連邦政府がその力を失い、バルカンの共和国が再びバラバラとなってしまった内戦は1年が過ぎようとしている。
夏が過ぎ、秋が過ぎ、冬が越える…春は命の息吹が吹くときであるはずだが、バルカンの地には死臭が漂いその大地には赤い血が染みついていた。
1年の間に、内戦はバルカンのほぼ全域に拡大し、各地で民兵や警察軍のような準軍事組織が結成され各民族、各勢力は血みどろの抗争を繰り広げる。
泥沼化していく内戦…セルビアとクロアチアの対立に挟まれるボスニアはまさに地獄そのものの惨状であった。
ボスニアに住むイスラムを信仰するボシュニャク人はセルビアにつくか、クロアチアにつくか、あるいは独立するかを迫られ…そのいずれを選んだとしても戦争回避は不可能であり、世界はいつしかボスニアを"流血地帯"と呼称するようになっていた…。
内戦が始まった時、住民たちは以下の行動を迫られた。
死ぬか戦うか、逃げるか捕らえられるかだ。
血に飢えた民兵の殺戮はかつてこのバルカンの地に吹き荒れた虐殺の嵐を彷彿とさせる…無抵抗の市民を、時に命乞いをする市民を銃撃し砲弾で吹き飛ばす。
集落一つを襲撃する時、全員を殺すわけではないがだいたいは無差別攻撃を仕掛けてから次の行動に移す。
襲撃を予測していない村に砲弾を撃ちこみ、銃撃を浴びせ…何人か殺した後で交渉を行う。
速やかに退去すれば身の安全は保障する、応じなければ殺されるか強制収容所へと送られる。
たいていの住民は、退去する道を選択する…。
強制収容所は今やボスニアのあちこちに建てられている。
古い刑務所を利用したものや、建物を改築したものがほとんどだ…クロアチア人、セルビア人、ボシュニャク人問わず用意されたこれらの強制収容所で捕虜は人権など無視したおぞましい行為が行われている。
虐殺、土地からの追放、文化の破壊……そして集団による組織的なレイプがある。
収容所に入れられた女性たちはレイプされ、避妊できない状況で何か月も拘束される……民族浄化のもとに、しばしばこのようなおぞましい行為は行われた。
ボスニア領内の強制収容施設には、その日も捕らえられたセルビア人の男女が送られてきた。
銃を手に収容所へと追い立てる民兵たちの中には、79式の姿もあった。
彼女は怯えるセルビア人たちに銃をちらつかせ、時に暴力を振るって収容所へと追い立てる…収容所で何が行われているか知る女性の捕虜は、同性である79式に救いを懇願するが、79式は冷たい目で見返すばかりで作業的に彼女たちを収容所へと叩き込む。
そこから女性は女性、男性は男性、兵士は兵士で隔離されて収容されるがそこまでは79式の仕事ではない。
仕事を終えて去ろうとする79式の傍を通り過ぎた民兵の男たちは、笑いながら女性が収容されている施設に歩いていく……79式は、同胞である彼らに明らかな嫌悪感を滲ませた目を向けていた…。
内戦が長引くにつれ、79式はほとんど笑わなくなっていた…同僚であった警察官にも距離を置き、誰にも気を許そうとしない。
それは、信頼していたはずのルカに対しても同様であった。
「79式…」
やって来たルカに対し、79式は一度彼を見上げたのみで何も言わずに目を逸らす。
「となり座ってもいいか?」
「勝手に座ればいいじゃないですか」
79式は冷たく言い放つ…その言葉ははっきりと拒絶の意思を示していた。
あの日、湖のほとりで行われたセルビア人の虐殺以来79式は変わってしまった。
無垢な少年の命をその手で奪った瞬間に、彼女はそれまでの正義も信念も何もかもを失くし、今は集団の中の一人としてクロアチア人勢力の戦闘行為に追従していた。
連邦警察を示すワッペンもとうの昔に投げ捨てた…他の多くの兵士のように率先して民族浄化に加担することは無かったが、命令をされれば憐れみも持たずに敵対者を痛めつける。
上官の命令とはいえ、一度は大切に想っていた79式を殴ってしまったルカは、そんな79式に対し以前のように声をかけることもできない…結局、79式に何も話せないでいるうちに彼女は立ち去っていってしまった。
振りかえらず立ち去る79式を呼び止めることもできない…話したいことはたくさんあるはずなのに、それをできない虚しさにさいなまれ、そんな虚しさを酒で紛らわそうとする自分を酷く嫌悪する。
安酒をストレートで飲んでいると、ふいにその瓶が誰かにひったくられる…同僚のマルコだ、彼は何も言わずルカの傍に腰掛ける。
「飲み過ぎだ、身体に悪い…」
「ほっとけよ…撃たれて死ぬよりマシだ」
