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まさに青天の霹靂……驚天動地というありさまを呈する帝国。
200年近い歴史を誇るバハルス帝国は、あろうことか、アインズ・ウール・ゴウン魔導国の“属国”となり果せた。
ほんの数ヶ月前、王国への宣戦布告文書に記載された──意味不明瞭な新興国家ごときに、あの鮮血帝ジルクニフ・ルーン・ファーロード・エル=ニクスが膝を屈し、頭を下げたというのだ。この話は、ジルクニフ帝の警護任務を任されていた──今では都市国家連合あたりに逃げたアダマンタイト級冒険者チームのタレコミであるため、かなりの信憑性があった。
噂を聞き付けた騎士団や帝国貴族からの反発は強かった……が、魔導国の武力──厳密には魔導王の示した圧倒的「力」を前にすれば、誰にも否とは言えなかった。
死の風で王国軍数万人を即死させ、五匹の巨大怪物を召喚して蹂躙と虐殺を行い、さらには魔法を封じた肉弾戦で帝国最強の武王を圧倒し完全勝利をおさめ……さらには蘇生の力まで見せつけられた、今となっては。
そうして、その噂はほどなくして、現実のものとなった。
バハルス帝国領は、領土面積においては比べるべくもない魔導国の、アインズ・ウール・ゴウンの治める国の“属国”となった。
しかし、意外なことも多かった。予見されていた法整備は、ほんのわずかの条文を加えるだけに留まり、あとはこれといった変化など起こらなかった。騎士団の再編などで多少の混乱や不和は生じたが、“旧帝国”は堅実に魔導国の属国としての地位を安泰化させていくことに。
そんな政争渦巻く雲上での出来事など、平民たちにはそこまで重大事には響かない。
無論、平民たちの間でも、帝国の属国化について真偽を疑う者や変化を倦み嫌う意見は多かったが、あの帝国闘技場で、何よりも誰よりも強いと豪語され、長らく帝国最強の地位についていた武王を、真っ向勝負で圧倒せしめた「魔法詠唱者」の噂は、もはや帝国領内で知らぬ者はいないほどの関心事に成り果てていた。
「王国軍を一発の魔法で壊滅せしめた稀代の魔法使い」「ジルクニフ帝が完全に敗北を喫したアンデッド」「『真の冒険者』を募るという、一風変わった国家政策の持ち主」「帝国の歴史を終焉させたモンスター」「富と栄光をもたらすとか」「死と殺戮を蔓延させる凶兆では」「鮮血帝を超える賢王か」「邪神の降臨やも」などなど。
さらには、そんな魔導王アインズ・ウール・ゴウンが統治する国領……旧エ・ランテルや周囲一帯の噂も、多く風聞されるようになった。
「魔導国内には未知のアンデッドが犇めいている」「街辻には人影がまったくないとか」「いやいや、それは違うぞ」「王国にいたアダマンタイト級冒険者が、法の執行者になったとか」「私が聞いた話では」「何某が」「誰それが」「──」「……」などなど。
そんな旧帝国の帝都郊外──孤児院を仮宿として住まうワーカーチーム“フォーサイト”は岐路に立たされていた。
「私は反対させていただきます」
ヘッケランが提案した内容を、斜向かいの席に着く神官は、断固拒絶していた。
「落ち着いて考えてください、ヘッケラン。
魔導国なる国は、アンデッドが統治する、アンデッドの跋扈した土地だと聞きます。そんなところに移住して、冒険者を目指すなど……そんなことは不可能な話です!」
「ちょ、そっちこそ落ち着けって、ロバー」
卓を叩くほど興奮するメンバーに、リーダーとして、ヘッケランはどうどうと言わんばかりに手を振った。
「アンデッドが統治し跋扈するって、そんなのタダの噂だろ? いや、統治する部分は完全に当たっているだろうけど。実際に魔導国に行って、本当のところを調べてみる価値はあるんじゃないのか?」
「アンデッドというモンスターが、どれだけ危険な存在か! あなたも十分理解しているはずです! あのカッツェ平野でも、どれだけの冒険者やワーカーが犠牲となったか、知らないあなたではないでしょう!?」
「ちょ、熱くなりすぎ!」
思わずイミーナが止めに入るほど、ロバーの息は荒くなっていた。
それも当然。
彼の信じる神への信仰……神官として生きる男の感情が、神の教えに背く
