「ひきがやおはよ」
「……ああ、おはようさん」
「今日は何勉強してるの?」
「国語だ。特に古典を重点的にやってる。得意分野だからこそミス出来ん。ここで得点を稼げなきゃ、到底総武は無理だからな」
あの夢はまだ続いていた。いや、続いていたというよりは、それが常になったと言うべきだろう。八幡は、目覚めている時は三十五の男性として日々を生き、眠っている時は中学三年の男子として生きていた。
そして、今のように折本との関係も続いている。朝の挨拶は返すようになり、常にではないが休み時間にも会話するような、そんなありふれた友人関係として。
「そういえば、ひきがやって国語のテストめっちゃ良かったもんね。数学の分、そこでって事?」
「そうせざるを得ない。ま、思っているよりも数学も点を取れるかもしれんから、少し余裕はあるんだが……」
そう、この状況になってから受けた中間テストで八幡は初めて中学とはいえ数学で七十点以上を取ったのだ。これは、記憶にある現役時代の中でも群を抜いて高得点である。この事から、彼はこのまま行けば夢の中での総武受験はかなり合格濃厚と読んでいた。
そもそも、実際に合格した事があるのだ。その頃よりも基礎学力は上がっている事もあり、正直八幡の中に受験への不安はないと言えた。もし不安があるとすれば、それは受験ではなく……
「それで、今日は何を聞いて欲しいんだ?」
「それがさ、またあいつがひきがやと話すの止めろって言ってきて……」
折本との関係だ。友人ではあるのだが、やはり精神的に余裕がある八幡と思春期只中の中学生男子では女性から見た時の安心感や頼りがいが違い過ぎる。そのため、今や折本は傍目には八幡こそ特別な関係なのではと思われそうな程、彼との時間を設けるようになっていた。
「前も言ったが、それが当然だ。男ってのは基本独占欲が強い。それも、初めての彼女だ。色々と気を回し過ぎるのが普通だ」
「でもさ、だからってあたしの行動に一々口出ししてくるのもどうだろって。だって、しまいにはあたしがひきがやとデキてるんじゃないかって言い出すんだよ? マジウケないよね」
「……分水嶺かもしれんな」
「へ? ぶん……何?」
「分水嶺。つまり、分かれ目だ。ここでのお前と彼氏の判断が二人の今後を決めるって事だよ」
八幡の説明に感心するような顔で頷く折本。彼との時間を彼女が増やしていたのにはわけがある。それは、単純に楽しいからだ。中学三年の男子と言えば、多かれ少なかれ下方面の事ばかり考えている。だが、八幡はもう三十五。とっくに思春期は終わっているし、童貞だからといって拗らせている訳ではない。そう、彼はもう諦めているのだ。故に、周囲と違って彼だけがいち早く男性となっていた。
大人の男性との会話は中学女子にとっては新鮮さに溢れていた。自分へ向ける眼差しはいやらしいものではなく、返ってくる反応は全て彼の本心であり、それでいて時折男子らしい面も見せたりする。はっきり言って、今の彼氏がいなければ折本は八幡をそうしたいと思っていただろう。
(あ~あ、あたしって運が無いなぁ。違うか。見る目ないなぁ。ひきがやがこんなイケメン、じゃないイイ男だったとかさ。……他の子に気付かれたくないな)
何も浮気をしようとしている訳ではない。ただ、八幡の良さを他の女子生徒に知られて自分から遠ざけられるのが嫌だったのだ。異性の友人として、八幡は常に折本と一線を引いていた。文字通り、友人のラインを超えないように立ち振る舞っているのだ。
「折本、彼氏へこう言ってみろ。今のような事を結婚しても続けるつもりかと。もしそうなら付き合い切れないってな」
「えっ? 結婚? ちょっとひきがや、あたし達」
「分かってる。そんな事を言うには早すぎるのは重々承知してる。だが、これで彼氏の本音と性格が見えるはずだ」
「? どーゆー事?」
