唖然とする悠と暁の前で、理は静かに手を下ろした。
「時間がないから細かい説明は省くよ」
それは了承を得るための言葉ではない、それを知っている二人はこくりと頷いてみせる。
「僕たち三人がこれからすべきことはタロットカードの暴走を止めること、それから」
理はカウンターから空の小袋を持ち上げた。
そこには武見医院の文字が記載されていて、処方された薬を入れるものだと形状から理解出来た。
その小袋を理はひらりと床に落とす。
「奪われた”死”、すなわち死神のアルカナを象徴する武見妙を取り戻し、この世界を虚ろの森から引き剥がすこと」
「武見先生!?」
はっとした暁は武見がいた場所を振り返った。
だがそこに彼女の姿はなく、神経を研ぎ澄まして彼女の気配を探ってみても感じることはできない。
この場にもう一人いた夢子と共に消えてしまったのだ。
同時に悠も千枝の姿を確認したが、彼女は昏倒したままだった。
助け起こそうと一歩踏み出した時。
「それではイセカイに、いってらっしゃいませー!」
「うわぁ!?」
ぐにゃりと世界がねじ曲がっていく。
どこかで聞いたことがあるような、しかし知らない声のようなものが耳に木霊しながら三つのワイルドも武見医院から姿を消した。
* * * *
ドスンと音がして三人はしこたま地面に叩きつけられた。
見たところ森のようだが、いくら特殊な能力を持っていようとも肉体は人間なのだからもう少し加減をしろと言いたくなる。
しばらく文句の声も出ないでいた三人だったが、ようやくそのダメージから立ち直ると泥を叩きながら立ち上がった。
「……ここは?」
「イセカイ、って言っていたようだけど」
理にも分からないようで疑問だらけの二人の視線に首を振って返す。
するとコツ、と足音がして三人は顔を前に向けた。
「そう、本来の世界にはあるはずのない森」
「ラヴェンツァ!」
声を上げたのは暁だった。
本を持った少女が大きな瞳を瞬かせながら立っている。
「今この世界は大衆が生きることに無意味さを感じ、拒否し、けれど生きることを止められない、その矛盾から生まれた虚無に吸収されそうになっています」
「その虚ろの森が恐れるのは、死神が与える”考え直す力”」
さらにその横には大人びた女性が優雅に佇んでいた。
「マーガレット」
反応したのは悠だ。
マーガレットは悠を見るとにっこりと微笑んだ。
その二人の間を割って入るように体をねじ込んできたのはもう一人のベルベッドの住人だった。
「ワイルドの貴方たちがクソのようなタロットカードの暴走を止め、世界と虚ろの森を引き剥がした時。他人任せにも程がある人々に考え直す力を与え、虚ろの森に終焉を与えるというわけでございます」
「エリザベス……」
独特な言い回しと登場の仕方に理が思わず頭を抱えてしまう。
それぞれが世話になった蒼い部屋の住人ではあるが、その個性の強さはワイルドたちに同情めいた共感を感じさせた。
そして再びラヴェンツァが口を開く。
「それが出来るのは死神のアルカナを宿せる武見妙だけ。だから彼女は攫われた」
「危害は加えられていないのか?」
「まだ虚無の森にそこまでの力はないはずです。しかし昏倒した人々の精神を貪り、確実に力をつけてきてはいます」
表情が曇るラヴェンツァの言葉を繋ぐように理が片手を上げる。
「その証拠に夢子って女の子の身体が乗っ取られた」
「夢子って、……まさか」
暁は三年前のおぼろげな記憶を辿った。
そう言われてみれば走り込んできた彼女にはどこか面影が残っていた。
彼女も秀尽学園に通っていたのだ、東京近辺に住んでいてもおかしくはない。
暁が記憶の引き出しを漁っている最中、悠がマーガレットに視線を向けた。
「それで、その虚ろの森の正体は?」
「推論ではございますが、ほぼ確定でよろしいかと。その名は水蛭子」
「水蛭子?」
聞き慣れない言葉に三人の声が重なる。
その通り、とマーガレットは頷いて両手を前に出し、そして重ね合わせた。
「日本神話におけるイザナギとイザナミの最初の子であり、不具の子として海に流されたと言われる神」
「今で言う水子でございますわね」
エリザベスが注釈をつけると、さすがに伝わったのか三人は、ああ、とそれぞれに頷く。
水子といえば主に生まれる前に死んでしまった、流産した子を指す。
その水子の語源がイザナギとイザナミの子であり、水蛭子だった。
