盾の少女の憂鬱 作:T.K
目覚めたのは夜だった。外からさわさわと聞こえる虫の合唱がいいスパイスだ。
薄っすらと目を開け、周囲の様子をうかがう。
ここは……どこかの家のようだ。お世辞にもきちんとした家とは言い難いが。ゆっくりと立ち上がり、頭蓋を揺さぶる頭痛がだいぶ引いていることを知る。
ここは外ではない、ということはアレイがここまで運んでくれた……ということになる。つまりここはアレイの家、か。
付け焼き刃のような簾を上げて、誰かが入ってくる。
アレイではなかった。少年だった。
マシュと少年はバッチリと目が合ってしまった。
なんと反応すればいいのかわからず、無言の時間は続いた。
先に先陣をきったのは少年のほうだった。マシュの枕元に座り込み、土下座するのではないかというほどの勢いで話し始めた。
「こ、こんにちはマシュさん! さ早速ですが、オレを弟子にしてくださいっ! いや、順番間違えた! オレ、レクといいます!!」
「えぇ……」
どうやらキャラの濃い少年のようだ。
若干引き気味にマシュは返事をして、咀嚼するようにレクと名乗る少年の言葉を理解する。
弟子にしてほしい……と言った。弟子? ならばマシュが師匠……?
全く、おかしなことを言う。
「あ、レク! 初対面の人にいきなり失礼でしょ!」
「うげっ」
続いて現れたのはアレイだった。
そしてレクに言い寄るや否やゴツンッとげんこつを頭に振り落とした。相当痛かったのだろう、少し涙目で恨めしそうにアレイを見上げる。
そんな彼にふんっ、とサムズアップすると、マシュの額に乗せていたおしぼりを手に取った。
「ごめんなさいマシュさん、目覚めがこんな悲惨なことになってしまって……」
「それは酷すぎじゃないか⁉︎」
「事実なのー!」
レクの反論を、さらにアレイが反論……いや、駄々をこねる。
そしてしまいにはぴーちくぱーちく言い合いを始め、収拾がつかなくなってしまう。
アレイはレクに失礼だとかなんとか言っていたが、これでは彼女も同じだ。
まだまだマシュより年下のふたりだ。なんだか微笑ましくすら思えてきて、やんわりと制止を促すべく話題の切り替えさせることにする。
「そういえば、ここはローマなのですか?」
その質問にいち早く応えたのはレクだった。ぐにに、と頬をつねり合っていたが、アレイの隙を突き、デコピンを食らわせるとマシュの手を握った。
「はい、その通りですマシュさん! といってもその端っこのまた端っこなんですけどね……。ところで訓練の日程なのですがーー」
「こらー!」
「ヘブンっ!」
弟子入りを果たしたと思い込んでいるレクに、再びアレイのげんこつが入る。
アレイ、意外にレクに対して容赦ない……?
「あの時マシュさんが魔獣を追い払って、その後倒れたじゃないですか? で、ここまで運んできたんです」
運んできたのはオレです! とレクが間を啄む。
「そうなんですか……ありがとうございます、レクさん」
「いえ、気にしないでください! これは男として当然のこと。話は変わりますが……」
「はいはい黙りましょうねー」
相変わらずレクに対してだけ毒舌なアレイ。彼女はマシュにお盆に乗せたコップを差し出した。マシュはそれを受け取ってどんな飲み物なのかを確認した。
水だった。しかし少しだけ濁りがあって、雨水をそのまま使っているのだろうと推測する。
そして、断るのも失礼だから、マシュはその水を飲んだ。中途半端にぬるく、味も妙な混じりっ気もあったが、マシュはそれを顔色ひとつ変えずに喉を通す。
「ところで、おふたりの両親はどこですか? もし良ければお礼を言いたいのですが……」
「ああ、私たち、親はいないんです。で、今はリセロ姉さんと、いつの間にか居座っているレクの三人で暮らしているんです」
「いつの間にかとか酷い! オレ、ちゃんとこの家の一員として認められていたはずでは⁉︎」
「うるさいわね、この筋肉バカー!」
「はあ⁉︎ 筋肉バカちげーし! ちゃんとアレイの代わりに家事やってますし? なんならアレイより料理できる自信あるんだけどどう?」
「ふーー! ふーーーー!!」
「落ち着くんだ、はしたない」
軍配はレクに上がったようだ。
悔しさと悔しさに、あと悔しさをひとつまみ分ほど加えた顔でレクを睨む。だがそこに悪意はない。
「……なら、そのリセロさんに会わせてもらえませんか?」
