「いらっしゃい、かおりん。さっ、上がって」
「お邪魔するね」
その日、パート終わりに教えられた住所へかおりは向かい、そこにあったマンションの一室を訪れた。3LDKのマンションは、今のかおりからすれば引っ越し先に出来ないレベルの内容。そこに暮らしている結衣の事が若干羨ましくなってもおかしくなかった。
「えっと、お茶でいい?」
「あ、お構いなく」
「いいからいいから」
リビングにある四人用のテーブル。そこに置かれた幼児用の椅子を見て、少しだけかおりの心が痛む。まだ自分には望めない幸せ。それを掴んでいるだけでなく、姉妹で得ているために。
そんな彼女の目の前へ緑茶が入ったグラスが置かれた。それにかおりの意識が向く。
「それで、聞きたいのはゆきのんの事だよね?」
「うん。ひきがやは、ううんあの人は直接会って話をしたいみたいで」
「……そう、だよね。あの夢じゃ、いつ本物のゆきのんになるか分からないし、なってももしかしたら分からないかもしれない」
「だから、ちゃんと起きてる時に会わせたいんだ。結衣ちゃん、ダメかな?」
真剣な眼差しで結衣を見つめるかおり。しばらく沈黙が流れる。そして結衣が深く息を吐いた。
「かおりん、一つだけ約束して」
「何を?」
「……ゆきのんには、ヒッキーだけで会いに行く事」
「それは……」
「詳しくは言えないけど、ゆきのんはヒッキーともう会いたくないと思ってる。ううん、会っちゃいけないって考えてるんだ。だからこそ、会うのはヒッキーだけ。かおりんまで行ったら、ゆきのんは本音を絶対言わないから」
一度としてかおりの目を逸らさず、結衣はそう断言した。そこからは、八幡の希望を叶えるには彼単身で会う事が絶対と確信しているという雰囲気が漂っている。かおりは、その結衣の様子からやはり雪ノ下こそ八幡にとって一番向き合いたい存在なのだと痛感した。
あの葉山隼人によって批判された後、彼女と友人であった仲町千佳が見た雪ノ下と由比ヶ浜の姿は、今でも思い出せるのだ。特に、黒髪で凛とした佇まいの雪ノ下の事は。
(あの綺麗な子、か。ひきがやは絶対あたしを捨てたりしないって、そう思ってるし信じてる。だけど、それ以上にあの子と二人きりにするのが怖い。だって、あたしはひきがやにとって心の傷をつけてきた相手だったけど、あの子はそれだけじゃない関係だったはずだから……)
傷だけを与えてしまった自分と、傷も与えながら癒しもしていただろう雪ノ下。どちらが八幡の中で大きな存在感を持っているかは言うまでもない。
「かおりん、どうかな。約束、できない?」
「…………ひきがやは、あの人はあたしを妻にしたいって言ってくれたんだ」
問いかけの答えは、不意の報告だった。結衣がそれに驚きを浮かべるのに気付かないまま、かおりはテーブルを見つめて言葉を続ける。
「あたしの実家で、お父さんとお母さんを前にして。マジウケるよね。それだけじゃない。人に言えないような仕事をしてたあたしを、汚くないってそう言ってくれるように受け入れてくれた。こんな、こんなあたしを好きだって、そう言ってくれたんだ」
「かおりん……」
「なのに、どうしてだろ? あたし、今怖いんだ。あの雪ノ下って人にひきがやを一人で会せたら、あたしなんか忘れちゃうんじゃないかって。あの人と本当の恋を始めちゃうんじゃないかって。おかしいよね? だって、相手には旦那さんも子供だっているのに……」
