学生の間しか出来ない事があるとすれば、八幡の場合はまさしく彼の取ってきた言動でしょう。そしてそれは雪乃にも言える事。彼らはそういう意味では似た者同士。
やはり、そう考えると原作は八幡と雪乃の物語なんでしょう。変わる必要はないと思う少年と、変わりたいと願っていた少女の。
なのでやはりどうしても彼女へ焦点を当てねばなりません。八幡を語る上で、決して欠かす事の出来ない存在故に。
十年遅かった。この言葉を結衣からのメールで見た八幡は思わず崩れ落ちた。その意味が持つ重さと威力に耐え切れなかったのだ。十年と言えば、丁度彼女が結婚した時にあたる。それが分かれば、雪ノ下が何を望み何を想ったか分かろうものだ。
「……もう話す事はない。十年遅かった。そういう、事かよ、雪ノ下……」
更衣室で一人床を見つめて呟く八幡。仕事終わりで良かったと思いながら、彼はゆっくりと立ち上がる。だが、その動きは体の力が抜けてしまったかのように心もとないものであり、足取りもどこか覚束無い。それでも、彼は待つ者がいる場所へと帰るべく動き出した。
(お前は、あの時に俺と話したかったって事か? いや、話したいと言い出すのがその時だったと言う事だろうな。結婚は、あいつなりの最後の賭けだったのかもしれない。あの頃の俺達の関係を見つめ直して、問い直すための)
誤解を正解としてしまったあの高校時代。その解を問い直す事もせず、ずるずると関係を深めてしまった大学時代。それに気付いて距離を取ろうとした社会人時代初期。だが、もう動きが遅すぎた。そう八幡も分かっていた。成人を迎え社会に出た事で、あの集まりも青春時代のままではいられなくなっていたのだ。
(雪ノ下も由比ヶ浜も、大学を卒業する辺りで一段と綺麗になったんだ。俺の中で今の解は誤答だと騒ぎ出すぐらいに……)
どちらかと踏み出すべきじゃないか。二人の将来を考えれば早い内に自分との関係を見つめ直す必要がないか。浮かんでは消えるそれら自分の良心の声があの頃の八幡を苛んでいたのだ。しかし、結局何も出来ないままで雪ノ下が動いてみせた。それは、おそらく実家の要求もあったのだろうとその頃の八幡でも分かる程、急な話だった。
二十五で結婚。現代で考えれば早い方になるだろうそれに、彼は本音を言えなかった。いや、正確には全て言えなかった。彼が口に出来たのは、本音の半分だったのだから。
(それでいいのか? お前はその結婚を望んでいるのか? 俺は、それさえも言えなかった。言える資格がないと、そう思った。もっと言うのなら、そう言い出す事で雪ノ下や由比ヶ浜から迫られるのが怖かった。あの関係を、壊すんじゃないかと、そう思って……)
だが、既に動いた時点で壊れて始めていたのだ。それを何とかするには、本当は彼が選ぶしかなかった。二人の女性はどちらかが選ばれればそれで受け入れようと思っていたのだから。しかし、彼が取ったのは行動ではなく静観、逃避だった。
過去の行動を振り返り、八幡は思うのだ。やはり自分の選択は間違っていたのだと。自分が犠牲になる事で最善の結果を掴む。それはいつまでも通用するやり方ではないと、そう分かっていたはずだった。それでも、人生最大の選択肢で彼はまたそれをやってしまったのだ。
そうする事で、傷付く者達を相手に……。
「ただいま……」
「あ、おかえり」
見るからに意気消沈する八幡をかおりは笑顔で出迎えた。そのまま彼女は靴を脱いでテーブルへと向かう彼へさらりとこう切り出したのだ。
「会うの拒否られたんだって?」
「……ああ」
「そっか。ま、仕方ないよね。多分だけどさ、向こうはこう思ってるんだって。結婚式にも来なかった癖に今更何よって」
「……だろうな」
かおりの容赦のない言葉が八幡を突き刺す。結衣であれば、小町であればおそらくはこうしないだろう。だが、かおりは八幡の事を分かっていた。彼が何を一番嫌がるか。何をされたら傷付くか。だからこそ敢えて彼女はそうしていた。裏表なく言葉を放つ。それが自分に対する八幡の好きな部分だと思って。
「だからもういいじゃん。向こうが向き合う気がないって言ってるんだしさ。アナタも諦めていいって」
「だが……」
「別にいいよ。あたしはね、いつまでも待てるから」
その瞬間、八幡は目を見開いて振り返った。そんな彼の目の前には、優しく微笑むかおりがいたのだ。
「ひきがやが、ちゃんと自分に納得してあたしを奥さんにしたいって言える時まで、待ってるから。例えそれが絶対に来ないとしても」
「かおり……お前……」
「ひきがやは一度言った事を引っ込めないでしょ? じゃ、あたしが書かなきゃいけない物は雪ノ下さんが会おうとしない限り書けない訳だし。でも、いいんだ。あたしは、比企谷って苗字にこだわらない。こだわるのは、ひきがやの、アナタの傍にいれるかどうかだけ」
これ程までに優しい慰めは、そしてこれ程までに厳しい励ましはなかった。かおりは、どう言えば比企谷八幡という男がやる気を出すかを分かっていたのだ。彼は、自分のためには基本動けない。いつでも彼が動く時は誰かのためという理由が必要だった。それを今彼女が与えているのだ。このままだと自分は比企谷八幡の妻になれない。それを嫌だとは言わないが、受け入れるつもりもない。必ずいつかそれを可能にしてくれると信じているぞと、こう言っているのだ。
(……情けない。あの時と、修学旅行後と一緒じゃないか。俺は、また誰かに理由を与えられないと動けないのか。ははっ、本当に大人っぽくなったは正解だな。本当、成り切れてなかった……)
そう思うと同時に八幡は深呼吸をした。ここで奮い立たねばあの時と同じで大切な場所がなくなってしまう。そう己へ言い聞かせ、彼はかおりへ静かに告げた。
「悪いが、少し飯は待ってくれ」
「いいよ。用意だけしとくね」
「頼む」
「うんっ!」
心からの笑顔を見せてかおりは動き出す。それを見ながら八幡はスマホを取り出して結衣へ連絡を入れた。少しコール音があってから、結衣の声が聞こえてくる。後ろからは子供の声と男性の声が聞こえるので早めに切り上げなければと思いながら八幡は口を開いた。
「えっと、今は電話大丈夫か?」
『うん』
「そうか。手短に話す。雪ノ下の番号を教えてくれ。俺が直接連絡を入れる」
『……分かった。じゃあ言うね?』
「……ああ、助かる。サンキュな」
何も聞かず、何も言わず、ただ希望に応じてくれる結衣とその用意の速さに彼は気付いた。彼女もまた、かおりと同じで信じていてくれたのだと。そして、それが彼に自分の選んでいる道が間違っていない事を証明してくれているような気がしていた。
『……だよ。大丈夫?』