「──私は、ヘッケランの意見には、とりあえず賛成。もちろん、魔導国の実態とやらを掴むことが大前提だけど」
イミーナはヘッケランの暴走……危険がないと判れば、物事を深く考えずに行動する傾向を抑止する“女房”役を担っていたが、その彼女が、今回はヘッケランの魔導国行きを支持していた。
あの帝国闘技場での、魔導王自ら行った宣布。あんな力強い演説を打つ存在を、そこいらの木っ端なアンデッドモンスターと同一同類であると考えることは難しい。「真の冒険者」を志す者を募るという謳い文句が、ただ生者を喰らうアンデッドの言葉であるとは思えなかった。
魔導王の言ったことに、おそらく嘘はない。
加えて。
「私らの今の状況だと、ここに、この孤児院に、いつまでもいるわけにはいかないし」
「……ええ、それはわかっておりますが……」
ロバーは悔し気に呻く。そんな彼の様子を窺うように、ヘッケランは推測をひとつ言ってみる。
「それによ。魔導国の冒険者なら、神殿とかに気兼ねなく働けるんじゃねぇかなー……とか?」
「…………確かに。アンデッドの国であれば、神殿勢力など何の意味もないでしょうが」
ロバーデイク・ゴルトロンにとって、冒険者になることは、必然的に神殿勢力などの圧力を受ける立場に陥ることを意味する。神への信仰による癒しの力を、病気の子どもや戦争や災厄で傷ついた人々へ施すことを希求する善人にとって、目の前で苦しむ者に多額の金銭を覚悟しろなどとは、口が裂けても言えない言葉だ。そうやって、神殿のルールに縛られた結果、ロバーは目の前で幾人もの人間を見殺しにしたことを、今もなお悔い続けている。だからこそ、ロバーデイク・ゴルトロンはワーカーの地位に甘んじ、孤児院への寄付という形で、自分が見殺しにしてしまった命への償いを果たしているのだ。
だからこそ、神殿勢力など介在しようのない……アンデッドが国主の座に就く国での冒険者ならば、そういった苦い過去にとらわれることなく、人々を救う冒険者として、堂々と働けるかもしれない。
しかし、そのためにアンデッドの……神の敵の治める国に行くというのは、素人でも本末転倒な与太話にしか聞こえない。たとえ、魔導王陛下が、神の信徒にしか不可能なはずの、蘇生の力を有していても、だ。
ロバーは告げる。
「それも、結局はアインズ・ウール・ゴウン魔導国の実態が判明しないことには、意味がありません」
やっぱりそうなるよな。
思って、ヘッケランはイミーナと共に肩を落とす。
帝都で集められる魔導国そのものに関する情報など、信憑性に欠ける風聞の域を出ない。「魔導国では生者が奴隷のように酷使されるとか」「いいや、それは根拠のない話だ」「アンデッドの営む国がまともであるとは思えない」「闘技場の運営者が言うには」「帝国騎士団の重鎮の話だと」など、結局は『何もわかっていない』というのが、帝国における魔導国の評価であった。無理もない。アンデッドが跋扈すると噂される国に自ら近づこうという人間は、ほとんど狂人と言える。おまけに、あれだけの戦いを闘技場で見せたアンデッドが待ち受ける国になど、頼まれても行こうとはしないだろう。
それでも。魔導国へ亡命し、魔導王の運営する新たな冒険者組合に属することで、安定した地位と給金を得ることができれば、この状況から足抜けできるはず。
ヘッケランは主張を続ける。
「このまま帝国のワーカーとして続けていける保証もないし。今さらチームを解散させて、それぞれが転職するなり引退するっていうのも──その、なぁ?」
「そうよねー」
そう気軽に頷いて、イミーナが見つめる斜向かい。
ロバーの隣の席に座り、ヘッケランと対面の位置に腰を落とす少女の事情を、全員が理解していた。
ここでチームを解散させれば、アルシェは、その妹たちは、路頭に迷うだけ。ヘッケランたちのような根無草な暮らしを、目の前の十代の少女は送ることができない。ウレイリカとクーデリカという、二つの根。二人の家族を養うべき姉として、アルシェにはまっとうな暮らしができる環境が、どうしても必要だった。出来れば、幼い二人の面倒を見てくれる……仕事に行く間だけでも、二人の世話を見てくれる環境があれば、尚よし。
だが、「元」帝国貴族ご令嬢という身分は、どうしても不安材料となる。
妹たちを預けた先が、アルシェの両親に通報したら?