ポタ、ポタと、テーブルに水滴が落ちる。マリッジブルーというものがあるが、今のかおりはそのような状態だった。結婚という事が見えてきたからこそ感じる不安や恐怖。八幡に感じる引け目のようなもの。それらがあって、彼女の精神面は不安定になっていたのだ。
「ね、結衣ちゃん。どうしたらいいのかな? ひきがや、この恋を終わらせたらあたしに書いて欲しい物があるって言ってくれたんだ。だけど、終わらなかったら? もしそこから再開しちゃったら? そしたらあたし、もうどうしていいかっ!」
その瞬間、かおりは何かの温もりを感じた。後ろから誰かが抱き締めてくれている。そう気付いた彼女は、ゆっくりと後ろを振り向いた。
「分かるよ。あたしも、今のかおりんの気持ち、分かる。だって、それはあの頃あたしが感じてたものに似てるから……」
「……結衣、ちゃん……」
「あたしも、あたしもね、あの頃、どこかで怖かった。ゆきのんはヒッキーが好きだって、そう分かっちゃったから。しかも、ヒッキーもあたしとゆきのんで揺れてて、だけど若干ゆきのんの方を向いてたと、思う。だから、思ったんだ。もしヒッキーがゆきのんを選んだらどうしようって。そしたら、あたしは二人を笑顔で応援出来ないかもしれない。そう思ってた」
あの高校生活の大部分を占めた奉仕部での時間。いつも、彼らは三人だった。時に増える事はあっても、基本は三人。二人きりには、中々なれなかったし、彼がなろうとしてくれなかったのだ。
「ヒッキーは、自分が何もしないで終わらせたって、そう思ってるけど、それは半分違う。あたしも、それにゆきのんもある時までそうしてたんだ。あたし達は、同じ事をどこかで期待してた。誰かが踏み込んでくれるって。誰かが動いてくれるんじゃないかって」
「ひきがやは、選べないし選ばないって、そう決めてたみたい」
「……うん、それでもあたしもゆきのんも待ってたんだ。ううん、待っちゃった。ヒッキーには、自分から行かなきゃダメって、あの文化祭の時に思ったはずなのになぁ」
「文化祭……?」
どこか独り言のような結衣の告白にかおりは疑問符を浮かべながら聞き入った。やはり、彼らの青春も分水嶺を間違ってしまったと気付いて。
「大学はね、あたしヒッキーと同じとこ受けたんだ。ゆきのんは都内の大学へ行ってさ。それでも、時々三人で会ってお話したり遊んだりした。高校の頃と同じか、それ以上に仲良くなった気がした。でも、そうなればなるほど、あたし達は動けなくなっていったんだ。この関係を壊したくないって。大学を卒業するぐらいかな? ヒッキーが少しずつ距離を取り始めた。それにあたしも、きっとゆきのんも気付いた。だけど、だからこそ、それがヒッキーの答えだって、そうゆきのんは思ったみたい。大学を卒業してから二年経った時、三人で会ったところでゆきのんが近い内に結婚するかもしれないって、そう言ったんだ」
その時、間違いなく八幡は言葉を失っていた。雪ノ下は、そんな彼へ視線を向けていた。あの時の報告は、完全に八幡だけに向けたものだったと結衣も分かっていた。そして、それが何を意図してのものだったかも今なら分かる。
―――そうか。幸せにな。
―――…………それだけ?
