やはり俺の見る夢はまちがっている   作:拙作製造機

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中学時代の夢はかおりも同じ夢を見ていました。だけど、最初から彼女は大人の彼女だったのでしょうか?


奇妙な夢とあの頃と

 夢と現実を行き来しながら仲を深め合い、それまでの時間を埋めていく八幡とかおり。夢の中での秋が過ぎ、冬が訪れ、そして春を迎えていた。そして運命のその日、夢の中で目覚めた彼は、あの事故を未然に防ぐべく過去よりも早く家を出て、自転車であの時由比ヶ浜が歩いていた方の道を走っていた。

 

「……いた」

 

 視線の先にはサブレを散歩させている由比ヶ浜。チラリと後ろを振り返ればまだ雪ノ下の乗る車は見えていない。そこで八幡は自転車を止めて、由比ヶ浜の方へと近付いた。ただ、不審人物にならぬよう注意を払いながら。

 

「あの、ちょっといいか?」

「へ? 何ですか?」

 

 まずは少しだけ困った感じで声をかけた。この時、彼が設定したのはサブレを触らせてもらいたいという理由だ。それが一番怪しまれずに事故を防げると踏んだのだろう。

 人の善い由比ヶ浜は総武の制服姿ともあって不思議そうに足を止めた。当然サブレも動きを止めざるを得ない。それを確認し、彼はさもサブレに興味があるとばかりに視線を向ける。

 

「それ、君の犬か? 良かったら少しだけ触らせてもらえると嬉しい」

「えっと、どうぞ?」

「悪い。家、猫飼ってるから犬は難しくてな」

「猫、飼ってるんだ。あたし、猫はちょっと苦手で」

「引っかかれでもしたのか?」

「ううん、昔ちょっとあって。嫌いじゃないんだけど……」

 

 まずは軽く撫で、サブレが警戒していない事を確かめるや優しく抱き抱える。すると、八幡の横を黒塗りの車が通り過ぎていき、それはそのまま何事もなく遠くへ向かっていく。念のため、そのまま少し会話を続け、頃合いを見て八幡はサブレをそっと下ろした。

 

「ありがとな。やっぱ犬もいいもんだ。サブレはよく躾けられてるからかもしれんが」

「そうかな? もし良かったら、また遊んでもらってもいいんだけど……」

「いいのか? て事はもしかして、ここをいつも散歩してる?」

「あ、えっと、そうじゃないんだ。あのね、あたしも総武生なの。今年から入学する由比ヶ浜結衣って言うんだ」

「……俺は、比企谷八幡。同じく新入生だ」

「比企谷……じゃ、ヒッキーって呼んでいい?」

「……別に構わないが……にしても時間大丈夫か? 入学式までそう余裕ないぞ? ほら」

 

 呼ばれ方に懐かしさを感じるも、それを顔には出さずにスマホを取り出して時刻を見せる八幡。それを見て由比ヶ浜はわたわたと動き出す。

 

「え? うわっ! マジだっ! ごめんねヒッキー、あたし帰らなきゃ! サブレ、行くよっ!」

「気を付けてな」

「また学校でね~っ!」

 

 慌てて駆け出して去って行く由比ヶ浜を見送り、八幡は安堵の息を吐いた。これでいいと、そう思って。事故があってもなくても自分が高校で一人なのは変わらないが、彼が関わらなければサブレの命は危ないかもしれない。ならば、事故を忘れて見て見ぬ振りは出来なかったのだ。サブレと由比ヶ浜の仲の良さを知っている以上、その笑顔と思い出がなくなるのも文字通り夢見が悪くなると、そう思ったのである。ただし、後悔はない訳ではなかったが。

 

「……由比ヶ浜と雪ノ下の出会いを潰した、んだよな。クッキー、作る必要ないし」

 

 それでも、サブレをみすみす死なせるよりはいい。そう思って彼は自分を納得させる。そう、さすがにもう事故を起こす事は出来なかったのもある。あの頃は学生だったから後先考えず行動出来たが、今は大人。色々な事を知ってしまった以上、下手な事が起きれば大事となる行動は取れない。しかも、今の八幡には彼女もいれば、両親や妹ともかつて以上に仲が良い。そんな時に入院するレベルの事故を起こせば、周囲がどうなるかは分かろうものだった。

 

「ま、人の縁ってのは意外とどこかで繋がるらしいし、俺の知らないところで出会うかもしれん。……二年になるまで夢を見てたら、手を打ってもいいかもしれんがな」

 

 そうして彼は自転車で総武へと向かい、あの頃出なかった入学式を経験した。その夢から覚めた時、彼はかおりに言われたのである。

 

「寂しい?」

「うん。あの頃は平気だったけどさ、やっぱ彼氏がいないのって割と心に来るんだよね。そりゃ、学校終われば会えるし、起きればイチャイチャも出来るけど……」

 

 弱ったなと、そう思って困惑する八幡を見てかおりは気付いた。やはり彼は寂しさを感じていないのだと。それは、彼が思い出の場所で時間を過ごしているからだ。それがかおりには若干の嫉妬心を生じさせる。

 

「ね、あたし思うんだけど、夢の時間はあたしが願ったから進んでると思うって言ったじゃん?」

「ああ」

「でも、それならアナタは? アナタは高校生活やり直したいって思ってなかった?」

 

 その問いかけに、彼は即答出来なかった。何も図星を刺されたからではない。自分でも分からなかったからだ。あの高校生活をやり直したいのか否か。その問いかけは、八幡にとって何度もしてきた事ではある。あるが故に、即答出来なかった。

 

(たしかに俺はやり直しを求められるはずがないと思ってきた。だけど、それは求められないであってしたくないじゃないんだとしたら? 俺は、どこかでやり直しを願っていたのか? かおりとこうなったのに?)

 

 自分の考えをまとめようとする八幡を、かおりは根気よく待った。ここも彼らが大人になった証である。これが二十代の頃ならば、間違いなくかおりは八幡へ不信感を抱き、怒るか悲しむかしただろう。だが、そもそも彼らは中々にドラマティックな再会と結ばれ方をしていた。それもあってかおりは信じていたのだ。八幡がやり直したいとしても、それは何も色恋のためではない事を。

 

「……もしかしてアナタ、あの二人の気持ちとちゃんと向き合わなかったの?」

「っ?!」

 

 そのかおりの言葉が思いの外八幡の心を捉えた。ちゃんと向き合う。それは、まさにあの頃彼がする事が出来なかった事だったのだ。好意を寄せてくれていた二人の少女。その二人と向き合う事もせず、なし崩しに時間の力で無理矢理終わらせてしまった、あの青春の日々。それをちゃんとした形で終わらせたいと、そう自分が想っていたのだとそこで理解したのだ。

 

