武が交通事故に遭い、葵紋病院に運ばれてから既に三時間が経過していた。
依然、手術中と書かれた表示盤には赤いランプが点灯したままである。
手術室前の廊下には、風間ファミリー全員が揃っていた。
「大丈夫だ京、武は大丈夫だ」
震えて座る京を優しく抱きながら、百代は何度も繰り返し語りかける。
一子、クリス、由紀江も京に寄り添うように座り、お互いの手を握りあう。
翔一と大和は押し黙ったまま座り、廊下を何度も行ったり来たりして落ち着かない岳人を、卓也が宥めて座らせるが、じっとしていられない岳人はすぐに立ち上がって同じ様に廊下を行ったり来たりしている。
「京、武は大丈夫だ…だから、一度戻って着替えだけでもするか?」
何度目かの百代の言葉に京は首を横に振る。
武が病院に運ばれた時に、京は手当てと検査を受ける事を拒否してそのままこの場にきていた。
京の服と体にはまだあちこちに武の血がついたままになっていて、事故の凄惨さを物語っている。
「あ、あの、私寮に戻って京さんの服持ってきますね」
「まゆまゆ…すまないが行ってきてもらえるか?」
「はい…あの、京さんのお部屋に入ってもよろしいですか?」
由紀江の言葉に京の反応は無い代わりに、百代が頷くと由紀江は静かにその場を後にした。
重苦しい空気と時間だけが流れていく中、葵紋病院の跡取りである葵冬馬が姿を見せた。
傍らには小雪が心配そうな顔で寄り添っている。
「武は、武はどうなんだ葵冬馬!」
「ガクト落ち着いて!」
胸倉を掴んで詰め寄る岳人を卓也が制すると、岳人は冬馬の苦しそうな表情に気付いて慌てて手を離す。
「す、すまねぇ…」
「心配なのは分かりますが落ち着いてください。まずは私からでは無く執刀医から説明させて貰います」
冬馬の言葉に手術室の扉が開いて、一人の医師が姿を表す。
その医者に京がふらつきながら詰め寄る。
「武は、武は無事ですか!?手術はどうなったの!?」
その様子に医者は優しく京の両肩に手を置いた。
「落ち着いて聞いてください。現在も手術は継続中です。我々も全力を尽くしていますが、状況はあまり良いとは言えません」
「そん…な…」
その言葉に京が力なく床にへたり込む。
「あまり良い状態じゃないってなんだよ?なんとかならねぇのかよ!あんた医者だろ!?武を助けてやってくれよ!!」
今度は医者に掴みかかろうとする岳人を卓也が必死に止める。
「落ち着いてガクト!今騒いでもしょうがないじゃないか!」
「ちくしょう!!…ちくしょう!…ちくしょう……」
岳人は力なく膝を付いて床に拳を突き立てる。
「今は患者さんの体力でなんとかもっている状況ですが…ここ二、三時間が山場になると思います。ご家族の方はいらっしゃいますか?」
医者が見回すと、翔一が立ち上がって前に出る。
「俺達が…俺達があいつの家族だ」
「そうですか、では引き続きこちらでお待ち下さい」
医者はそれだけ言うと深々と頭を下げて、再び手術室の中へと戻っていった。
「うう…ううう…武…」
京の嗚咽が漏れる。
そんな京に一子とクリスが駆け寄る。
「大丈夫だ京、な?お前が武を信じてやらなくてどうする」
「あたしも武を信じるわ、だから京も武を信じて」
気丈に振舞う二人の目にも涙が浮かんでいた。
「そうだ、武は私に殴られても平気な奴だぞ?こんな怪我なんかに負けるものか」
その三人を百代が優しく抱き絞める。
それを見守る大和は、ふと違和感に気付いた。
「葵冬馬…今の執刀医の白衣は」
「気付きましたか」
冬馬に風間ファミリーの視線が集中する。
「現在、武君の治療には九鬼財閥が有する最高レベルの医者と医療設備を持ってあたっています」