―――以外に何か言うべき事があるか? めでたい事だろ。俺にしては、珍しく空気を読んだ発言だ。
―――……………ええ、そうね。貴方らしい空気の読み方だわ。本当に、貴方らしい……。
そう悲しそうに告げ、雪ノ下はその場を去った。残された結衣は八幡へ追うように言おうとして、出来なかった。何故なら彼もそのすぐ後に立ち上がり、会計を持って去ってしまったからだ。
「あの時、完全にあたし達は壊れたんだ。ううん、壊すしかなくなった。ゆきのんが、動いたんだ。このままじゃみんなダメになる。だから、自分がやらなくちゃって」
「……その後は?」
「ゆきのんの結婚式にヒッキーは来なかった。あたしはヒッキーが座るはずだった席の横に座って、ゆきのんの晴れ姿を見たよ。でも、ゆきのんは一度も笑わなかったんだ。どういう事か分かる? せめて見て欲しかったんだと思うんだ。ヒッキーに、好きだった人にウェディングドレスを」
「でも! それはひきがやにとって辛いから!」
「そんなの分かってるよっ! だからゆきのんは最後の最後にヒッキーへ手を伸ばした! あそこでヒッキーがゆきのんの手を取ってたら、もしくはあたしの方を選んでたら、あたし達は、またいつか三人で集まって笑えたかもしれなかったのに。……それをヒッキーは選ばなかった。ゆきのんとあたしと、そして自分のために」
かおりは八幡寄りの、結衣は雪ノ下寄りの意見を述べていた。勿論根本では両者とも互いの気持ちと言いたい事を察している。同じ男へ好意を寄せた女、なのだ。故に、好きだった男にせめてと思う女の気持ちも、好きだったからこそせめてと思う男の気持ちも分からないではない。
気付けば結衣もかおりも泣いていた。それがどんな涙か分からずに。悲しみの涙なのか、悔しさの涙なのか、あるいは、怒りの涙なのかさえも。
「それが、ヒッキーの優しさでもあるって分かってる。だけど、あの時は、あの時ぐらいは、違う優しさを見せて欲しかったって、そう思うのはワガママかな?」
「結衣ちゃん……」
力なく涙を流しながら問いかける結衣の姿に、かおりは返す言葉がなかった。思っていた以上に奉仕部三人の間に入った亀裂は大きかったのだと、そう痛感して。すると、そこへ赤子の泣き声が聞こえてくる。すぐさま結衣が意識を切り替えるように目元を拭うと、少しだけ慌てて移動する。かおりもその後をついていき、別室でベビーベッドの上で泣き叫ぶ赤子を見つけた。
「どうしたの? 今の声でビックリして起きちゃったかな? ごめんね~」
慣れた感じで抱き抱え、あやし始める結衣を見ながらかおりは思うのだ。どうして結衣はあっさりと八幡の言葉を受け入れたのか。それは、本当に傷を負っているのが彼と雪ノ下だと分かっているからだと。その二人のために、彼女は比較的あっさりと八幡の言葉を受け止めた。全ては、本当に向き合わなければならない者達を会わせるために。
雪花を腕の中で軽く揺らしながらあやし続ける結衣を見て、かおりは一度だけ深呼吸する。そして、小さく頷くと母親の顔をしている結衣へ静かに近寄っていく。
「結衣ちゃん、約束する。あたしも、あたしも動くよ。今のひきがやなら、その動きの意味を分かって、ちゃんと動いてくれるって信じてるから」
「……かおりん」
「これから旦那になる男の事を信じられないで奥さんやれないしさ。それに、もしそれで浮気するようならそこまでの男だったって事だしね」
「大丈夫だよ。かおりんなら、今のヒッキーなら絶対悪い結果にならないから。もう、あの時みたいな事には絶対に」
笑みを見せ合う二人に雪花が嬉しそうな笑顔を見せる。その可愛らしい笑顔が二人をより一層笑顔へと変えていく。そして、結衣から面会の約束は彼女が取り付けるので、八幡の予定を教えて欲しいと言われたかおりは帰路へと就く事になる。
その夜、仕事から帰ってきた八幡は夕食を食べている時にその話を聞かされていた。
