「おはよ」
「おう」
あの折本に似ていた女性を見た日、八幡は夢の中で彼女と顔を合わせて確信していた。あの疲れた顔をした女性は折本であると。ただ、どうしてか分からない。それと見た場所も場所だった。ソープやクラブなどの所謂夜の街。そこから彼女は出てきたのである。
「……まさか、そういう事なんだろうか」
元彼氏の事を考慮し、今までと違って折本は挨拶だけで自分の席へと向かう。それを見つめる事さえせずに、八幡は教科書を見つめながら寝る前まで考えていた事を続けて考えていた。
だが、いくら考えても答えなど出るはずもなく、徒に時が過ぎるのみだった。それと、幸いにも警戒していた厄介事も起きる気配がなく、八幡としてはホッとするやら拍子抜けだわと色々と心を砕きながら放課後を迎えた。
「おい、比企谷」
後は帰るだけ。そう思っていた矢先、八幡を呼ぶ声がした。顔を動かせば、そこには体格の良い男子生徒が立っている。それも、サッカー部らしくユニフォームに着替えてまでいた。
「何だ?」
「ちょっと話がある」
「ここじゃダメか?」
「ああ、ついて来い」
「分かった。なら少しだけ待ってくれるか?」
「あ?」
軽く威嚇するように凄む男子だったが、それも八幡が告げた内容で変わる事となる。八幡は周囲を見回して、まだ生徒がそれなりに残っているのを確認すると、ズボンのポケットからICレコーダーを取り出してはっきりと大きな声で告げた。
「俺、録音機器を持ってるんだ。今から全ての会話は録音させてもらう。ここにいる奴ら全員が証人だ。もし俺がそれを奪われたら犯人は一人しかいない。それと、こうする事でこれから録音する事は正式な証拠として扱われる。嘘だと思うのなら調べてみてくれ。黙って録音すると証拠能力はないが、しっかり宣言すればその限りじゃない。じゃ、行こうか。どこで話すんだ?」
あまりの事に呆然となる周囲と男子生徒。八幡は手にしたICレコーダーを見せてから再びズボンへとしまった。それに周囲が我に返ってざわつき始め、男子生徒の事を見つめる。
「なあ、どこで話すんだ?」
「……お前が、お前がかおりにちょっかいかけるから悪いんだろうがっ! 俺の彼女なんだぞっ!」
「待ってくれ。情報は正確にしたい。俺が、いつ、どこで、どういう風に、折本へちょっかいをかけたのか、それを教えてくれ」
感情的になっている男子へ八幡は努めて冷静に応対した。ゆっくりと、はっきり、小さ過ぎず大き過ぎない声量で。それは相手を落ち着かせる方法であった。出来るならこの場で決着まで持って行きたい。それが八幡の考えだった。人の目がある場所なら、相手も多少とは言え自制心が働くと読み、そのために敢えてICレコーダーの事を教えて相手の行動を封じたのだ。
八幡は、相手の格好と動きからその思考をこう読んでいた。典型的な肉体派と。もし彼が相手側なら、まず教室で話し掛けない。そして、部活の格好へ着替える事もしない。何故なら、それらは自分の立場を危うくするばかりだからだ。
今のように目撃者を多く生む教室ではなく、下校した後で声を掛けるために門前で待っておくとか、あるいは誰か別人を使って人気のない場所へ呼び出すのが最善手。
次に格好だが、これは言うまでもない。事件を起こした時、同じ部活の人間へ迷惑をかけるからである。つまり、心象を悪くする。これが制服ないし私服ならまだ理解もされるかもしれないが、わざわざユニフォームに着替えたのは考えなしとしか言いようがないためだ。私はサッカー部の人間で、悪い事をするのはサッカー部だからですと宣伝するようなものである。
「それは……い、いつも教室で」
「いつも、教室で、何をした?」
「か、かおりをエロい目で見ながら話してたろ! だから」
「ひきがやはっ!」