「……かおり、その通りかもしれない。俺は、ちゃんと雪ノ下と由比ヶ浜に向き合いたかったんだ」

「あたしの時みたいに?」

「ああ、そうだな。かおりの時のように、俺は自分の気持ちを見つめ直したいんだ。ただ、男女としてではなく、人として向き合うからな?」

「本当だね? あたし、信じるからね?」

「おう、浮気はしない。不倫もだ」

「……夢だから分からないと思って油断しないでよ? それと、夢の中の二人にも。だって、今のアナタはあたし相手に女の扱い学んでるんだから」

「…………分かってる」

「あーっ、怪しいんだぁ。今、ちょっとだけ考えたでしょ? 可愛いもんね、あの二人」

「……今の俺にとって一番はかおりだ」

「っ!? もう、アナタが段々女の扱い上手になってる~」

 

 拗ねながらも嬉しそうに八幡へ抱き着くかおり。その体を優しく抱き締め、彼は思うのだ。もしかすると、あの夢が中学時代からやり直したのは、このためだったのかもしれないと。今の雪ノ下と由比ヶ浜の幸せを壊さずに向き合えるよう、かおりとの縁を取り持たせてくれたのではないか。そう、彼は思うのだった……。

 

 

 

「それで会いに来たのか?」

 

 夢の中で目を覚ました八幡は、初めてとなる入学二日目の時間を終えて自宅まで帰ってきた。すると、程なくして来客を告げる音が響き、小町からかおりの来訪を伝えられたのだ。

 

「うん。無いと思うけど、もうあの子達のどっちかを連れ込んでないかなって」

「連れ込むって……」

「ないと思うけど、やっぱ不安だもん」

「分かった。分かったから」

 

 八幡の部屋でベッドに座って語らう二人。その距離感は完全に恋人のそれである。と、そこへノックの音が聞こえてきた。

 

「お兄ちゃん、開けてもいい?」

「小町ちゃん、大丈夫だよ。まだ変な事してないから」

「おい」

 

 八幡ではなくかおりが答えると、ドアが遠慮なく開く。そこには、麦茶が入った二つのグラスを乗せたお盆を持った小町が立っていた。

 

「もー、ダメだなぁお兄ちゃんは。キスぐらいしててもいいんだよ? 小町、興味がありますっ!」

「小町にはまだ早い」

「でも、もう中二でしょ? 女子はもうこれぐらいで大人の入口だからね」

「そうなんだよお兄ちゃん。小町ももう大人のいたっ」

 

 お盆を取り上げ、かおりへ渡すや小町の頭を軽く小突く八幡。痛みもほとんどないそれに、小町はどこか嬉しそうに笑う。兄に構ってもらえて嬉しいのだ。

 

「どうしても興味があるならお前の事を大好きだって言う男としろ」

「……小町が相手を好きじゃなかったら?」

「小町ちゃん、まずそんな相手とキスしないでしょ」

「はいっ! でも、お兄ちゃんになら無理矢理奪って欲むっ」

「何を言ってるんですかね、この子は」

「あははっ! マジ仲良しだよね、ひきがやと小町ちゃん!」

 

 口を片手で押さえられる小町を見て、かおりは楽しげに笑った。八幡はそんなかおりに笑みを浮かべ、小町はその兄の顔に内心で笑みを浮かべる。と、そこでかおりは小町へ気になる事があったのか、笑いながら問いかけた。

 

「そういや、小町ちゃんは高校どうするの?」

「むぅ? ……いやぁ、まだ二年になったばかりですし高校の事を考えるには早すぎるかなって」

「ダメダメ。もし総武に行きたいんなら早めに動かないとキツイって。実際、あたしは勉強苦手だったから海浜がやっとだったし」

「あー……正直迷ってるんですよね。総武ならお兄ちゃんが、海浜ならかおりさんがいるから」

 

 その言葉を聞いて八幡は内心で息を呑んだ。かつての小町は迷う事無く総武を狙っていた。その理由は、彼自身と奉仕部の二人が大きく関わっている。だが、この夢ではそれより先にかおりと出会い、しかも高校入学前から彼の彼女でもあるために親しくなっていた。このまま行けば、大きく八幡の知る流れと変わるかもしれない。しかし、それを考えた時、彼は既にそうなっていると思い出した。

 

(ま、そもそも俺がかおりと付き合ってる時点で今更か。それに、あの事故も防いだ以上、総武での俺周辺の出来事だって変わるだろうしな。……変わるよな? いや、あまり変わらんか……)

 

 この日も、八幡は本来ならば病院のベッドの上なのだ。それが学校へ行き、経験した事の無い時間を過ごしていた。もう彼の知る高校生活とは完全に異なっている。ただし、友人などが出来る事もなければ彼に言い寄る女子などいるはずもないが。

 そんな事を思い出して一人八幡が凹むの余所に、かおりと小町は楽しげに話を続けていた。

 

「もし海浜来るなら歓迎するよ。あたし、妹だって紹介して回ろうかな?」

「おおっ、じゃあいっそお義姉ちゃんと呼ぼうかな?」

「ホント? じゃ、ちょっと呼んでみてよ」

「では……こほん。かおりお義姉ちゃん?」

「何?」

「呼んでみただけ~」

「あははっ、マジウケる。でも、何かいいな」

「ですね。小町もちょっと嬉しいかも」

「おかげで俺は妙なプレッシャーを感じるんだが?」

 

 楽しげに笑うかおりと小町に、八幡は少しだけ困った顔を浮かべていた。それが余計二人の笑いを大きくする。その二つの笑い声を聞きながら八幡もまた小さく笑う。そして、時刻は夕方となり、かおりを自宅まで送るために彼は家を出た。

 

「ね、やっぱこっちじゃ二人っきりでもアナタは止めといた方がいいかな?」

「あー……そうだな。ふざけた感じで言うのならアリかもしれんが」

「そっか。なら……」

「一々呼ばんでいい」

「え~っ? いいじゃん、こっちでも奥さん気取りで」

「……なら好きにしてくれ」

「ん、好きにする。でも、何か不思議だね」

 

 腕を組んで歩く八幡とかおり。私服と海浜制服という組み合わせが、その時間がちゃんと流れている事を物語る。そんな中で呟かれたかおりの言葉。それを彼も噛み締めるように頷いて考えを別の事へ巡らせる。

 

(そもそもこの夢は何で見るようになった? かおりは自分が現実から目を背けたいからと言っていた。もしそうなら、俺もそう考えていた事になる。……待てよ?)