「由比ヶ浜がそんな事を……」
「うん。あたしも、結衣ちゃんの言う通りにするべきだと思う。ひきがやが、アナタが自分で向き合うって決めたんだし」
「…………そう、だな。分かった。由比ヶ浜の番号、教えてくれるか? 明日の休憩中にでも連絡を入れたい」
「分かった。その、信じてるから」
「ああ。何度も言うが、浮気も不倫もしない」
即答される言葉でかおりは微笑みを浮かべて頷く。
(あたしがよく知らない頃のひきがやだったらきっと信じられなかったけど、今の、あたしがよく知ってるひきがやなら絶対信じられる。大丈夫、きっと大丈夫)
その気持ちそのままで、かおりは八幡へそっと抱き着いた。その体を彼は優しく抱き締める。その夜、彼らはただ抱き合って眠った。
「まさか、またここに来る事があるとはな」
「ヒッキー……いいの?」
放課後、八幡は特別棟の端にある空き教室近くを訪れていた。結衣と共に。現実で雪ノ下と会うと決めた彼だったが、念のために自分の目で奉仕部にいる彼女が当時の彼女であるかを確かめておこうとしたのである。
「ああ。実はな、俺は薄々考えてる事がある」
「考えてる事?」
「……これが、実は夢じゃなくてもう一つの可能性ってやつだ。平行世界、パラレルワールドって分かるか?」
「えっと……」
分かって無さそうな結衣にかおりが重なり八幡は小さく笑みを浮かべた。
「簡単に言うとだな。俺がかおりに告白しなかった世界がここで、したのが俺達の世界。お前に分かり易くするなら、あの事故があったのが起きてる時の世界で、なかったのがこの世界だ」
「……つまりどういう事?」
「これは、夢じゃないかもしれないって事だ。確証はない。ただ、中学の勉強をやり直してて思ったんだよ。これは、もしかして胡蝶の夢みたいなもんじゃないかって」
「こしょうの夢?」
「……お前、ちゃんと勉強し直したらどうだ? ある意味復習だぞ、今の状況」
「い、いいじゃんっ! それで?」
恥ずかしそうに誤魔化す結衣が可愛らしく見え、苦笑しながら八幡は簡潔に告げた。胡蝶の夢とは、昔の中国の故事。とある人物が蝶になっている夢を見た。だが、それが本当に夢なのかは分からない。もしかして、今人間として生きてるこちらこそが蝶の見てる夢かもしれない。そういう話である。
「……じゃ、今のあたし達の方がここのあたし達が見てる夢?」
「いや、完全にそうじゃない。多分、ここはここで現実なんだと思う。だが、そこへ俺達の意識だけが入り込んだんじゃないかと思ってるんだ。かおりも俺も現実逃避をしたくなるような状況にいた。それが、有り得ない可能性を引き寄せたんだ。つまり、何らかの強い気持ちが働く事で寝てる間だけ過去に戻ってるんだ。そして、その瞬間にここは平行世界になった」
「……大人になったヒッキーやかおりんが来ちゃったから?」
「そういう事だ。やっぱり賢いな、由比ヶ浜。要点はそれだ」
「え、えへへ……」
嬉しそうに笑う結衣を見てから八幡は視線を前へ戻す。その先に見えるドアの向こうには、あの景色が広がっているはずだと、そう思って。
「雪ノ下は、おそらくまだこの当時の雪ノ下雪乃のままだ。だが、お前がそうだったように、俺と関る事で変わる可能性がある」
「……分かった。じゃ、行こう、ヒッキー」
「ああ」
ノックをして待つ事少し、すると中からあの声で入室を促す声が返ってきた。その声だけで、八幡は少しだけ感慨深くなってしまうも、何とか気を取り直してドアを開ける。するとそこには―――
「あら、貴方はたしか由比ヶ浜さん、だったわね。それと……」
黒髪が美しい、氷の女王と彼が名付けた存在が、あのいつもの場所に座ってこちらを見ていたのである。だが、その表情が八幡を見た瞬間少しだけ驚きに変わった。しかし、それもすぐに平静なものへと戻る。それを彼は自分の見た目で驚いたのだろうと思った。