ヤケのような言い方で叫ぶ男子だったが、そこへ肩で息をしながら折本が姿を見せた。その登場に八幡さえも驚きを隠せなかった。彼女は放課後になるや、すぐに教室を出て行ったため、とっくに帰宅したと思っていたのだ。
「はぁ、っはぁ……あたしをエロい目で、見た事なんて、っないよ。少なくても……ふ~……あんたの方が、そういうのは多かったから」
呼吸を落ち着かせ、折本は言葉に詰まる男子から視線を八幡へと動かした。その顔にはありありと後悔の色が浮かんでいる。その理由が分からず、八幡は内心で首を傾げた。
「折本……?」
「ごめんひきがや。そいつから最後にもう一度話がしたいって呼び出されてさ。行ったら誰もいないし、待ってても一向に来る気配なかったから嫌な予感して」
「……そういう事か。ちなみにどこだ?」
「定番の校舎裏」
「じゃ、俺は折本が呼び出された場所から見えるところへ、こいつに連れてこられるはずだったんだろうよ。そこでお前に俺を叩きのめすとこか、あるいは俺が泣いて詫びを入れる姿でも見せようって魂胆だったんだろ。ああ、だから教室で声をかけてきたのか。俺と同じでここにいる人間を目撃者にして、こっちの怯える様子とかを後で折本に聞かせるために」
呆れたような八幡の推測に男子が息を呑み、折本達が非難するような目を向けた。まさしく八幡の予想通りだったのだ。男として情けないところを見せれば、折本が八幡へ愛想を尽かし、また自分へ戻ってくるとそう考えたのだ。
「まあいい。さて、話を戻そうか。さっき、折本がそっちの意見はでたらめだと宣言した。なら、他に俺が折本へちょっかいをかけたという明確な時刻や場所、内容を教えてくれないか」
「そ、それは……」
「まぁ、具体的に思い出せないなら大体でもいいぞ。あれば、だけどな」
「ないよ。ある訳ない。あったら、もっと早くにひきがやへ文句言いに来てるから。それと、もう彼氏面しないで。あたし達別れたんだし」
「か、かおり……」
「名前で呼ばないでよ。あたしが考え直してくれたらそれでいいって、あの時そう言ったのに、それを聞きもしないでひきがやと浮気したからだろうとかわめいてさ。最後にはあたしみたいな尻軽女、こっちからお断りだって言ったクセにっ!」
「っ!? そ、それはっ!」
「大方一日経って冷静になったら惜しい事したと思ったんだろうな。だから余計自分で直接俺をやりこめたかった訳だ。折本に自分の方が強い男だって見せるために、か。まだ愛情はあるみたいだぞ」
「どーだか。案外相手がひきがやだからじゃないの? カッコイイ奴とか、自分よりも男らしい奴じゃないから、そんな奴に自分が負けたって思われたくないとかさ」
折本の容赦ない指摘が男子を黙らせる。それが何よりの証拠であった。このままでは不味いかもしれない。そう思った八幡はこれ以上の会話は危険と判断し、即座に割って入る事に決めた。
「そこまでだ。もし痴話喧嘩の続きをやるなら、面と向かってじゃなく電話かメールにするのをオススメしとく。その方がお互いに最悪の手段に出ないで済むからだ。殴り殴られは警察沙汰だしな。高校どころか中学だって卒業出来なくなるかもしれんぞ。あと、そっちは所属する部活の連中も巻き添え食うだろうから余計止めとけ。何もお咎めなしならいいが、もしあったら後で何をされるか……あー、やっぱ体育会系って面倒だわ」
感情的になってきている折本とそれに感化されてまた感情的になりかねない男子を、八幡は冷静な意見と理由で黙らせると、愚痴を零してそのまま鞄を手に教室を後にした。まるでドラマかと中学生達に思わせる程大人な対応と行動に、彼がいなくなってから少しすると教室内がざわつき始める。
それを合図に男子生徒はバツが悪くなったようにその場を立ち去り、折本はそれを少しだけ見送った後、近くにいた仲の良い女子へ尋ねたのだ。自分がいない間に何があったのかを。
