──その杯を手にした者には、あらゆる願いを実現させる。
聖杯戦争。
最高位の聖遺物、聖杯を実現させるための大儀式。
儀式への参加条件は二つ。魔術師であることと、聖杯に選ばれた寄り代である事。
選ばれるマスターは七人、与えられるサーヴァントも七クラス。
聖杯は一つきり。
奇跡を欲するなら、汝。
自らの力を以って、最強を証明せよ。
辺りは、絶望の焔一色でした。
沸き立つ炎、崩れる風景、未知なる生命体に食われていく人々‥‥‥。
私は、恐怖の余り、足が竦んでその場に座り込んでしまいました。
燃え盛る諏訪の社の中、私は目を閉じました。それは、現実逃避というのが最もの理由なのでしょうか。
私は物陰に隠れ、全身を震わせながら、人とは違う何かが近付く足音を聞いていました。
その足音一つ一つが、私の身震いを誘いました。私はゆっくりと目を空け、様子を伺いました。それは、数十秒前と一切変わらない景色。社の廊下に奴らの姿はまだありませんでした。
しかし、重たい足音はゆっくりと一歩一歩私の背後へと迫ります。そして‥‥‥。
背後から轟音が響き渡り、視界が暗転しました。
*
重い瞼を開くと、そこは病院の一室でした。特に機材は置いて無く、私がただ、ベッドの上に寝かされていました。
私の枕や布団は、どっと出た汗で濡れていました。
(夢‥‥‥?)
ベッドから起き上がり、周囲を見渡してみると、カーテンが窓から入ってくる風で揺れていました。
私は立ち上がり、カーテンを手で除けて、外の景色を覗きました。
(‥‥‥!!)
窓からの景色は諏訪湖が一面を飾っていました。しかし、それよりも、私は湖畔の風景に衝撃を受けました。その風景は至って普通の街並みです。宅地が広がり、その周囲を山が囲っている。それはただの盆地です。けれども、私はその風景に驚いていました。
けれども、何故それが衝撃的なのか。私にはわかりませんでした。
(そっか‥‥‥そうだよね。当たり前だよね)
私の理性が、突沸した感情を抑えました。
しかし、それと同時に私は、衝撃を受けた自分に疑問を抱きました。
どうして、私はその当たり前の風景に驚いてしまったのでしょうか。まるで、それが当たり前では無いみたいに。
その後、私は不自然な程すぐに退院できました。
確かに体の大部分に違和感はありませんでした。けれども一つ、違和感を覚える部位がありました。それは、手の甲です。
右手の甲に、柱頭を現す赤い点が中央に、そしてそれを囲むように五枚の花弁が赤一色で塗りつぶされていて、そして茎と葉のような模様が、これも赤一色。全部で三ブロックに別れていました。
始めは歯がゆいような感覚でした。しかし今ではそれは、熱を帯びていて‥‥‥。
けれども、臆病な私は、言い出せませんでした。退院の際も、誰一人目を合わせられませんでしたから‥‥‥。
私は病院の門を出て、一瞬どこに帰って良いのかわからなくなり、足が止まってしまいました。けれどもすぐに実家の場所を思い出し、その方角へと顔を向けました。
けれども、私はその方向へ歩きたくありませんでした。家に帰ったところで、仲の悪い両親の顔を伺いながら、また過ごしていくのが脳裏に浮かびました。
最後に時計を見たときに、針が指していたのは午後二時。空もまだ青白く明るかったので、回り道をして帰ろうと思いました。実家は湖畔の通りを歩いて行くのが最短ルートです。しかし、私は、その反対方向。上諏訪駅への方向へと歩いていきました。
駅周辺部だからといって、特に栄えているわけでもありません。立ち並ぶのは背の低い建物。歩くのは車二台がすれ違える程度の道路の左端でした。
誰も居るはずもない昼下がりの田舎道。私は、どこからか視線を感じました。
(誰か‥‥‥私を付けている?)
始めは自意識過剰だと思いました。けれども、私の六感はそれを否定しました。
誰かに追われている事は、両腕の毛穴が全て開くような感覚を覚えさせました。
私は走り出しました。何者かから逃げるように。
けれども、追いかけてくる気配は消え去りませんでした。そして、右手の甲の花の紋章が焼かれるように熱くなりました。私はとっさに左手でその紋章を抑えました。
(うぐっ‥‥‥。痛い‥‥‥)
私は歯を食いしばって痛みを我慢し、逃げ続けました。
私は逃げ切れていないとわかりながらも、もう一度後ろを振り返りました。
(‥‥‥なに、あれ‥‥‥)
私を追っていたのは、黒い衣装に身に纏い、白く髑髏を連想させるようなお面を被った人達でした。私が視認したのは三人。彼らは屋根と屋根を伝って私を追いかけています。彼らの手には、ナイフが握られていました。溢れる銀色からは、殺意が感じ取れました。
顔を戻し、右足を出そうとした時、彼らの一人が私の行く手を阻みました。
その人は、袖から銀色のナイフを出し、私へと駆けてきます。
人は、死を悟ると走馬灯が浮かび上がる。と言われていますが、私には浮かび上がりませんでした。ただ、硬直した体が、『死にたくない』と、目の前の現実に対して言っていた気がします。
しかし、その時でした。
「私のマスターに、手を出すなぁぁぁぁぁああああああ!!」
(‥‥‥!?)
空から降ってきたのは白と黄緑の装束を着た、深緑色の髪をした少女。多分私と同じぐらいの年頃の‥‥‥。
その少女は右手に持ったムチを振る。
そのムチは勢い良く伸び始め、黒服の暗殺者の左腰を叩き砕く。衝撃で彼の体は、くの字に曲がり、大きく血を吹き出して倒れた。
そしてそのムチは私の後背へと勢いよく伸びていく。
振り返ると私を追っていた残りの暗殺者が頭を砕かれ、心臓を貫かれ、あっけなく倒れていった。
「すごい‥‥‥」
私は感嘆の声を、思わず零しました。
「でしょ~。私のマスターに手なんかそう簡単に出させないんですから!
‥‥‥って、‥‥‥みーちゃん‥‥‥? みーちゃんなの?」
「ふぇっ!? あ、うん。‥‥‥私は藤森水都‥‥‥」
彼女の顔も、その私に対するあだ名にも、どこか既視感がありました。しかし、それが何であるかはわかりませんでした。
「オーアメイジング! まさか現界した先で、みーちゃんに会えるだなんて」
「う‥‥‥。あの、‥‥‥ごめんなさい。きっと、私は貴女の言う『みーちゃん』じゃありません。だから、その~。‥‥‥ごめんなさい」
彼女はとてもショックを受けたような顔をしていました。
その顔が、私の心に募る罪悪感を加速させました。彼女は少しうつむいてから微笑んで。
「ごめんね。早とちりしちゃって。
私はランサーのサーヴァント。ここでは『ランサー』って呼ぶのが良いのかしら?
あとなんなら『農業王』でも良いわ!」
私には、彼女がものすごくどこか無理をしているように見られました。
きっと、それは私に起因することなのでしょう。そして彼女は続けました。
「あと、マスターのこと『みーちゃん』って呼んでも良いかしら」
私は小さく頷きました。それは彼女の心の穴を埋めてあげたい。という意味もありました。けれど、心の奥底から、そう呼んでほしい。そんな意志を感じたのが、第一の理由でした。
一体、私の心に何が眠っているというのでしょうか。