「ゆきのん、やっはろー。えっと、こっちは同級生の比企谷八幡君」
「……比企谷だ。その、はじめまして」
「はじめまして。奉仕部部長の雪ノ下雪乃よ。それで、一体どういうご用件かしら?」
八幡の脳裏に甦るあの日の記憶。あの時と違い、罵声が飛んでこないのは、やはり対面時期も状況も違い過ぎるからだろうかと、そう考えながら彼は咳払いをする。意識を切り替えるために。
「その、由比ヶ浜からここが変わった活動をしてると聞いてな。少し相談を受けてもらえないかと思った」
「……聞きましょう。申し訳ないけど、椅子は自分で用意してくれるかしら」
「分かった」
「はい、ヒッキー」
動こうとした八幡へ差し出される椅子。既に由比ヶ浜が彼の定位置へ椅子を置いていたのだ。それに雪ノ下が小首を傾げる。
「由比ヶ浜さん、何故そこに?」
「え? えっと……ほら、ここの方がゆきのんがヒッキーと向き合えるじゃん?」
「……まあいいわ。それで、一体何の相談かしら」
結衣の誤魔化しにも特に違和感なく応対する雪ノ下を見て、八幡はそれが演技などではないと確信していた。そもそも、雪ノ下雪乃は虚言などを嫌う女性である。そんな彼女が仮に演技をするとしても、自分にはともかく由比ヶ浜に何のボロも出さないはずはないと思っていたのだ。
何故ならあの頃から、雪ノ下は結衣にだけは嬉しそうな笑みなどの素顔を見せていたから。それに、元来嘘を吐くのが嫌いである彼女が、ここまで見事な振舞を演技で出来るのだとしたら、それならそれで八幡としては構わなかったのだ。
(俺の知ってる雪ノ下雪乃は、もういないっていう証明になるしな……)
「実は、最近妙な夢を見るんだ」
「夢?」
その切り出し方に結衣は小さく声を漏らし、雪ノ下は怪訝そうな表情を浮かべる。それに構わず八幡は言葉を続けた。
「眠ると、何故か今から二十年後の自分になっててな。しかも、その状況が怖いぐらい現実味があるんだ。更に痛みもあれば疲れも感じるし、何より俺が出会った事の無い奴らが仕事の同僚だったりとな。もっと言うと俺には二つ下の妹がいるんだが、それが大人になってて結婚までしてる。とどめに子供も二人だ。旦那は見知らぬ奴だし、両親もちゃんと老いてる。中年親父になった俺が住んでる住所まで言えるぞ。何なら書いてもいい」
「……明晰夢、というものかしら。それにしても、そこまで?」
「そうなんだ。で、実は、俺がここを訪れた理由は、その夢の中に出てきた関わりの深い人物の一人が雪ノ下さんじゃないかと由比ヶ浜から言われたのもあるんだ」
「私?」
「ああ、この場所にいて本を読んでる事も同じだった」
これが八幡の最終確認だった。ここまで言っても何も変化がなければ完全に雪ノ下はこの時間軸の彼女であると。息を呑んで反応を待つ八幡。すると、雪ノ下は思案顔からやがてゆっくりと平静の表情へ戻す。それに八幡は内心で疑問符を浮かべた。
「……もしかすると、それは予知夢なのかもしれないわね」
「予知夢、だと……?」
「ええ。比企谷くん、貴方が見た夢をもっと詳しく聞かせてくれるかしら? きっと、そうだと言える事が出てくるはずよ」
「詳しくと言われたってなぁ……」
意外な展開になった。そう感じて八幡はチラリと結衣を見た。彼女も似たような感想を持ったらしく、目を何度も瞬きさせている。一人雪ノ下だけが興味深そうな顔で八幡を見つめていた。
仕方ないので八幡はかおりと再会する直前辺りから話し始めた。それは、この奇妙な夢を見始めた頃である。その内容は八幡の父をして濃いと言わしめるものであり、現実であるのでリアリティも何もないのだが、それに溢れていた。
「……成程。創作かと思ったけれど、どうやら本当に予知夢みたいね」
「おい、最初も酷いが後半はもっと酷いじゃねーか。何で俺が三十半ばで独身で狭い一人暮らしをしてると決めつけられる」