その日の夜、折本から八幡へメール、ではなく着信があった。珍しいなと思いつつ、彼は通話ボタンを押した。
『もしもし? ひきがや?』
「ああ、どうした? あの元彼氏と揉めたのかよ?」
『あー、そっちはもう終わった。やり直そうって、そう言われたけど今すぐは無理だからって』
「ま、そうだわな」
『あ、そうそう。聞いたよひきがや。何か録音する奴持ってたんだって? それをあいつに見せてた時のひきがやが、弁護士みたいだったってみんな言ってたんだから』
「……まぁ、そういうのを参考にしてるからだろ」
若干照れくさそうに返す八幡だったが、それには理由がある。彼もかつて厨二病を患った事がある人間だ。故に、ああいう事をやってみたいというような欲求が無いわけではなかった。だからあの状況下でも、彼は落ち着いていられたのである。夢の中であるし、何よりもかつて行った文化祭の時の屋上での行動に比べれば、悪役をせずに済むだけ楽というものだったのだから。
『でも、ひきがや。あいつが誰もいないとこで呼びとめてきたらどうしてたの?』
「そん時は簡単だ。まず人気がない場所へ行かないし近付かない。学校から帰る際は必ず誰か第三者がいるか見えるようにして移動。それでも声を掛けられたら録音だけして後は耐える」
『あれ? でも、たしか録音するぞって言わないと』
「証拠能力はないだけで、何も無力って訳じゃない。まず病院へ行って診断書をもらい、俺が暴行を受けている音声をコピーした上で学校の教師へ報告。その上で何も手を打たないか、あるいは一週間以内に何らかの行動を起こさない場合、その音声を教育委員会へ送ると圧力をかける。後は、同時に警察へも行くと言っておけばいい。音声そのものに証拠能力はなくても、暴行があった証明にはなる。傷害事件となれば警察沙汰だって言ったろ?」
そこで折本は気付いた。あの時の八幡の言葉は、そうなった時にあの男子へ言うつもりだったのだろうと。つまり、一日休んだ時点でもう八幡は負けない状況を作り出していたのだ。相手が殺すつもりで来れば話は別だが、中学生で中々そこまでは出来ない。それに、理由が直接彼女を盗られたともなれば別だが、所詮八つ当たりのようなもの。なら、きっと自分の優位性や憂さを晴らせば終わると読んだのである。
『……ひきがやって、もしかして結構すごい?』
「用心深いだけだ」
『あはっ、それあるー。でも、その用心深さがひきがやらしさかもね』
「……かも、な」
折本の口調や雰囲気は、どこか彼にとって懐かしい女性を連想させる。そのため、今の言葉も折本でありながらあの優しいお団子ヘアーの女性に言われたように感じていたのだ。
『とにかく、これで卒業までは絶対大丈夫だから。で、やっぱりまた物理的に距離取らないとダメ?』
「念には念を、だ。卒業までは現状維持が安牌だろうな」
『えっと、あのさひきがや』
「安牌ってのは安全牌、麻雀いやドンジャラって知ってるか?」
『うん、知ってる。昔やった事ある』
「あれみたいなもんだ。要するに捨てても相手に上がられない牌。転じて安全策みたいなもんだ」
『へぇ~、ひきがやってやっぱ色んな事知ってるよね。マジウケる』
「お前はもうちょっと色んな事知った方がいい。どこで何が役に立つか分からんからな」
『むーっ、ひきがやが先生みたいな事言う』
「事実だ。現に俺だってそういう知識で今回助かってる」
『そうだけどさ。あたし、勉強ってあんまり好きになれないんだよね』