 

 そこで彼が思い出したのは、かおりの告白。一番戻りたかったのは中学と彼女は言った。であるのなら、八幡が一番戻りたいのはどの頃か。それが今なのではないか。しかも、かおりも高校時代をやり直してもいいと思っている。それが、以前の中学時代の自分達の想い方に似ているのだ。そう気付いた八幡は足を止めた。

 

「どうしたの?」

「……この夢は俺の願望が強く働いてるんじゃないかって、そう思ったんだ」

「? ひきがやの?」

「ああ。逆にこの前の中学時代はかおりの願望だったんじゃないかってな。俺はそこまで中学時代に思い入れはないけど、かおりは違っただろ?」

「……だけど、あの時もひきがやは」

「そこは、今のかおりと同じだ。俺もどこかで現実逃避をしたかった。だからこっちに順応した。で、今のかおりも現実の方でデート出来ないから、とな」

「あ~っ、そういう事か。で、ひきがやはあたしとこうなったから、安心してあの子達に会えるって事?」

「そうじゃないかと思う」

 

 この夢は最初こそ現実逃避。だが、それが今は形を変えている。今は、八幡の後悔の時間。逃避ではなく向き合うための過去の夢。そうかおりは認識した。

 

「でも、今のひきがやってあの子達と知り合いじゃないんでしょ?」

「あー……実は由比ヶ浜、あのお団子頭の方とは一応知り合いだ」

「へ? 同じクラスだったの?」

「……そういやかおりには話した事なかったか。俺がそもそもどうしてあの二人と親しくなれたのか。その切っ掛けの一つにな……」

 

 八幡の口から語られる事故の話は、かおりにとって驚きしかなかった。そして、同時にこうも思ったのだ。

 

(そんな運命的な出会い方して、よくあたしみたいにならなかったなぁ。ひきがや、どんだけ逃げ回ったんだか……)

 

 彼女は察したのだ。由比ヶ浜がどれだけ八幡の事を意識していたかを。何せ自分の事も顧みずに車へと飛び込んだのである。それも、犬を助けるために。本気の損得勘定抜きでの行動で、心動かさぬ少女ではないとかおりも分かっていた。そうでなければ、八幡が向き合う事を嫌がるはずはないからだ。

 

「うん、よく分かった。ひきがや、ヘタレ過ぎ」

「……返す言葉もない」

「だけど、それだからあたしはこうなれたんだもんね。だからOKにしてあげる、あたしは」

「ああ、そうだな。この夢のあいつらは現実のあいつらじゃない。だけど、だからこそ俺はちゃんと向き合わないといけないんだ」

「そーゆー事。信じてるからね、ア・ナ・タ」

「……おう」

 

 かおりの信じてるに込められた意味をしっかり噛み締め、彼は短く返事をした。やがて二人はかおりの自宅前に到着、そこで軽く話をして別れる事になったのだが……

 

「ア~ナタっ」

「へっ?」

 

 突然の呼びかけと頬に感じる温もり。それがかおりにキスされたと理解した時には、彼女は家の中へ入ろうとしていた。

 

「じゃあね、また明日連絡するから」

 

 手を振ってドアを閉めるかおりを見送り、八幡は呆然としながら呟いた。

 

「こんなんで浮気とか出来るかよ……」

 

 にやけそうになるのを必死にこらえて、彼は自宅へと戻る。そんなある日の出来事だった……。

 

 

 

「……眩しいな」

 

 夜勤を終えて外へ出る度に感じる感覚に八幡は少しだけ疲れた声を漏らす。それでも、以前までと違いその足取りは軽い。何せ部屋へ帰れば愛する彼女が作ってくれた朝食が待っているのだ。そう思えば疲れも何のそのである。

 この日は休日ともあり、道行く人は多いが、それも気にする事なく八幡は帰路へ着いた。だが、ふとその向かいから彼と同年代らしきどこかで見覚えのある黒髪の男性と手を繋ぐ、どこかで見たような顔の少女が歩いてきたのだ。片手にスマホを持ち、通話中なのだろうか、その顔はどこか苦笑している。

 

(何だ? 綺麗な子だとは思うが、どうして妙に目に付くんだ?)

 

 八幡はずっと引っかかるものを覚えながら、その二人の横を通り過ぎようとしたその時である。

 

「ええ、大丈夫だから。心配し過ぎよ、陽乃伯母さん。それよりもお母さんの事をちゃんと見ててあげて。方向音痴なんだから」

「っ!?」

 

 少女から出た名前とその後の内容に思わず八幡の足が止まり、通り過ぎていく少女へその視線が吸い寄せられる。その横顔は、あの空き教室の女王によく似ていた。

 

「……まさか」

 

 そのまましばらく彼はその親子を見つめ続けた。やがてその二人は休日の人混みの中へ消える。そして、もう二度と姿を見せる事はなかった。

 

「雪ノ下の……娘か……?」

 

 既に家庭を持っている雪ノ下と由比ヶ浜。彼女達が結婚したのはそれぞれ時期が異なる。雪ノ下が結婚したのは二十五の時、由比ヶ浜は三十の時だ。そして子供は両者共にその一年後に生まれている。そこから考えれば先程の少女が雪ノ下の子供でもおかしくないのだ。

 

「…………幸せ、なんだろうな。あいつが雪ノ下さんと出かけてるなんて」

 

 言いようのない鈍い痛みが胸に生まれる。それは、初めての事ではない。最初は雪ノ下が結婚した時に、次は子供が生まれたと聞いた時、三度目は由比ヶ浜が結婚した時で、最後がその子供が生まれたと知った時だった。

 

(未練、か? いや、違うな。自分への落胆だ。その気になっていれば自分でもそう出来たはずだと、どこかで俺は思ってるんだ……)

 

 小さく己の頬を叩き、八幡は人混みに背を向けて歩き出した。自分が意識するのはそちらではないとばかりに。そして、無意識にスマホを手にして彼はかおりへメッセージを送った。

 

―――帰ってきたら話したい事がある。

 

 送り終わるや彼はやや急ぎ気味に部屋へと向かった。まるで何かから逃げるように、何かを振り払うかのように。アパートが見えてくると、彼はやっとその速度を落とした。荒くなった息を整えるように歩きながら八幡は部屋の鍵を開ける。

 

「……ただいま」

 

 部屋は無人。かおりはパートへ出かけているからだ。それでも、テーブルには彼女が作った食事がラップされて置かれている。それだけで彼は小さく笑みを浮かべて靴を脱いだ。

 

「サンドイッチか」

 

 厚焼き玉子が挟まれたサンドイッチが二つにハムとレタスが挟まれたサンドイッチが同じく二つ。それが皿に乗せられており、その下にはかおりの可愛らしい字で書き置きがあった。

 

―――おかえり! お仕事おつかれさま! ごめんね、そーじとかしてたら時間なくなってこれだけしか出来なかったっ!