あるいは、「元」とはいえ貴族の娘を
そういう意味では、ロバーの寄付金で成り立つこの孤児院は、まさにうってつけの場所。信頼できる孤児院の院長や先生たち。たくさんの友達に囲まれ、平民も貴族も関係なしに駆けまわる天使たちが、中庭で元気いっぱいに笑っている。食べ物も着るものも寝床だって十分。
だが、やはりアルシェたちの身元を考えれば、いつまでもお世話になることはできない。
この孤児院を、護るためにも。
「アルシェは、どう思う?」
ヘッケランに問われた少女は、何とも言えない表情で、膝の上で拳を握り、俯くしかない。
「だよなぁ……」と力なく項垂れるヘッケランは、他のメンバーを見やる。
ロバーが腕を組んで頭を振る。イミーナは憮然としながら、リーダーの裁量を窺うのみ。
今回ばかりは、ヘッケランにも無理強いできるような案件ではない。
ヘッケランが目指そうとしている国は、圧倒的強者たるアンデッドが統べる魔導国。
噂に聞く限り、魔導国はアンデッドが通りを歩き、恐れおののいた商人が立ち寄ることをやめて商業は滞り、かつての賑わいや活気はどこにもないと聞く。
そんな、文字通り墓場みたいな国に、「冒険者になりにいこうぜ」と誘っても、手放しで頷ける人間は、普通いない。
「……とりあえず、今日の会議はここまでにするか」
このあとの予定も詰まっている。精神的に重い腰をあげて、空気を切り替えた。
今日は院長先生に頼まれていた食料の買い出しと、ワーカーチームとして必要な備品の補充……日銭稼ぎのモンスター討伐などで消耗した武器やアイテムの
ロバーは憮然と押し黙りつつ、チームの輪を重んじて行動してくれる。アルシェは悄然としながら、チームの重荷になっている自分たちの境遇に溜息をつきかけていた。その様子が、リーダーにはつらい。
ヘッケランは努めて飄々と振る舞っている。しかしどこかで選択をミスった感じに押しつぶされそうになるが、幸い、肩を叩いて励ましてくれるイミーナは、旦那様の味方でいてくれた。
(なんとかして説得したいところだが)
結局は、魔導国を十分に知ることから始めなければならないということ。
憶測や推論だけを混ぜこねても、十分な解答や納得に至れるわけがない。
「お姉さま!」
出かけるべく孤児院の出入り口に集まったフォーサイト一行を見つけ、中庭で遊んでいたアルシェの妹たちが近寄ってくる。姉の腰に二人の天使が抱き着いてきた。
「どこかに行くの?」
「ちょっと買い出しに行くだけ。お夕飯までには戻るから」
「いいなー! 私も一緒に行くー!」
「ウレイリカずるーい! 私も一緒がいい!」
「ダメ。二人とも、いい子でお留守番していて。ね?」
アルシェが少しばかりキツく
「帰ってきたら遊んであげるから、ね?」
とりなすアルシェに対して、双子は一歩も譲らない調子で涙を目にいっぱい溜め込み始める。
「お姉さまと一緒がいい」
「お姉さまと離れたくない」
困り顔で二人の頭を撫でるアルシェだが、今日の買い出しには、ワーカーとして欠かせない武器整備も付随している。特に今回、アルシェの杖の調子は絶対に確認しなくてはならなかった。
