盾の少女の憂鬱 作:T.K
この小説は超シリアスなので、半端なシリアスを求めている人には向きません。
終わった。
全て終わった。
先輩はマスターとしての責務を全うした。ティアマトを討ち、ゲーティアを討ち、魔神柱の残党も討った。
人類史を……人類を救ったのだ。
2017年。12月の末。
査察官がやって来るため、英霊は全て退去することになった。セイレムの一件もあるし、カルデアはどちらかというと……あまりいいようには思われていないかも知れない。
ついに最後のサーヴァント、エレシュキガルが退去する番になった。
彼女は先輩から離れまいと何度も身体にせがんだが、ついに諦めた。
涙がポロリと人知れず流れ、エレシュキガルは口を開く。
「たった数日だけだったけど、ここは本当に楽しかったのだわ! だから査察官とか意味のわからない連中が帰っていったらまた私を呼ぶのよ⁉︎ わかったかしらっ⁉︎」
「もちろんだよ。時間はかかるかも知れないけど、呼ぶよ。絶対に」
「そ、それは嬉しいのだわ……。あ、やっぱり私、残りたく……」
「だーめ」
「ぐすん……ええそうね。あなたならそう言うでしょうね。『さよなら』なんて言わないわよ。ではマスター、『また後で』」
「私も同じこと言おうと思ってたんだけどなー。あはは……。うん、じゃあ『また後で』」
エレシュキガルが召喚陣の上に立ち、足元から光の粒子となって消えていく。
先輩の隣に立つマシュはただじっと温かい目でそれを見守っていた。
彼女はこちらに背を向けたまま、一切こちらを向かなかった。きっと彼女のことだ、泣き顔を見られたくないとかいうプライドがそうさせなかったのだろう。
下半身が消え、上半身、肩まで消えた時、意外なことにエレシュキガルはこちらを振り返った。
その顔は涙や鼻水やらでぐちゃぐちゃで、神様の尊厳なんてクソくらえとでも言わんばかりのものだった。しかしそれを見ても先輩とマシュは笑うことはなかった。
「本当にありがとう! 大好きよ、マスーー」
ター! が言えずついにエレシュキガルが消えてしまった。残滓がキラキラと輝き、やがてそれすらも消えた。
遅れて、先輩が小さく吹き出した。
「最後の最後で抜けてるというか、やっぱりエレシュキガルだなぁって感じだったね、マシュ」
「そうでしたね、そういう意味では期待を裏切らないというか……。でも、いい笑顔でしたね」
「うん、最高だった」
寂しくなりますね、と口から出かかったが、やめておいた。そんなことを言ってしまえば先輩はきっと悲しんでしまう。そんな心配からくるものだった。
無言になる。あとは明日やってくる査察官たちを待つばかり。気まずくはなかった。これでいいのだ。
今は何時くらいだろうか。
マシュは腕時計を見て、もうすぐ7時になることを確認する。お腹も空いてくる頃だし、ちょうどいいだろう。料理系サーヴァントがいなくなってしまった今、料理は腕に覚えのあるスタッフが担当することになるだろう。
別に先輩とふたりでつくってもいいかもしれない。
「先輩、夕食を食べませんか?」
そう言って、反応を窺う。
まるでそれがトリガーだったかのように先輩のお腹は可愛らしくきゅるる、と鳴り、顔に力を入れて若干変顔ながらこっちを振り向いた。
非は認めているが、突っ込まないでほしいと顔が物語っている。
「そ、そうだねぇ……。ご飯もいいけど、先にお風呂入りたいなぁ、なんて……あは、あはははは……」
完全に逃げようとしている。
責めるのは可哀想だから、マシュは追求しないことにした。
じゃあお風呂に行きますか、と言ってそれぞれの部屋からバスタオルやら着替えやらを持ち込んで更衣室に入る。
先輩とマシュは互いに裸になり、マシュは隠れて先輩の身体を見る。彫刻のように美しいボディーラインだ。100人が評価すれば100人が高反応を示すだろう。しかし、ところどころ刻まれた、消えない傷はマシュの罪悪感を刺激する。
あれらは間違いなく旅の中で負ったもの。シールダーとして守りきることができなかった証拠。
思わず目を逸らしてしまう。
「どうしたのマシュ?」
「え、あ、いえ……なんでもないです」
チクリと胸が痛む。
するとマシュの考えていることに気づいた先輩はマシュの身体を突いた。
「ひゃわっ⁉︎」
バネのように跳ね上がり、マシュはようやく先輩の方を向いた。そして先輩は笑った。