「ああ、メモさせてもらった。今からかけて出られると思うか?」
『どうだろうね。ただ、ゆきのんの事だから無視は出来ないと思う』
「それだけ聞ければ十分だ。じゃあな。家族との時間を邪魔してすまん」
『ううん、いいんだ』
返ってくる声はどこか嬉しそうだった。その意味を噛み締め、八幡が通話を終えようとした時だ。ポツリと結衣が呟いたのは。
『人の気持ち、考えてくれるようになったんだね。あたし、嬉しい』
「……そうなれるようになるまで二十年近くかかったがな」
『ホントは、もっと前になってたんだよ。だけど、あの時にそれがまた遠のいちゃっただけ。今度は、間違えないでね?』
「……俺のやり方が嫌いと言われないようにな」
『ふふっ、近い内にまた奉仕部で集まろうね、ヒッキー。じゃあね』
最後の言葉の意味する事を感じ、八幡は少しだけ天井を見上げた。かつて迎えた奉仕部崩壊の危機。一度目は何とか乗り越えた。だが、二度目のそれは乗り越えられなかった。その違いは、やはり学生と社会人という立ち位置と状況の差だろう。だからこそ、余計に間違えてはいけなかった。そして、八幡は間違えたくないと思って間違えたのだ。ベストではなくベターを、と思って。
「アナタ、もう食べられるよ?」
「……おう、分かった」
かおりに呼び掛けられ、彼はいつもの調子で声を返す。テーブルに着き、二人揃って声を合わせて挨拶をしてから食べ始める。その温かい味と笑顔に彼は思うのだ。今度は、ベターではなくグッドを目指さなければいけないと。ベターはビターになる可能性があるからだ。彼は、苦みが好きではない。甘さが好きなのだ。なら、今度は甘い結末を目指そうと誓う。目の前の愛しい存在のような、そんな甘さを。
「はい、アナタ、あーん」
「……あーん」
ただ、甘すぎるのも考え物だとも思ってはいたが、今はその甘さが心地良いと思っているのも事実であった。食事を終えた後、八幡は雪ノ下へ電話をかけた。だが、当然のように出ない。やがて留守番電話へ切り替わる。なので彼は意を決して告げる。
「あの時に間違った解を問い直したい。いや、問い直させてくれ。あの集まりを、あの時間を忘れたくないんだ」
願いを託すようにメッセージを吹き込み、祈る様に電話を切る八幡。それをかおりは何も言わずに見守っていた。そして、二人は寄り添って眠るのであった。
大勢の人が行きかう繁華街。その一角にあるシネコンと呼ばれる場所に八幡とかおりの姿があった。夢の中での休日は、当然のようにデートとして使われる。今回は八幡が現実で少し疲弊した事もあって気分転換を兼ねていた。
「うわ、これ懐かし。ねぇねぇ、これ懐かしくない?」
「かおり、これ、今話題の新作だからな?」
「あっ……そうだった。えっと……あっ! あれもよく見た。レンタむぐ?」
「よし、それ以上言うなら映画はなしだ。もしくはあれにするぞ」
そう言って彼が指したのは女の子に大人気なアニメ映画である。それにはさすがにかおりも嫌そうな顔をした。首を横に振って拒否を示し、その動きに苦笑しながら八幡の手が彼女の口から離れる。
「ひきがや、あれはない」
「……そうか」
「ん。だから、あれは家で二人きりで見よ? アナタが好きなやつ、だもんね」
「っ?!」
少し趣味を拒否されたように感じて内心で当然と思いつつ苦笑する八幡へ、かおりはそっと耳打ちしてからさっと離れる。その時に彼へ見せた悪戯っぽい笑顔はとても可愛らしく、魅力的に見えた。間違いなく八幡はそこでかおりに惚れ直したぐらいに。
結局二人はアクション主体のエンターテイメント作品を選んだ。何も難しい事を考えずに見れるものをと、そういう選考基準である。こうして二人のデートは始まった。映画を見た後はファミレスへ入り、昼食を食べながら映画の感想を言い合うという定番コースだ。
「でも、何かこう考えると困るね。ここじゃ最新でも、あたし達からするとそうじゃないってのは」
「まぁ、そうだな」
二人でマルゲリータを食べながら話すは、この夢の中の欠点とも言うべき事だった。いくら彼らの経験している事などは違えど、世の中全体は何も変化する事なく動いている。そうなれば、娯楽や技術などは変化しようがなく、今回の上映作品のように二人からすれば懐かしい物ばかりとなるのだ。
「それで、この後どうするの?」
「今の俺達にしか出来ない事をしようと思ってる」
「え? 何々?」
興味津々で問いかけるかおりへ、八幡は少しだけ照れくさそうに頬を掻いた。
「……何も目的なくブラブラしようぜ。その、腕組んで」
勿論その提案をかおりがマジウケると承諾したのは言うまでもない。こうして二人は八幡大好きなイタリアの風薫るチェーン店を後にした。そのまま二人は特に何を目指すでもなく歩き始める。途中途中の店や景色に足を止めながら。
それは、現実では出来ない時間の使い方。目的もなく時間を浪費出来るのは若い内だけである。それも、社会に出る前。今度そう出来るようになるのは、基本的には社会から少し距離を取った時になるだろう。その時、自分達は同じように寄り添えているのだろうか。そんな事をぼんやりと八幡は考える。
「ね、ちょっといい?」
「ん?」
かおりの声で八幡が意識を彼女へ向ける。かおりは彼の顔を見つめ無言で手を動かす。かがめというジェスチャーと理解した八幡は、どういう事だと思いながらその場でかがむ。すると、その瞬間かおりが唇を重ねてきたのだ。
「……え?」
「やっぱりまだ元気なさそうだから。どう? 少しは元気出た?」
理解が追いつかない八幡へかおりは楽しそうに笑って問いかける。その姿が彼の知るどの女性とも違う事を改めて感じ、八幡はゆっくりと表情を笑みに変えていく。それが今度はかおりの表情をより眩しい笑顔へと変えた。
再び彼らは腕を組み、互いに笑みを浮かべ合って歩き出す。そうして二人は日暮れ近くまで仲睦まじく過ごした。夕日に照らされて二人の影が半分だけ重なるようにして歩いて行く。向かうは折本家だ。
「あのさ」
「ん?」
「もしも、もしもなんだけどね」
「ああ」
「この夢が死ぬまで続くとしたら、どうする?」
その問いかけは思わぬものだった。八幡でさえ考えていなかった事だったのだ。死ぬまでこの過去のような夢を見る。それをどうしてかおりが問いかけてきたのか。それを彼は噛み締めるように受け止め、その感情を込めるように、だがどこかあっさりと告げた。
「かおりと見続けたい」
しっかりと彼女の目を見つめて放たれた一言は、ある意味で告白よりも強い破壊力をかおりへ与えた。そして、それはプロポーズと同義であったのだ。
「……うん、あたしも」