しかし。魔法使いの武器を扱えるのは魔法使いだけであり、世界への接続を行い、位階魔法を唱える媒体となる武器“杖”の整備ともなると、戦士であるヘッケランが調子を確かめ、アルシェの身体や魔力の感覚に合わせて微調整を──という作業は根本的に無理がある。アルシェの魔法は魔力系。信仰系魔法を扱うロバーでも、その代行など不可能なことだ。
だというのに、ウレイリカとクーデリカは、姉の身体に小さな掌でしがみつき縋り付いたまま。
ヘッケランは頭をかきつつ、リーダーとして決めた。
「しゃーない。──ウレイ、クーデ、俺たちから『絶対に離れない』って、約束できるか?」
言われた途端、双子は華のような笑みを咲かせた。
「「うん!」」
アルシェが困惑した表情で「いいの?」と無言で問いかける。
「大丈夫だって。俺ら全員で守ってやれば済む話だし……それに、二人には相当、無理させてるし」
ガス抜きは誰にだって必要だろう。
ウレイリカとクーデリカは、ほとんど孤児院の外に出ていない。
貴族のご令嬢で、世間一般の常識を知らない上、一応は両親から引き離された身の上にある双子の幼女。冒険者や騎士が捜索を行っているという話は聞かないが、万が一ということも考えて、極力孤児院の敷地外には出していなかったし、二人は孤児院の中にいる友達の子どもらに囲まれて、だいぶ満足していた。
しかし、いつまでもその生活が続くものでもない。
「これをキッカケに、少しは外の世界に触れさせて、世間サマの空気になじませていった方がいいのかもしれないしな」
アルシェやフォーサイトと一緒に、いざ別の土地や国……魔導国などに移住する時にも、街道の歩き方などをぶっつけ本番で教えるというのは、幼い少女らにとっては、なかなかハードルが高いだろう。
フォーサイトは院長先生に話を通し、一応は変装としてローブをかぶせたアルシェの妹たちを伴って、孤児院の外に出た。
「──対象の“三人”を見つけた。ああ、すぐに手配を」
帝国の中心地・帝都。
さすがに国家の首都は商品の種類も量も豊富で、露店の数も多い。とりあえず、院長先生に頼まれていた野菜やパンなどの買い物の前に、フォーサイトは、歌う林檎亭同様、贔屓にしている武器防具店の鍛冶職人のもとを訪れ、予約通りモンスター退治で傷んだ武器や防具の整備を依頼して、次の場所に。訪れたのは魔法の工房であり、冒険者やワーカーが扱う治癒薬や装身具の他に、魔法詠唱者用の武器や防具……杖やローブなどの点検と調整を行ってくれる(ちなみに、アルシェの通っていた学院の御用達ではないので、貴族時代のアルシェの知り合いと鉢合わせる確率は低い)。
ローブを被ったまま、アルシェは預けておいた愛用の杖を受け取り、その握り具合を確かめる。ついで、魔力が浸透していく感覚に揺らぎや歪みがないかを確認。第三位階を修めるアルシェは、妹たちの前で〈
感激に湧く妹たちの様子を微笑ましく思いつつ、ふと、ヘッケランは店の戸口を窺う。
(なんだろうな……変な感じが?)