マシュがそう言った途端、ふたりは少し遠慮気味に引き下がり、「えっと……」とアレイが足踏みをする。どうしてだが、重い雰囲気に早変わりしてしまう。マシュは自分が言ったことが深く踏み込んだものであったと静かに悟る。
どうマシュに言おうか何度も考えるそぶりを見せ、ようやく口を開いた。
「リセロ姉さんはちょっと重い病気で……あまり人と会わせたくないというのが正直なところなんですけど……命の恩人にそんなことを言われたら簡単に拒否できませんね」
「あ、いえ! そういうわけなら別に無理してもらわなくてもいいですよ⁉︎ 失礼なことを言って申し訳ないです」
なんだか進行が億劫だ。
でも大丈夫だよね、とレクに目だけでかくにんをとり、彼は黙って首を縦に振った。
こっちに、と言ったアレイが立ち上がる。マシュもそれについていこうと立ったが、頭の中から脳みそがこぼれ落ちるような奇妙な感覚を覚え、ふらりと上半身が空にもたれかかりそうになる。
レクが心配そうに手を差し伸ばしたが、大丈夫とその手をやんわりと拒否する。
五畳ほどの部屋を出て、廊下などへったくれもない一過性な空間を通り、薄壁一枚で隔てられた隣の部屋に案内される。
そこでど素人が組み立てたであろう骨組みがまるでなっていないベッドの上で、ひとりの女が寝かされていた。
すぐ隣でふたりがあれだけ騒ぎ立てたというのに、深い眠りについている。
「リセロ姉さん。ほら、私の話したマシュさんだよ。すごーく強い人でね、すっごく大きな盾で魔獣たちを追い払ったの!」
アレイがやや興奮気味に話し始める。
すると眠り姫が目覚めたかのように僅かに長い睫毛が揺れ、そしてゆっくりと瞼が上がった。
どちらかというと、彼女はレクに似ている。いや逆だ、レクが彼女に似ている、か。
「ああ、アレイ……」
弱った小鳥が鳴くような声でリセロは呟く。
そしてしょぼしょぼと何度も瞬きを繰り返し、ついにマシュを視界に捉える。マシュはここでなぜか頬が強張ってしまう。リセロの目はなんだか剪定されているような感じで、決していい気分とは言えなかった。
数秒、それとも数分、か。それほど長く感じた。目を合わす時よりもさらにゆっくりとマシュから視線を戻す。
「マシュさん……アレイのこと、ありがとうございます」
「えっ? あ、いえいえ。そんなことはありません。元はといえばたぶん私のせいでアレイさんはお守りを落としてしまったので、責は私にーー」
「だとしても」
あります、と言おうとしたのが、凛と張ったわけでもないリセロの声に制される。
「アレイは私にとって妹のような存在……だから、ありがとうございます」
「えっと……はい」
自分をとにかく伝えようとするところ、レクによく似て……また間違えた。レクが似ているのだ。
ということはつまり、リセロとレクは兄弟、そしてアレイとは血は繋がっていないということだろうか。尋ねてみるとビンゴだったようで、レクとアレイは深い友人ということらしい。
「ごめんなさい、マシュさん。本当ならあなたを盛大に迎えたいところですが……そんな用意はできないし、私もこうして寝たきりで」
「そんな……もったいないです。そもそも勝手にお邪魔してもらっている身ですから。すぐに私は出て行きますよ。だからリセロさんはそんなに気にしないでください」
そうだ。マシュがするべきことはここで三人と駄弁ることではないのだ。このローマで、魔力をできる限り回収するという任務があるのだ。ゲーティアのように起点を複数個打ち付けて燃料代わりを回収するような芸当はとてもできないため、わざわざ赴かなくてはならないのが難点。
貧しいながらも楽しく毎日を過ごしている彼女たちにはとても申し訳ないのだが、マシュにとって三人はどうでもいいことである。アレイとはただ出会っただけ。レクにはただ運んでもらっただけ。リセロは過剰に恩着せがましい。
マシュに対して随分感謝している。それは素直に鼻の奥がむず痒いが、これ以上はもう関わる必要はない。
さて、と一連を終えたマシュは背を向けた。完全とまでは言わないが、気分はだいぶ良くなった。これならばいつの時代かは断定できないローマを徘徊してもさほど問題ない。
「待ってください」
アレイの割り込む声がマシュの背中をとんとんと叩く。
次に来る言葉が何かを確信はしていたが、それでもあえてマシュは後ろを振り向く。