「そうか、それは何よりだ」
「ひきがや、一つ聞いて欲しい事が出来たんだけどいい?」
「何だ?」
その瞬間、かおりの顔が八幡が見た事がない程真っ赤になった。一体何だと八幡が思っていると、彼女は深呼吸をしてから潤んだ瞳を彼へ向ける。
「あたし、折本かおりは、比企谷八幡が大好きです」
「ぁ……」
「アナタは、どうですか?」
不安はそこになかった。恐怖は、そこになかった。あったのは、確信だけ。だけど直接言葉にして伝えて欲しい。かおりの声は、目は、心はそう言っていた。それをしっかりと感じ取って八幡は躊躇う事なく告げる。
「お前を、愛してる」
「っ!? ひきがやぁ!」
感極まって抱き着くかおりを受け止める八幡。そのまま二人は抱き締め合い、そしてゆっくりと唇を重ねた。影は、そこで完全に一つになった……。
目覚めた八幡は、パートへ出るかおりを見送り、その日が夜勤だった事もあり、昼前まで引っ越し先の選別を行っていた。
「……やはりこれというのは中々」
二人で暮らすだけならいい物件は沢山あるが、子供の事を考えるとそうはいかないのが住宅事情というものだ。現に彼も何度心の中で毒づいた事か。また良さそうな物件が八幡の目に留まる、が家賃が高過ぎてダメとなる。
「くそっ……ん?」
つくづく収入面が問題となる。そう八幡が自分のふがいなさを痛感しているとスマホが振動している事に気付く。軽く苛立っていた事もあり、八幡は表示をロクに見る事もせず通話を選んだ。
「もしもし?」
『……自分から連絡してくれと言っておいて随分なご挨拶ね』
「っ!? 雪ノ下……か?」
『以外に誰がいると? どうやら年齢を重ねても成長はしていないようだわ。さすがは駄目谷くん』
「雪ノ下、その、俺はお前に」
『言いたい事がある? それとも聞いて欲しい事かしら? どちらにせよ、自分の都合でしか物を言うつもりはないのよね、貴方は』
声は、至って普通であった。いや、かつてよりも幾分か温度が低いと八幡は感じていた。まさしく氷の女王。
「違う。いや、そうなのかもしれない。だけど、これだけは分かって欲しい。俺は、あの時の俺はまだ学生のままだった。誰かの人生を負うのが怖かったんだ。自惚れじゃなければ、あの頃の俺はお前と由比ヶ浜に異性として意識してもらっていた。俺がどちらかへ踏み込めば、おそらくその時は恋人になれたと、思う」
『……そう、ね。その認識は間違ってないわ』
「だからこそ、それを学生の頃に終わらせておくべきだったんだ。まだ俺の人生をお前達に、そしてお前達の人生を俺が背負うなんて考えないで済む頃に」
『かもしれないわ。でも、それは結果論。貴方が私からも、そして結衣さんからも逃げた事に変わりはないでしょ』
「ああ、そうだ。俺は逃げた。お前達のためと言い訳をして、自分からさえも逃げた。その結果があの行動だ。……幻滅、したろ?」
『お生憎様。幻滅ならあの答えを貴方から聞いた時にしていたわ。式に来なかった時には幻滅するだけの価値もなくなっていたもの』
ザックリと、八幡の心を突き刺す言葉だった。かおりにかつて振られた時よりも、あの逃げを打った時よりも、どんな心の痛みさえも凌駕する鋭さがそこにあった。
「雪ノ下……」
『そうそう、言い忘れていたけれどもう私は雪ノ下じゃないわ。結婚して苗字が変わったの。まぁ、貴方は知りもしないでしょう。出欠席さえ返さなかったぐらいだものね。大方招待状も読まずに捨てたんでしょう』
図星だった。彼は、その内容を見る事もせず、そのまま見て見ぬ振りをして捨てたのだ。彼が即答しなかった事で彼女もそれが事実だと察したのだろう。明らかに侮蔑の色を含んだため息を吐いた。
「……何に、なったんだ?」
それでも何とか絞り出すようにそう返す八幡。どこかで嫌な予感がすると鳴り響く自身の警報を聞きながら、彼は息を呑んで彼女の答えを待つ。
『今の私は、葉山雪乃よ』
「っ!?」
その瞬間、八幡の脳裏に思い出されるあの仕事帰りの記憶。雪ノ下によく似た少女と手を繋いで歩いていた男性の顔と、かつての高校時代の葉山隼人が重なる。だが、まだ分からない。そう一縷の望みを託すように八幡は問いかける。
「……なぁ、今、葉山の奴は黒髪なのか?」
『そうだけど? というより、弁護士になって頭髪などに気を遣わないとでも? 彼、そういうところはきっちりしているわ。学生の頃はともかく、社会人でしかも弁護士なんて依頼人の信用第一の仕事なのよ。好印象を与える事に腐心するに決まってるでしょう。それとも、仕事さえ出来ればどんな格好でも構わないとでも言うのかしら。それは創作物の世界よ』
突き放すような言い方。それは、まさしく拒絶だった。夫を馬鹿にしてるのかと言わんばかりの声。それが八幡の心を傷だらけにしていく。覚悟はしていたつもりだった。予想もしていたはずだった。なのに、実際体験するとそれらが何の意味も持たなかった事を痛感させられていたのだ。
「その、ゆ……葉山夫人。俺は」
『謝りたい? それともまだ私に罵られたいの? どちらにしろ聞くつもりもする気もないわ。今日電話したのは、貴方が結衣さんへ送ったメッセージだけでは事態を理解出来ていないようだから、わざわざ直接伝える事にしたの。今の私に貴方と話す事は何もないと』
「っ!」
『ああ、そうだわ。結衣さんから聞いたけど、彼女が出来たそうね。おめでとう。過去の女の事など忘れてその方とお幸せに』
「雪ノ下っ!」
そこで通話は終わった。向き合う事さえさせてもらえず、ただただ強引にケリをつけられた。そう八幡は感じていた。それだけではない。彼が一番ある意味で知りたくなかった事も突きつけられたのだ。雪ノ下雪乃の相手は葉山隼人であるという、当然といえば当然の事実を。
「ははっ……はははっ……そうだよな。雪ノ下家と葉山家の関係を考えればそれが当然の流れか。あの感じだと葉山はそれなりに成功してる弁護士で、子供も元気に成長して姉妹仲さえも修復出来た。ホント、こんなもんだ。俺がいなくたって、世の中は回るし世界は変わる。雪ノ下にとって俺は絶対必要な存在じゃなかったし、俺にとってもそうだった。そう言う事だ」
天井を力なく見上げ、八幡は涙を流す。結衣の時が綺麗な失恋なら、これは惨めな失恋だった。それも、自分が原因であり理由の。そして心底自覚するのだ。やはり自分にとって雪ノ下雪乃は特別だったのだ、と。
やがて日が高く上り、ゆっくりと落ち始めた頃、部屋へかおりが帰ってくる。その手に夕食の食材などが入った袋を持って。
「ただいま……って、あれ? アナタ、もう起きてたの?」
