深夜の待合室に現れた男は、今ではすっかり慣れた伊達眼鏡の鼻あてを押し上げた。
「武見先生は、……ああ、いた」
「あなた……学生のくせにこんな時間に大丈夫なの?」
片手を上げるその姿に妙は軽く眉間を寄せる。
三年前に治験者としてよく足を運んでいた彼は来栖暁、近くの喫茶店ルブランで居候をしていた訳アリの男だ。
彼が冤罪で少年院にいれられた時は妙も治験で社会貢献をする彼の潔白を証明するため奔走した。
手先が器用で度胸もある、出来れば医学生になって医院を手伝って貰いたいとすら思ったくらいだ。
だが彼はコーヒーが好きだから喫茶店を開きたいと言って経済学部に進学してしまった。
妙の中で頼れる存在の一人である暁が来たことで少なからず彼女の表情は安堵している。
それくらい忙しかっただろうことが分かるせいか、暁は短く了承は得てる、とだけ答えた。
「大変そうだな……具合が悪くなった人がこんなに」
「そう、てんてこまいだったけど……だんだんと意識を失っていく人が増えて、だいぶ静かになっちゃったわ」
はぁ、と溜息と共に肩が竦められる。
開かれたままの診察室の扉からは彼女のデスクが見え、そこに古い資料が詰まれていることを暁は確認した。
そして妙の耳に唇を近づけると小さな声で囁く。
「人が昏倒してしまう、この症状……あなたならその原因と解決方法を知ってるんじゃないか?」
ぴく、と妙の指先が動くと大げさに溜息が吐き出された。
彼がここに来たのはその件だろうと予測はしていたが、手伝いもなしに話を切り出すくらいだから時間的余裕がないのだろうと妙は思う。
「……また無茶ぶりしてくれるわね。解決方法なんてわからないわ。ただ、その原因と思われる要因に見当はつけてるけど」
解決方法を知っていたらとっくにここの人たちを助けている、とほんの少し睨み付けながら妙は言った。
だが原因を特定しつつあるという妙の有能さに思わず暁の眼鏡が煌めく。
「やっぱり。それならここに呼びたい人がいるんです。いまルブランにいるんで、いいですか?」
「……え?」
唐突な申し出に驚きつつも、妙はこくりと頷いた。
* * * *
話は前日の夜にさかのぼる。
暁の夢の中に見覚えのある青い部屋が現れた。
自分は囚人の服装をしていて檻の中に入れられていて、三年前に怪盗団として心を盗んでいた頃によく見たあの光景だ。
チャリ、とかけられた手錠が無機質な音を響かせる。
それすらも懐かしさを感じさせる中、暁は部屋の中央に佇む少女に視線を向けた。
「ラヴェンツァ……?どうしたんだ?」
「貴方に依頼をしに参りました。これは想定外の出来事。私たちが関与出来ない人々の心から生まれる虚無」
片手に大きな本を持って静かな口調で彼女は言う。
「依頼?……想定外の出来事?何か起きたってことか?」
暁の疑問にラヴェンツァは首を左右に振った。
「これから起こりうる可能性の一つです。打破するにはあなた以外のワイルドを探し出して下さい。共に協力し、断罪に囚われし魔を払って」
「ワイルド……?」
自分以外の、と言われて暁は鎖の音を響かせながら鉄格子に近付く。
「私のトリックスター、あなたと同じいくつものペルソナを従える力を持つ……その脈動はあなたの近くから感じられます」
しかし彼女は暁が近づけば近づいただけ遠ざかり、僅かに浮かんで仄かな光を纏った。
「待ってくれ、それだけでは分からない!」
「逢えば縁で繋がるよう標をつけました。相手も同じベルベットルームに繋がるお方……私の姉が導くでしょう」
まるで墨が水に滲んでいくように彼女の声がぼやけていく。
鉄格子を揺らしてもびくともしない牢屋の中では暁に止める術はない。
「警鐘が鳴り始めれば残された時間は両の指で数えられるほど。急いでください、でなければ世界は……」
ハッ、と目が覚めたらそこには普段通りの天井が見えた。
一度地元に戻った暁だったが、東京の大学に進学するため再びルブランに居候しながら時々手伝いをしている。
この日も佐倉家が出かけるため店を預かり夕方からのみ開店する予定だ。
そして日は落ち、数人の常連客が顔を見せた後、客足は途絶えた。
店がなければ同じワイルドという人を探しに行きたいのだが、何度も練習してやっと認めて貰い、信用して店を預けて貰っているため半端なことはしたくなかった。
だがそろそろ店も閉店の時間だ。
残り十五分ほどだろうか。
たいした片付けの準備もなく手持無沙汰になった暁はカウンターで一人、トランプをシャッフルして何枚か広げてみた。
「ワイルド……ワイルドカードといえば、カードゲームで特殊な役割を担う札。たいていは切り札に使われるものだ」
暁が独り言ちる間にカラン、と扉が開き、若い男が顔を見せる。
「カードゲームがどうかしたのか?」
「鳴上先輩……珍しいですね、こんな夜更けに」
その顔を見て暁は豆を選びカップを用意し始めた。
一年ほど前だろうか。
仕事帰りにルブランでコーヒーを飲むようになったこの鳴上悠という男は、暁が今通っている大学の卒業生だった。
そのため意気投合し、学生生活で悩みがあると悠に相談する仲でもある。
「いえ、ワイルドってどういう意味なのかと思って」
