いつまでも親の庇護下にいるわけにはいかないから。娘を一人立ちさせることへの不安を募らせる両親への説得にはこのような文句を吐いたが、実際の所は違う。
全ては、血を分けた双子の妹から逃げる為だった。
妹。氷川日菜。姉である氷川紗夜を圧倒的に上回る、生まれついての大天才。そして、紗夜に消えない劣等感を刻んだ存在。
そんな妹に追いかけられるのが
エレベーターが目的の階に到達し、彼女は己の部屋の玄関をくぐる。この動作を繰り返すのも、もう何度目になるだろうか。きっと大半の人間にとっては、家というのは心安らぐ拠り所なのだろうが、紗夜にとっては自分の劣等感の捨て場所にしか思えなかった。
いつも通りに窮屈な靴を脱いで、いつも通りに窮屈な服を脱いで、何も考えずにベッドに倒れこむ。こうしている時は頭を空っぽに出来る。ただ圧に従って布団に身を沈めれば、一瞬だけでも、全てがどうでもよくなったように感じられるのだ。
しかしすぐに立ち上がって、紗夜はシャワーを浴びるためにバスルームに向かった。これもいつも通りの動作。繰り返されてきた、つまらない日常。
熱い水滴を被って、髪から滴る流動体の粒を眺めて。まるで意味のない行為。しかし、それもいつも通り。
シャワーを止めて、外に出て。まだ水気の取れない髪を纏め、冷蔵庫に入っていた炭酸飲料を渇いた身体に流し込む。何か適当なものでもないかと冷蔵庫の底を漁って、以前買ってきた冷凍食品を電子レンジに放り込む。仕事が忙しくなってから自炊することも少なくなったと、紗夜はいつからか少し歪んだ食生活を自嘲した。
テレビを点ける。やっていたのはバラエティー。どこかの芸能人がくだらない話をして、どこかの俳優が何か喋る度に、用意された歓声が湧く。彼女にとってはなんの面白みもない画面の向こうの晴れ舞台。見る価値もないと再びリモコンを手に取った時、その画面に見覚えのある顔が出た。
「……日菜」
無意識に呟いた名前。そこに映っていたのは、紗夜の妹である氷川日菜だった。楽しそうに笑い、よくわからない擬音語で話す、かつてと何も変わらない、太陽のような女。
その顔を、長らく見ていなかった気がした。最近はずっと仕事に追われていてテレビや雑誌など見る暇も無かったし、元よりそういったものに興味があったわけでもない。
ただ、思う。久しぶりに見た妹は輝く晴れ舞台に立っていて、己は何故こんなことを考えているのだろうと。
────本当に、私は夜みたいだ。
リモコンのボタンを押す。画面の中で笑っていた日菜は、たったそれだけの動作で暗黒の中に消えた。
紗夜は自分の名前が嫌いだった。
リモコンを置いてテレビから目を逸らす。その先で、部屋の端に置いてあるとある〝青〟が目に入った。
それはギターだった。かつて己が全霊を注いだもの。日菜から逃げる為に求め、そしてそれが叶わず、結局過去と同じように追い抜かされたもの。
────そういえば、こんなものもありましたね。
ずっと部屋に置いてあったはずなのに、今の今まで存在すら忘れていた。ふと気紛れを起こし、手に取ってみる。少しだけ埃を被っていたかつての得物は、覚えているより重かった。
ピックで弦を鳴らす。身体は感覚を覚えていたのか、その行為はやけに自分に馴染んだ。
やっている内に、紗夜はかつてのことを思い出した。Roseliaというバンドにいたこと。狂ったように正確さを追い求めていたこと。劣等感から逃げる為に必死になって練習して、数多の名のあるフェスに出て、そこで優勝を勝ち取ったこともあった。そして、それでも尚妹に追い抜かれたこと。
────やめよう。
思い出したら、また気分が悪くなる。紗夜は元あった場所にギターを置いて、少し乱暴にベッドに倒れた。
日菜。日菜。そう、日菜。名前と顔が脳裏を駆ける。かつての
一体どこで間違えたのだろう。そう、紗夜は考える。
後悔したことは数え切れないほどある。もしも普通に仲のいい姉妹でいられたらどんなに幸せだったことだろうと、取り返しのつかないイフルートを考えた回数も少なくない。それでも、それは所詮有り得なかった空想でしかなく、脳内で浮かんでは消える泡沫以上にはなれないのだ。
もしも、もしもだ。
もしも
もしも
────有り得ないことだけど。
────馬鹿らしい。
そんなもしもを、紗夜は思考の闇へ葬り去った。
有り得ないことを考えることなど無駄の極みだ。夢物語など不要。もしかしたらそんなこともあったかもしれない────ああ確かに、その空想は美しいだろうとも。しかし、それは果たして今の氷川紗夜に必要な事柄か?