 

 きっとそれさえもギリギリだったのだろう。若干走り書きのような文字を見て、八幡はそう察した。それでもメッセージではなく手書きにしたのは、おそらくその方が気持ちが伝わると感じたからだろう。そう思って八幡はじんわりと心が温かくなるのを感じて目を閉じる。

 

「ホント、いい嫁になれるぞ、かおり。俺、今すげぇ嬉しい……」

 

 帰ってきたら同じ言葉を必ずかけてやろうと、そう決めて彼はサンドイッチを食べ始める。テーブルに、数滴の水分を落下させながら……。

 

 

 

 朝食を終えた後、汗を流して眠りに就いた八幡だったが、そこではあの夢は見なかった。その理由を彼だけが眠っていたからと、そう理解して八幡は目を覚ます。そしてパートを終えて帰宅したかおりが作った夕食を共に食べ、洗い物を片付けたところで彼女からこう切り出されたのだ。

 

「それで、話したい事って?」

「……実は、今日の仕事終わりに知り合いの娘と旦那を見た」

「えっと……」

「雪ノ下って覚えてるか? あの時、切れ味鋭い言葉を海浜の会長へ投げつけてた黒髪の」

「あ~っ、覚えてる覚えてる。その人の旦那さんと子供って事?」

「ああ」

 

 不意に甦る朝の記憶。あの氷の女王と彼が内心で呼んだ顔にそっくりな横顔を。

 

「……旦那の方もどこかで見覚えがあるんだが、そっちは思い出せなかった」

「ね、そもそも結婚式に呼ばれなかったの?」

「…………行かなかったんだよ。仕事にかこつけて、な」

 

 自嘲気味な言い方でかおりは悟る。彼がわざと休みを取らなかった事を。そして、それがどうしてかもおぼろげに察した。

 

「好き、だったんだ?」

「だと、思う。いや、そうだ。だから俺は見苦しいにも程がある行動に出た。ガキだったんだよ。出ない事で俺は認めてないとでも言ってるつもりだったんだろうな。ホント、ガキだ……」

 

 言っている内に思い出したのだろう。八幡は自分への苛立ちと悔しさと、色々な感情をぶつけるように拳を握る。その彼をかおりは何とも言えない表情で見つめるしかなかった。

 

「悪い。何というか、吐き出せて少しは楽になれた気がする。かおり、ありがとな。こんな愚痴に付き合ってくれて」

「ううん、いいんだ。あたしも、あの時に似た事してもらったし。今度はあたしがひきがやの嫌な事聞いてあげる番だっただけ」

「かおり……本当にありがとう」

 

 優しく微笑みかける女に、男は心からの感謝を告げる。そしてその夜、やはりというか彼らはあの夢を見ていた。そしてそれぞれに学校へ登校したのだが、八幡は教室へ向かう前に声を掛けられたのだ。由比ヶ浜結衣に。

 

「……由比ヶ浜さんか」

「さんはなくてもいいよ。はぁ、やっと会えたぁ」

「捜したのか?」

「え? う、うん。ほ、ほら、サブレとまた遊ばせるって言ったし」

 

 何故か妙に慌てる様を見て八幡は内心で首を傾げた。何というかあの奉仕部でクッキーを作りたいと訪れた頃と似ていない気がしたのだ。あの頃の由比ヶ浜は、自分を出す事が苦手であり、故に我を強く持っていた雪ノ下に憧れた経緯がある。だが、今彼の目の前にいるのはどこか奉仕部へ入った後の由比ヶ浜のような感じがしたのだ。

 

「いや、そこまであの約束を果たす必要はないが……」

「そ、そうなんだ。じゃ、えっと……そうだ! 連絡先、教えてもらってもいい?」

 

 携帯を取り出す彼女を見て八幡は違和感を強くした。妙に気安い感じが拭えないためである。なので少し鎌をかけてみる事にした。

 

「由比ヶ浜、後ろに雪ノ下がいるぞ」

「え? ゆきのん?」

 

 その瞬間、二人は同じ表情へ顔を変えた。驚きから息を呑む表情に、である。たった一瞬の出来事で彼らは悟ったのだ。目の前の相手は自分の知る相手と同じだと。

 

「……お前、本当に由比ヶ浜なのか?」

「そういうヒッキーもやっぱり……」

 

 互いに見つめ合う二人だが、そこで予鈴が鳴った。あまり時間に余裕がないと悟り、八幡は手短に用件を伝える事にした。

 

「詳しい話は昼休みでいいか?」

「……うん」

「よし、なら場所はベストプレイスでいいな?」

「えっと、ヒッキーがよく使ってたとこだね。分かった」

 

 こうして二人は一旦別れ、それぞれのクラスへと向かった。ちなみに戸塚は一切八幡へ話しかけてきていないため、早々に彼の中で当時の戸塚彩加認定を出されている。そして、八幡もそこで本当に戸塚が同じクラスであった事を確認したのであった。

 

 そうして時間は過ぎ、昼休みとなった。八幡は購買に行く事もせず、そのままベストプレイスと名付けたかつての思い出の場所へと向かう。途中でマッ缶を購入し、そこで待っていると息を弾ませながら弁当の包みを持って例の彼女が現れた。

 

「っはぁ……お待たせ、ヒッキー」

「何もそこまで急がなくても……」

「だ、だって……」

「まあいい。それで、その、本当に俺と同じ三十五歳の由比ヶ浜結衣でいいのか? いや、いっそ結婚後の苗字で」

「別にいいよ。その、結婚したあたしだよ。中身は、でいいのかな?」

「……そうか。あの事故現場から?」

「ううん、昨日……で合ってるかな? こっちの時間で昨日からあたしだよ」

 

 その言葉で八幡としては聞きたい事の半分を教えてもらったようなものだった。そして、ある点も気になっていた。それは、結衣が告げた言葉。夢の中で昨日から八幡と共に青春を送った彼女になったという事だ。それはある意味でかおりと違ったのだ。

 

「……由比ヶ浜、答えにくいなら答えなくていい。その、現実の方で何か問題でもあったか?」

「へ? ううん、ないけど?」

「ない?」

「うん、旦那も健康だし、子供達も元気だし、ママもパパも特に問題ない……あ~、パパが少し血糖値危ないみたいな事ママが言ってたっけ」

 

 思わず脱力しそうになる八幡だが、それが結衣らしくて安堵もしていた。それと、一つ彼にとって知らない情報もあった。

 

「子供、増えたんだな」

「……うん、女の子。もうすぐ二歳になるんだ」

「なら姉妹か」

「そう。広美ったら雪花の……下の子の名前ね。雪花の事を何でもやりたがるの。広美がお姉ちゃんだから! って」

「……そうか、幸せそうだな」

「ヒッキーは? 今、どうしてるの?」

「折本かおりって覚えてるか? 俺の中学時代の同級生の」

「……ヒッキーが告白して振られて、大変な事になったっていう時の相手、だっけ」

「ああ。その彼女と同棲してる。近く籍を入れるつもりだ」

「っ!? そ、そうなんだ。良かったね、ヒッキー」

「……ああ」

 

 その時、八幡は見てしまった。結衣が悲しそうな顔をした後で喜ぶ顔へ変わるのを。その感情の動きの意味を考えそうになり、彼は慌てて首を振った。今はそれよりも確かめる事があると。

 その後は彼ら二人で色々と話した。結衣は既に奉仕部を訪れたらしく、雪ノ下はあの頃の雪ノ下のままだったとの事。つまり、彼女は二人の知る雪ノ下雪乃ではない。それを聞いて八幡はある疑念を抱いた。