静かに帰宅を告げるかおりだったが、テーブルに突っ伏している八幡に気付いて首を傾げる。夜勤の時は、昼過ぎには仮眠を取るからだ。珍しい事もあると思いながら、かおりは靴を脱いで椅子にかけてあるエプロンを手にするや素早く身に着けた。
「お腹空いてる? 何ならちゃっちゃと何か作ろうか?」
「……いや、いい」
「そう? じゃ、買ってきた物しまおっと」
疲れ果てたような声も仮眠が中途半端で起きたためだろうと思い、かおりは特に不審がる事もなく買ってきた物をしまい始めた。その間も八幡は一切動く事なく、テーブルへ顔を伏せ続ける。と、そこでかおりの手から玉ねぎが転がり、八幡の足元近くへといってしまった。当然彼女の視線は玉ねぎを追い駆けていき、そこで違和感を覚えたのだ。
「……何でスマホ握ってるの?」
返答はなかった。それに女の勘とでもいうべき直感で何かを感じ取ったかおりは、玉ねぎではなく八幡の手へ、スマホを握っている手へ自らの手を伸ばす。
「アナタ、ちょっとそれ見せて」
「……どうしてだ?」
「お願い。着信履歴だけでいいから」
その声に強い確信めいたものを感じ取ったのか、観念するように八幡がスマホを手放す。かおりはそれを受け取ると、彼のすぐ傍で着信履歴を呼び出した。
「……雪ノ下、か」
一番最近の着信はそう表記されていた。それだけでかおりも大まかな事情を把握する。雪ノ下との話し合いは失敗したのだろうと。
「アナタ……」
「……笑ってくれ。お前のためにもと、そう思ってたのにこの様だ。あいつから明確な拒絶をされただけで出鼻を挫かれ、トドメに旦那の名前を告げられ終了だ。腹を括った女は強いとは知っていたが、まさかここまでとはな。だが、これでようやく俺の間違ってた青春時代も終わった」
「終わってないよ」
「……え? かおり?」
聞こえてきた言葉に八幡が顔を上げた。そこにはスマホを差し出しながら悲しげな表情を見せるかおりがいた。
「雪ノ下さんがどんな事言ったか知らないけど、それでアナタが納得出来てないなら終わってない。逆に、どれだけ雪ノ下さんが納得出来なくても、アナタが納得出来るのなら終わり。だけど、今のままじゃ両方とも納得出来てないよ。少なくても、結衣ちゃんとの事を見たらそうとしか思えない」
「かおり……でも」
「逃げちゃうの?」
「っ!?」
悲しそうに問いかけられた言葉は、今一番八幡が言われたくない言葉であった。そこで彼は改めて思う。かおりは本当に自分が欲しい言葉と欲しくない言葉を言ってくれると。
(もしかすると、小町以上に俺の事を動かすのが上手いかもしれん。……計算じゃなく直感でやっていそうな辺り、ホント凄い女だなぁ)
沈んでいたはずの気持ちが少しだけ上向いてくるのを彼は感じていた。慰めではなく、叱咤でもなく、癒しでもない。かおりはどれでもあってどれでもなかった。彼女はただそれでいいのかと問いかけてくれているのだ。それは疑問と確認。納得出来るのか、そうでないならどうすればいいのか。それをかおりは彼自身へ考えさせてくれるのだ。
「あたしの時は、逃げないでくれたじゃん。アナタは、あんな場所にまで来てくれた。あたしのために、お金まで使って。そんなアナタだから、あたしも結衣ちゃんも、そして雪ノ下さんだって好きになったんだよ! 踏み込むんでしょ? 向き合うんでしょ? なら、最後まで貫いてよっ! ……あたしを愛してるって、そう言ってくれた時のように、しっかり前を向いて?」
そっと八幡の顔へ両手を伸ばして微笑みかけるかおりに、彼は何かを言うではなくたた頷く事で返事とした。それに彼女も頷きを返す。その後、八幡は夕食が出来たら起こして欲しいと頼んで仮眠を取るべくベッドへ向かう。その背中を見送り、かおりは気合を入れるように腰へ手を当てた。
「よし、今日はいつも以上に美味しいご飯食べてもらわなくちゃっ!」
「行ってくる」
「うん、行ってらっしゃい。気を付けてね」
「おう」
時刻は夜十一時半、八幡はパジャマ姿のかおりに見送られて部屋を出た。向かうは当然職場だ。あの雪ノ下との会話のダメージはかなり回復していた八幡であったが、もう電話での会話は不可能だと理解しており、今はどうやってもう一度接点を持つかを考えていた。
(由比ヶ浜を頼るか? いや、俺が頼り過ぎてあの二人が揉めたら意味がない。となると小町? ……いや、俺が結婚式に出なかった事を小町は知ってる。となれば、自然と付き合いもなくなっていっただろう。それに、万が一あったとしても小町には頼れない。こうなったら……)
そこで八幡は苦渋の決断を下す。彼はスマホを手にすると、とある場所を検索した。その結果はあっさりと出る。そう、葉山弁護士事務所だ。
「ここに電話すれば、あいつと、葉山と接点を持てるな……」
今はそれに賭けるしかない。そう思って八幡は職場へと向かった。そして、休憩時間でその番号をメモしてスマホに登録する。朝になり、勤務終わりで部屋まで帰り、誰もいない中で一眠りしてから彼は登録した番号をコールした。
「あっ、葉山弁護士事務所で間違いないでしょうか? 私は、比企谷八幡と言ってそちらにいる葉山隼人さんの高校の同級生なんですが、彼に取り次いでもらう事は可能でしょうか? ……総武高校で二年生の頃同じクラスだったと言って頂ければ分かるかと。……はい、お願いします」
若干不信がられるも、電話応対してくれた相手は「しばらくお待ちください」と返して保留ボタンを押したらしく、よくあるメロディが流れ始める。それが一周する前にメロディは途切れた。
『お電話代わりました。葉山隼人です』
「……久しぶり、だな」
『本当に君なのか?』
「ああ、比企谷だ。その、恥を忍んでお前に頼みが」
『雪乃の事かい?』
「っ……ああ」
自然な感じで名前呼びをする隼人に八幡は思わず息を呑む。あの頃、他人行儀な苗字にさん付けをしていた彼がそうしている事で、余計結婚して上手くやっている印象を受けたためである。
『……比企谷、君の気持ちは分からないでもない。だけど、これは本来十年前にするべき事だというのは分かってくれるか?』
「ああ、本当にお前や奥さんの言う通りだ。遅すぎるのも重々承知の上で、そこを曲げて何とか彼女ともう一度だけ話をさせてくれ。そうしないと、俺はあの頃から先へ一歩も進めない。自分勝手なのは分かってるし、もう彼女が俺と会いたくないのも分かる。それでも、それでも何とか」
『比企谷、君は変わったな。まるで今の君はあの頃の俺のようだ』
その表現に八幡は小さく息を呑んだ。高校時代、隼人はみんな仲良くを目指して生きていた。それは、言うなればあの集まりで仲良くしていたかった八幡と重なるものがある。それに気付いて八幡は言葉がなかった。あの頃好きになれなかった相手。それと同じ考えと行動を取っていたと気付いたのだ。