気配のようなものを首筋に感じる。
イミーナを窺うが、
見れば、妹たちが「すごいすごい」とはしゃぐのに、こそばゆい表情を浮かべたアルシェが、職人の仕事に満足の首肯を落としていた。
「うん。大丈夫です」
自分の身長よりも高い杖を、魔法詠唱者の少女は器用に振り回す。
相変わらずいい腕をしていると褒めたたえる才媛の言葉に気を良くした工房主は、いつものように料金を少しだけサービスしてくれた。第三位階魔法を扱える存在は希少。その位階にある〈飛行〉を巧みに操って見せるアルシェの才能は、ただ見せてもらうだけでも価値があるものだと。
まったく。ワーカーにしておくのは、本当に惜しい。
「じゃあ、次は買い物だな」
ヘッケランたちの預けた武器防具整備が終わるまでの空き時間に、孤児院の買い物を済ませる予定だった。
アルシェとイミーナは双子とはしゃぎ遊びながら「何か買いたいものはある?」などと双子に訊ねながら歩き、ヘッケランとロバーデイクが後ろから平和なやりとりを見て微笑みつつ、周囲を窺いながら付いていく。一行は魔法工房から離れ、中央市場への近道になる路地裏を通った──その時。
「フルトさん、ですね?」
突然だった。
狭い裏路地の、さらに小路のような影から、妙な男が現れた。
「……フルト?」
妹たちを抱きしめたアルシェが、怯えたような声色で、
「聞こえませんでしたか? アルシェ・イーブ・リイル・フルトさん、ですね?」
聞き違えようのない、少女のフルネーム。
それを口にする男の存在は、今のヘッケランたちには看過のしようがない。
「それと、ウレイリカさんとクーデリカさん」
名前を呼ばれた双子は、姉の腕の中ですくみ上った。
──純粋な悪意の色に。
「ああ? んだ、おまえ?」
ヘッケランは迷うことなく最前列に進み出たが、ワーカーの凄みに対して、男はまったく応えた感じがしない。
「あまり荒事にはしたくないので、簡潔に言いましょう……フルトさん達……“おまえたち三人は、私たちと一緒に来ていただきます”」
……私、
ヘッケランは咄嗟に周囲を窺った。
閑散としていた路地裏に、いつの間にやら相当な数のゴロツキ……
ヘッケランの後ろで、イミーナが驚愕を露わにした。
「ちょ、なんで!?」
「イミーナさんが気づかないほどの腕の野伏や盗賊がいたようですね……」
ロバーの答えに、優男は気安く頷いた。
フォーサイトは冒険者のランクで言えば、ミスリル。その上となると、オリハルコンあたりだろうか。さすがにイジャニーヤのような暗殺者集団などはいないだろうが、10人単位のワーカーチームはあまり多くない。ヘビーマッシャーなどのような大所帯は確実に目立つもの。とすれば、二つ以上のチームが、この男の指示で動いているというところか。あるいはフォーサイトと同格の中で、盗賊業……潜伏技術などに特化したチームであれば、フォーサイトの目であるイミーナでも、感知のスキを突かれることはありえるだろう。
「おまえら、ウチのアルシェたちに何の用だよ?」
問いかけつつ、ヘッケランは預けておいた武器とは違う片手剣を一本……背中に隠していたそれを手中に握る。こういった奇襲夜襲にも備えておくのは、ワーカーとして当然の嗜みだ。呼応するようにロバーもイミーナも、普段とは違う得物──
「ああ。それはコイツから聞いた方が早いでしょう」
優男の影に隠れていた、その男。愛想笑いに嫌悪感を覚える。
「おまえ、あの時の?」
歌う林檎亭で『フルトんちの娘に伝えておけよ!』と捨て台詞を吐いた
ヘッケランは理解した。
「親の借金取りの催促のために、ワーカーを引き連れてくるなんざ、割に合わないんじゃないか?」
あるいは、あの時ヘッケランに脅されたことへの当てつけや仕返しも込みだろうか。どっちでもいい。状況はなかなかに最悪である。