 

(もしかしたら、雪ノ下は例え俺の知ってる彼女だとしても、同じ行動をトレースするかもしれない)

 

 虚言を嫌い、不正を憎み、正々堂々を常に行きたがる女性。そんな彼女が例え過去に戻れたとしても、自分の体験と違う事を起こして未来を変えようとするだろうか。そんな思いが八幡の中に生まれていた。

 

「な、由比ヶ浜」

「何?」

「雪ノ下は、お前のよく知らない頃の雪ノ下だったんだな?」

「う、うん。そうだと思う」

「……あの場所にいるのか?」

「いるよ。あたしが行った時も本を読んでた」

 

 そこで八幡はぼんやりと思う事があった。それは、この夢でのかおりと結衣の共通点。両方共にその頃の彼と関るようになった後から夢に溶け込んでいるのだ。

 

(もしかして、雪ノ下も今はこの当時のあいつで、二年生のあの頃になった時に俺の知る雪ノ下雪乃になるんじゃないだろうか……?)

 

 浮かぶ疑問。そもそもこの奇妙な夢の発端は八幡なのか、それともかおりなのかもはっきりしない。というのも、かおりはこの夢を八月を過ぎた辺りから見たとしか覚えておらず、八幡の記憶にある八月八日よりも前なのか後なのかも分からないためだ。そこから考えると、八幡の方が先にこの夢を見ていたのか、それともかおりの方が先に夢を見ていたのかも不明である。

 

「ヒッキー、ちょっといいかな?」

 

 思考の袋小路に入り込みそうな彼の耳に、結衣の声が聞こえてきたのはそんな時だった。八幡が視線を上げると、そこには彼を見つめる彼女の顔があった。

 

「何だ?」

「えっと、どうしてサブレを守ってくれたの?」

「……記憶はあるのか?」

「う、うん。ぼんやりとだけ覚えてるんだ。だから、すぐにヒッキーと会わないとって思った」

「過去と俺が違うから?」

「それもあるけど、一番はヒッキーからあたしに声をかけてくれたみたいだったから」

 

 それを嬉しそうに告げる結衣に八幡は思わず息を呑んだ。その笑顔は、彼の中で一番よく見たもの。あの頃の彼は心ときめかせた、優しく明るい笑顔である。

 

「……止めてくれないか、そういうの」

「へ?」

「昔、惚れそうになってたんだ。お前の笑顔は可愛いんだよ。今だって、嫁みたいな相手がいたってときめかないと思うなよ? 童貞拗らせかけてた奴の惚れっぽさ舐めるな」

「ヒッキー……」

 

 かつては心の中で秘めていた言葉。それをはっきりと告げる八幡に結衣が目を何度か瞬きさせる。そこに明確な変化を感じ取ったのもあるが、一番はあの頃の彼の本音を思わぬ形で教えられた事だ。あの頃、素っ気無い感じがほとんどだった少年は、内心で何度も自分に心を動かしていた。それが彼女の笑顔を更に輝かせる。

 

「……だから、何で余計笑うんだよ」

「ヒッキーこそ、ホントに分からない?」

 

 今度は八幡が目を瞬きさせる番だった。結衣から感じるのはあの頃とは違う感情だったのだから。それは喜び。きっとあの頃ならば照れや嬉しさだったはずの反応は、今や喜びになっていた。そこから彼も気付く。やはり目の前の相手はもうあの頃と違うのだと。愛する夫や子供がいる母であるのだ。そう八幡へ感じさせていた。

 

「その、俺の本音を聞けたから、か?」

「うん。えへへ、本当にヒッキーも変わったんだね。良いと思うよ、そんなヒッキーも」

「……そうか」

「うん。彼女の、おかげ?」

「あー……そうかもしれないな。一番は年齢だと思うが」

 

 気付けば彼らは隣り合って座っていた。それもあの頃には出来ないしやらない事である。それでも、八幡も結衣も気付いたところで離れる事はしなかった。恋愛感情はもう薄れてしまった二人だが、その間にある絆そのものは消え去った訳ではない。

 

 時間もあるので話を中断して結衣が弁当を食べ始めると、ならばと八幡もマッ缶を飲み始める。そこで彼が何も食べる物を持っていない事に彼女は気付いて小首を傾げた。

 

「ヒッキー、パンは? マックスコーヒーだけ?」

「……お前がいつ来るか分からなかったからな。とりあえず糖分だけでも補給しようと」

「あ、ごめんね。じゃ、何か一つどうぞ?」

「いや、それは……」

「あはは、何かヒッキーが素直だと違和感凄いなぁ。でも、いいんだ。こういうの、あの頃したかったし」

「……だから、そういうの止めろって。俺とかおりの仲を裂きたいのか、この既婚者め」

「えっと……あ、あたしも不倫とかはちょっと無理かな?」

「お前なぁ……」

 

 相変わらずの結衣らしさに八幡は呆れつつも好ましく思って苦笑する。まさに、その雰囲気は久しぶりの同窓会のようだった。結局彼は玉子焼きを一つもらい、彼女の母の料理の味を懐かしく思うのだ。そう、かつて大学時代に何度かごちそうになった味故に。

 

「そういや、相模と同じクラスなんだったな、この頃は」

「うん、そうだよ。さがみん達はこの頃のさがみん達だね」

「……なら、来年は」

「あー、どうだろ? だって、ヒッキーが風邪引いて休むか分からないし」

「そうだったな。こう考えると、ほんの少しで大きく変わってたんだな、あの文化祭」

「だねぇ。あっ、そうだ。ヒッキーは知らないかもだけど……」

 

 傍目から見れば仲の良いカップルと思われる程、彼らの雰囲気は穏やかだった。缶コーヒーを片手に話を聞き、相槌を打つ八幡と、弁当を膝に乗せて食べつつ、会話を振る結衣。そんな中、二人は思うのだ。これがあの頃に出来ていたら、と。そしてこうも分かっているのだ。それぞれに大切な相手が出来たからこそ、こう出来るのだと。

 

 そんな温かで、どこか切ない時間は予鈴で終わりを告げる。ゆっくりと立ち上がる八幡に結衣は携帯を差し出した。

 

「これは?」

「連絡先、交換しよ? あの頃、あたしはヒッキーとこうなりたかったんだし」

「……かおりに許可を取ってからでもいいか?」

「あっ、うん、いいよ。てか、ヒッキーが本当に彼氏さんになっててマジびっくりだし」

「いいだろ。三十五で初めて出来た彼女なんだ。大事にもなる」

「あはは、そうだね。うん、大事にしてあげた方がいいよ」

 

 どこか寂しそうに、だけど嬉しそうに答える結衣に胸を少しだけ締め付けられながら八幡はかおりへメールを送った。

 