「あら、むしろそれ以外が考えられるとでも? 多少見栄えは良いようだけど、雰囲気から何となく分かるの。貴方、人と関る事が苦手でしょ? それも、私みたいな可愛い子と」
「ゆ、ゆきのん、自分で自分を可愛いって……」
雪ノ下の発言に懐かしさを覚えて反論しない八幡に代わり結衣が苦笑いでツッコミを入れると、そこで彼女は彼以外の存在がいた事を思い出したのか、赤い顔で咳払いをした。
「と、とにかく、女性に対しての苦手意識のようなものが」
「俺、彼女いるんだが……」
「そうよ、だから彼女が……え?」
「俺、彼女がいるんだ」
「……妄想?」
何故か可哀想な人を見る目で八幡を見る雪ノ下に、彼もこれでこそだと思っていた。だが、思う事と返す言葉は一致しない。なので八幡はやや憮然とした顔で口を開く。
「失礼だな。いくら俺だってそんな悲しい事を人に話すか」
「そうだよゆきのん。あたしも会った事あるから。海浜の子で、名前は折本かおりって言うんだ」
「……本当、なの?」
「「ああ(うん)」」
虚を突かれた顔をする雪ノ下を、八幡も結衣も珍しいものを見るかのように見つめていた。どれぐらいそうしていただろうか、やがて雪ノ下は恥ずかしくなったのか、明後日の方向へ顔を動かした。
「さて、では今ので相談は終わりね」
「無かった事にはならないからな?」
「それで、貴方はどうしたいのかしら? その夢をどうすれば見なくなるかを考えて欲しいのか、あるいはどうして見るのか突き止めたいのか。あるいは、他に何か目的があるのか、それを教えて欲しいわ」
「あくまで流す気か。まあいい。俺は、出来ればその両方だ。何故見るのか、どうすれば見なくなるのかを突き止めたい」
交差する互いの眼差し。真剣な視線が相手の瞳を見つめる。少しの間があって雪ノ下が先に視線を外した。
「いいでしょう。奉仕部への依頼として受理するわ。今日はもう帰ってくれて結構よ。また何か思いついた事、思い出した事があったら尋ねて頂戴。こちらでも何か思いついたりしたら連絡するわ」
「分かった。連絡先はこれだ」
「…………出来ればここにメモしてくれる? 携帯の操作に不慣れなの」
その辺りにも雪ノ下らしさを感じたのか、内心で苦笑しながら紙へ連絡先を記入していく八幡。書き終わるとそれを彼女へ差し出して鞄を手にした。
「由比ヶ浜、行こう」
「え? う、うん……。ゆきのん、またね」
「ええ」
揃って部屋を後にする二人。ドアを閉め、八幡は少しだけ後ろを見つめる。と、そんな彼の袖が細かに二回引っ張られた。
「……何だよ」
「えっと、途中まで一緒に帰ろ?」
「おい」
「これぐらい大丈夫だよ。それに、ヒッキーはそれぐらいで浮気しちゃうの?」
「……かおりが気にするんだよ」
「心配いらないって。かおりんが言ってたよ? 軽いものであればそれを理由にもっと大胆な事迫れるって」
「あいつ……」
結衣の言葉に呆れるような息を吐き、八幡はゆっくりと歩き出す。一人分の距離を開けて隣を結衣が歩く。手を伸ばせば届く距離。だけど、だからこそ、絶対に届かない距離を開けて彼女は歩くのだ。
二人が下駄箱へ向かい出した頃、部室に残った雪ノ下は一人俯いて何事かを呟いていた。
「それが………貴方の……なのね」
どこか噛み締めるような声の呟きは、誰に聞かれる事なく部室の中で消える。その後顔を上げた彼女は帰り支度を始めた。やがて彼女も部屋を去り、無人となった室内には静寂が訪れる。ただ、彼女が座っていた椅子の足元には何故か水滴が落ちていた……。
日が暮れ、八幡は部屋で復習を行っていた。するとスマホが振動する。視線をやれば、そこには案の定かおりからの連絡。内心でやれやれと思いつつ、彼はスマホへ手を伸ばす。
「……電話、か」
今回はメッセージではなく着信。それが何を意味するかを予想しながら彼はどこか疲れた顔でそれに出た。