「九鬼財閥が?…どう言う事なんだ葵冬馬」
大和の質問に冬馬は百代を一度見てから、念を押すように落ち着いて聞いて下さいと言葉を続ける。
「武君を撥ねた車は末端ではありますが、九鬼財閥関連の物だったと先程英雄から連絡がありました」
次の言葉を出すべきか冬馬は一瞬迷うが、隠した所で何れ分かる事だと意を決する。
「しかもその車を運転していた者は飲酒を―」
刹那、ビキッとプラスチックの割れる音がして自動販売機の表面に皹が入った。
あまりの殺気に咄嗟に小雪が冬馬の前に出る。
「葵冬馬…私に今そいつがどこに居るか絶対に教えるんじゃないぞ」
鋭い殺気、いや、殺意を放つ百代の声が静かに響く。
冬馬は小雪の肩にそっと手を置いて下がらせる。
「トーマ…」
「大丈夫ですよユキ…英雄からその者の身柄は既に法の元にあり、然るべき処罰が下されると聞いてます。それと、今回の手術や入院、その他一切の費用は全て九鬼がもつとも言ってました」
「そうか」
「後は、直接謝罪にこれなくて申し訳ないと」
もしこの場に英雄が居れば「部下の失態は九鬼の、王たる我の責任」と言って止めるあずみを制して頭を下げていただろう事は、色々な意味で英雄と深く接している風間ファミリーの面々には容易に想像が出来た。
だからこそ、この場にこれない英雄を責める者は一人も居なかった。
それがわかったのか、冬馬はありがとうと友を想い頭を下げる。
そこに息を切らせながら紙袋を抱いて由紀江が戻ってきた。
「はぁはぁはぁ遅く、なりました」
「全然遅くないぞまゆまゆ、ありがとうな」
「いえ、私にはこれくらいしかできませんから…」
「葵冬馬、悪いがシャワーを貸して貰えないか?」
「もちろん良いですよ。私も京さんの姿は気になっていたものですから。あちらの空き個室の中にありますからそこを使ってください」
「すまない。京、私も一緒にいくからシャワーを浴びよう」
百代の言葉にやはり京は小さく首を横に振る。
京がこの場を離れたくない気持ちは、ファミリーの全員が痛いほど理解できた。
「京さん、ここは病院です。衛生上に問題があれば病院の息子として見過ごすわけにはいきませんし、ここに居ていただく事もできなくなりますよ?」
「……」
冬馬の言葉にも京は無言だが、明らかに少し動揺していた。
百代は悪役を買って出た冬馬に感謝の視線を送る。
「大和、ワン子達を頼む。何かあったらすぐに知らせてくれ」
「わかった」
百代は拒否の姿勢を見せない京をお姫様抱っこすると、個室へと入っていく。
脱衣所で京の服を脱がそうとするたびに、血で固まった布がばりばりと嫌な音を立て、その音が響く度に京がびくびくと震える。
「京、動くなよ」
見かねた百代は京から一歩離れて手刀を構える。
「百代アレンジ黛流十二斬」
気を乗せた百代の手刀が京の服を細切れにする。
百代も服を脱いで、京を中へと促す。
きゅっと捻ってシャワーを出すと、湯気が室内を覆っていく。
「洗うぞ、何処か痛い所があったら言うんだぞ?」
百代の言葉に京は力なく頷く。
ゆっくりと温かいシャワーをかけてから、百代はシャンプーを手で泡立て優しく京の頭を洗う。
凝固した血はお湯では落ちにくいが、百代の気を通わせている手がその全てを綺麗に洗い流していった。
そして、今度はボディーソープを掌で泡立ててから同じ様に京の体を優しく洗っていく。
少し紅潮している京に、百代は静かに語りかける。
「京の肌はシミ一つ無い綺麗な肌だな」
その言葉に少しだけ反応した京が小さな声で話し出す。
「……武がね」
「ん?」