その言葉に、一瞬だけ八幡の脳裏にあの疲れた顔の折本の姿が浮かび上がった。生きる事に疲れたような顔、生気の欠片も宿さない目。今の折本を知っていると同一人物と思えない程の変わり様だった。それを思うと、どうしてそうなるのかが八幡には想像出来なかった。だが、それは当然である。雪ノ下や由比ヶ浜でさえもうどうなっているのか分からない彼に、高校のクリスマスイベント以降ロクに顔を合わせていない折本の事が分かるはずがなかったのだ。
「とにかく、もう切るぞ」
『もうちょっと話そうよ。ダメ?』
「……悪いが風呂入ってないんだ。続きはまた今度な」
『今度っていつ? 明日のこの時間って事?』
まさかの返しに八幡は内心で項垂れた。社交辞令必殺のまた今度。それを見事なカウンターで潰されると思ってなかったのである。意図してではないと思うが、だからこそ彼は負けを認めるしかなかった。
「ああ、それでいい。じゃあな」
『うん、おやすみひきがや。また明日ね』
「おう」
電話を終え、八幡はぼんやりと思い出していた。それは、中学の記憶。折本へ勝手に好意を寄せ、メールを一通送るのにも時間をかけていた頃を。返信を待って中々寝付けなかった頃を。
(あの頃の俺が今の俺を見たら、何て言うんだろうな? どうやったと聞くのだろうか。それとも……)
まだ、用心深くなる前の自分。素直さが残っていた自分。何より、男の子だった自分。それを思い返して八幡は微かに苦笑いを浮かべた。
「おかしなもんだ。あの頃の俺に今の俺が憧れてるなんてな」
もしあのままで総武に行っていたのなら、自分はどうなっていたのだろうと、そう考えて彼は笑う。まずあのままでは自分は総武へ行けないと分かったからだ。何も進路に選ばないとかではない。合格出来ないという理由であった。
(それに、仮に行けたとしても捻くれてない俺じゃ、奉仕部には縁がないだろうし……)
あの、人生で一番輝いていた時間。今もまだ生きる力を与えてくれる日々。それの始まりである青春とは悪であるという作文。そんな物は、捻くれ男しか書けないし書かないのだ。そう思って八幡は椅子から立ち上がると部屋を出た。入浴を済ませ、日課となっている復習をしながらふと思うのだ。
「俺が総武に行かなかったら、千葉村や文化祭、生徒会選挙はどうなるんだろうか……」
それぞれ鶴見留美、相模南、一色いろはという三人の人生に少なからず影響したであろう出来事だ。それに八幡は大きく関わった。それがなくなれば、と想像しようとしたところで彼は頭を軽く左右に振った。
「意味がないな。俺がいなくても、何とかなったか、あるいは何とかしたはずだ」
彼は、自分が特別だと思っていない。彼は、自分がいなければあの頃の出来事が悪化したと思っていない。そう思うようにしているのだ。自分の代わりはどこにもいないが、自分の役割を代われる存在ならどこかにいるのだから、と。
こうして彼は眠りに就いた。が、この日を最後にしばらくあの夢を見なくなったのだ。それを八幡はこう判断した。自分の中のストレスがかなり軽減されたからではないかと。
「……ま、これが普通だ」
どこか後ろ髪を引かれる思いではあったが、八幡はあの夢を夢として処理しようとしていた、そんなある日の事だ。遅番の勤務を終えて路上へ出たところで、折本を彼は見かけたのだ。しっかりと化粧をしたその姿は、以前見た時と別人のように見えた。目に生気が無い事を除けば、であるが。
「……っ! 折本っ!」
彼は、気付けば追い駆けていた。仕事で疲れた体にも関わらず、意外な程動く力はあったらしい。それでも、人の多さで彼女の背中を見失いそうになる。何とか追い続け、その背中は一軒の店へ消えた。そこは、所謂風俗店の一種であった。
「……マジ、かよ」
何とも言えない気持ちが彼の中に渦巻いた。しかしそれもほんの少しだった。彼はおもむろに財布を取り出して中身を確認すると、店の中へと足を踏み入れたのだ。
「いらっしゃいませ。当店は初めてですか?」