「返事が来たらまた連絡する。とりあえず番号だけ教えてくれ」

「うん、分かった」

 

 こうして八幡は結衣の番号だけを教えてもらい、その場は別れた。五限が始まる前にかおりから届いたメールにはこうあった。

 

―――別にいいけど、もう連絡先交換なんだ。由比ヶ浜さんってやっぱアナタの事諦めてないんじゃない?( ̄∇ ̄)

―――それはない。あいつ、二人目も産んだらしい。家族仲は良好で、どう聞いたっていい母親って感じだ。心配なら近い内に会わせるぞ。

―――マジ? じゃ、お願い(゜▽゜*)♪

―――ああ、じゃあまた後でな。

 

 相変わらずの顔文字に笑みを浮かべつつ、八幡は久しぶりの高校の授業を受けた。そして放課後、結衣へ電話を掛け、かおりからの許可と会って話がしたいとの旨を伝える。それに彼女も是非となり、早速そのまま二人は比企谷家へと向かう事になった。

 

 自転車通学の彼は、その後ろへ由比ヶ浜を乗せる事となり、二人乗りで八幡の自宅へと向かう。その道中で結衣はどこか嬉しそうに八幡の体へ抱き着きながらこう切り出した。

 

「あたしね、一度こういうのやってみたかったんだぁ!」

「二人乗りか?」

「うんっ! それも、制服でっ。ヒッキー、ありがと! これであの頃したかった事、一つ叶ったや」

「……そうか」

 

 嬉しそうな声に複雑な気持ちとなりながら、八幡は前だけを向いて自転車のペダルを漕ぐ。内心では、近い内にかおりとも同じ事をしようと心に決めながら。やがて自転車は比企谷家へと到着。結衣を降ろし、彼は自転車を普段止めている場所へと移動させた。

 

「そういえば、ヒッキーの自転車ってそれじゃなかったよね?」

「ん? ああ、お前らが見た事あるのは二台目だ。これは、本来ならあの事故で、な」

「あ~、そっか」

「およ? お兄ちゃん? それと……」

 

 二人が玄関前で話していると、後方から聞こえる声があった。揃って振り向く彼らが見たのは、制服姿の小町であった。が、その表情が凄く険しいものへと変わっていく。その理由が分かる八幡はしまったとばかりに気まずい顔をし、よく分からない結衣は初めて見る小町の顔に困惑するのみ。

 

「おにーちゃん、そちらの方は誰?」

「……高校の同級生の由比ヶ浜だ」

「は、はじめまして。由比ヶ浜結衣です」

「はじめまして、比企谷小町です。……おにーちゃん、ちょっと」

 

 ぎこちない笑顔で挨拶する結衣にとてもイイ笑顔で挨拶をする小町だったが、彼女から顔を逸らすやジト目で八幡を手招きする。その意図を理解しながら彼は大人しく玄関から離れた。

 

「どういう事かな? かおりさんってものがありながら早速浮気?」

「違う。その、かおりと由比ヶ浜は知り合いなんだ。ただ、互いの連絡先を知らないもんで、俺が仲介役となった」

「……ホントに?」

「疑うのならかおりに聞いてくれていい。かおりも知ってるから」

 

 はっきりと言い切る八幡を見て小町は一瞬だけ結衣へ目をやる。可愛らしく、しかもかおりよりもスタイルが良い上に家庭的な雰囲気が強い。そんな彼女を見て、小町は小さくため息を吐いて八幡へ視線を戻す。

 

「ま、信じてあげるよ。あんな可愛い人、お兄ちゃんが口説けるはずないし」

「俺はその言葉を喜ぶべきか悲しむべきか分からんな」

「好きな方でいいよ。さてと、じゃあ小町はお出かけした方が?」

「任せる」

「……どうやら本当に何にもないんだね。ふむ、かおりさんがいなかったらお義姉ちゃん候補にしたんだけどなぁ」

 

 ニヤニヤと笑いながら結衣の方へ歩き出す小町を見送り、八幡は大きく息を吐いた。とりあえず最悪の状況だけは避けられたと思って。これも、彼が以前から小町との関係を変え、かおりとの関わりを重ねてきた結果である。

 

 この後、結衣へ色々と質問する小町を見て八幡がかおりを迎えに行く事にし、残された二人はそれぞれで情報交換をする事になる。結衣は主にこの夢での八幡の事を、小町は高校での八幡の事や総武そのものについてであったが。

 

 一方、そんな事を知る由もない八幡は、何故か制服のままでかおりを自転車の後ろに乗せてゆっくりと自宅を目指していた。

 

「ね、どうして迎えに来てくれたの?」

「……由比ヶ浜と同じ事をした。で、あいつはこういうのが憧れの一つだったらしい」

 

 それだけでかおりも八幡の考えが分かった。浮気などしないという事の一種だと。その律儀さに小さく苦笑し、彼女はより一層体を彼へ押し付ける。

 

「だから着替えてないんだ?」

「ああ、かおりもそうかもしれないと思った」

「……ホント、危ないなぁ。由比ヶ浜さん、狙ってないようで狙ってる気がしてきた。マジ危険」

「ないと思うが……」

「現実では、でしょ? 夢の中ならって、そう思ってるかも」

 

 その意見を否定出来ず、八幡は複雑な気持ちで自転車を進める。自宅は、すぐそこまで迫ってきていた……。

 

 

 

「お兄ちゃん、あの結衣さんって人、凄くいい人だよ。いやぁ、もったいないね。かおりさんがいなかったらお義姉ちゃん候補筆頭だったのに」

 

 かおりを連れて帰宅した八幡は、彼女と結衣を先に部屋へ向かわせ飲み物を用意していた。そこへ小町が先程の言葉を投げかけてきたのだ。どうやら彼がいない間に、すっかり結衣の人の善さに絆されたらしい。最初やや険のある表情を向けたとは思えない程、小町はとてもいい笑顔をしていたのだ。

 

「無理だろ。かおりだって元彼の一件がなければこうなってないんだ。俺が由比ヶ浜とそうなれる可能性はない」

「え~? かおりさんも言ってたけど、お兄ちゃんって結構いい男だと思うよ? そりゃ、顔がとびきり良いとかないけどさ、その分中身は割と良い線いってると思うんだけどなぁ」

「うん、妹にここまではっきり言われると色々くるな。あと、かおりは一体何をお前と話してるんだ?」

「色々! お兄ちゃんのしてきた事とか、お兄ちゃんの言ってきた事とか、お兄ちゃんの」

「よく分かった。俺の情報駄々漏れって事だな」

 

 その言葉を最後に、麦茶の入ったグラスを三つ乗せたお盆を手に八幡はリビングを立ち去る。小町はその背を見送りながら、小声で呟いた。

 

「ホント、もったいないなぁ。結衣さん、お兄ちゃんの事、結構意識してるっぽいのに……」

 

 その頃、八幡の部屋ではかおりと結衣がある協定を結んでいた。

 