「大丈夫だって! ゆっくり時間をかければ誤魔化せるくらいになるでしょ。それにもう、傷つくことはないから……さ」
「そう……ですね」
「そうなのだ! だから私たちはこれからゆっくりグダグダライフを送るのだ!」
「さすがにグダグダはダメですよ?」
「え……」
マシュは違うの? と泣きそうな顔で見られても譲らない。グダグダライフといえばどうしても刑部姫を連想してしまう。オタク。ニート。引きこもり。そんなだらしない人間にはなってほしくないのだ。暗に刑部姫がそんな英霊だと言ってしまっているが……事実だ、仕方ない。
先輩をひと蹴り。「マシュ? マシュ?」とポロポロ安い涙を流されてもこちらが困る。
先輩の腕を掴み、いざ浴場へ。
パパッと身体を洗って湯船に浸かって終わらせよう。甘えてくる先輩に構ってあげるのは、晩御飯の後だ。
◆
「う〜〜ん、暇だねぇ」
「それは逆にいいことさ」
「ちぇ、つまんね。ホームズ、何かやりたまえ」
「君が先にやっておくれよ」
よしきた、とダ・ヴィンチは意気揚々とテンションアゲアゲで声を張ると、モナリザの真似をする。
世界で超絶有名な、かの偉人がなんとバカらしいことをしているのだろう。ラプラスやシバ、カルデアスなども沈黙を守ったままだ。それを監視するだけの暇すぎる仕事。どんな人だろうと飽きは感じてしまうようだ。
「シュールなモノマネありがとう。では仕事に戻るか」
「次はそっちの番だろう⁉︎」
「おや? 何か聞き違いのしているようだ。私は別にやるなんて一言も言っていない。スタッフ諸君、私は間違えているだろうか?」
珍しいものを見る目でふたりの様子を観察していたスタッフ全員は、ゆっくりと首を横に振ってホームズに味方する。
騙されたことにようやく気づいたダ・ヴィンチはみるみるうちに顔を赤くし、席から立ってホームズに詰め寄った。
「くぅーー! 腹が立つなあ全く!」
「本当に君は天才なのかね?」
「むきーーっ!!」
ついに堪忍袋の尾が切れたダ・ヴィンチがホームズに摑みかかろうとする。が、すんでのところで冷静に努めようと鼻息を荒くしながら自分の席に戻っていった。
「……まあ、ああいう女性だからこそ私たちはこれまで戦い抜いてこられたのだろうね」
皮肉ではない、純粋な感謝。尊敬。その消えそうな小声は彼女の背中に届くことはなかった。
ダ・ヴィンチは手元のコンピューターを弄り、過去と未来に異常が無いことを確認する。そしてひと段落つこうと砂糖ガッツリのコーヒーを啜る。
「……ところでホームズ。明日査察官が来るわけだが、どこに隠れているつもりだい?」
ダ・ヴィンチの問いに数秒考え、口を開く。
「そうだな、君の工房にお邪魔しよう。何かあるだろう?」
「まあ、あるっちゃあるね」
「感謝する。ではそうさせてもらおう」
ホームズは本来はカルデアにはいないはずよサーヴァント。向こうに提出している書類にはマシュとダ・ヴィンチしか書いていない。だから彼が査察官に見つかったらまずいのだ。
ダ・ヴィンチの工房は……いろいろとごちゃごちゃになっていて隠れるにはもってこいの場所だ。それに容易に物に触ろうとする者はいないだろうから隠密性は格段に上がる。
食えない男だが、そこばっかりは仕方ない。大きな貸しだなと自分を納得させ、彼女は再び仕事に戻った。
「マシュちゃんたちは風呂……か」
監視カメラがふたりが風呂に向かうのを映し出し、随分と仲のおよろしいことでとしみじみと思い出に浸る。昔は無愛想というか他人と必要以上に関わろうとしなかったあの子が……。
ずいぶん成長した。この2年、本当に。
「あの……ダ・ヴィンチ所長代理」
「ん? なんだい?」
スタッフのひとりに声をかけられ、ダ・ヴィンチは現実へと舞い戻る。
その男が指をさすコンピューターを覗き込み、何が起こったのかを問いただす。
「門番の方からの定時連絡がこないです」
「ん? それはおかしいな。15分毎にさせているはずだが……どれだけ経った?」
「3分ほどです」
「内線は?」
「いえ、今からします」
そう言って受話器を手に取り、番号を打って呼び出す。コール音が数回鳴ったところで男は首を横に振った。
「門番のとこのモニター、出してみて」
「はい」
男のコンピューターに、門番たちの姿が映る。門を、内側の小部屋から微動だにせずに外を眺めている。
門番たちは仕事をしている。ではなぜ呼びかけに応じない……?