「さっきお前も言ったように、結婚なんてまだ早すぎる。だが、これをお前が言う事で彼氏はこう思うはずだ。こいつ、そんな事まで考えてるのか、と。要するに、折本は別れたくないと思ってて、しかも出来れば結婚までしたいと思ってると、そう勝手に解釈する訳だ。で、肝心なのはここからだ。付き合い切れないと、こう続いてる。つまり、今の干渉を折本は嫌だとはっきり告げているんだ。それを聞いても尚、相手が干渉を止めない時は……」
「時は?」
そこで八幡は視線を折本へ向けて短く告げる。
「自分で考えろ」
「何それ」
「そんなに自分を大事にしたがってると考えて関係を続けるか、あるいはそれだけ束縛してくる厄介者と思って別れるか。決めるのは折本自身だ」
そこまで目を合わせて言い切って、八幡は再び視線を手にした教科書へ戻す。そこからは、もうこの話題で言うべき事はないという意思が感じられた。そんな彼に小さく笑みを零し、折本は椅子から立ち上がるとそれを元の場所へ戻して自分の席へと向かった。
「……決めるのはあたし自身、か。ひきがやって先生やお父さんみたいな時あるよね」
小さく呟いて一度だけ彼女は後ろを見る。まったくこちらを見る事なく教科書を読み耽っている八幡に呆れつつも嬉しそうに微笑み、折本は軽く息を吐いた。
「ぶんすいれー、かぁ。うん、付き合い出して二か月は経ったし、もうすぐ三か月だからいいタイミングかも。あいつともっと色々話さないといけないし」
どんな同級生よりも頼りになりそうな友人からのアドバイスを胸に、折本は席へと戻った。本来であれば、良くも悪くも自由気ままで相手の事を深く考えない性格だった彼女。だが、それも八幡との関わりの中でゆっくりと変化していた。ただ気安いのではなく、そこにちゃんと相手の事も考えるような、そんな確かな優しさが根付きつつあった。
時間は流れて放課後となり、八幡は一人下校の支度を整えて鞄を肩へかける。すると、その肩へ紐が鞄の重みで少しだけ食い込んだ。復習のために教科書やノートを持ち帰っているためである。
「こうなると、せめて教科書だけでも家用にもう一冊欲しいとこだな」
軽くはない重みを感じながら彼は歩く。と、校庭へ出た辺りで汗を流す運動部達の声が聞こえてきた。何気なく目を動かしていくと、当然サッカー部の姿もある。
「……折本には言わなかったが、もし仮に彼氏の束縛が折本が大事とかじゃなく、自分のプライドのためだったとしたら……」
であれば、別れ話は危険かもしれない。が、かつての記憶を思い起こせば折本は海浜時代特に変化はなかった。それを思い出し、なら考え過ぎかと思って八幡は小さくため息。
「用心深いな、ホント」
自身の思考傾向に呆れながら、彼は家路を行く。この時、彼は忘れていたのだ。かつて自分が受けた仕打ちを。あれを主導した人間が、果たして本当に彼女大事だけでそこまでの事をやるだろうかと。その自分の至らなさを、八幡はこの後で知る事になる。
「ごちそう様」
両手を合わせきちんと挨拶をする小町。本日の献立は安くて美味しい庶民の味方のさんまの塩焼きであった。それと大根と豆腐の味噌汁に出来あいではあるが豆とひじきを煮た物である。
「おう、茶碗とかはそこに置いたままでいいからな」
「ありがと、おにーちゃん。にしても、本当にいいの? 小町、もうお料理出来るのに」
「俺が高校生になったら代わってもらうから心配すんな。ああ、正確には受験勉強が本格化したらだ。そん時は頼む」
「ほーい」
明るく返して部屋へと向かう小町だったが、ふと足を止めて流しで洗い物をしている八幡を見つめた。
「おにーちゃん」
「ん?」
「最近のおにーちゃん、何だか小さかった頃に戻ったみたいで小町嬉しい。あっ、これ小町的にポイント高い」
「……そうかよ。なら、そんな事を言ってくる健気な妹を持って俺は幸せだ。これ、八幡的にポイント高い」
「えへへっ、そうゆー事にしといてあげるっ!」
トタトタと元気よくリビングを出ていく足音を聞きながら、八幡は微笑みを浮かべていた。懐かしいと、そう感じていたのだ。小町のポイント云々は今やもう聞く事はなくなったのだから。