「…武がモモ先輩と、同じ事いったの…私を見て綺麗な肌だって」
「京…」
「…私は…大和の為に…綺麗にしていたのって」
京の瞳から涙が零れる。
「…そし、たら…武が、京が綺麗なのは、大和のおかげだなって…」
「もういい京」
「…武は、何時も私を…それなのに、私は…」
「もういい……もうやめろ」
「大和と結ばれないのは武のせいだって!私っ!私っ!!」
「もういい!!」
百代が京を抱き絞めた。
「うう…うわああああ、あああああ、あああああああ」
「大丈夫だ…武は大丈夫だから」
胸の中で小さくなって涙を流す京を百代はしっかりと抱き絞める。
「絶対…大丈夫だから」
まるで百代は自分自身に言い聞かせるように、何度も何度も呟いていた。
☆ ☆ ☆
百代と京が個室から出てると、大和が百代に静かに首を横に振る。
状況は何も変わらないと。
まるで時が止まったかのような静寂の空間の中で、時計の針が進む音だけが鳴り響いている。
一時間が経ち、二時間が経ち、三時間が経っても何も変化はない。
時折そわそわと歩き出す岳人を卓也が宥めていたり、大和が全員に飲み物を買ったりしているだけで何も変わらない。
しかし、まもなく四時間が経過しようとした時に、ふいに手術中の赤いランプが消灯した。
気付いた京が勢い良く立ち上がると、手術室の中からさきほどの医師が再び出てきた。
「武は!?」
そう言って詰め寄る京に医者は優しく告げた。
「手術は、成功しました」
一瞬の沈黙の後に、へたりこもうとする京を百代が支えた。
緊張した空気が緩んで、一同から安堵の息が漏れる。
「しかし―」
言葉を続ける医者に京の表情が強張る。
「依然予断は許されない状況です。脳にかなりのダメージがあったためか判断はできませんが、現在、麻酔は切れているのに目を覚まさない状況です」
「なんでだよ!!成功したんじゃねぇのかよ!」
今度は卓也が止める間もなく岳人が医師の胸倉を掴み声を荒げる。
「落ち着けガクト!!」
「ちくしょう!!」
翔一の声にはっと我に返った岳人はすぐに手を離して壁を殴る。
「我々も命を繋ぎ止めるだけで精一杯でした。申し訳ない」
「いや、ご尽力ありがとうございました」
京を抱えたまま百代が深々と頭を下げる。
「先生、武に会う事はできますか?」
大和の言葉に医師が奥に合図をおくると、ベッドに横たわった武が姿を現す。
その瞬間、全員が武に駆け寄る。
「武っ!!武っ!!!」
「てめぇこのまま目覚まさなかったらただじゃおかねぇぞ!!」
「皆武を信じているからね!」
「武、戻ってこい!」
「武さん、どうか、どうか目を覚ましてください!」
「お前は京を泣かせるようなそんな奴ではないだろう!!」
「またあたしと走りに行くんでしょ!?さぼったら絶対許さないんだから!!」
「私の拳を受けて平気な奴がこれくらいで負けてどうする!」
「家族を泣かせるような真似はしないんだろ!目を覚ませ武!!」
家族の声に武の反応はない。
「…武……」
京が握った武の手は、あの時の温かさのなままなのに、ただ、普通に眠っているようにしか見えないのに、武は目を覚まさない。
「暫くは集中治療室で様子を見ますので」
医師の言葉で運ばれていく武を見送ることしかできない風間ファミリーは、自分達の無力さに打ちひしがれていた。
前回の話で感動しましたって感想を頂けて、嬉しくて家で喜んでいたら階段踏み外して、危うく武のように運ばれるところだった。
幸い無傷でしたが。
そろそろ京が泣いているのを書くのが辛くなってきました。
この先どうしよう…。
なんとか頑張ります。
ではまた次回で。