「生まれるべきである新しい命が芽吹く前に死に至る。それは人間の希望と絶望にも似て、相反する存在をも意味しています」
ラヴェンツァの少し物悲しい声が響く。
「この世で生きる意味はあるのか、自答自問しながらも、死にたいわけじゃない。そんな現代の心の揺らぎが水蛭子に虚無を望み、この世界を飲み込む森を作らせたわけでございます」
マーガレットの淡々とした声音が説明を重ねた。
「赤子と言っても神のはしくれではございますので、思っているよりもつよーい力を持っているんですね、残念ながら。テレビを媒介し放射能によって昏倒した……つまり勝手に無気力症になられた人間は、多かれ少なかれ生きることに漠然とした不安を持っていたのではないかと。まぁ証拠も根拠も大してありませんけれど」
ほほほ、とエリザベスの笑い声が森を突きぬける。
三人のワイルドは再び互いを見合った。
「その不安を希望として考え直させる、生きる力に変える、それが死神の持つ秘められた力」
「僕たちだけでは水蛭子が世界を取り込むための、世界の象徴であるタロットカードの暴走を止めることしか出来ない」
「それでは水蛭子は消えない。再び力を蓄えて今度こそ世界は虚ろの森に取り込まれてしまう」
確認しあうように告げる三人の理解力にベルベッドルームの住人たちは満足げに口端を上げる。
これが私たちの選んだ切り札であると自慢げにも感じられた。
「死神の象徴である彼女には水蛭子に終焉を与え、新たなる生を吹き込んでその願いの意味を反転して貰わなければなりません」
「水蛭子への願いを、反転?」
「そう、蛭子(ひるこ)は蛭子(えびす)とも読みます。恵比寿は福を与えてくれる神。本来の水蛭子のイメージとはまったくかけ離れていますが、日本各地でこの信仰は根付いております」
「未来は不安なものではない、生きることは自分に福を呼び込むこと。そう、大衆に考え直させる。そうすることで蛭子は恵比寿に転生し、盗まれた世界は取り戻されるというわけでございますね」
なるほど、と頷いた悠が、それで俺たちがすべきタロットカードの暴走を止めるには……と質問をした時。
突然森の奥から分厚いファッション雑誌が鋭く投げつけられて地面に突き刺さった。
即座に臨戦態勢を取りながら三人が森を注視する。
するとそこから見慣れた顔が現れた。
「イラッシャイマセー、サッソクデスガ、シニサラセー」
そう言いながら先ほどのファッション雑誌を振り回しているのは海老原あいの姿だ。
「イブンシ ハ ハイジョ」
長い爪をまるで獣のように鋭く振りかざしているのは新島冴だった。
「カットバシテヤンヨー!オレサマガシュヤク、シュヤクナンダカラナー!」
帽子をくるくると指先で回しながらオラオラと歩いてきたのは伊織順平で。
理も悠も暁も、知った顔に思わず表情を曇らせた。
「……なるほど」
「これは骨が折れるな」
タロットカードを貼りつかせ、コピーロボットのように彼らの力を取りこんだシャドウを出向かせる。
大変底意地が悪い演出だ。
だが的確な戦法でもあった。
仲間や知り合いと戦わなければならないという状況は少なからず隙を生む。
それにタロットカードを象徴するほどの力を持つ持ち主たちで、ペルソナ使いまでもいるのだから戦力として申し分なかった。
「一人では知り合いに対して情が湧くだろうからね、他の二人がサポートをしろってことかな」
溜息は出るが悠は一度仲間の影と戦った経験があるため、その辛さは十分に理解していた。
だがそんな悠に以外にも理が不機嫌そうに口を開く。
「仲間を乗っ取られているんだ、情が湧くどころか怒りしか湧かない」
「なんだ、クールかと思ったけど意外な面もあるんだな」
「別に……彼らにだけは面倒だって言葉を使いたくないだけ」
眼鏡を外し笑いかける暁に理はわざとらしい溜息を吐きだした。
互いに間合いを模索するようにだんだんとシャドウが近付いてくる。
その間にワイルドたちの背後に回ったベルベッドルームの住人が一斉に本を開きぱらぱらとページを捲り始めた。
「貴方がたはそれぞれに旅路を経て世界を救ったヒーローたち」
「その力を再び我らが解放致しましょう」
「あらゆるペルソナを使役し従える”W”に蒼き炎の祝福を」
召喚器、眼鏡、そして仮面。
もう二度と手にすることはないと思っていた武器が再び彼らの手に収まる。
久々に感じる体の底から漲るエネルギーは心地よい高揚感に満ちていた。
