30代になって外科部長になった俺は現実の見える人間になっていた。
自分は凡人で誰を救うこともできない。
そんな俺にできることと言えば『天才』が好きなだけ人を救えるようにバックアップしてやることだ。
俺みたいな人間が天才の邪魔をしてはいけない。
自分にも誰かを救えるなんて勘違いをしてはいけない。
仕事の合間、俺は研究室に来ていた。ここで石黒の論文を預かって校正したら月城院長に目を通してもらう。
最近フランスからやって来た『天才外科医』は月城さんの論文を読んで感銘を受けたらしい。
その旨を石黒に話しても石黒は良い顔をしなかった。
「研究の邪魔になりそうですね」
「そんなこと言うなよ。相手はスーパードクターなんだからさ」
俺と違って石黒は天才が仕事をしやすいようにって考えはない。むしろ石黒自身、俺からすれば天才みたいなもんだ。
石黒の獣症に関する論文は学会でもかなり評価が高い。ただ論文自体は月城さんの名前で発表されてるから、評価はすべて月城さんに向けられてるけどな。
けど俺も石黒もそれで良いと思ってる。
世の中には適材適所って言葉がある。月城さんは天才外科医で月城医大の院長でもある。
そんな月城さんの名声が高まれば医学会での権力争いも有利になる。さらに大学への助成金も得られやすくなる。
石黒は欲のない男で名声にも権力にも興味はない。ただ研究しやすい環境があればそれで良いという男だ。
だから俺も石黒を重用してる。
研究室を出て職員室に向かう道すがら、俺は月城さんに呼び止められた。
「明紫波君、秋の学会だけどね」
予定の確認と近々提出予定の論文の具合など。話題は業務に関するものだ。
昔のように個人的な話なんてしない。
凡人の俺が月城さんに無駄な時間を使わせるなんてあり得ないから。
けどなんでだろうな。月城さんの声を聴いてると心臓が重くて息苦しくなるんだ。
「明紫波君、最近忙しそうだけど大丈夫かい?」
「問題ありません。人員も増えましたので調整しながらまわしていきます」
「そうか……」
俺は月城さんの顔を見ることなく頭を下げるように顔を伏せていた。だから今の月城さんがどんな表情をしてるのか知らない。
でも俺は月城さんの顔を見られなかった。
フランス帰りのスーパードクターを迎えて数週間後、タバコを吸うために屋上へ出ると先客がいた。
フランスから来たスーパードクターは不機嫌な顔を俺に向ける。
「あいつはなんなんだ」
開口一番に文句を吹っ掛けてきたスーパードクターは石黒の愚痴を垂れ流し始めた。
スーパードクターが言うには、石黒が論文のゴーストライターをしているのが気に入らないらしい。
俺はタバコを吸いながらしばし若い愚痴を聞き続けた。
徳川真琴という天才外科医はどんな患者も救えるスーパードクターだ。フランスでは獣症のレベル3のオペもこなしていたという。
そこらへんは緋田と同レベルだと俺も認識してる。
けどこいつはたぶん緋田のようにはならないんだろう。緋田は俺のしていることを黙認してくれている。
石黒のゴーストライターに関しても、文句を言うことはなかった。
けど徳川は若すぎるんだ。仲間を作るのも医局に与するのも無駄だと言いながら、こうして正義感を振りかざす。
けどそれも仕方ない話だ。徳川は普通ならまだ研修医をやってる年頃なんだから。
俺もこの頃はまだ現実が見えてなかった。
スーパードクターの愚痴を聞くのも、人間関係を円滑にするのも俺の仕事のひとつだ。
けどそんな徳川の若い正義感だの何だのは、石黒だけでなくいろんなヤツを変えていった。
外科から遠ざかっていた前木も前を向くようになった。
伊達川は表向きは変わらないが、少し明るくなった。緋田も少し性格が丸くなったように思う。
あいつらは若く才能溢れた連中だから、前に向かって進めるのは良いことだ。
けど俺は、俺自身にはそんなものは必要ないと思ってた。月城さんが俺に対して必要としてるのは外科部長として職員を管理することだ。
人としての成長も医師としての成長も求められてないし、俺も必要だと思ってない。むしろ凡人の俺が成長したところでたかがしれてる。
だったら上も前も見ることなく、現状維持を続けることが最善に決まってる。