紗夜はそれを否と断じた。いらないのだ、そんなもの。過ぎ去った事象は戻らない。時計の針はただ前へ進む。それが歴然たる事実である。カレンダーを横目で見遣る。記されていた日付は、2027年の四月。その上から黒の絵具で塗り潰しても、過去の歩みは消えたりしない。
紗夜は目を
氷川紗夜、二十七歳。かつての決別から、十年。
◇◆◇
永劫の回帰を繰り返せ。
己の理想を成し遂げよ。
君にはその権利がある。
劣等感の中で生き、夜の闇で心に刺さった棘を誤魔化すしか出来なかった君には。
後悔にその身を浸したままで満足か?
悔恨の根を心に張らせたまま生きるのか?
否。断じて否。
君は後悔したはずだ、氷の少女よ。ならば過去に手を伸ばすがいい。望む結末を手に入れろ。
故に、さあ。起点は固定された。終点は君次第だ。その劣等感をなかったことにしたいのなら、姉として振舞ってみるがいい。
────回帰、一回目。
◇◆◇
目を覚ました紗夜が見たものは、小学校の教室だった。
「……え?」
混乱して辺りを見回す。そこには一様に椅子に座ってワイワイと騒ぐ、凡そ六、七ほどの年齢の男女が目算三十人ほど存在していた。
何が起きている。わからない。理解不能。脳の演算機能が現状へのエラーを叩き出す。紗夜は混乱の渦に飲み込まれそうになるのをすんでで押し留め、それまでの人生の二十七年間で培った頭脳を回転させた。
自分が小学校の教室にいる。それは紛れもない事実である。なら何故そんな場所にいるのか。それを考えるのが第一優先である。
まず真っ先に思いついたのは〝夢〟だった。睡眠中の記憶の整理。覚めれば消える意識の雲霞。寝る前に妹のことを思い出したから、まだ己が劣等感を抱く前の過去の夢を見たのか────そう紗夜は推測した。
夢から覚めるのによくある方法として、痛みを感じるというものがある。頰を叩くのでも、身体の一部を
小さい。何もかも。長く細かった指は短くなっており、見慣れた掌は寝る前の半分ほどの大きさにまで縮んでいた。試しに手の甲を抓る。少しばかりの鋭い痛みが走った。
まさかと思い紗夜は己の全身を見て、絶句する。そこにあったのは凡そ二十七歳の肉体と言えるようなものではなく、周りの少年少女たちと同じ、齢
痛みを以ってしても尚この夢は覚めない。ならばこれは現実か。有り得ない。過去へ戻るなどというオカルトが、果たして世界に存在していいものなのか。
その時、紗夜の背中に向けて、懐かしい声が投げられた。
「おねーちゃん、どうしたの?」
瞬間、全ての時間が静止したかのような錯覚が紗夜を襲った。
〝いや、まさか〟。もう何度呼ばれたかもわからない、自分に向けられたその呼び名。氷川紗夜を姉と呼び慕う人物は、後にも先にも一人しか存在しない。
錆びついた機械仕掛けの人形のように、紗夜は恐怖に固まる身体を軋ませ後ろに向ける。どうか夢であってくれ。どうか空耳であってくれ。どうか、その予測が間違いであってくれ。そう願って。
結論から言えば、その予測は当たっていて。
さらに言えば、最悪の形で実現していた。
目を向けた先、そこにいたのは────
「おねーちゃん……なんか、顔怖いよ?」
思い出の中にしかいなかったはずの、
「……日菜、よね」
「……? うん、あたしはあたしだよ?」
キョトンとした顔で紗夜に返す日菜。何を当然のことを、とその表情が物語っている。そこにいるのは氷川日菜以外に有り得ない。
紗夜は覚えていた。かつての過去。まだ幼いが故に姉妹の真似事が出来ていた時期、そんなものが存在していたことを。だとすれば、今こうしている時間は果たしていつの時代だ? まだ二人の間に溝が出来る前はいつの時代に存在していた?