「……っうし、こんなもんか」
洗い物を終えてエプロンを外した八幡は、何気なしに携帯をチェックした。折本と連絡先を交換してから、彼女からメールが来る事があったためである。
「……は?」
画面にメール受信を告げるアイコンがあったので、折本からだろうと思って展開すると予想通りの相手からではあった。だが、その内容はまったく予想していないものだった。
―――あいつと別れた。そしたらすっごく怒鳴られて、あたしがひきがやと付き合いたいから別れたいんだろって言われた。ごめん、ひきがや。あたし、違うって言ったんだけど聞いてくれなかった。ホント、ごめん。
文面を何度も読み返し、八幡は深呼吸をした。記憶になかったからだけではない。その内容が示すのは、下手をすればかつて以上の面倒事の発生だった。
「俺が折本と関わり過ぎたからかよ。いや、結局俺が辛い目に遭うのは既定路線か? 夢の中ぐらい良い事だけにしてくれないとか、本気で俺の性格めんどくせえ。リアリティの追及はゲームだけにしてくれませんかね?」
この夢が自分の体験などを利用して作られていると、そう彼は考えている。故の結論であった。これは、自分が折本の彼氏から恨まれて酷い目を受ける事は避けられないのだと。
「いいさ。俺は、慣れてる。何せある意味二度目だ。だけど……」
携帯を握る手に力がこもる。チラリと目をやれば、そこには先程の文面。きっと、泣いているのだろう。何故なら普段であれば顔文字なども混ぜられているからだ。それでも、何も知らずに学校へ行くよりはと思って動いてくれたのだ。そう考え、八幡は怒りを鎮めるように長く息を吐いて返信メールを送る事にした。
―――気にするな。折本が悪い訳じゃない。それに、ある意味で俺のせいでもある。だから、この件はもう終わりにしてくれ。俺もあまり自分を責めたくないからな。怖かっただろうけど、俺の事を思って否定してくれてマジサンキュだわ。本当に、ありがとう。
送信ボタンを押して、八幡は深く息を吐く。
「……自分の彼女だった女だろ。なのに、何で最後の最後に傷付けるんだ……っ!」
それこそが、彼が未だに青臭い証。そして、他ならぬかつての少女達が好意を寄せた部分。無くしようがない、彼の優しさであった。
そしてそこで彼もようやく思い出すのだ。折本の彼氏があの凄惨なイジメ、それを主導していた事を。故に腹が決まる。
「あれをやった奴だから、こういう事をするってか? ま、そうだろうな。そうか、海浜の時に折本が変わってなかったのはあいつから振ったって事なんだろう」
八幡の中であった最悪の想像が当たっていた。折本の彼氏は、彼女が大事だから彼との関わりを嫌がったのではない。自分がいながら彼女が他の男と仲良くしている事が気に入らず、故に別れ話を切り出されて誤解を自分の中での正解としたのだと。
「あの時は俺が自分の彼女へ迫ったから仕返しに。今回は、彼女から別れを切り出された逆恨み、か。どちらにしても器の小さい野郎だ」
分析しながら八幡は今後どうするかを考えていた。まず、折本のために今後彼女との接触を可能な限り断つ事。これが社会人であれば、別にそうじゃないとアピールするようにこれまで通りの関係を続ければいいが、学生では逆効果になる事を彼はどこかで察していたのだ。
そして、次に想定されるイジメの内容。あの頃にされた事は似た事が起きるとみて間違いない。後は、当時なかった本人からの直接攻撃だろうか。妙にプライドだけは高そうな印象を受けるため、自らの手で何かしてくる可能性がある。そう考え、彼はどうしたものかと頭を巡らせた。
(学校は頼りにならない。っと、待てよ? あの頃は俺もされるがままだが、今の俺は一応それなりに社会で生きてきた。ただの学生じゃない思考で考えろ。どうやったら相手は何も出来なくなる? どうすれば学校は動かざるを得ない?)