「もう一度」
「はい」
男が再びコールを試みるが、やはり反応はない。向こう側では相変わらず仏頂面で外を眺めるのみ。厳密な審査をくぐりぬけて配属された人たちだ。こんなレベルの低いミスはしないはずだ。
ホームズに尋ねる。
「ちょっとこれを見てほしい」
「ふむ」
ホームズは片眉を吊り上げ、映し出された画面とにらめっこをし、男に指示を出す。
「ちょっとスローモーションにしてくれ」
「えっと……はい」
言われた通りに再生速度を遅らせる。
しかし番人たちの挙動は全く見られず、まさに不動に相応しい。だがホームズにとって、それはどうでもいいことだった。実際着目していたのはそこではない。
眼を凝らし、その違和感を確かめる。
「……ふむ」
何かに気づいたようだ。
ダ・ヴィンチが催促し、ホームズはそれを説明する。
「ここをよく見てほしい。一定のリズムで黒光りする物なリズムよく見え隠れしている。おそらくこの映像はループしている」
彼の指摘したのは画面の端。注意深く見ていなければまず気づかないほどのところで確かに何かが見え隠れしている。
しかしこれは何だろう。まるで見当がつかない。門番たちの職場にあのようなものはない。
さらにリズムがある。約5秒ごとにそれは現れている。あまりに規則的な動きであり、疑念はさらに深くなる。
「それだけじゃない。当然私もあそこの空間は把握しているのだが……結論から言うとこれは人間の頭部ほどの高さに位置している。ゆえにこれはヘルメットと推測できる」
「へ、ヘルメットですか……」
男が驚き半分、呆れ半分でオウム返しする。
もちろん門番たちにあんなヘルメットは支給していない。あまりにも変だ。ホームズならばそこからさらに仮説を展開しているはずだとふみ、ダ・ヴィンチはさらに彼を追求しようとした。
だが、それは先に話し始めた男に遮られた。
「黒いヘルメットだなんて……はは、兵士とかその辺の人間が被るものでしょう……?」
男は苦笑い気味に肩をすかす。
「カルデアは時空を飛ぶことを前提に作られていて、攻められることを……想定していま、せん……」
そして乾いた笑いも混じる。男の顔は苦笑いから冷汗が滝のように流れ、ゆっくりとぎこちなく首を動かして後ろのダ・ヴィンチとホームズの方を見る。
ヘルメット。
兵士。
反応しない門番。
そしてループする映像。
嘘だろう。
と。よくある映画でもないし、ありえないと信じたいが、ありえると納得させるための材料が揃いすぎている。
それに今日はサーヴァントたちがほぼ全員退去する日。あまりにもタイミングが良すぎる。
声色が変わり、震える。
「攻め、られたら……カルデアは……」
ダ・ヴィンチの目が見開かれる。
カルデア内に耳をつんざく大音量のアラートが鳴り響いたのはすぐのことだった。
◆
それは突然だった。
マシュと先輩が風呂上がりでドライヤーで髪を乾かし、瓶入りの牛乳をおじさんのようにゴクゴク飲んでいた時だった。
「ぶふぅッ!!」
「先輩⁉︎」
完全な不意打ち。
驚いた先輩は汚く牛乳を吹き出してしまい、床が牛乳まみれになってしまった。
当の先輩はしばらくの間だけ硬直し、再起動する。バスタオルを持ってきて、急いで床を拭く。
「なんて日だー!」
「全くですね。はやく拭いて管制室に行きましょう……て、あれ?」
マシュもバスタオルを手に取り、先輩を手伝おうとするが、ふと違和感に気づいた。
アラートは鳴りっぱなし。それはいい。しかし、放送が一切ないのだ。いつもならダ・ヴィンチからの呼び出しが放送されるのだが、今回はそれがない。
とりあえず先輩を手伝い、牛乳を綺麗に拭き取った。
先輩の牛乳まみれの顔をついでに拭き、通路に出る。マシュと先輩は走る。