借金取りの男は「ご心配なく」と言って、ヘッケランの青筋の立った形相を睨み返す。
「こちらの方々は、ウチの専属用心棒として雇っている方々でな。ランクでいえば、アンタら“フォーサイト”とやらにも渡り合える凄腕さんたちよ。そして──」
「お初にお目にかかります、フルトさん」
優男は借金取りの前に歩み出る。
「あなたのお父様には、ウチはだいぶ稼がせていただき、誠にありがとうございます」
「ウチ? ……まさか、あなた」
優男はヘッケランに気圧された男を従えるような雰囲気で、ワーカーたちに手慣れた様子で指示を送る。
「捕まえろ」
ゴロツキ共が動いた。
ワーカー同士の小競り合いや喧嘩などは珍しくもないが、完全に依頼されて敵対してくるチームというのは本気度が違う。おまけに、フォーサイトは折悪しく武器整備で主武装が欠けている。唯一、万全と言えるアルシェは、ちゃんと約束を守って離れずにいた妹たちを両腕の中に抱きしめている状態にあった。
結果は歴然。
「クッソ!」
ヘッケランは抵抗むなしく瞬く間に打ち据えられ捕らえられ、イミーナもロバーデイクも、路地裏の汚い路面に顔をこすりつけさせられる。優男の「ご苦労様」という声が冷たく耳を撫でた。ついで、汚く怒鳴り散らす声がヘッケランに近づいてきた。
「ハッ! ナメた口をきいてた割に、あっけねぇ!」
思い切り蹴り上げられ、ヘッケランの体がくの字に曲がる。純粋な戦闘者の攻撃でもなかったので、さほどのダメージでもないのだが、それが二度三度と続くと、正直キツい。
「その辺にしておけ、バカ。俺は別に、おまえの仕返しに来たわけじゃねぇんだぞ?」
「は、はい。ボス」
あっさりと引き下がり委縮した借金取り。
ボスと呼ばれた男──闇金の上司は、ヘッケランたち同様に掴み据えられた少女を見下ろした。
「ずっと探していたのですよ。あなたたち“三人”を」
三人という部分を強調する語気が気にかかった。姉やヘッケランのように抵抗する
アルシェはせめてもの抵抗を口舌に乗せる。
「……私は、私たちは、もうフルトの家とは関係ない! 父の借金は、私たちの知ったことじゃない!」
吐き捨てる少女の剣幕に、優男は「そんなこと知るか」と言わんばかりの冷笑を浴びせるだけ。
「そうは言っても。おたくのフルト家。あそこはもうスッカラカンで。屋敷も調度品も何もかも差し押さえたが、それでも全額回収できそうにないんで──」
いやな予感がヘッケランの脳裏を過ぎる。
アルシェの父親に、返済能力がないと判断した闇金融が、最後の手段に訴え出たという、事実。
「で。フルトの当主──君のお父様は、これにサインしてな」
「……それは?」
差し出された羊皮紙に書かれた文言を、アルシェは信じがたいという表情で眺めた。
優男は冷厳に、要領だけは簡潔にまとめて、告げる。
「そ。『屋敷も調度品も……“フルト家の娘たち”も全部、ウチの金融で
アルシェの喉がひきつった。瞠目する顔面から、血の気が引くのが眼に見えてわかった。
「そんなバカな!?」
イミーナは喚いた。
「なんていう父親だ!!」
ロバーデイクも叫んだ。
「自分の娘を、売っ払いやがったっていうのか!!?」
ヘッケランもたまらず吠え散らした。
なんて野郎だ。娘に多額の借金を押し付け散財しただけでは飽き足らず、その娘を抵当として──“
ヘッケランは今すぐにでも拘束を解いて、アルシェの父を、実の子をモノ同然に売り払った親を殴り殺しに行きたい衝動に駆られるが、状況はそれを許すはずもなく。
「……そ、んな────そんな!」
アルシェの肩と腕を掴み捕縛している屈強なワーカー連中ですら、同情の念を懐きたくなるような、少女の悲嘆。だが、彼らもまた仕事である以上、雇い主の前で手を抜くような無様はさらさない。