『……会って何を話すつもりだ? 言っておくが、彼女だって暇じゃない』
「本当の意味で終わらせたいんだ。俺と彼女の手で」
『…………雪乃にその気がなくても?』
「そんな曖昧を許容出来る奴じゃない。違うか?」
『違わない。きっと雪乃もどこかで納得し切れてないはずだ。いいだろう。俺の方で段取りはつけておく』
「すまん。感謝する」
『いいさ。この十年、俺は一度として雪乃の心を掴んだ気がしていなかった。子供は出来ても、それはどこか必要とされているから産んだだけ。そんな気もしていたぐらいに』
「葉山……」
『さっきの君じゃないが、おそらくあの頃から一歩も進めていないのは俺と雪乃もさ。夫婦生活だって、仮面とは言わないがどこかすれ違いの日々な気さえする。だから、今回だけだ』
「分かってる。次などないさ。良くも悪くも、だ」
『……連絡先を教えてくれないか? 出来ればアドレスも』
「分かった」
そうして八幡のメモリーに葉山隼人の名が登録される事になる。それは、彼らが出会って二十年近く経って初めての出来事であった。
その夜、八幡はかおりへ一枚の用紙を差し出した。
「アナタ、これって……」
「書いておいてくれ。出しに行くのは一緒に行こう」
それは婚姻届。既に八幡の分は記入済みであり、後はかおりが必要な場所を記入すればほとんど完成となる。ほとんどというのは、証人の欄は一人分しか記入されていないからだ。
「……ね、これじゃ出せないよ?」
「心配するな。もう一人分は近く書いてもらうために俺が出向く事になってる」
その言葉に目を瞬かせてかおりはもう一度用紙へ目を落とした。証人の欄は結衣しかない。それでもう一人に書いてもらうために八幡が出向く。それが何を意味するかを考え、彼女はハッとした顔で彼を見た。八幡は、真剣な表情でかおりを見つめていた。
「そういう事?」
「ああ、きっとそういう事だ」
「……大丈夫なの?」
「分からないが、前回のようにはならんから安心してくれ。何があってもちゃんと帰ってくる」
「……信じてるからね。それと、最悪そこは小町ちゃんだから」
「おいおい、俺の納得いくようにってそう言ったのは」
「あたしの満足とアナタの心。優先すべきはどっちか言うまでもないから。あたし、待つって言ったけど何度もあんな風になるなら待たなくていい。無理矢理にでもあたしがアナタの納得もぎ取って強引に終わらせる。それが嫌ならこれで決めてきて」
最後の最後まで八幡の背中を押すかおりに、彼も嬉しくも困った表情で頷いた。まさしく今度が正真正銘ラストチャンス。そこで向き合えなければおそらくあの夢は終わる事なく続く。それがダメとは言わないが、かおりがあの夢で不安を抱き続けているのを八幡も気付いている。故に終わらせる必要があるのだ。
そして、その夜寄り添って眠った二人はいつものようにあの夢を見た。両親の見送りと、小町との朝食。自転車での登校と、かつての高校生活と似てるようで違う時間を過ごしながら八幡は放課後、あの部室へと向かった。何も思い出した事や気付いた事がある訳ではない。ただ、こちらでも雪ノ下と会って話をしておこうと思ったのだ。一種のイメージトレーニングのようなものとして。
「うす」
「……比企谷くん、だったわね。入室時にはノックをしてもらえる?」
「あっ、すまん」
ついあの頃の感じで入室した八幡へ雪ノ下はやや不機嫌そうに眉をひそめる。そこで自分が入部した人間のように思っていた事に気付いて、彼はやや申し訳なさそうに頭を下げた。
「まあいいでしょう。それで? ここへ来たと言う事は何か思い出す事でも?」
「……ああ。その、一つだけあった」
「そう。聞かせてもらえる?」
「俺は、その夢だとここの部員だった。由比ヶ浜と共に、な」
「貴方と由比ヶ浜さんが?」
「それで、俺達は小さな事から少々大きな事まで様々な依頼を受ける事になる。自作小説への感想や、あるテニス部員の強化練習の付き合い、果ては文化祭実行委員長の補佐に生徒会のクリスマスイベントの手伝いだ。多種多様な内容の依頼を俺達は受けていた」
八幡の語る内容を、雪ノ下は馬鹿にするでも疑うでもなく、ただ黙って聴き入った。時折相槌を打って話を促したりはするものの、基本的には場の主導権を彼へ委ねていたのだ。やがて話題は依頼内容ではなく、どうやってそれを終わらせていったかに移っていく。
それは、ある程度までは問題なかった。だが、文化祭の依頼には雪ノ下の眉が動き、修学旅行の依頼では明らかに怒りと苛立ちを覚えていた。
「待ちなさい。比企谷くん、今のは夢なのよね?」
「ああ」
「……もしそれが予知夢なら、実証は可能かもしれない。それと、一つ気付いた事があるのだけどいいかしら?」
「何だ?」
「どうして貴方の奉仕部としての活動は二年生から始まっているの? いえ、何しろ今の話で修学旅行と言っていたものだから。それに、失礼だけど貴方がここへ入部を希望するとは思えないし」
「ああ、それは……っ!?」
その疑問に八幡の中で何かが騒ぐ。言いようのない感覚。何がひっかかるものがある。そんな感覚に囚われ、彼は思い出す。前回の雪ノ下との会話と、今回の雪ノ下との会話を。そうした時、ある事が彼の中で浮かび上がった。
「どうしたの? 急に息を呑んで」
「雪ノ下、説明の前に俺からも一ついいか?」
「何?」
「どうして前回、お前は俺に夢の中で自分といつどこで会ったかを聞かなかった?」
そう、彼が引っかかった部分はそこだった。前回会いに来た際、理由を夢で雪ノ下に似た人物が出てきたからと八幡は言った。にもかかわらず、そこに彼女は深く触れる事なく話を進めて、しかも信じたのだ。もしかしてと、そう思う八幡へ雪ノ下は困惑した表情を返した。
「何の、事?」
「……は?」
「その、実は前回貴方が由比ヶ浜さんとここへ来た事ははっきり覚えているの。だけど、何故かその後から記憶が曖昧になっていて……」
「本当か?」
「え、ええ。ぼんやりと覚えてはいるの。だけど、そう、まるでその間だけ夢を見ていたように記憶がはっきりしないのよ。はっきりと覚えているのは、ここを出た後で鍵を返しに行くところからかしら。勿論依頼を受けた事は覚えているけど」
衝撃の発言であった。それが事実か確かめる事は出来ないが、一つだけ確かな事は、この頃の雪ノ下雪乃であれば虚言は吐かないという事。であるのなら、前回八幡達と話していた相手はどういう事か分かると言うものだ。