「また特異点かな……」
先輩が呟く。
「連れて行けるのは……ホームズくらいかな」
最悪のタイミングだ。
明日査察官がくるというのに、まったく運が悪い。戦いがまた始まるのか? 魔神柱は全て討伐したはずなのに、また……。
そのふつふつと煮えたぎる想いは、人間の耳には聞こえない遠くの音がマシュの耳に届いたことで違うと悟った。
「先輩、銃声です」
「……え?」
「カルデア内で銃声がありました」
ゲーティア戦以降、サーヴァントの力を失ったマシュが強引に武装する。
そして盾を召喚したところで膝をつき、崩れ落ちる。
「マシュ!」
先輩がマシュに駆け寄る。
肩を貸し、マシュを立たせる。
無理だ。力を存分に発揮できないくせになんてことを。令呪を使ってでも……と一瞬考えたが、盾を残して武装を解除した。
「これなら、いけます」
少し上がった息を整えながらゆっくりとした足取りで管制室へ向かう。
そしてマシュの言った通り、先輩の耳にもかすかに銃声が聞こえるようになった。それだけではない。悲鳴もだ。
「ーーーー」
「……先輩」
「行こう」
できる限り隠密に。目的地へ近づけば近づくほど血の匂いが漂ってくる。数々の特異点を周った先輩はもうそれにとても敏感だ。眉を顰め、静かに嗚咽を漏らす。
しかしそれでも進まなければならない。一体何が起こったのか。何が原因でこうなったのか。こんなことをする敵は、誰か。
そしてついに発見してしまう。
死体だ。それも多くの人間が、力なく床に崩れ落ちている。
全員、知っている顔だ。
彼ら彼女らとの記憶が先輩の中で一気に爆発する。
いつも優しい声をかけてくれていた女性は制服にいくつもの赤い染みを作り、最後に額を綺麗に撃ち抜かれている。さりげなく気にかけてくれていた男性は苦悶の表情で死に絶えている。
皆、皆知っている。
もうこの者たちと会話をすることはできない。
死者への冒涜になるかもしれない。それでも先輩は進むしかない。
「どうか、せめて安らかに」
ひとりひとりの瞼を下ろし、マシュに目だけで訴え、進む。
「敵に遭遇して、どうする?」
ふと先輩が尋ねる。それはマシュの戦力を考えてのことだろう。カルデアを攻めるほどだ、きっと生半可な敵ではないはず。
マシュにはきっと、無理だ。
「この盾で防ぎながらダ・ヴィンチちゃんたちと合流、です」
「……私、絶対に許さないからね」
激しく歯軋りをして、拳を握る。そこから血が流れているのを見て、マシュは先輩が熱い熱い憤怒に燃えているのが伝わった。
「もちろんです。ですがまずは必ず生き残りましょう」
「うん。うん。……そうだったね、マシュ」
先輩の興奮をある程度鎮め、再び歩きだす。
マシュは自分の胸が激しく打っているのに気づいた。緊張している。今この瞬間、敵に遭遇するのではないかという危惧が焦りを生む。
ダメだ、と自分を戒める。マシュがしっかりしなければ先輩を守ることはできない。いくらサーヴァントとしての力が弱体化しているとはいえ、先輩よりは遥かに強いのだ。
だから守らなければ。
先に曲がり角が。
ここは左だ。腕を伸ばして止まれのジェスチャー。先輩は止まり、それを確認してマシュは顔だけを出す。素早く左右を確認。
いない。あるのは死体のみ。
これなら行ける。
「ついて来てください」
先輩の手をしっかりと握り、一歩を踏み出そうとした、その時。
すぐ近くで銃声がした。
反射的にマシュはグイッ! と先輩の手を引っ張り、有無を言わさずすぐ近くの部屋へと半ば強引にダイブする。
敵に見つかったか? とりあえず先輩を隣に座らせ、耳をドアに当てる。とても静かだ。さっきの銃声は流れ弾だったのか……?