そしてシャドウが飛びかかってくると三人は自分たちにしか扱えない人格の化身を呼び込む。
「「「ペルソナっ!!」」」
蒼い光が森の一角で煌めいた。
* * * *
戦いは熾烈なものだった。
ペルソナ使いたちはペルソナのようなものを呼び出し、そうでないものも水蛭子の力で増幅したシャドウの力は強かった。
効率的に弱点となる属性を引き出して戦ったが、普段はアナライズを行ってくれる仲間も取り込まれたのは手痛い。
有利を取れるはずの戦闘でも先手を取られ、自分たちがどれほど仲間に助けられいたか、三人は痛感した。
そして何より仲間の苦痛の表情は胸を突いた。
それでもやらなければならない。
何よりもそれが仲間を救う術なのだからと。
今度は一人ではないワイルドの仲間がいることに勇気づけられた。
人は独りでも生きていける。
けれど独りでは知り得ないことが世には溢れている。
三人の結束が高まった時、手持ちの駒を使い果たした水蛭子が表に出てきた。
夢子の姿をしてはいるものの全体を硬い殻で囲まれた姿は未来を拒んでいるようにも見えて。
その殻をシャドウたちから奪い返したタロットカードが脆弱化していった。
そして露出したコアを破壊すると水蛭子は夢子の体内へと逃げ込んだ。
「お疲れ様です、ここからはワイルドの力だけではどうにもなりません」
「むしろ強すぎるワイルドの力では彼女自身をも壊しかねませんからね~!」
いつの間に戻ったのか、蒼い部屋の住人が告げてくる。
その姿に暁は小首を傾げた。
「それにしても、なぜ彼女が?」
戦闘を終えて、膝をつく夢子の姿で記憶がよみがえってきた。
暁は以前にもこうして彼女のシャドウを倒したことがある。
あの時とは理由がまったく異なっているが、こんなにも強い力を引き寄せるタイプではないように見えた。
しかしラヴェンツァは軽く首を左右に振ると本をぱらぱらとめくり小アルカナのタロットカードを一枚引き抜いて見せる。
「彼女はもともとアルカナの資質を持つもの。象徴に選ばれてもおかしくはない力の持ち主だった」
「その彼女がたまたまあの日、引き金となるワールドのカードを引いてしまったのですね」
掲示された世界のカード、過去にワイルドに関係したことのある、女性。
三つのWは理たち三人を暗示し、三つ重なったことで水蛭子が具現化する引き金となった。
逢魔が刻とでも表現すればいいのだろうか。
もともと芽吹いていた水蛭子への人々の他力本願な想いを、テレビという今では大多数に発信することが出来る媒介を使って、簡易的に叶えた。
人の願いを叶えれば神として力は増す。
不安ある未来から逃げ出すように無気力症となり昏倒した人間と、アルカナの象徴である人間をタロットカードを媒介して昏倒させることで水蛭子はさらに力をつけ、虚無の森を作り世界を飲み込ませようとした。
「つまるところ、運がなかったということでございます。妊娠しているわけでも過去に流産したわけでもございませんのであしからず~」
ほとんど動けなくなった夢子の体を拘束したエリザベスがあっけらかんと告げる。
しかし男性であるワイルド三人は微妙な空気になってしまった。
そこへマーガレットが妙を浮かせて運んでくる。
どうやら虚ろの森の巨木の中に閉じ込められていたらしい。
「ちょっと、どこ連れて行く気!?」
「武見先生、無事か!」
どこにも怪我がない様子と暴れる気概があることに僅かに暁がほっとした。
「暁くん!?どうしてここに……」
近付こうとする二人をベルベッドルームの彼らが制止する。
そしてマーガレットは恭しく妙にお辞儀をした。
「貴女のお力をお貸下さいな。秘めたる死神の力、存分に奮って頂きます」
「力、って言ったって……どうすれば……」
そういえば武見医院でも言われた覚えがあるが、自身に何か特別な力があるとは思っていない妙が困惑する。
するとマーガレットはその長い腕をまっすぐに夢子へと向けた。
そこには拘束に苦しむ夢子と、彼女を蒼い炎で捕えているエリザベスの姿がある。
「水蛭子の憑いているこの子を抱き締めてあげればいいだけのことでございます~!低コストでございますね」
「その子……彼女?」
妙の瞳に夢子の姿が映り込んだ。
足が腫れて痛々しい、まだ若い女の子の姿だ。
そこに水蛭子が入るこんでいるとは到底思えない。
だが夢子は嫌悪を露わにした表情で妙を睨みつけた。
「ヤ、メロ……」
喉から絞り出される声は地響きのように低く、最初に医院に飛び込んできた彼女の声とは似ても似つかない。