「ああ。その、写真を見せてもらえるか?」
「当店は別料金となりますが……かしこまりました。こちらでございます」
無言で頷く八幡に受付の男性は写真を差し出した。その中から彼は折本らしき女性を見つけた。ある程度修正を加えてあるが、折本に間違いないと確信してその写真を指差した。
「彼女がいい」
「お客様、お目が高いですね。カオルちゃんは人気の子ですよ」
「そうか。一番長い時間でいくらになる?」
風俗など来た事はないが、興味本位で多少調べた事ぐらいはあった。そのため、内心緊張しながらも八幡は受付を済ませ、呼ばれるまでソファに座って待っていた。
やがて嬢の準備が出来たのか、彼は案内されるまま折本と共に部屋へと入る。初めて訪れた風俗であったが、八幡はそんな事よりも確かめなければならない事があったため、まず機先を制して口を開いた。
「折本かおり、だよな?」
「…………ひき、がや?」
本名を呼ばれ目を見開いた折本だったが、更に相手を認識して余計目を大きく見開く。
「ああ。その、偶然街中でお前を見つけてな。悪いと思ったんだが、つい……」
「……そ。それで、どうするの?」
「言いたくないと思うが、もし良かったらあのクリスマスイベントから今まで何があったか教えてくれないか?」
「あの後、か。ふふっ、マジウケないなぁ。何でよりによってひきがやに……」
最後は俯きながら呟いた折本であったが、ポツリポツリと話し出した。まず、彼女の転落が始まったのは大学一年の時、勧誘に乗って入ったサークルが所謂ヤリサーだったのだ。何とか難を逃れたが、そこに関わった事で彼女はいきなり大学生活を大きくつまずく。
それでも何とか卒業を前にして内定を得た会社に、その過去を知られて下衆な勘繰りを受けて取り消しを喰らい、何とか他をあたるも結果は言うまでもなく惨敗。仕方なく実家でバイトなどをしながら家事手伝いをしていくも、見合いや婚活などでも大学での過去が足を引っ張り失敗ばかり。
「で、三十を迎えてさ。このままじゃ生活出来なくなるって思って」
「ここに? だが、こういうとこは若い女じゃないと」
「ひきがや、看板みてないの? ここ、人妻風俗だから年齢問わないんだよ」
あっけらかんととんでもない事を告げる折本だが、八幡はその内容を聞き流す事が出来なかった。
「結婚してるのか?」
「してないよ。お客さんだって調べる人もいないし、店側だって人は多い方がいいらしいしね。ま、中にはホントにしてる人もいるけどさ、あたしはしてない。してたらこんなとこ来ないし」
最後の言葉には、心の底からの気持ちがこもっていた。それが八幡の出し掛けた言葉を飲み込ませる。吐き捨てるような言い方だったのだ。
「それに、実は二十代の半ばぐらいからちょこちょことやってたんだ。真面目なバイトよりも稼ぎ良かったし。さすがにその時は今よりも内容が楽なとこだったけど」
そう言って笑う彼女は、あの朝見た顔に近かった。その寂しい笑顔が八幡の心を突き刺した。
「ま、辛気臭い話はこれぐらいにしよ? ひきがや、ここ初めてなのに大分奮発したでしょ。あたしも知り合いとするのは初めてだけど、ひきがやならいいかな」
「待ってくれ。俺にそのつもりはない」
「……ホントに? あたし、結構上手いって評判なんだよ。あたしも、ひきがやなら本当はダメだけどな」
「待ってくれ。折本、聞いて欲しい。その、俺は本当にそんなつもりじゃないんだ。ある日、あの明るかったお前が凄く疲れた顔をして朝の街を歩いてるのを見た事があった。それ以来どうしようもなく気になったんだ。それで、今日偶然仕事帰りでお前を見つけて、これを逃したらもう二度と会えないと、そう思って」