「ああ、それでカードゲームか。ワイルドっていえば、コンピューターの世界でいうところの全てのパターンにマッチする文字列らしいな」
「全てのパターンに……」
暁がコーヒーを用意している最中、今度は悠がカウンターに残されたトランプを手にした。
一枚、二枚。
捲ってお目当てのカードが出てくると束の中から引き抜く。
「ワイルドカードを言い換えれば、切り札。ポーカーで言うところの一番強い札、エースのことでもあり……ジョーカーでもある」
「っ、……?」
悠の持つダイヤのエースが微かに揺れると青い焔に包まれて燃え消えた。
その様子に暁は驚き、悠は目を細める。
「……ああ、やっぱり。君がマーガレットが言っていたもう一人のワイルドか」
「じゃあ、鳴上先輩が……?」
しばらく見詰めあった二人は扉にかけられた表示をCLOSEに変え、暁の淹れたコーヒーを囲むようにボックス席に移動した。
その間にも互いの身に起きた事件のことを掻い摘んで説明する。
三年前に世間を騒がせたあの怪盗団のリーダーが暁だということに、悠はへぇ、と告げ君なら納得できると微笑んだ。
「それで、俺は夢の中で協力して魔を払えって言われました」
「そうか、俺のほうはじきに事態は動き出す。盗まれた世界を取り戻せと」
「俺がもう一人のワイルドだって知っていたんですか?」
「いや?ただ、ヒントだってコーヒーを飲まされたからもしかして、と」
グフォ、と、暁がコーヒーに咽る音が響く。
悠が見れば暁はただでさえ大きな瞳を幾度も瞬かせていた。
「ヒント?……俺はヒントとかなかったし、先輩、あの部屋でコーヒー出されるんですか?」
「普通に出されるけど……」
「待遇が違いすぎる」
暁の拳がテーブルにダンっと押し付けられる。
「そうなのか?……じゃあ、その話はまた今度じっくりするとして、何か心当たりは?」
「ないですよ。ないからお手上げで……とりあえずニュースでも見ますか?」
ラヴェンツァはこれから起きるかもしれないことだと言っていた。
ならばまだ世界は盗まれていないのでは、と。
しかしつけたテレビは確実な異変を二人に伝えてきた。
『大変です!渋谷のスクランブル交差点、新宿、そして都心以外でも集団で意識を失う昏倒事件が多発しました!』
「……!」
「先輩、これ」
「ああ、俺が渋谷で乗換えた時にやけにざわついていると思ったが……」
二人の危機感が一気に高まったその瞬間、不意に屋根裏からバサッと音が響いてくる。
はっとして顔を見合わせると、悠は小さな声で暁に尋ねた。
「誰かいるのか?」
「いえ、今日は俺だけのはずです……ちょっと見てきます」
「俺も行こうか?」
平気ですよ、と答えて寝床にしている屋根裏へと上がる。
一緒に暮らしている猫のモルガナも今日は不在のはずだ。
窺うように室内を覗き込むと、本棚から一冊の雑誌が落ちていた。
なんだ、置き方がまずかったのかと思いながら床で広がった雑誌に手を伸ばす。
「……、これは」
暁の動きがぴたりと止まり、開いているページに視線が釘付けになった。
そこには画期的な治療法を確立した妙へのインタビューが掲載されている。
医学雑誌を読もうとしても素人には分からないだろうが、妙のインタビューは読みたいと本屋に予約してまで買ったものだ。
なぜこれが、これ一冊だけが本棚から落ちてきたのか。
そして妙のページがこれ見よがしに開かれているのか。
まるで意図して作られた構図に暁は苦笑しながら雑誌を掴み上げると、そのまま悠の待つ階下に降りていく。
自分にはヒントもコーヒーもなかったと待遇について文句を言ったことが効いたのだろうか。
「大丈夫だったか?」
「はい、雑誌が落ちただけだったので……ただ、これ。すぐ近くの武見医院ってとこの女医さんなんですけど」
「ああ、たまにここでコーヒー飲んでる人だね。目立つパンクスタイルだから覚えているよ」
「たぶんこの雑誌が落ちたのはあの部屋の住人による仕業で、武見医院に行ったら何か分かると示唆してるんじゃないかと」
暁の言葉に悠の眉が上がった。
「そうなのか?じゃあすぐに行こう」
「いや、外れの場合もあるので、先輩はここでテレビから情報収集して貰っていていいですか?」
「ああ、構わない。何かあったら俺からも連絡する」
エプロンを外した暁は悠に武見医院までの地図とルブランの鍵を渡す。
それから携帯で惣治郎に連絡を取った。
もう遅い時間だ。
居候している身であるし何事か起きて失踪したら心配するだろうと。
すると親代わりとなっている彼もテレビで事件を知っていたのか、理由は聞かずにただ「早く帰ってこいよ」とだけ言ってくれた。
さて、久しぶりのショータイムだな、と。
暁は夜も更けて人影のいなくなった商店街を歩き始めた。
そして話は冒頭に戻る。
武見の許しを得て、混雑する医院で話を聞かせて貰えることになったワイルド二人が肩を並べた。
忙しかった武見は同様の集団昏倒が多発していることを知らなかったので、まずはその説明から。
その間にも空では不気味に広がっていく雲が、ゆっくりと月の光を遮ってその輪郭を覆い隠していった。
(つづく)