(あの俺を見た時の反応。あれは、切り替わった瞬間だったんだ。そして、今は切り替わっていない。いや、もう切り替わるつもりもないのかもしれん)
困惑している雪ノ下を眺めながら八幡はそう結論付けた。と、そこで彼は思い出す。あの時、雪ノ下は最後にこう言っていた。過去の女の事など忘れて。あの言葉が出てきたのは、この夢も影響したのかもしれないと。
「そうか。雪ノ下、すまん。急用を思い出した。今日はこれで失礼するわ」
「ええ。その、ごめんなさい。人の話を聞き流す事は意図せずにするはずはないのだけど」
さらりととんでもない事を言う雪ノ下だが、それがこの頃の彼女らしさと知っている八幡は苦笑するしかなかった。その笑みは雪ノ下の機嫌を損ねる働きを発揮してしまったらしい。彼女はやや表情をムッとしたものへと変えたのだ。
「何か言いたい事でも?」
「いや、中々言うなと思ってな。気を悪くしたのならすまん」
「……言いたい事はあるけど、今回はこちらに非があるから不問にしましょう。ではまた」
「……ああ」
挨拶を交わして彼はまた気付く。前回はまたと自分では言わなかった、と。そこで確信したのだ。あの時話していたのは自分と同じ時を生きた雪ノ下雪乃だったと。
(だが、何故今回は切り替わっていない? 理由や原因が分からない……)
疑問は晴れぬまま、彼は家路に就く。そしてそこで彼はかおりへ連絡を入れた。
『え? 雪ノ下さんが?』
「ああ、間違いない。何故か前回は俺達と同じだったのに今回はこの頃の雪ノ下だった。そして、それで分かった事がある」
『分かった事?』
「……俺達がこの夢を見たくないと強く想えば見ないようになると言う事だ」
そうでしか今回の出来事を説明出来ない。そう八幡は考えていた。もしそうでないとすれば、それはあの雪ノ下雪乃が演技をしている事になる。だが、それはないと思いたい。それが彼の偽らざる思いだ。
『あたし達が、この夢を見たくないと強く想う……』
「そもそも、この夢を初めに見始めたのはかおりなのか俺なのかもはっきりしない。いや、もしかしたら他の誰かなのかもしれない。あるいは、これは本当に夢じゃないかもしれないんだ」
『夢じゃないかもしれない……』
「とにかくだ。かおり、この夢を無理に見る必要はない。何となくだが、由比ヶ浜も雪ノ下も俺に引っ張られたんじゃないかと思う。理由は、戸塚という俺が高校時代親しくなれた相手がいるんだが、そいつは一向に変化が起きないからだ」
『アナタが強く意識する相手だけ影響されてる?』
「多分な。そう仮定すればまだ理解出来る」
言いながら彼はどこかで疑っていた。それでも、今重要なのはその事ではない。そう思う事で八幡は思考を別の事へ向けていた。今、彼の頭を占めているのはやはり雪ノ下の事だったのだから。
「かおり、俺は今回の事で何故あいつに拒絶されたか理由が理解出来たよ」
『え?』
「……あいつは、この夢で俺が彼女持ちになった事を知ったんだ。それに関しての受け答えで、それが現実でもそうなのかもしれないと思ったんだろう。それであの電話の時に鎌をかけてきた。で、それに見事引っかかった事であいつは現実とこの夢の俺に見切りをつけたんだろうな。だからこそ、そこに活路がある」
『……かつろって何?』
かおりらしい返しに八幡は呆気に取られ、その後笑い出した。その笑い声をかおりは電話越しに聞きながら微笑む。その笑いは実に一分近く続き、かおりが最後に拗ねるように文句を言った事で止まった事を記す。
閑静な住宅街にある二階建てのオシャレな一軒家。そこの表札には葉山とある。そこが葉山夫妻の家であった。そこのリビングに八幡の姿があった。それと彼女の姿も。
ソファに座って向かい合いながら彼らは対面していた。その近くには紅茶が注がれたティーカップが置かれている。まだあまりにも熱く、八幡は手を付ける事さえ出来なかったが。
「してやられたわね。まさかあの人の協力を取り付けるなんて」
ここを訪れた八幡を見た雪ノ下はしばし絶句。それもそのはず、夫から今日自分に会うために訪れる客人を、彼が外出から戻るまでの間相手をして欲しいと頼まれていたのだ。そこに現れたのが八幡ともあればそうなるのが普通というもの。そして、そこで彼女も気付いたのだ。全て八幡と隼人による企みだと。
「それで、何とか言ったらどうなのかしら? それとも、私への口のきき方を忘れてしまったの?」
「……雪ノ下、お前の怒りはもっともだ」
「いきなり何の事?」
「お前や由比ヶ浜がいたのにも関わらず、どちらも選ばなかった俺が、よりにもよってあの折本かおりと付き合い出しているなんてな。今の俺にはよく分かる。似たような気持ちを味わったから」
あの雪ノ下ではなく葉山と告げられた瞬間、彼は一言では言い表せない感情に苛まれたのだ。あれをもっと強く強烈に浴びたのが目の前の女性だ。そう八幡は察していたのである。
「……似たような、ですって? よくもそんな事言えたものね。貴方は、私との約束を破ったのよ。いえ、忘れたと表現するのが正しいのかしら。思い出せない? あの日のディスティニーで、私が貴方へ出した依頼を」
その瞬間、八幡の脳裏に甦る記憶がある。クリスマスイベントを乗り越えた後の、ディスティニーランド。一色いろはが告白を行うために選んだその場所での、思い出の一時。そこで雪ノ下から告げられた不意の一言を。
「…………いつか私を助けてね、か」
「っ!? そうよ! あの時、貴方はそれを聞いた! たしかに受けるとは言わなかったし、私も確認をしなかった! だけど、だけどっ! 約束出来たって……思っちゃいけなかったの? 貴方は、私の事を必ず助けてくれると信じるのはいけない事だった?」
「雪ノ下……」
八幡は信じられないものを見るような気持ちだった。彼の目の前であの雪ノ下雪乃が泣いていたのだ。涙を浮かべるだけでなく、その綺麗な瞳からいくつもいくつも光る滴を産み落としながら。縋るような顔で、ただただ彼を見つめていたのだ。
「ねぇ、答えて、比企谷くん。……答えなさいっ!」
「…………こんな時でも、そういう言い方が出来る辺りがお前らしいな、雪ノ下」
最後の最後に立て直し、毅然とした表情を見せた彼女へ八幡は心の底から敬意を示すように告げる。そして、小さく息を吐いて姿勢を正した。
「お前の言う通りだ。俺は、一番間違っちゃいけない時に一番選んではいけない答えを選んだ。あの時、結婚すると告げたお前へ俺が取るべきだったのは、祝いの言葉じゃなくお前の本心を問う事だった。じゃなければ、お前は助けを言い出す切っ掛けがなかった。いや、あれこそがそれだったんだな。あれがお前なりのS.O.Sだった」