何か凄い事を言おうとする折本を遮り、八幡はしっかりと自身の気持ちを告げた。その脳内では、あの夢の中の彼女との時間が思い返されている。明るく、元気な、折本かおりの姿が。
彼の言葉に折本も感じるものがあったのだろう。胸を詰まらせるように瞳を潤ませながらも顔を背けた。まるで、今の自分を見せるのが心苦しいように。
「……あの、二人とは? クリスマスの時も一緒にいたじゃん」
「あの二人なら結婚したよ。俺とは別の相手だ。両方共子供までいる」
「……そ。で、ひきがやは?」
「年齢イコール彼女いない歴だ。女性経験もない」
その最後の言葉に折本は呆気に取られた顔をして、しばらくして楽しげに笑い出した。その明るい笑い声に八幡はしばらく驚いていたが、微かに微笑み彼女を見つめる。
「あー、久しぶりに笑った。ひきがや童貞なんだ。マジウケる」
「悪いか」
「ううん、それなのにこんなとこきて、大金出してしたいのがあたしと会話とか、本気でウケるんですけど」
「……まぁ、どうせ金の使い道なんて生活費とたまの姪や甥へのプレゼント代しかないからな。今月は結構切り詰める事になるが、お前がそうやって笑ってくれたのなら甲斐はあった」
「ひきがや……」
心の底からの言葉に折本は胸を押さえるように両手を動かした。その眼差しの先には、照れくさそうに顔を背ける八幡がいる。それが、彼女にはあの中学時代や高校時代の彼に重なった。この男の本質は今も変わっていないと、そう折本へ告げるかのように。
(……ホント、あたしって見る目なかったや。男の価値って、ううん人の価値って中身ってこーゆー事なんだね)
静かに涙を二筋流し、折本はそっと両手で目元を拭う。久しく忘れていた人の優しさと温もり。それを強く感じた事で。
「……で、だ。残り時間がどれだけか知らんが、それまで話を聞かせてくれ。何でもいい。折本の話を」
「……もしかして、あたしを口説こうとか思ってる?」
「そんな簡単な女じゃないだろ。ただ単に俺が聞きたいんだよ。異業種の話は、意外と面白い」
「仕事の話だけ?」
「……出来れば笑えるやつで頼む。もしくは、そっちのプライベートでの話せるやつだ」
「エッチなやつがいい?」
「…………任せる」
そこで一拍置いてから同時に楽しげな息が漏れる。こうして二人は時間の限り話をした。時折、合間を縫っては折本が八幡をそういう事に誘うのだが、それを何とか断る彼の反応に微笑みを浮かべて彼女は笑った。それが何故か無性に嬉しくて、八幡も気付いたのだ。折本が自分の反応を見たくて言ってきている事に。
「な、折本」
「ん?」
「過去に、戻れるとしたら戻りたいか?」
「…………いつにもよるかな。大学なら嫌。高校ならまだいい」
「中学は?」
「中学は……嫌、かな」
「元彼を思い出すからか?」
「違うんだ。その、違う。理由は言えないけど、とにかく中学も戻りたくない」
「そうかよ」
妙に頑なに中学時代を拒否する折本に疑問符を抱きつつ、八幡は彼女との会話を楽しんだ。何故か苦手意識や緊張はなかった。その背景にあの夢が影響している事は言うまでもない。
終了時間となった時、折本は一枚の名刺の裏へ何かをサラサラと書いて八幡へ手渡した。
「これは?」
「名刺。あたしの仕事用の番号とアドレス。で、裏のがプライベート用。本当の本当のやつだから。これ、店のお客さんには絶対教えない奴だからね」
「そ、そうか。その、ありがとな。マジ感謝だわ」
「っ……じゃ、お見送りするから行こ?」
これが彼の初風俗入店にして、大金払って見学止まりという何ともらしい結末。だが、それよりも彼の気になっていたのは一つだけ。
(折本が中学時代を嫌がる理由は……もしかして……)
もらった名刺の裏に書かれた連絡先。そこには、もう一つあるものが書かれていた。それはこんな文面。
―――あたし、ぶんすいれー、間違ったのかな?