そうやって考えて、彼が出したのは至って単純な答えだった。そのために彼はその日、眠らずに両親の帰宅を待った。そして、疲れて帰って来た両親へ温めた食事を出すと、それを食べている二人へこう言ったのだ。
「学校で厄介な事のターゲットにされた。自衛のために録音機器が欲しいから金を貸してくれないか? 来年のお年玉で返す」
その言葉で、疲れながらもおかえりと出迎えてくれた息子に感謝して食事していた二人の目が見開いた。そして彼の簡単な説明で両親も事情を把握、ならばと父親が即座に動いたのだ。
「よし、明日は学校を休め。連絡は俺がしといてやる。で、車で量販店に行ってICレコーダーを買うぞ」
「仕事はどうすんだよ?」
「休む。もしくは遅れて行くと連絡する。お前が男として戦おうとしてるんだ。なら、それに応えなけりゃ俺も男が廃るってもんだ」
「……八幡、くれぐれも暴力は最後の手段にしなよ? 少なくても、あんたから手を出すのはダメ」
「分かってる。理想は10:0だしな。最悪でも8:2ぐらいにはしてやるさ。学校も巻き込んでやれるならそうするつもりだ。サッカー部部員の傷害事件、なんてきっと表沙汰にはしたくないだろうし」
こうして八幡は両親が食べ終わるまで待ち、洗い物を終えてから眠りに就いた。
「……何というか、夢の方が現実より活気あるってのもどうなんだろうな?」
寝惚けた顔でベッドの上でぼやく八幡だったが、その顔はどこか嬉しそうだった。両親の、特に父親の反応が嬉しかったからだ。たしかに、彼とその父は傍目からはお世辞にも仲良しと言えない。だけど、八幡は分かっている。父は父なりに愛情を自分へ注いでくれていた事を。美人は信用するな。その教えからもそれが窺える。
「不器用、なんだよな。俺も親父も」
同性へどう愛情を示していいか分からず、それでも自分なりに愛情を注いだ結果がオタクの英才教育であり、あの教えなどの教育だったのだろう。今の八幡はそれをはっきりと実感している。あの夢の父の反応も、それを分かっているからこそのものだとも。
「さて、今日は……遅番か。なら、もう少しだけ余裕があるな」
疲れがない訳ではないが、それでも息子のためにと動こうとした父の姿を思い出し、八幡は軽く頬を叩いて気合を入れる。
「今日は久々に買い物行って自炊するか」
様々な物が並ぶ店内。そこを目当ての物を探しながら歩く比企谷親子の姿があった。
「一体どの辺りだ?」
「……親父、あそこだ」
八幡が指さしたのは、まさしくICレコーダーなどが並ぶ場所。そこへ少し足早に向かい、二人は陳列されているものを眺めた。
「……やっぱり小さければ小さいだけいいのか?」
「可能な限りな。ま、今はどれも小型化が進んでる上に性能が良くなってるし、それなりの値段を出せばハズレはないと思う」
揃ってICレコーダーを見つめる眼差しは真剣そのもの。やがて程なくして一つのICレコーダーを選び、支払を父親が済ませて二人は店を後にする。ちなみに小町へは下手な心配をさせたくないと、彼女が家を出るまで八幡は制服に着替えており、学校へ向かった後に私服へと着替える徹底ぶりであった。そして、父はそれまで惰眠を貪っていた事を追記する。
さて、こうして当初の用件を済ませてしまった二人であったが、ただ家に帰るだけでは何だと、そのまま少し早目の昼食を食べるためにドライブする事に。
「……な、八幡」
「ん?」
その途中、父は息子へと声を掛ける。特にもったいぶるでも、緊張するでもなく、至って普通な感じで。