「どうした?」
『どうした? じゃないよ。何でこっちで会ってるのさ』
「雪ノ下か」
『結衣ちゃんから聞いてびっくりしたんだから。マジビビったって。あたしらと同じだったらどうすんの?』
「だからこそ確かめたかったんだ。ま、あれは白だな。俺が知ってる雪ノ下らしくもありらしくもない。おそらく俺と出会った頃は、一年間放置された事もあって更に棘が増したんだろうな、あれは」
彼が初めて雪ノ下雪乃と出会ったのは高校二年の事。今から約一年後の事である。であれば、やはり予想通りにあの雪ノ下雪乃はこの時代の彼女と見るのが正しいと八幡は思っていた。
『そうなの? あたしの時みたいに、これが夢だって自覚してないって事は?』
「……もしそうだとするなら、今回のが切っ掛けになる可能性がある。その場合は、また後日訪れて確かめてみる」
『そ』
かおりの声はどこか素っ気無い。当然だ。何せ雪ノ下雪乃は八幡にとって思い出の女性であり、彼がもっとも意識していた相手に間違いなかったのだから。だから面白くないのだ。それには、どこか雪ノ下の事を話す彼の声に嬉しさのようなものが微かに混ざっていたのも関係している。八幡は無自覚だが、そういう事に気付くのが女性の凄さであり怖さであった。
「……何だよ? 何か怒らせる事言ったか?」
『言ってないけど言ってる』
「は? なぞなぞか?」
『ね、アナタ。そっちの文化祭、あたし行くから』
「はい?」
唐突な申し出に理解が追いつかない八幡へ、かおりは説明するつもりはないとばかりに言葉を続ける。
『それと夏休みは絶対あたしに付き合ってもらうから。プールでも海でも遊園地でも、どこだって拒否権なし。いい?』
「それは構わんが……」
『あと、ゴールデンウィークもだし、あとあとテスト週間は二人で勉強会ね。で、テスト終わりは二人で遊ぼ。それと年末年始』
「待て待て。さすがに気が早いだろ。この夢だっていつまで見れるか」
かおりの暴走をやや呆れながら止めに入る八幡だったが、そんな彼の耳に彼女の拗ねる声が聞こえてきたのはそんな時だった。
『だって、あたしもアナタみたいに青春したいもん』
「……へ?」
『結衣ちゃんから聞いたよ。二年生と三年生の時の思い出。大きなイベント、全部結衣ちゃん達と過ごしたんだって? それ、傍目には完全モテ男だからね。結衣ちゃんと雪ノ下さんを両手にしてるみたいなものだし。マァジィウゥケェるぅ!』
「えっと……かおり?」
『だから一年生のアナタとあたしで全部上書きしてやるんだからぁ! いい? チューして、ハグして、エッチもして、全部ぜ~んぶあたしとの思い出で塗り替えちゃうんだからね! ……分かった?』
「あ、ああ、よく分かった。その、お手柔らかに頼む。それと……」
『それと? 何? まだ何か』
気圧されるような八幡の言葉と、その最後に続く言い方でかおりの熱が再び温度を上げようとする。が、それが炸裂する前に―――
「楽しみに、しとくわ。じゃあ、すまん。そろそろ風呂入るから切るな?」
『あ、うん。わかった……』
「おう、おやすみ」
『おやすみ……』
心から噛み締めるような八幡の照れくさそうな喜び声、と言う名の急速冷却弾が放たれ事なきを得たのであった。かおりは通話が終わってもそのままスマホ片手に呆然としていたが、ゆっくりと顔を喜びへと変えていき、最後には嬉しさを爆発させるようにベッドへ倒れ込む。枕に顔を押し付けて足をパタパタと動かしているので、余程嬉しかったのだろう。折本かおり、十五歳(精神が体験した時間は三十五年以上)は、未だにストレートな感情表現に弱かった。
翌日、休憩中の八幡からの電話を受け、結衣はすぐさま雪ノ下へ連絡を入れた。すると、返ってきた答えは彼女の想像を超えていたのだ。
―――今更彼と話す事など何もないわ。十年遅かったと伝えておいて。