妙が戸惑っていると、その横にラヴェンツァとマーガレットがそっと寄り添った。
「母が子を慈しむように抱き締めることで虚無感という心の死は輪廻し、もう一度やり直すための生に変わる」
「虚ろに飲まれつつある世界も再び再生への道筋を辿る。この森は自然と希望の湧水になるでしょう」
「……輪廻、って……」
今までの人生で起こったことのない怪異に妙は少しだけ尻好みをした。
まだまだ医学や科学で解明出来ない謎は多い。
そんな世界の危機を、自分より若い三人の男の子たちは救ってきたのだろうと思うと、自分も何かしなければ、とも思う。
それでも一歩が踏み出せないでいると、夢子は髪を振り乱して声を荒げた。
「チガウ、ノゾムノハ、イノチノナイセカイっ」
拘束から逃げ出そうとする両手はぎゅっと握りしめられ食い込んだ爪から血が滲んでいる。
「”無”コソ、”至上の幸福”ダ!」
そう、それこそが大衆の望みであると。
その望みを叶えるのは神である自分の役目であると。
水蛭子はその想いだけで動いていた。
そんな彼女に妙の表情が辛く歪んだ。
「そうか……そうよね、貴方も被害者だもの。人の願望を押しつけられて、苦しかったでしょう」
一歩、一歩、と。
妙が歩みを進めていく。
その死神の力を感じ、夢子は恐怖に慄いた。
「ヤメロ、ヤメロォ……」
もがく体を両手を広げた妙が抱き締める。
ぴたり、と、夢子の体が動きを止めた。
人の体温に触れ、安心して力が抜けたようにも見える。
そんな彼女の後頭部を妙の掌がゆっくりと撫でた。
「おやすみなさい。次は元気な子に生まれて、私に会いに来て」
「……また、くりかえすの、こわい」
夢子が瞬きを忘れたように目を見開いて呟く。
「大丈夫よ、人間は痛みを忘れることが出来る。転んでもまた歩き出せる力を持っている。諦めさえしなければ……私もかつて、そう教わったわ」
「武見先生……」
思わず暁の頬が微かな赤みを帯びた。
三年前に築いた絆がまたここでも力を発揮するとは。
妙の腕の中で夢子がそっと目を伏せた。
「……あたたかい……」
微かな呟きと共に夢子の体がゆっくりと透けていく。
中で胎動していた水蛭子の気配も同時に消え去った。
その様子を見ていた悠は少し眩しそうに、しかし敬意を持って微笑する。
「敵わないな、女性には。俺たちではあんな風に慈しんで抱き締めるなんてきっと出来ない」
「そういうのは女の子の役目だから」
理も同意し、普段は動かない表情筋を微かに釣りあげた。
そんな二人の言葉に照れたのだろうか、妙が両腕を腰にあてて振り返ってくる。
「ちょっと、女の子なんていう年じゃないんだから、やめてよね」
まだ未婚だし子供もいないんだから、と妙は怒ったが、ワイルド三人にお疲れ様、と言われると、ふぅと息を吐きだし、お疲れ様と返した。
* * * *
そして世界は0地点、愚者のアルカナの旅立ちへと戻る。
あの日世界が盗まれた、その現場へと。
「それはともかく、彼って誰? 怪盗団と重ね合わせた彼って……」
「ん? ああ、あの頃演説の手伝いをしていたバイト君だ。とても一直線なコでねぇ。私は、彼の正義感に大層勇気をもらったんだよ」
「……して、その彼の名は?」
「プライベートな話だ。それは控えておこう」
「んもう、ケチ! いいいじゃん、別にぃ!」
にゅぅカマーでは松下と寅之助、そして一子が膝を突き合わせていた。
そこに奥の席から大きな物音が響く。
思わず三人の視線がそちらに向けられると、一枚のタロットカードを握った夢子が震えていた。
その指先からテーブルへと滑り落ちたカードは恋人たちの絵が描かれている。
「こ、これは……恋愛の正位置……ま、まさか、私にも春が!?」
そんな、池杉くんったら、と顔を赤くして再びカードをシャッフルし始めた。
占いの結果が正しいのか、もう一度やり直そうとしているらしい。
そんな夢子からグラスに視線を戻すと松下は頬杖をついた。
「若いってのはいいねぇ」
「そうだな。我々は若者たちが将来を悲観しないでいられる世の中にしていかねばらならん」
「おっ、寅節炸裂か?」
「そうからかうもんじゃない」
照れ隠しのようにグラスを煽った寅之助に、一子が目を輝かせる。
「あっ、その話もっと詳しく聞きたいな!……ララちゃーん!お酒、お酒追加ー!」
揺らされるグラスの中で僅かに融けた氷がカラカラと音をたてた。
(了)