「じゃ、絶対ひきがやと一線超えないって事で」

「うん、いいよ。あたしもヒッキーもそれを望んでないし、かおりんを泣かせたくないから」

「……キスもダメだからね」

「あ、あはは…………ハグは?」

「結衣ちゃん?」

「言ってみただけ。うん、何というか今になってやっとからかう側の気持ちが分かるなぁ。かおりん、マジカワだよ」

 

 元々社交的なかおりと結衣は、ちゃんと顔を合わせて話しただけで友人となっていた。それだけではない。八幡が語らない高校時代の話も教える事でかおりに何度か感嘆符を上げさせてもいた。

 お返しにかおりは八幡の二つの中学時代を話し、かつて彼を強く想っていた結衣を複雑な気分にさせたのだ。

 

「誤魔化されないから。結衣ちゃん、ここでならひきがやと恋愛してもいいって思ってない?」

「…………ヒッキーにその気はないから」

「それ、あったらしてるって事?」

「だって、二十代が終わる直前まで想ってたんだよ? ゆきのんが結婚して子供産んで、あたし、正直期待したんだ。ヒッキーがこれであたしを見てくれるんじゃないかって。あたしを選んでくれるんじゃないかって」

「……でも、ひきがやは選ばなかった」

「…………多分、ヒッキーは本当は」

 

 そこでノックの音が聞こえ、二人は同時に視線をドアへと向ける。

 

「開けてもいいか?」

「「いいよ~」」

 

 先程までの空気はどこへとばかりに同じような声を返すかおりと結衣。ドアを開けて八幡が入室しても、既にその場の空気は何事も無かったかのようなものへと戻っていた。

 

「かおりは麦茶で良かったよな」

「うん」

「由比ヶ浜も構わなかったか?」

「うん、ありがとヒッキー」

 

 それぞれグラスを受け取り、一口だけ飲む。八幡はお盆を机の上へ置き、椅子をベッドの前へ移動させてそこへ座った。

 

「で、俺がいない間何を話してたんだ?」

「軽い自己紹介と……」

「ひきがやの事をあれこれ」

「俺の?」

「そ。結衣ちゃんからは高校の話を聞いて……」

「かおりんからは前と今の中学時代の事を教えてもらってた」

 

 共に含みを持たせる笑みを向ける二人の女子高生。それに八幡は複雑な表情を返した。何も聞かれたくない訳ではない。ただ、彼も二人の間で何かあった事だけは察したのだ。

 そして、それがどうやらあまり良くない雰囲気の事だとも。かおりが結衣を意識し過ぎて揉めたのか。あるいはかおりの懸念通り、結衣がこの夢の中ぐらいはとしたのか。どちらにせよ、このままでは良くない事になるかもしれないと、そう考えた八幡は視線を結衣へ向けた。

 

「由比ヶ浜、ないと思うが今の俺にとってはかおりの方が大事だ。そこだけは忘れないでくれ」

「分かってる。ヒッキーは、彼女が出来たら絶対一途になるって思ってたし」

 

 最初こそ苦笑だったが、最後の言葉は悲しそうな顔で告げられた。出来ればそれを自分にして欲しかったと、そうその顔は雄弁に物語る。それに若干八幡が心を痛めるが、それでも顔には出さないようにして受け止めた。

 

「ああ。長年踏み出せなかったからな。やっと出来た彼女は大事にしたい」

「ね、ひきがや。結衣ちゃんから話聞いて思ったんだけど、どうして片方結婚した時にもう片方と付き合ってみなかったの?」

 

 その問いかけに結衣と八幡、両者が揃って息を呑んだ。かおりははっきりと結衣へ突きつけて欲しいと思ったのだ。現実はおろか、夢の中でも八幡の隣は自分だと。それを理解し、結衣は小さく息を吐いて八幡へ顔を向ける。

 

「ヒッキー、あたしも……聞きたいな。そんなにあたしって魅力無かった?」

「由比ヶ浜……」

「ひきがや、これは男の責任だよ。自分でも分かってるんじゃない? 期待を持たせ過ぎたって。だから向き合いたいって思ったんでしょ? あの頃言いたかった事とか、思ってた事、ここで結衣ちゃんには聞かせてあげて」

「お願い、ヒッキー」

 

 かおりと結衣、二人の目は同じ色だった。八幡にちゃんと過去を清算して欲しい。今の彼ならそれが出来るはずと、そういう願いと想いを乗せた眼差しだ。

 

「…………分かった。もう由比ヶ浜へは軽く言ったが、俺はあの頃お前と雪ノ下で揺れていた。高校を卒業しても、まだお前達が俺を想ってくれているのも分かってた。だけど、俺がどちらかへ告白したらあの三人での関係は絶対に壊れる。下手をしたら、お前と雪ノ下の関係さえも壊すんじゃないか。そんな想いに、俺自身が振られる事を怖がった事もあって、結局何も出来ないままただ時間が過ぎるのを待った。そうすれば、きっと諦められるって、俺はお前達を好きな事を諦められて、あの関係性を保つのは無理でも、お前達の関係性だけは壊さないで済む。そう、思った」

「ヒッキー……」

「なのに、俺は雪ノ下が結婚する事で動揺した。子供が生まれた時もだ。諦めると決めたはずなのにな。そして、お前が結婚するって聞いた時も。本当に、女々しい奴だった。俺は、矛盾した気持ちを抱えてたんだ。お前達との関係を壊したくない俺と、お前達と新しい関係になりたかった俺。だけど、結局俺は何やかんやと言い訳をして、最低な解消を選んだ。奉仕部の依頼と同じだ。解決じゃなく解消。それが俺の精一杯だった」

 

 言いながら彼は思い出していた。あの奉仕部で起きた様々な出来事を。その中で彼が動いて関わった大きな出来事は、軒並み同じ手段と結果だったのだ。問題の先延ばし。あるいは、解決ではなく解消。見事な手腕など一度として発揮せず、綺麗な結末など一度として掴んだ事などない。それが、彼のやり方だった。

 

 結衣もかおりでさえも話し終えた八幡へ何も言えなかった。感じていたのだ。やはり彼にとって高校生活で出来た縁は特別だったのだと。特に、奉仕部の時間は。

 

「だけど今なら、今なら言える。由比ヶ浜、結婚おめでとう。旦那や子供達と幸せにな」

「ヒッキー……うん、ありがとう。あたし、幸せになるね」

 

 しっかりと目を見つめて告げられた噛み締めるような言葉。それに結衣は瞳を潤ませて答える。聞きたくないようで聞きたかった言葉。それをやっと聞いて、彼女もあの頃の気持ちへケリを付けたのだ。

 そのまま見つめ合う二人。それをかおりはどうしたものかと思案していた。そこに色恋の匂いはない。だけども、それは彼らが実年齢の状態であればである。今の彼らは高校生。かおりも実体験で過ごしてきたから分かるのだ。今の自分達は心よりも体を優先しがちになると。特に、八幡の場合は女性の温もりに飢えていた事もあり、それらに弱い。