「外は真っ暗な夜ですよ? いくらローマとはいえ、特にこの辺りは治安が悪いので襲われるかもしれませんよ? せめて朝までここでゆっくりしていきませんか?」
ほら、予想通りだ。
内心大当たりとほくそ笑みながらマシュはそれでとなお断る。
「ご心配ありがとうございます。でも私は大丈夫です。それはアレイさんが一番よくわかっているでしょう?」
ぐうの音も出ない正論にアレイがぐっ、と引き下がる。こちらの勝ちだ。マシュが強いことは誰よりもアレイがわかっている。レクにもその意味するところがわかるはずだ。
今度こそさよならだ。
再び背を向け、マシュは外に出ようとする。
「そ、そんなの関係ないですよっ! 私がいいって言ってるんですからここにいてくださーいーー!!」
アレイが咄嗟に武装の腰部分を掴んだことで、マシュは潰れたカエルみたいな声を出す羽目になった。
マシュが気を抜いていたことが要因でもあるが、アレイの馬鹿力でマシュのすべすべのお腹にしばらく跡が残ってしまった。
怒ってはいない。いないのだが、ほんの少しだけ不快だ。だがもしまた出て行こうものなら、今度はレクにマシュの武装のどこかが掴まれそうな気がする。さすがに2回目は願い下げだ。
若干アレイに咎めるような目を向け、しばらくして折れることにした。どうやらアレイにもリセロ兄弟の性格がある程度移ってしまったようだ。それがアレイにとって吉であるか凶であるかはわかるはずもないが、少なくともマシュにとっては大凶だ。
「……もう。わかりました。今夜はお世話になります」
喜びを隠すことなくアレイはリセロに迷惑のかからない範囲内ではしゃいだ。その様子は無邪気な子供だ。
四人でひとくちふたくち分ほどのひもじい夕食をぺろりと食べ、肩身の狭い部屋で三人で寝る。リセロは病人のため、隣で広々(といっても余裕はあまりない)と眠り、マシュたちはぎゅうぎゅう詰めになりながら仕方なく眠った。
レクの身体の大きさはマシュとほとんど差がないほどだ。マシュ、レク、アレイの順に並んで寝ているわけだが、男の子の身体だからか、少しばかり暑苦しく感じてしまう。……それに、なんだか心なしにこちらに近いような気もする。
マシュは国境線でも引いていればよかったとしみじみと後悔し、明日は何をしようかと考えていると、サンタアルテラの羊が介入してはやく寝るんだほっほっほ、と鳴き喚く。
実に迷惑だ。
空を飛ぶ羊たちを丁寧に数えるのではなく丁寧に1つ残らず撃ち落としてやろうかと考えた。そうすれば同時に数えることもできるから一石二鳥だ。
そんなマシュらしくないバカな浅い夢に溺れていると、いつの間にか朝を迎えていた。
マシュが覚醒する時にはすでにふたりはそこにはおらず、数分間だけひとりでここを占めることができるというなんともレベルの低い優越感に浸る。
そしてシャキッと目覚めたマシュはふたりの姿を探した。
「ああマシュさん、おはようございます」
「おはようございます。レクさんは?」
「あいつはこれから出かけますよ。……まったくもう、怪我治ったばっかりなのに」
「怪我、ですか?」
マシュがおうむ返ししたところで、ちょうどレクが姿を見せる。
彼は昨日とうって変わって引き締まった表情をしており、動きやすい服に着替えている。しかしそれはどう見てもボロボロで、あと数歩で服として意味をなさないレベルまで到達している。
手作りの手提げに使い回しの包帯やらをやや雑に詰め込んだ状態で肩にまわす。
「んじゃ。洗い物とかはその辺に置いといて。帰ったらやるから」
「大丈夫?」
「もちろん」
「そんなこと言ってこの前骨折られて帰ってきたじゃない」
「う……。今度はきっと大丈夫だよ、うん、そうだな、うん、うん」
後半はもう自分に言い聞かせているだけにしか聞こえなかった。レクはマシュに端的に別れを告げると出て行ってしまった。
「レクさんは何か……戦いに行くのですか?」
「そうなんです。オレ、自分を鍛えるとか言ってほぼ毎日行くんですよ。で、毎日ボロボロになって帰ってきて、私が手当をするんです」
確かにマシュが見たところレクの身体つきはまだまだではあるが戦士のそれに近かった。ボロい服の、破けたところから覗く彼の身体から推測したことだ。
変な意味はない。
アレイの差し出した朝食をやはりぺろりと食べ、マシュはそそくさと立ち上がった。