「最近、何かあったのか?」
「……いや、だから」
「そうじゃない。お前自身の事だ。ある時から急に大人びいた。だけど、それが不自然じゃない。本当に年齢を重ねたみたいな感じさえする。お前、何があった?」
「…………夢を見てるんだよ、俺は。本当は三十も超えたおっさんだ。馬鹿みたいだろ? だけど、本当だ。三十五にもなって、独り身で、童貞で、彼女さえも出来た事がない。親孝行だってロクに出来てないししてもない。そんなのが、何故かこんな夢を見てる」
「八幡……」
「笑っちまうだろ。散々過去に戻るつもりはないとか言いながら、こんな夢を誕生日からもう一月近く見続けてる。どんだけ未練たらたらなんだか……」
一度として運転席を見る事なく、八幡は呆れるように、突き放すようにそう言った。どうせ夢だ。だから愚痴らせろ。そんな気持ちでの告白に、しばらく車の上げるエンジン音や空調の音だけが車内に響いた。
すると、父は何を想ったのか車を路肩に止めてハザードを点灯させるや、シートベルトを外した。
「八幡、こっち向け」
「……何だ?」
「そのお前は無職か?」
「は……?」
「夢のお前は無職かと聞いてる」
「……一応働いてる。デパート勤務の警備員」
「そうか。仕事は辛いか?」
「辛くないと言えば嘘になる。三交代制だけど、夜勤や遅番は特にしんどい」
そこから父は八幡の話を聞いていった。急かす事なく、ただ一つずつしっかりと。そうこうしている間に、時間は実に一時間以上経過していた。
父は、こう思ったのだ。八幡は夢の中で孤独に震えているのだろうと。このままでは、自分は一人ぼっちになって寂しく生きる。そんな漠然とした不安から夢を来たるべき現実と捉えてしまったのだろう。そう結論を出した彼は、その夢をちゃんと受け止めてやる事にした。大事な幼少期から今まで、特に小町が生まれてからは苦労を掛け続けてきたという自責の念もあった。
だから、彼は八幡の話を笑う事もせず、ちゃんと向き合って受け止めたのだ。それが、自分の父としての務めであると。そんな父の姿に、八幡もしっかり向き合って話すようになっていた。それは、まるでそれまでの時間で積み上げるべき父と子の会話を凝縮するかのような一時であった。一分一秒を一時間にも一日にも感じる時間。それは、あっという間に時計の針を動かしていた。
「……そんなもんか?」
「ああ、大体話した」
「ったく、さすがに現実というだけあって濃度が凄いな。お前、それを本にしたらどうだ? 作家になれるかもしれん」
「無理だ。実体験を書いて売れるのは、余程の経験の持ち主か芸能人ぐらいだろ」
「ま、分かってるならいい。さて、飯時には丁度いい時間だ。何を食べたいか言ってみろ。今回は特別に何でも食わせてやる」
「……今日が俺の命日か」
「かもしれないぞ。なら最期の晩餐だ。ほら、遠慮なく言え」
その後二人が訪れたのは回転ずしの店。そこで八幡は遠慮なく高い皿も沢山食べ、父の財布の軽量化に貢献するのであった。
帰宅した八幡は自室へと向かった。父は、昼間から酒を飲んで寝られる幸せと言ってリビングで缶ビールを呷っている事だろう。
「……やっぱりか」
部屋に戻った八幡は、折本から送られていたメールで現状を把握していた。やはり彼女の元彼氏は八幡への逆恨みでの行動を開始していたらしい。が、折本はそういう意味では賢い女子であった。先んじて女子同士のネットワークを使い、元彼氏が振られた腹いせに八幡をイジメようとしているとの噂を広めたというのだ。