「……そうよ。あれがあの時の私に出来た精一杯の悲鳴の出し方」
「分かっていたはずだった。ああ、分かっていたんだ本当は。だけど、あの頃の俺は肝心な時に同じ失敗を繰り返すダメな奴だった。あの居場所を守りたくて、お前の本音を聞かずに動いた。あの生徒会選挙と同じだ。分かっているものと思っていたと、お前に言わせてしまった。あれとまったく同じミスだ。本当に、俺は結局独りよがりの自分勝手野郎だった」
そう言って内心でこう付け加える。しかも、二度目は分かっていた上で間違えたのだから余計性質が悪い、と。
「あれで俺はお前を深く傷付けた。それだけじゃない。その後もお前の心へ消える事のない傷を残してしまった。式の不参加。あれがお前にとって絶縁と同義だった。実際、俺がお前に子が生まれた事を知ったのは由比ヶ浜からだった。その由比ヶ浜へも、俺は傷をつけた。そちらは、何とか許してもらえたよ。かなり遅くなったけど、な」
「由比ヶ浜さんは、分かっていたのよ。私の気持ちを、そしておそらくあの頃の貴方の気持ちを。だから許してくれたんだわ。貴方が私へ向き合うためには、自分が終わらないと無理と、そう察していたのでしょうね。いつだって、私と貴方は彼女に助けてもらってばかり。本当に、自分が嫌になるわね」
「本当にな。由比ヶ浜には感謝しかない」
共に微かに苦い顔をし、そこからしばらく沈黙が二人を包んだ。結衣が奉仕部へ来る前、彼ら二人には致命的なまでに交流がなかった。しようともしていなかった。それを変えた最大の出来事が結衣の参加だったのだから。
いつも、彼ら二人の間には結衣がいた。逆に言えば結衣がいなければ彼らは交わりを持とうとしなかっただろう。何故なら、どうやって関わればいいかが分からないから。
「なあ、雪ノ下」
「……何?」
「そんなに夢の中で俺が彼女持ちになった事がショックだったのか?」
一瞬、雪ノ下から表情が消えた。それでも八幡は怯む事なくその目を見つめ続ける。
「何の」
「お前のおかげで新しい発見があった。どうやらあの夢は夢じゃないらしい。お前が現実と夢の両方で俺を拒否したからか知らないが、昨日見た時は雪ノ下雪乃がお前ではない雪ノ下雪乃になっていた。しかも、お前が意識を持っていた時の記憶も薄っすらと持っていた。あの頃のお前は絶対虚言を吐かない。それと、前回夢で俺を見た時に一瞬だけ雪ノ下の表情が変わった。あれがお前と彼女の切り替えの瞬間だったんだろう。違うか?」
「比企谷くん、頭でもおかしくなったのかしら。夢の中でと言うけど、一体何の事? それこそ寝言は寝てからいいなさい」
見つめ合う二人。そのままどちらも何も言わず、ただ相手の目を見つめ続けた。そこに心ときめかせるような雰囲気はない。何にも動じないように雪ノ下の事を見つめる八幡。決して目を逸らすものかと八幡を見つめる雪ノ下。そんな二人に甘い空気など流れるはずはなかった。
だからだろう。八幡はそのまま追撃を放つ事にした。結衣と違い、雪ノ下は勝ち負けにこだわる性格である。つまり、舌戦の様相を呈したり争う雰囲気になれば絶対に引く事はしないと分かっていたからだ。
「分かった。言い方を変える。何でお前は俺に彼女が出来たという事を知っていた? いや、正確にはそんな事を鎌かけで言ってきた? 由比ヶ浜から聞いたというそれらしい嘘まで吐いて」
「っ」
綻びが生まれた。それは、ほんのささいなものだったかもしれない。だが、雪ノ下雪乃を知っている者からすれば大きな、そして致命的なものだった。
「今のお前は本当に変わってしまったんだな。俺が、そうさせてしまったのかよ。虚言を吐いてしまうような、そんなお前に」
「…………姉さんが仮面を着けている。昔貴方はそう評したわね。私もあの人と結婚して否応なく関わりたくない世界と関る事になったのよ。実家関係と葉山の家関係でね。そうなると、私は私のままではいられなくなった。私一人だった時はいい。全て自分や実家に返ってくるだけだったから。だけど、結婚すればそうじゃない。私が何かすれば、彼が、彼のご両親が迷惑を被ってしまう。そして、あの子を産んでからはあの子にもと。そう分かった時、私も少しずつ仮面を作り始めたの。理想の妻の、ね」
「雪ノ下さんと近しいやつか」
「ええ。だから姉さんとは結婚して二年もする頃には仲良くなれた。分かったんでしょうね。私も仮面を身に着けてしまった事が。姉妹で一緒に泣いたのよ? 本当に、初めてだったわ。おかげで姉さんと昔のように笑い合えるようになった。そこだけは良かった事かもしれないわね」
疲れたように笑い、雪ノ下はそっと視線を下げた。もう限界だったのだ。八幡が告げた、彼女があの夢を見ていた時を思い出して。虚言をけして吐かなかった頃の自分で、よりにもよってその虚言を吐いてしまった事。それが彼女には辛い事だったために。
「雪ノ下……」
一気に疲れ果てたような雪ノ下に八幡は辛そうな顔を浮かべる。そんな彼女になる要因の一つは間違いなく彼自身だった。
「……比企谷くん、あの時もし貴方が私を助けてくれていても、きっとどこかで私は不幸になっていたわ。だって、娘が別人になってしまうんですもの。今の私にとって、あの子はかけがえのないものなのよ。あの子がいるから、あの子のために、私は仮面を着け続けられる。それに、十年近くも連れ添った事もあって、あの人にも愛情はあるわ。小学生の時、彼は私を助けてくれなかった。だけど、それから二十年近く経って私を助けてくれたの。それで結婚出来るなんて、我ながら簡単な女だと思ったけど、そこで気付いたの。私は、淡い初恋をあの頃の彼にしていたんだって」
「そして、お前が初めてしっかりと異性愛を抱いた男は、肝心な時にお前を助けなかった」
「皮肉なものね。共通するのは、どちらも私が本当に助けて欲しい時は助けてくれなかった事よ。私、男を見る目がないようだわ。ええ、これだけは認めましょう」
「……雪ノ下、許してくれとは言わない。ただ、これだけは聞いてくれないか? 俺は、お前が好きだった」
「私も、貴方が好きだった」
見つめ合う二人。漂う空気は微かに甘く、どこか苦い。それが年月と状況の変化を彼らに実感させ、どこか悲しげに笑みを見せ合う。
「たったこれだけが、あの頃の俺には言えなかった。本当にヘタレだな」
「いいのよ。たったこれだけだけど、これだけ重い事も中々ないわ。今の私はそれを知っているもの」
「……雪ノ下、遅くなったけど、結婚おめでとう。葉山と娘さんと幸せにな」
「本当に遅すぎるわね。だけど、それをあの頃言われていたら、私はきっとダメな女になっていたでしょう。何を今更、という気持ちが一瞬過ぎったもの。ええ、本当に良かった。今になってからで」