そして、アルシェの悲痛な声には一切かまわずに、闇金の優男は淡々と羊皮紙の書類を丸め、事務的な口調で、アルシェたち……フルト家の娘たちへの『所有権』を主張する。
「逃げようなんて思わないことだ。こっちにはこの契約書がある上、これだけの人数。おまけに、あんたが万が一にも逃げ出せば、借用主の親御さんがどうなるか──だいたい、わかるだろ?」
実の子を売り払う親など見限ってしまえ。そう言ってやるのは簡単だが、それを十代半ばの少女にさせるのは酷というもの。
アルシェだって人の子だ。
どんなにひどい親でも、どんな仕打ちを受けようとも、アルシェにとって親は親だ。育ててくれた恩は返した。もう二人の作り出す借金は手に負えないと
……それでも。“親”なのだ。
しかし、アルシェは今、その親から棄てられた。
ヘッケランは、優男に
「おまえら……アルシェを、ウレイとクーデを、どうするつもりだ?」
「決まってるだろう? ウチの別部署──“娼館”で商品として“売る”だけだ」
だと思った。
うら若き少女を差し押さえて、それ以外の使い道があるものか。
王国ほどではないが、帝国にも勿論のこと、そういう商売は存在している。どこの国の、いかなる地域であろうとも、人口集積地に『春を売らせる』場所や仕事というのは存在しているものなのだ。王国も帝国も、法国や聖王国だろうと例外はない。そして、親に売られた娘の行きつく果てなど、そういうトコロというのが相場である。
「あ、う……う、うううぅ……っ」
弱々しい音色で、アルシェは喉の奥から、胸の内から、心の底から
孤児院で共に暮らすうちに、アルシェの本当のことを、家の事情や、それに伴う少女の想いを、ヘッケランは日々の安らかな一時の中で
アルシェは思っていた。
いつか──「わかってくれるだろう」と思った。
いつか──「変わってくれるだろう」と想った。
けれど、それはありえなかった。
いつか、家族全員で、貴族であった時代も何も忘れて、慎ましくもささやかな、小さい家で暮らし、あたたかなご飯をみんなで作って食べ、明るい暖炉を囲んで、魔法の教科書や御伽噺の絵本を広げて、仕事で疲れている両親を労ってあげて、夜を双子の妹たちが寝付くまで共に過ごす…………そんな、あたりさわりのない、どこの家庭にもある平和な日常が待っていると、心の奥底では、信じていた。どこまでも優しい少女は、そう信じることしかできなかった。
だからこそ、アルシェは必死に、ワーカーとして金を稼いだ。
稼ぎ続けた。
魔法学院で思い描いていた夢も未来も可能性もすべて投げ捨てて、家の再興を信じて現実を見ようとしない父と、そんな父に同調してやることしかできない母のために、死にかけるような冒険や依頼をやり遂げてきた。猛獣の爪に引き裂かれ、アンデッドの振るう赤錆びた武器と打ち合い、仲間たちを護る魔法や、敵を薙ぎ払う魔法を幾度となく唱えてきた。杖を握る両手は、学院時代とは比べようもなく硬くなり、体中に傷が残って、かつて夢見たことのひとつ……普通の「お嫁さん」になる望みは諦めるしかないと、一度だけ、一晩だけ、泣いた。
借金を返し、屋敷の維持管理や飲食費、使用人たちへの給金を払い、それでも湯水のように、両親は財貨を何たるか心得ることなく、借用書の山を築き上げた。
それをひとり管理し、途方もなく膨れた金利で、アルシェは首が回らなくなる我が家を、どうしようもない思いで支え続けた。ひとり部屋にこもって、頭を抱えて喚き散らすようなことも幾度かあった。何もかも投げ出したくなり、逃げだしてしまおうとすることも……。
けれど、それはしなかった。それだけはできなかった。
ワーカーの仕事を終えて帰った家には、妹たちが、二人の天使がいてくれた。
この子たち二人を護り育てる場所は、どうしても、アルシェには必要だった。