少しレクの事が心配になった。アレイがこれから何をするのかが気になるが、恐らく花を売るのだろう。リセロは寝たきりだから除外するとして、ふたりを天秤にかけると、レクの方に傾いた。
彼らにはよくしてもらっているし、なけなしの食料までもらっている。本来は食事など必要のないマシュだが、食べなければ怪しまれるから仕方がなかった。
ともあれその借りは返さなくてはならない。レクはずっとマシュに見て欲しそうに隙あらば声をかけていたため、それに応えることにした。
「アレイさん、私はレクさんに着いていきます。いいですか?」
きっと驚いたのだろう、アレイが動くことで生じる音が一時停止し、マシュはその再起動を待った。
「全然構わないんですけど……いいのですか?」
その『いいのですか?』の意味を飲み込むのに数秒かかってしまった。普段からレクを対する扱いが雑い彼女が言うのだ。あんな奴について行くのですか? か、単に迷惑かかりませんか? のどっちなのかがマシュを悩ませたのだ。
しかし後者だと断定はできないが、予想し、答える。
「私の弟子にしてほしいとせがむほどですから、きっと喜ぶでしょう」
「そ、そうですか。ならお願いします。もしあいつがやられたらここまで連れて帰るの、お願いしていいですか?」
「もちろんですとも」
特に用意など必要ない。
決まれば早い。あとは彼を見失わないように後を追えばいい。アレイの「場所は結構近いところにありますからー!」というアドバイスを背に受け、マシュは走り出した。
ギリギリ視界の端でレクが人でごった返す商店街のようなところで、細い道に入ろうと右折したのを捉える。
できるだけ迷惑にならないようにマシュは人ごみをかき分け、そしてぶつからないように避けながら同じく右折した。
そこは人気のない道で、レクはその先にあるボロ臭いドーム状の小さい建物の中に入っていった。マシュもそれに続いて中に入る。
そこには小規模なボクシングの舞台のようなものがあった。それを背の低い鉄格子で囲い込み、さらにその周囲をむさ苦しい男たちが観客として野次を飛ばしたりしている。
なるほど、アレイの言った通り『そういう』ところなのだとマシュは悟った。
珍しい女の入場だからか、男たちが惜しげもなく下賤な目をマシュに向ける。その魅惑的な身体はこの貧相街では非常に珍しい。
「…………」
何も言わない。
適当な席にマシュは座り込み、レクの姿を探した。果たして彼は容易に見つかったが、どうやらこちらには気づいていないらしい。
その間にも下心丸出しで言い寄ろうとしてくる男を三、四人ほど目で押し殺す。
レクは審判役と思われる男と少しだけ言葉を交わすと舞台に上がっていった。
レクはマシュに弟子にしてほしいと懇願していた。その理由は何なのか。見ての通り貧乏な彼は、戦うなどということよりもっとやるべき事があるはずだ。つまりそうしないということは、どうしても戦わなければならない理由があるということだ。
レクはマシュにとって他人だ。他の人と書いて他人だから間違いはない。しかしこれまで巡った特異点で出会う者たちの、毎日を必死に生きようとする、言わば生き汚なさがレクにはあるような気がした。
対するは、ひとりの大男だった。マシュよりもひとまわりもふたまわりも大きい。姿を現した瞬間、この建物を揺るがすほどの大歓声が上がる。きっと大物なのだろう。
レクが拳を握りしめているのが見えた。
「始めッ!」
審判が汚い鐘を鳴らして試合が始まる。
始めに仕掛けたのはレクだった。馬鹿正直に男に向かって殴りかかるかと思われたが、それはブラフで、男が反応を見せた瞬間、重心を地面スレスレまで落として横にずれる。
「せッ!」
男の側面を占領したレクが鋭い蹴りをその膝裏に叩き込む。
おそらくそれで男に膝を突かせ、男の頭との高低差をできるだけ低くするための考えなのだろう。
しかしその思惑は容易に裏切られ、男の脚は未だ健全と言わんばかりにビクともしなかった。ここでレクの表情が一気に険しくなる。
男はその程度か? とギラリと微笑んで見せると、レクの脚を掴んだ。そして腕を一回転させ、レクを宙に持ち上げ、そして地面に激しく叩きつけた。
「ぐ、フ……!!」
ワッ! と客が沸き上がる。
レクの味方として観戦していたマシュにはいささか不愉快だった。やれもっとやれ、やれ殺せなどという攻撃的な言葉の数々が耳をざわつかせる。