「ねえ日菜。少し変なことを聞くようだけれど……今は西暦何年かしら?」
「せいれき……えっと、今はねー……
────ああ、やはり。
この時ばかりは、紗夜は己の頭脳と先読みの技能を呪った。もしもここで、彼女が〝現実となったオカルト〟を理解できずに狂うことが出来たら、それはどれほど幸せなことだっただろう。しかし紗夜には理解出来てしまった。結果として脳は現実を受け入れ、狂うことを許さない。皮肉にも、〝妹より先へ〟と願って培った頭脳によって、その悲劇は齎されたのだ。
これで紗夜は確信した。間違いない。自分は今、
拒絶出来るものならしたかった。否定出来るものならしたかった。しかしあまりにも鮮やかな世界の風景は、紗夜にこれこそが現実なのだと無情にも突きつける。
これは罰か。妹である
────否、もしかしたら、そうではないのかもしれない。
その思考を、紗夜は〝違う〟と考えた。視点を変えて物事を俯瞰する。そこに、この現実が罰か否かの観点は必要ない。
これはチャンスなのではないか。紗夜はそう思考する。かつて失敗した姉妹の仲をやり直す絶好の機会────過去に戻ったということは、その地点から起きる事態の把握も容易ということだ。何をすれば失敗するのか、何をすれば成功するのか。かつて選択を間違えたイフルートを再び選び直すことが出来れば、或いは────。
脳裏に浮かんだのは、失敗した未来での関係。
何度やり直したいと願ったことだろう。その関係が歪だというのも痛いほど理解していた。それでも、〝姉〟という矜持が、関係の修復を拒んでいたのだ。
ここでならやり直せるかもしれない。日菜にきちんと向き合えるかもしれない。かつて犯してきた過ちを、ここでなら。
────きっと、これは。
禁忌なのだろう。そう思ってしまう。
〝パンドラの
その女は開けてはならない匣を開けた。そこからはありとあらゆる災厄が飛び出し、故に、世界には悉くそれらが蔓延したという。
しかし、それでも残ったものがあった。すぐに閉められた蓋の内側、匣の底から出ることを叶えられなかった、たった一つの希望。即ち────未来。
人は未来を知らないからこそ明日を向いて生きられる。ならば、明日の出来事を知る氷川紗夜という時空の異物は、果たして正しく生きられるのか。
その問いこそが無意味だと、紗夜は胸中で結論づける。生きられるか、ではない。生きなければならないのだ。一つの間違いも許されない。やり直すのならば、次こそは完璧に。
そうと決まれば、紗夜の決断は迷いなく為された。
過去を断ち切る。過ちを断ち切る。失敗を断ち切る。敗北を断ち切る。理想の姉の像を描き、日菜の憧れに見合う形を作り上げる。
「そう、2007年……」
ならば起点はここだ。今この瞬間こそが、新たなスタートを切るに相応しい。
決意する。もう二度と、失敗なんてしたりしない。
そう、全ては────もう一度、姉になる為に。
◇◆◇
────次の回帰まで、あと二日。
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