「マジかよ。女ってやっぱり怖ぇ」
更にそこから、元彼氏へ協力する者が出ないように別の噂も広めたと書いてあった。
―――彼女だった女の言う事を信じないで、勝手に自分の中だけで答えを出すなんてサイテー野郎の仲間なんて、逆にそいつがイジメられるんじゃない? って、そんな感じ。ひきがや、今日風邪で休んだって聞いたけどホント? もしそうなら寝てるとこゴメン。
メールの最後にあった文面に、八幡は息を吐くと返信を打ち始めた。もしかすると、自分の対策は無駄に終わってくれるかもしれないと思いながら。
―――色々ありがとな、折本。正直感謝してる。俺は俺なりに自衛策を講じようとしたんだが、それがもう必要ないかもしれないぐらい完璧なカウンターだ。女子の繋がり、半端ないな。いや、本気でマジ感謝。
そう文章を書き終えたところで、八幡はある事に気付いて小さく苦笑しながら修正を加える事にした。それを終えて、再確認をしてから彼はメールを送信する。
「……ぁ」
それを教室で授業を受けながら待っていた折本が気付いて、小さく笑みを浮かべて内容へ目を通す。
―――色々ありがとな、折本。正直感謝してる。俺は俺なりに何とかしようとしたんだが、それがもう必要ないかもしれないぐらいの完璧な対処だ。女子の繋がり、半端無いな。いや、本気でマジ感謝だわ。
その文面から、よく見せる苦笑いを浮かべながらメールを打つ八幡を想像し、折本は笑顔のまま返信を送った。
―――それほどでもないって。だから、友達でいてくれる?
―――ああ。ただし、しばらく物理的な距離は取った方がいい。少なくても、学校では挨拶ぐらいにしてくれ。
―――物理的ってどーゆー事?(・_・?)
―――人が見た時の距離だ。気持ちとしては、今まで通りで構わんから。
―――( ̄ー ̄)b
―――……了解って事でいいのか?
―――そーだよ( ̄∇ ̄)
―――顔文字、復活だな。
―――……まあね。だって、文字だけだと楽しくないじゃん(*^ヮ^*)
そんなやり取りをしている折本は気付いていなかった。とっくにその顔は、恋をしている時の顔だと。そして、そんな彼女のメールを見て八幡がある女性を思い出している事も……。
あの夢から目覚めて仕事を終えた八幡は、警備員の制服を脱いで従業員出入り口から手荷物検査を受けて外へ出た。残暑厳しい陽射しが容赦なく彼を照り付ける。それが、夜勤明けの彼には殺人的に感じられた。
「……暑い」
空調の効いた店内からほとんど効いてないような従業員通路を通過し、まったく空調など関係ない路上へ出る事は軽い自殺のようにも思える程である。八幡は日陰を選びながら自宅へと向かって歩き出した。と、その時、ふと視界を見覚えのある女性が横切った気がして、彼は思わずその相手を目で追った。
「…………あれは、折本か?」
どこか疲れ果てたような顔で帽子を目深にかぶって去って行く女性の背中を、八幡はただ見つめる事しか出来なかった。とてもではないが、これから出勤という感じではない。彼女もどこか今の自分と似てる気がする。そう思いながら何となしに彼は折本と思われる女性が出てきた方へ目を向けた。
「…………まさか、な」
そこは、所謂ネオン街。水商売の人間が働く場所だったのだ。有り得て欲しくないと思いながら八幡はもう一度女性が歩いて行った方へ目をやる。そこにはもう彼女の姿はなかった……。