最近、何だか紫様の様子がおかしい。一見、普段と何ら変わりないように思えるが、私のように四六時中おそばに就いていると、嫌でもその違和感が目に映る。どこがおかしいかと聞かれても答えることができない。ただ、どこかがおかしいのだ。普段通り、凛々しくて、掴み所がなくて、愛おしい我が主であることには変わりないのだが、心の隅に引っかかるものがある。魚の小骨を喉に引っ掛けたかのような、どうしようもない不安に包まれていた。紫様にもしものことがあれば、私は生きていけない。
昼食を食べ終えて、私は結界についての相談をしようと博麗神社に来ていた。当然、紫様も一緒だ。霊夢を育て、愛し、愛されている紫様が博麗神社に来ないなんてことはあり得ない。その霊夢に用があったのだが、今日は珍しくいなかった。きっと、秋の心地よい風に誘われて、晴天の空へと飛び立っていったのだろう。霊夢もああ見えてまだまだ子供だ。
「あの……紫様?」
縁側で、糸が切れた人形のように俯いていた紫様は、驚いたかのように顔を上げ、私を見つめた。その目には、いつもと同じような深い愛情が宿っており、私の心を包み込んでくれる。
「藍?」
「いえ、お身体の調子はどうかと思いまして」
「大丈夫よ、藍」
うふふ、と色目かしく笑い、扇子を口元で広げた。秋の寒空に輝く暖かい太陽の光を浴び、黄金色の髪がキラキラと輝いている。私とおそろいの髪色だ。柱に背をかけ、気持ちよさそうに目を細める姿は式の橙にそっくりで、私も同じように目を細めてしまう。
「ですが、つい最近大怪我をされていたじゃないですか。私は心配で」
「大丈夫よ、藍」
ゆっくりと手を伸ばし、私の頭を撫でてくる。私が撫でてほしい場所を分かっているのか、とても心地が良い。白く細い指先が、細かく毛をわける度に声が洩れた。最近みょうに疲れがたまっているせいか、目がとろんと落ちてくる。
「大丈夫」
「ありがとうございます!」
そんな、乱暴で根拠のない断言だが、不思議と安心感を私に授けてくれる。絶対に死なないなんてあり得ないはずなのに、彼女がいうと、それすら可能にしてくれるのではないかと本当に信じそうになる。信じたくなる。信じること以外、したくなくなる。
このまま紫様に身をゆだねようとしていると、遠目に霊夢が向かってくるのが見えた。急いで姿勢を直し、心を引き締める。
「珍しい客ね、何しに来たのよ」
とたん、と乾いた音が境内に響いた。石畳みに落ちた落ち葉が舞い上がり、はらはらと散らばっていく。日々の掃除の怠りによる産物だ。だが、それを気にも留めずに、「うげ、それも連れてきたのね」と彼女は眉をひそめた。
「藍。私は暇じゃないのよ。あなたの遊びに付き合っている時間は無いわ」
私は答えない。霊夢のやる気のない態度に活をいれるのは何時だって紫様だ。どうやら紫様もそう考えていたようで、ぬめりと霊夢に首を向けて、扇子を口元にあてがった。厳しい目で、霊夢をじっと見つめている。
何時ものように、厳しくも優しい紫様の眼光だったが、私はまた、おや、と思った。何かがおかしい。が、その疑問は解消されることはなく、ただ腹の奥へと沈み込んでいった。
「はあ……。それで? 何しに来たのよ。藍が来たってことは、結界に何かあったの?」
「おいおい、紫様を無視するなよ。失敬だろ」
「勘弁して。失敬なのはあなたよ」
私の背筋は冷めたくなっていた。紫様は霊夢のことを愛している。それは事実だ。だから、霊夢に少し無視をされた程度では激昂なんてしたりしない。だが、そのツケが私にまわってくる。式である私に対し、ささやかな悪戯をしてくるのだ。どうやら今回も例に違わないようで、ニコニコと微笑みながら、紫様は私と霊夢を交互に見比べていた。私はため息を吐き、霊夢への説教を諦める。