両親が更生を果たし、共に金策に走って、余分な屋敷や調度品を売り払い、貴族としての出自など忘れ、平民として生きていくことを選んでくれる時が、きっと──いつか──だから──
だが、その最後の望みすら、もはや幻のごとく消えた。
「うぅわあああああああああぁぁぁぁぁぁ!!!」
大粒の涙を流す少女は、とっさに〈
巨漢が魔法の力で浮き上がり、信じがたい速度で路地裏の壁に打ちのめされる。
「テ、メェ……!」
非力なはずの魔法詠唱者からの反撃に、手の空いていたゴロツキ共が一斉に投げ縄や鎖を伸ばして、杖を掴んで空をかける少女を縛りたてる。
あいにく、魔法詠唱者の筋力では抗い切れない縛鎖の前に、アルシェは墜落を余儀なくされた。
ワーカーとしての嗜み──常に携帯していた杖を取り上げられては、さしもの天才魔法使いであろうとも、どうしようもない。
「離せェ! 離せエエエッ!」
「暴れるなって、この!」
「アルシェ、よせ!」
ヘッケランの呼ぶ声によって、はじめてアルシェは振りかえる。
「動くな。クソ
思わぬ〈飛行〉の魔法の応用で手ひどくやられた男が、双子の首根をへし折れる位置で、鈍く光る短剣をチラつかせた。
そんなワーカーの働きに、優男は軽く頷く。場合によっては「やむなし」という無言の合図。
「ここで商品に傷をつけるのはマズいかもだが……幸い、似たような双子だ。一方にだけ判りやすいシルシが付いていた方が、喜ぶ“お客”もいるだろうよ!」
刃が、クーデの頬に触れかけ、ついで、唇の端を──顎の下を撫でた。
「お、ねえ、さま……っ」
「やめて! 二人を放して!」
庇護者である姉としての悲痛な叫びが路地に木霊する。
「だったら! 言う通りにしろ! おまえたち三姉妹は、三人仲良く娼館で養ってもらえ! ありがたく現実を受け入れろよなぁ!」
アルシェは汚い石畳の上に再び組み敷かれ、咽び泣いた。
「うぁ、あああああ、ああああ、ああああああ…………」
自分たちの身に訪れることに、運命の悪辣な巡りあわせに、最悪な物語の結末に、泣き続けた。
(……こんなの、アリかよ)
ヘッケランは無力な自分に苛立つ。
噛んだ奥歯が砕けそうなほどに、痛む。
もっと早く、逃がしてやればよかったのだ。
フォーサイトとしてのチームにこだわらずに、アルシェたちをもっと別の土地、別の国に……魔導国に送り出し、亡命でもさせておけば……そのための金が不足していたのなら、たとえブン盗ってでも、罪を犯してでも工面して、姉妹の安全が保障されるだろう場所に向かわせていたら。
無論、大前提として、魔導国の詳しい情報などをちゃんと調べ上げ、アルシェたちがしっかりと自立できる国や土地なのかどうか──本当に冒険者を受け入れ、生者を死者の食料にするような場所でないことを念入りに確かめてからでないと、そんなことは不可能だった。送り出した先で、アルシェたちがアンデッドに食われ、アンデッドに成り果てましたなんてことになったら、ヘッケランはどうやって彼女たちに詫びればよいのか。
ここで終わり。
ここが行き止まり。
こんな場所で……フォーサイトは終わるのか。
そうして、諦めかけた、その時。
「何をしているのかな?」
裏路地にいる全員が振り返った。
絶望しきったヘッケランが、ゴロツキ共に拘束されたイミーナやロバーデイクが、泣き喚くアルシェですら、その声には不思議な強制力を感じた。圧倒的強者が奏でる、
「魔導国の属国となった、帝国の冒険者組合に用があって来たが。
……もう一度だけ聞こうか。
君たちは、『何をしているのかな』?」
舞台役者のごとく透き通った、男の声──
漆黒の全身鎧に、双振りのグレートソード──
胸には、アダマンタイト級冒険者としての輝き──
見目麗しい黒髪の女従者を引き連れた、偉丈夫の姿が。
フォーサイトを救って!
「無駄だ。もうフォーサイトを救える騎士はいない」
いるさっ
ここに一人な!!