とにかく難は去ったと考えていいだろう。
マシュは先輩に向き直る。そしてようやく気づく。
なぜだかこの部屋から血の匂いがするのだ。落ち着いて周りを見ても死体はない。だからもちろん血もない。
ならいったいどこから……。
「マシュ……ごめんね……」
先輩はそんなことを呟く。
そして服をめくり、腹を見せる。
止まらない血を見て、マシュの顔は青ざめた。
◆
カルデアは終わり、いつかの未来にて英霊になるであろう少女は生死の狭間に浮き沈みする。
その儚い命は、盾の少女にかかっている。
◆
適当にあったタオルで腹部をきつく縛り、これ以上の血の流出を防ぐ。
だが一向に止まる気配を見せない。
「ど、どうして……!」
マシュが狼狽える。おんぶしている先輩の身体から流れる血が確かにマシュの背中に感じる。
ついさっきできる限りの応急処置をして、十分に血は止まるはずだ。それなのになぜ。
マシュは我を見失っていた。弱々しく呼吸を繰り返す先輩。その音が耳に届き、これ以上ない焦りが生じる。
「大丈夫ですからね、先輩!」
「う、ん……ありがと、う」
盾はいったん消し、死体だらけの通路をできるだけ先輩に負担をかけないように走り抜ける。管制室までもう少し。
マシュは泣きたかった。どうして先輩がこんな目に合わなければならなかったのかがどうしても理解できないのだ。
先輩は人類を救った。あと平穏な日々に戻るだけ。それだけなのに、どうして……。
もうスタッフのみんながどうなっているか嫌でも想像がついてしまう。カルデアは攻められることを想定していない施設。防衛システムなど皆無。精々武器庫にある女々しい銃で応戦する程度だ。だが、戦った形跡はなく、無慈悲に一方的な虐殺が行われたと推測できる。
「酷い……」
「はあ、は、あ……はぁ……」
先輩の状態も非常に危険だ。
はやく……はやくなんとかしなければ。
「ッ、マシュ……」
「大丈夫ですから! 私が必ず、先輩を助けてみせますから!!」
「大好き、だよ……」
命が尽きる瀬戸際だというのに、そんな言葉を聞かされて泣かないはずなどなかった。
頬を熱いものが伝う。止まることがない。胸がマグマのように熱く、激しく泣きじゃくる。
それきりマスターは静かになる。
マシュはぐちゃぐちゃの顔のままただひたすら走り続けた。
絶望的だ。何もかも。
先輩の炎は今にも消えそう。
敵が跋扈するカルデアを、ほぼ殲滅させられたであろう職員の、それも医務官を探し出すのはあまりに希望薄だった。
視界が滲み、記憶を頼りに通路を走り抜ける。
「ーー止まれ」
そんな声が聞こえた。
敵だ。
ちょうど部屋から出て来た黒ずくめの男たちがマシュに制止を呼びかける。
しかしマシュはそんなことよりも先輩のことが大事だった。そして男たちの前を走り過ぎようとして、撃たれる。
「ウッ……!」
わずかに硝煙の匂い。
右脚のふくらはぎを撃ち抜かれ、マシュは勢いよく転び、死体に衝突した。
「せ、先輩……!」
「メインターゲット確認。これより拉致する」
どっちがメインターゲットかなんてどうでもいい。
マシュがこけたことで、先輩と離れてしまう。うまく動かない。腕を伸ばして匍匐前進のように進み、ようやく先輩の身体に抱きつく。
「すみません、先輩。またおぶりますね……」
男のひとりがマシュの服を引っ張り、後ろへやる。
「やめてください! 私は先輩を手当てする人を……!!」
「やめておけ。もう無駄だ」
「放っておいてください! 先輩を守るって、約束したんです!!」
「メインターゲットをか? なら残念だったな。よく見ろ」
首根っこを掴まれ、今度は先輩の前に差し出される。その意図することがわからなかったが、マシュは無我夢中に先輩の身体を抱き寄せた。
その肉体はすでに恐ろしいまでに冷たく、マシュの全てが停止した。
「お前の言う先輩はすでに死んでいる。流れ弾かなにか食らったのか? まあ俺たちの持つ銃弾は対サーヴァントのものだ。ただの人間が受ければまず助からない。ちなみに言うとカルデアはお前以外全員殺した。レオナルド・ダ・ヴィンチは把握していたが、もうひとりいたのは流石に想定外だったな」
「あ……ぁ……」
だらんと全て力が抜ける。
ゆっくりと歩み寄り、男が先輩を抱き上げる。マシュはそれを虚ろな瞳で見上げるだけ。
「正統な魔術師でもない人間が人理を救った。大勢の英霊をサーヴァントとして使役させて。この女……いや、死んでるからこれ、か。これは非常に貴重な資料だ。今回の我々の目的はこれの拉致にある。生きていても、死んでいてもどちらでもいい。魔術的にも、政治的にも大きな力になるからな」
「せん、ぱい……先輩……」
男が腕を伸ばして撤退の合図を出す。
数人の兵士がマシュを取り囲み、銃口を向ける。
「人類を救ってくれたこと、感謝する。そしてもうカルデアはこれ以外、用済みだ。……さらばだデミ・サーヴァント。サーヴァントになれなかった、出来損ないの女よ」
涙が止まらなかった。
何もできなかった。
大好きだと命尽きる瞬間に告白してくれた先輩を救えなかった。
返事すらしなかった。
そして。
マシュ・キリエライトは蜂の巣にされた。
先輩は死んだ。
カルデアは終わり、マシュは絶望のどん底に堕ちた。