「最近、何故か博麗結界の強度が安定しなくてな。原因は知っているか?」
博麗結界。幻想郷と外の世界とを隔てる強固な結界。幻想郷のかなめ。博麗の巫女である霊夢と、紫様。そしてその式である私とで管理をしているが、最近どうも調子が悪い。結界の崩壊がそのまま幻想郷の消滅と繋がりうるので、早急な対策が必要だ。
「このままだと、異変として解決に向かわなければならない」
「あー」
霊夢は私の言葉を聞きたくないのか、耳を塞ぎ子供の様に首を振った。「面倒くさいわね」と呟く姿は幼子のように見える。そのなまけ癖を治せと口を酸っぱくして言っているのだが、いつになったら分かってくれるのだろうか。
「見てられないわ」
「見てられない?」
「なんでもないわよ」
ぶっきらぼうに彼女は言った。どこか悲しそうに眉が下がっている。
「そんなの、どうしようもないわ。慣れるまでの辛抱よ。あなたがお遊びを止めてくれればいいんだけど、厳しいかしらね」
「私は遊んでなんかいない」
霊夢が頭を抱えるのと、私が立ち上がるのは同時だった。頭を抱えたいのはこっちだというのに。結局、博麗神社に来て分かったことといえば、霊夢に協力の意思がないという事くらいだろうか。
目の前にスキマを開き、そこに足をかける。目的地は決まっていた。霊夢が動かない以上、私でどうにかするしかない。幻想郷の危機を周りに伝えるのは、あまりにも危険すぎる。動けるのはただ一人。私だけだ。
そう思い、立ち上がろうとすると、背中に違和感を感じた。紫様が、私の背中に抱きついてきたのだ。隣にいた霊夢も、驚きのあまり呆然と私の方を見ている。
私は声を発することもできず、おずおずと紫様へと目を向けた。その様子が面白いのか、相も変わらずニコニコと子供の様に微笑んでいる。一切表情を変えないその笑顔は、仮面のようにも、酔っ払いのようにも見えた。どうやらおぶっていけということの様だ
紫様の長いドレスの裾をめくり、足を抱える。そのまま背中に手を回し抱え上げる。その時、初めて紫様の意図に気がついた。
冷たい。まるで氷のように彼女は冷えていた。思わず、手をすべらせ、床に落としそうになってしまったが、何とか堪える。紫様に抗議の目線を向けるが、全く意に介していないようだった。むしろ、私にかかる体重が増えたような気がする。
「どうしたの? 早く帰りなさいよ」
「あ、ああ。紫様が体を意図的に冷やしてらしてな。全く、勘弁してほしい」
「ほんと、勘弁してほしいわね」
私に同意するように首を下げた霊夢を尻目に、私は隙間へと足を進めた。ぎょろりと私を覗き込むように、無数の目がこちらを見つめてくる。いつもと変わらないはずだが、どことなく私を非難しているような、そんな気がした。
「いつもと変わらないだろうに」
全てを見通したかのような霊夢の声が、頭に響いた。
「結界が緩んでいる原因なんて、どうして私に聞こうと思ったのかしら」
霊夢に断られ、紫様からの悪戯に疲弊した私は、そのまま永遠亭へと向かった。目の前に座る、基本的には薬師兼医者をしている永琳に結界について聞くのは、確かにお門違いだ。だが、私の目的はそれ以外にもあった。紫様の違和感の正体を、彼女なら突き止めてくれると思ったのだ。
「結界より、紫様に悪いところがないか、見て欲しい」
私の言葉を聞いた永琳は「悪い所しかないじゃない」と言い放った。紫様に対して、いったいなんて無礼を。
「酷いわね」
ぶるり、と自分の身体が震えるのが分かった。紫様の声に、まったく感情が籠っていなかったからだ。
「私に悪い所なんて、あるわけないじゃない」
「私の知っている八雲紫は、そんなこといわないはずだったのだけれど」
はあ、と息を吐いた永琳は、紫様から目を逸らし、私を見つめてきた。面倒そうに目を細めている。