 

(う~、結衣ちゃんはああ約束したし、ひきがやもああ言ったけど、実際何がどう転んで間違えるか分からないんだよね……)

 

 しかも、結衣はかおりよりも体つきが女性らしい。男好きする体である。今の八幡には毒でしかない。いや、今の八幡には好意的な女性は全員毒であるとかおりは判断した。

 

「はい、そこまで。二人の世界はもう終わりっ!」

「かおり……」

「えっと、ごめんね?」

「謝らなくていいから。それと、結衣ちゃんは約束忘れないでね。ひきがやは」

「っと」

 

 結衣へ見せつけるように八幡へ体を密着させるかおり。その行動に八幡が少しだけ驚き、結衣は苦笑いを浮かべる。

 

「あたしの旦那になるんだから」

「……だ、そうだ」

「あははっ、うん、分かってる。もうあたしはヒッキーの彼女にはならないしなれないから」

「それならいいの。ひきがやも、気を付けてね」

「あ、ああ。分かった」

「ん」

 

 彼の返事に気を良くして、かおりは笑顔で頬へ口付ける。それに結衣が微妙な顔をし、八幡は照れくさそうに反対の頬を掻くのであった。

 

 結衣とかおりを送るべく、八幡は彼女達と共に家を出る。その道中は結衣にとって新鮮な光景だった。八幡のすぐ隣をかおりが腕を組んで歩いているのだ。自分はその少し後ろを歩く。あの高校時代には有り得なかった構図だ。

 

(……あれがゆきのんだったら、あたしはまだ分かるんだけどな……)

 

 あの時言えなかった言葉。それは、八幡は本当は雪ノ下雪乃が好きだったというもの。あの頃、彼と一番気持ちを通じ合わせていたように見えたのは彼女だった。そう結衣は察している。そして、彼が一番心寄せていた相手も。

 

「じゃ、あたしこっちだから。ひきがや、送るだけだからね?」

「分かってる。また後でな」

「うん。結衣ちゃんも気を付けてね。主にひきがやに」

「おい」

「大丈夫だよ。ヒッキーにそんな事出来ないから」

「くそっ、否定したいようで否定したくない」

 

 駅へと向かう道とかおりの自宅への道は途中で別れるため、そこで彼女は名残惜しそうに八幡から離れた。そこでの会話で結衣は気付いた。かおりの今の心境はあの頃の自分と似ているのだと。不安が尽きないのだ。そんな事はないと分かっていながら、もしもを考えてしまう。故に優しい彼女が取る道は一つであった。

 

「でも、あたしもここまででいいかな。ヒッキー、また今度ね」

「いいのか?」

「うん。あたしがかおりんだったらその方が安心出来るし」

「結衣ちゃん……」

「じゃあね!」

 

 くるりと背を向けて一人で歩き出す結衣。その背中を見送り、八幡は視線を動かした。そこには若干気まずそうにしながらそこに残るかおりがいた。

 

「……送った方がいいか?」

「……うん」

 

 こうして結衣の気遣いもあって、八幡とかおりは並び合って歩き出す。しっかりと腕を組んで……。

 

 

 

「ね、アナタ」

「ん?」

 

 触れ合う程の距離でベッドに横になっていた八幡とかおり。すると、そっとかおりが右手を彼の顔へ伸ばし優しく触れる。

 

「雪ノ下さん、だっけ。その人に直接会ってみたら?」

「……無理だ。その、連絡手段が」

「結衣ちゃんの連絡先、聞いておいた。夢の中だけじゃなくて現実のも」

「マジか……」

「て言っても住所だけどね。番号はさすがに覚えてないって言われてさ。どうする?」

 

 かおりの目は優しかった。別に嫌ならそれでも構わない。そう彼女の目は告げていた。だからこそ八幡はしばらくその眼差しを見つめ、静かに目を閉じる。どれぐらいそうしていただろうか。やがて彼はゆっくりと目を開けると、しっかりと頷いた。

 

「じゃ、あたしが結衣ちゃんに会いに行くよ。アナタは仕事があるし」

「でも……」

「それに、小町ちゃんとは時々連絡取り合ってるんだって」

「…………そこのラインを忘れてた」

 

 失念していた事を指摘され、八幡は力なく項垂れる。そんな彼に楽しげな笑みを浮かべ、かおりはそっと額を八幡の額へ当てた。

 

「アナタがどんな恋愛をしてきて、どんな痛みや辛さを経験してきたのかあたしは少ししか知らない。だけど、アナタがあたしの元に帰ってきてくれるならちゃんと受け止めて癒してあげるから」

「かおり……」

「だって、あたしの事を汚れてても構わないって、そう言って受け止めてくれたのはアナタだから。忘れないで。あたしは、いつもひきがやの事を想ってるって」

「……ああ」

 

 そっと触れ合う唇と唇。重ね合う温もりが彼を、そして彼女を強くする。その後、八幡はしばらくかおりの胸に顔を埋めて静かに泣いた。その意味をかおりはちゃんと理解していた。

 

(やっと失恋出来たんだね、ひきがや……)

 

 結衣へ心からの祝福を告げた事とその返答をもらった事。それが、あのまちがっていた青春の1ページをあるべき姿として締め括ったのだ。だが、彼にはまだもう一つ迎えなければならない失恋がある。その分まできっと今、泣いているのだ。そう思ってかおりは視線を上げる。

 

(それにしても、結衣ちゃん、絶対昔よりもイイ女になってた。だからこそ、辛いんだろうね、お互いに。雪ノ下さんに結衣ちゃん、か。……あの頃じゃ、あたしは勝負にならなかったなぁ)

 

 優しく八幡の頭を撫でるかおり。彼女は知らない。男にとって初めての女は特別なのだと。そういう意味では、彼の中でかおりに勝てる存在はいないのだから。

 

 この後、八幡はある事をかおりへ告げて泣き腫らした目で仕事へと向かい、彼女はそれを見送って家事を始める。

 

「……あれもプロポーズって、そう思っていいんだよね?」

 

 洗い物を片付けながらかおりはポツリと呟く。それは出かける間際で八幡が告げた言葉。

 

「あの頃の恋をちゃんと終わらせたら書いて欲しい物がある、かぁ……」

 

 それが何なのか、彼は口にしなかったが、かおりももう三十後半に差し掛かっている。ならばその推測は出来るというものだ。故に彼女は笑みを浮かべていた。きっと結衣の時と同じく上手くいくと、そう信じて……。




アナザーでは結衣は八幡と結ばれ、雪乃はしっかりと自分の足で立って歩き出します。が、ここでは原作よりもおそらく酷い結末を迎えたため、そんな未来は完全になくなりました。では、雪乃はどうなったのでしょう。結婚したのは、本当に彼女の意思なのか。そこが次回の中核ですかね?
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