怒りはない。そういうところなのだから、もっともな野次である。
まだ男の攻撃は続く。レクはもうこれ以上の抵抗は出来なさそうなのに、容赦のない猛攻がレクを襲う。
二度、三度、四度、五度とさらに地面に叩きつける。そして虫の息になったレクを鉄格子に投げつけた。
ガシャン! という音が観客のより一層盛り上がる歓声にかき消され、レクの苦悶の叫びも聞こえない。
しかしマシュには聞こえた。
まるでなっていない。マシュのレクに対する評価をとても低く位置づけた。サーヴァント界最弱にも遠く及ばない。
レクが傷つけば傷つくほど、マシュの中でレクへの疑問がみるみる膨らむ。あれほど弱いのに戦うのは何故か。アレイのように金を稼ごうとしないのはなぜか。リセロの看病をしようとしないのは何故か。
だが良い点もある。それは諦めないことだ。あれほど酷くやられてまだ腕の一本折れていない方が奇跡だ。か細い息で浅い呼吸を繰り返し、レクは再び立ち上がる。
レクを『そう』させる根源は、いったい何か。それが気になった。いやおそらくマシュの中ではこれが答えであるという種類は確信に近いものがあった。
長所はそれでいいとして、さすがにマシュにも彼が限界であることはとうにわかっていた。その心意気はとても素晴らしいが、いきすぎたそれはただ愚かなだけ。
男が両手を掴んで、レクに振り落とす。もうレクは意識すら朦朧としていて、男の次の行動すら理解できていない。
マズイ、と思った。
マシュの脚は自然に動き、男の拳がレクの頭を直撃し、決して軽くない怪我を負う直前。自分でも驚くほどの超絶なスピードで舞台に踊り出て、レクを担いでその攻撃を避けた。
時間から刹那を切り取ったような展開に、あれほど騒いでいた観客たちが死んだように静かになる。
「失礼なのはわかっています。どういうルールなのかは私は知りません。しかしレクさんはもうこれ以上動けません。それなのにあなたはまだ彼を攻撃するのですか?」
淡々とマシュは脳内で紙にプリントした、現在進行形で考えついたセリフを音読する。
男はへらへらと笑うと、矮小な生き物を哀れむかのような目でマシュを見下ろし、言った。
「ああそうだとも。しかしお前さんはその小僧に大変失礼なことをしようとしているぞ? 敵に対してボコボコにされる。それは別にいつものことだからいい。でもな、女に庇われて負ける。これ以上の屈辱はあるか?」
なあお前らァ!! と男は大声で叫ぶ。
すると生気を取り戻した観客たちが呼応し、拳を突き上げて叫んだ。
「あいつら全員が小僧の無様を見た! この近辺で歩こうものならば、女に庇われて負けた奴だと後ろ指をさされるのだぞ? それでもいいのか?」
汚い笑い方だ。これなら豚の方がよっぽど天使だ。訂正だ、豚に失礼というもの。
このまま引き下がればレクのただでさえあるかどうかもわからない名誉が穢される。
マシュはレクの頬を軽く叩いて起こす。
いいことを思いついた。マシュは口角を上げる。
どの道レクは可愛い女に庇われたという無様を晒したのだ。そこはもうどうしようもない。
ならば、その無様、この男にも味わってもらおう。
「……私は、レクさんの師匠です。師匠として、弟子がやられるのを黙って見ているわけにもいきません。確かにレクさんは無様を晒しました。なら平等にあなたにも無様を晒させてあげましょう」
マシュの言った言葉が男には少しばかりわからなかったようだ。しかし数秒すると、豚が神様にまで昇華するような笑みを浮かべると、男はマシュの前に立ちはだかった。
彼の陰にマシュはすっぽりと収まってしまう。
「は。は。は。は。は。お前さんが? ここにおいて最強の俺を? おいおいマジかよおいマジかよ。そんな冗談は愉快を通り越して不愉快だぞ?」
「おや? 奇遇ですね。私もあなたに対して不愉快を抱いていましたよ」
男の表情が強張る。
マシュは覚醒したレクを隅に誘導する。
「ま、マシュさん……?」
うまく呂律の回らない彼の言葉を聞き流し、その場に座らせる。
「レクさん、あなたの戦いはとても下手でした。なので私をよく見ていてください」
背を向け、男に向かって歩き、目の前で止まる。
首を上げ、マシュは男を見上げる。
「……言い残す言葉は?」
「……レクさんの訓練メニューを考えなければならないので、さっさとしてください」
男は激昂した。
特大のシリアスは最後にとってあるので。