「私なんかより、あなたの方が八雲紫を知っているはずでしょ。なら、自分で気づきなさいよ」
「だが、私なんかでは紫様と力がかけ離れ過ぎていて」
「そんなことないわ」
永琳は、意味ありげに首を振った。
「あなた、式を使う能力は八雲紫よりすごかったじゃない。ほら、動かなくなった兎を動かしていた時なんて、びっくりしたわ。でもあれは式ではなく、操り人形に近かったけれど」
大分昔のことを言いだしてきた永琳に私は返事をすることができなかった。確かに、式を操る力に私は長けている。でも、だからと言って、紫様にかなうはずもない。自分の後ろで微笑んでいる紫様を見る。私の視線に気がついたのか、微笑みを浮かべて首を傾げていた。やっぱり、紫様に私がおよぶはずなんてない。
「紫様なんかに比べれば、私なんて雑魚だよ」
「そう思い込んでいるだけじゃない? 思い込みは怖いわよ」
「以前、魂を喪失するほどの大けがをして、それでも生きている紫様なんかに、私が及ぶはずがない」
「魂を喪失して生きる妖怪なんていないわ」
「いるだろ、前に」
ほんと、恐ろしいわね、と私の目を見て嫌そうに顔を顰めた永琳は、私との会話が嫌になったのか、背を向け薬を作り始めた。声をかけるも、返事をしない。どうやら、へそを曲げてしまったようだ。仕方がないので、踵を返し、スキマを作る。やっぱり、紫様に対する違和感なんて、特にないのではないか、そう思い込むようにした。肯定するように、紫様の「大丈夫よ、藍」と囁く声が聞こえた。
「ほんと、恐ろしいわね。思い込みって」
最後に聞こえた永琳の声には、哀れみが含まれていた気がした。
「お帰りなさい! 藍さま、紫さま!」
マヨイガに着くと、すぐに橙が私たちに駆け寄ってきた。正直に言えば、かなり疲れていたものの、何とかして彼女を受け止める。私の式、つまりは紫様の式の式にあたる橙は、その可愛らしい真っ黒な猫耳をひくりとさせ、私の顔までよじ登ってきた。マヨイガの縁側へと腰を落とす。紫様も、私のすぐ横へと腰を落とした。
博麗結界に対する解決方法は結局見つかっていない。だが、それもどうでもいいと思うほどに私は疲れていた。とりあえず、ここでしばらく休もう。橙の姿を見ているだけで、私は幸せになる。紫様がいて、私がいて、橙がいる。それさえあれば、私は他に何もいらない。
「藍さま、わたしはお菓子が食べたいです」
私の膝の上に立ち、えへへと笑った橙は手を差し出した。行儀が悪い。紫様の前では、きちんとするようにと伝えたはずなのに。
「大丈夫よ、藍」
紫様は、柔らかい笑みを浮かべて、私にそう言った。そういえば、と私は昔のことを思い出していた。私がまだ紫様の式になったばかりの頃のことだ。その時はまだ失敗ばかりで、行儀はおろか暴言を紫様に対して掃いていた時もあった。だが、そんな時でも紫様はこう頬んで下さったのだ。「大丈夫よ」と。
「よし橙。少し稽古をしようか」
そんな昔のことを思い出したからか、私はそんなことを口にしていた。紫様に成長した姿を見せたかったからか、それとも紫様に教わったことを思い出し、懐かしくなったのか。おそらく両方だろう。
はい! と威勢のいい返事をした橙を地面におろし、自分も腰を上げる。そして、懐から一枚の紙を取り出した。何の変哲もない、ただの折り紙だ。
「稽古って、折り紙のことだったんですか?」
「少し、見ていてくれ」
少し吊り上がった大きな目をキラキラと輝かせ、橙は興味深そうに手元を覗き込んでくる。少し緊張したが、それでもすぐにそれを折ることはできた。何のことは無い。ただの鶴だ。
「つる、ですか?」
「そうだ。鶴だ」
不思議そうに首を捻っている橙の頭を撫でる。そして、胸の前に鶴を持っていき、念をかける。妖力を練り上げて、それを鶴に纏わり付かせた。私流の式の作り方だ。