暗に手を出していたと言われ、八幡は何とも言えない顔をするしかなかった。実際そうされても仕方ないと思っている部分もあったためだ。そんな彼に小さく苦笑し、雪乃はこう問いかけた。
「比企谷くん、貴方は今何をしてるの?」
「その、デパート勤務の警備員だ。派遣だがな」
「そう。なら、こう言ってあげるわ。あの時助けてくれなくてありがとう。おかげで私は今、貴方に助けられたわ。あの子を得て、色々と辛い事もあるけれど裕福で幸せな生活を送れるのは、あの時貴方が手を差し伸ばさなかったおかげ。本当に、ありがとう」
「……ああ。そう言ってくれた方がこっちとしても助かる」
不器用な二人。その和解の瞬間も、それは変わらなかった。罵るような、毒舌での許し。恨み言と感謝の混ざり合った言葉。突き放すような内容。そうする事で少しでも八幡の中にある罪悪感を薄れさせようとしている。
そう感じ取って彼は思うのだ。やはり雪ノ下雪乃は優しいのだと。ただ、その優しさが素直に見えないだけで。そういう本質が不変であった事を嬉しく思いつつ、八幡はやっと目の前に置かれた紅茶を手に取る。
その温度は、丁度彼が一番飲み易いものとなっており、その味は懐かしさを覚えるものだった……。
「意外とあっさりしたもんだったな」
「それあるーっ! ホント、マジウケないよね。紙切れ一枚だからそんなもんかもしれないけどさ」
役所からの帰り道、比企谷夫妻は寄り添うように歩いていた。雪乃との和解が終わり、証人の欄がクリアされた事で遂に届け出が出来るようになったためである。今や二人は名実ともに夫婦であった。
「式は、どうする?」
「ん~…………別にいいや。大事なのは外見じゃなくて中身って分かったし」
「……そうか」
「ん。それにしても、ホント思わぬとこで良い事あったね」
「ああ、俺も言われるまですっかり忘れてたしな」
「良かったよね、雪ノ下さんの実家が住宅関係もやってて。コネでいいお家紹介してもらえたしさ」
そう、あの日婚姻届の証人欄の記入を頼んだ八幡へ雪乃はそれを承諾しつつ、こう尋ねたのだ。
―――結婚したら、ご実家で同居するの?
―――いや、それは小町達夫婦がしてる。俺達は近々引っ越しを考えてて……。
そこから話を聞いた雪乃が、ならばと自身の実家関係で多少融通を利かせてくれる事となった。それが八幡とかおりへの祝儀代わりだと、そう笑って告げながら。
「人の縁は得難いもんってこういう事なんだろうな。どこで何の縁が活きるか分からん」
「ホント。あたしも中学での縁が今に繋がってるし」
「……もう、あの夢はいいよな?」
その問いかけにかおりは少しだけ困った顔をした。
「そう、だね。正直あのままだと夢の中でアナタ盗られそうだしさ」
「由比ヶ浜も雪ノ下もそんな事は」
「甘いっ! 向き合って許し合ったからこそ、別の可能性を見たくなるのが人ってもんだよ。あたしだって、高校から付き合ってたらって、そう思ってたんだから。女は現実見るけど、同時に夢を見る時はとことん夢を見るんだからね?」
鼻先へ指を突き付けられ、八幡はたじろきながら頷く事しか出来なかった。そんな彼に満足そうに笑い、かおりは再び八幡の体へ身を寄せる。その温もりに笑みを零して再び二人は歩き出した。
「ところで、引っ越すとなるとパートはどうすんだ?」
「実はさ、それを相談したら交通費は出すから辞めないでくれって言われちゃった。だから、お願いがあるんだけど」
「別に好きにしてくれ。俺はお前さえ」
「あー、違う違う。パートを辞める続けるの話じゃないって。あたしね、交通費要らないから時給を上げて欲しいって言ったんだ。五円でもいいからって。で、それが叶いそうだから」
「……だから?」
問いかける八幡へニヤリと笑ってかおりは告げる。
「自転車買っていい? それで通うから。ほら、体力も落ちて来てるし丁度いいかなって。買い物とかにも使えるしさ。ママチャリでいいんだ」
「……それで交通費じゃなく時給アップを頼んだのか。抜け目ねえな」
「ふふん、これからお母さんにならなきゃだからね。少しでも稼げるとこは稼いで、節約出来るとこは節約すんの。今のあたし、何かホントに出来るお母さんじゃない? マジウケる」
「はいはい、ウケるウケる。じゃ、また近い内にお義父さん達へ挨拶行くぞ。子供の事も含めて、な」
「うん。連絡しとく」
この日以降、彼らがあの奇妙な夢を見る事はなくなった。それに安堵する一方で、どこか寂しく思う自分がいる事に気付いた八幡ではあったが、かおりの指摘を思い出して未練を断ち切る事を決意する。それでも、時折ぼんやりとこう思う事は止められなかったが。
(あの夢の俺、下手すりゃ俺以上に大変な高校時代を過ごすかもしれんな……)
脳裏に浮かぶ光景は、かおりと付き合いながら雪乃と結衣から狙われ続ける自分という構図。そんな青春時代しか許されない妄想をして、八幡は苦笑いを浮かべた。
「ん? 何、どうしたの?」
「いや、我ながらいい歳にもなって、学生のような馬鹿な妄想が止められないんだとな」
「……あの夢のアナタがどうなってるか?」
「ああ。まぁ、もう中身おっさんじゃないから別れてる可能性もあるが」
「分からないよ? 意外とどこかでアナタの思考が残ってたりして」
「…………ま、それならそれでいいんじゃないか? それに、思い出してみればあの夢の雪ノ下に簡単な未来予知しちまったし」
きっと、それで考えればやはりあの夢は平行世界なのだろう。そう結論付けて八幡は願う。今、目の前で少し大きくなり出したお腹を撫でる最愛の妻を見つめながら。
(そっちは、俺みたいに間違うなよ?)
あの間違ってしまった青春時代。それが悪いとは言わないが、出来ればそうならない事を願いたい。そう心から思いながら、彼はかおりのお腹へ耳を当てる。今の彼の日課のようなものだ。それを微笑みながら見つめるかおり。すると……
「……あっ、今動いた」
「だな」
微かに感じる新しい生命の胎動。それらは、あの時間違った自分だから得たものだ。そう噛み締めながら八幡は耳を当て続けるのだ。今を生きる鼓動を聞きながら、その顔に幸せの笑みを浮かばせて……。
これにて終了。ここまで読んでいただきありがとうございます。最初の四話までで思いの外好評頂き驚いています。今回の四話は、それまでと違う雰囲気なので不安もありましたが、一気に書き上げて投稿する事にしました。前回も四話を毎日投稿だったので。
今までお付き合い頂き、本当にありがとうございます。拙作製造機の次回作に過度な期待はしないでください。