上手くいったことを確認するために、軽く翼を羽ばたかせる。私の想像通りに折り紙は翅を上下に揺さぶった。驚きのあまり逆立った橙の尻尾が、私の足をくすぐった。
「すごい! 折り紙を式にしたんですか?」
「ああ、そうだ」
うわー、と嬉しそうに鶴を突っついている橙を見ると、自然と頬が緩む。気を良くした私は、得意げに橙に語った。
「折り紙みたいに魂がない物でも、やり方次第では式にできるんだ。少し難しいけど」
「すごいです!」
「しかも、こんなこともできるんだ」
鶴に纏わり付いている妖力の一部を少し刺激する。すると、羽を上下に揺さぶっていた鶴が「私は鶴だ」と声が聞こえてきた。比喩ではなく、その場に飛びあがった橙は、私に抱きついてきた。すこし、驚かせすぎてしまっただろうか。
「こうやって、少し妖力をいじれば、そのいじった部分から予め式にするときに決めていた言葉を話させることができるんだ。もっとも、一つの言葉が精一杯だけど」
ほへー、と気の抜けた声を出した橙は、私から離れ、もう一度鶴へと向かっていった。もう一度、「私は鶴だ」と折り紙に言わせる。面白かったのか、橙はにんまりと満足そうに笑い、私に振り返った。
「藍さま! いつか私にもできるでしょうか?」
「ああ。いつかできるよ」
そしてそれを私と紫様に見せてくれ。そう言うと、橙はその場で飛び上がって喜んだ。そお姿を見ると、さらに喜ぶ可愛い式の姿が見たくなってしまう。親バカだと言われても仕方がない。
懐から、無数の折り紙を取り出す。これはただの折り紙ではない。すでに鶴の形におられており、しかも懐にしまい込んでいたにも関わらず、一切折れ曲がっていない。これらの折り紙は、すでに私の式となっていた。それを地面へと敷き詰める。何をやるのか見当がついたのか、橙が期待に満ちた眼差しで私を見上げてきた。折り紙の鶴の群れが飛び立つのを見届けようと、落ち着きなく尻尾を揺らしている。
複数の式への強制的な命令。確かにこれは難しいが、折り紙の鶴を同時に飛ばすくらいは造作もない。橙のように魂があるものへの強制命令は労力を使うが、折り紙のようにない物に対してはそこまで苦ではない。数に関しても、それぞれ違う内容を指示するのは困難だが、声を出しながら翼を上下にふる、と共通の命令をすべてに対して出すのであれば、まだ楽だ。
目を閉じ、胸の前に手を組む。意識を集中させ、辺り一帯の妖力に刺激を与える。すると、ばさりばさりと紙が擦れる音と、「私は鶴だ」という声の大合唱が聞こえた。どうやら、成功したようだ。橙も感動してくれるだろう。
「あは、あはははは!」
だが、私の想像とは裏腹に、聞こえてきたのは橙の爆笑だった。不思議に思い、目を開ける。目に飛び込んできた光景に、思わず狼狽えた。そして遅れて笑いがやってくる。なぜ橙が笑ったか、すぐに分かった。
紫様が、飛び立つ鶴の真似をして、同じように手を上下に揺さぶっていたからだ。
「紫さま! おもしろいです!」
「そうだな、橙」
折り紙の「私は鶴だ」と繰り返し発せられる声に対抗しているのか、大丈夫よ、大丈夫よ、と繰り返している紫様を見ていると、また笑いが零れた。私と橙を笑わせるためにそこまで身体を張って下さるとは、さすがは紫様だ。
でも、なぜだろうか。涙がでるほどに胸が締め付けられるのは。
「あはは! で、でも紫さま」
腹に手を当て、身体をよじった橙は、何かを口にしようとしていた。なぜだか分からないが、嫌な予感がする。橙にその続きを言わせてはならないと、声を遮ろうとしたが、胸から息が出なかった。目に溜まった涙はすでに零れ落ちている。
「それだと、紫さまも折り紙と同じように魂が無くなった死体みたいに見えますよ」
大丈夫よ、大丈夫よ、大丈夫よ。そう機械のように繰り返す紫様の声が頭の中に木霊していた。