ふて腐れた物言いの同僚に、マルコは小さく頷いたあと、ひったくった酒瓶をあおる。
長引く内戦で疲弊しているのは彼も同じだ。
他の民兵のように開き直って戦えればどんなに気が楽なことだろうか…不幸なことに、異常事態に見舞われるこのバルカンの地で、二人は正常なままでいてしまった。
いっそ狂ってしまった方が、どんなに楽だろうか。
そんなことを毎日考えてしまうのだ。
「ルカ、79式を見捨てるんじゃないぞ…あの子にはお前しかいないんだ。あの子も戸惑ってるんだよ…本当はお前に助けてもらいたいんだ」
「分かってる、分かってるつもりさ…」
「そうか、ならいいんだ」
「お前の方こそ、大丈夫なのか? 子ども、生まれたんだろ?」
「ああ、男の子さ…待ってろ」
そう言うと、マルコはバッグを探り一枚の写真を差し出した。
ブロンド髪の若い女性が、赤子を抱いて笑顔を浮かべている写真だ。
マルコはいつも自分の妻の写真をルカに見せびらかしては、家庭的で優しい美人の嫁さんだと自慢をしてきたため、彼の妻の顔をよく知っている。
「オレに似てハンサムだろう?」
そんなことをマルコは言うが、むしろ顔立ちは母親似である…目鼻がくっきりした顔立ちは大人になったらハンサムになることは否定しない。
戦争の汚さを知らない無垢な瞳をルカは見つめる…。
「なあルカ、この戦争はいつになったら終わるんだろうな?」
「オレに聞くな、政治家に聞け。あいつら次第さ」
「そうだな……ルカ、オレは息子にこんな思いさせたくない。だからよ、オレが戦えばオレの息子は大人になっても戦わなくて済むんだよな? そうだよな?」
「あぁ……そうさせなきゃならないんだよ」
ルカは写真を返し、煙草をくわえた。
子どもからすべてが始まる…あの日上官が言った言葉を思いだす。
憎しみは世代を越えて争いを引き起こす、歴史がそれを証明している…ルカは同僚の願いに希望を見出すことは出来なかった。
数日後、ルカたちはクロアチア人民兵の小隊と共にボスニアの山間部を移動していた。
連邦軍の攻勢で蹴散らされたセルビア人及びムスリム人勢力が山間部に逃げ込んだということから、民兵たちは部隊を編成して逃げた敵を捜索しているところだ。
捜索している地域はクロアチア勢力が優勢とはいえ今だ交戦状態であり、山の中に潜む敵がいつ反撃を仕掛けてくるかは分からない。
最近ではボスニアの首都サラエボが連邦軍によって包囲されたというニュースがあった。
独立の道を選んだボスニア政府もまた、連邦の敵と認識されそれまで同盟関係にあったクロアチア人とムスリム人の関係も破綻した。
山の中を歩く79式、そのすぐ前をルカは歩いている。
相変わらず二人に会話はない、79式は時折ルカが視線を送っているのに気付きながらも何も反応しない。
足元に躓いて転倒し、彼に手を差し伸べられてもその手を取ろうとはしなかった。
そんな二人のぎくしゃくした関係を見ていられなかったマルコは、先日話したばかりのルカではなく79式に声をかける。
「79式、あまりルカを責めるな」
「別に責めてませんよ…誰も頼ってないだけです」
「あの時のことを引きずっているなら、もう止めてくれ。あれは仕方がなかったんだ、ルカだってお前を殴りたくはなかったんだ。だけど、お前を助けるためだったんだよ」
「分かってますよ……そんなこと…」
「だったらなんでルカを許してやらないんだ?」
79式はその問いかけに答えることが出来なかった。
こんな風に距離をいつまでも置いているのはダメだと分かっている、分かっているが…やはり79式はあの時のショックが大きいようで素直に助けを求めることも、以前のように接することもできなかった。
79式は歩み寄る勇気を持てない自分を腹立たしく思っていた。
「帰ったらルカと一度話をしよう。お互い話したいことはたくさんあるはずだろう?」
「私は…」
「素直になるんだ79式、その方が自分も楽になる…もうどうしようもないんだ、出来ることをやるしかない。それなら自分が――――」
マルコの言葉は、山に響き渡った銃声と爆発音でかき消される。
小隊の先頭を歩いていた民兵が地雷を踏み、両足を吹き飛ばされていた…部隊はすぐさま戦闘態勢に移行し、79式も銃を構えるが、ふと背後を見た時そこにいたはずのマルコはいない。
「マルコさん…?」
視線を地面に落とすと、彼は喉の辺りをおさえて苦しみもがいていた……喉を押さえる指の間からはおびただしい鮮血が流れ、口元からは気泡を含んだ血を吐きだす。
「マルコ!」
すぐさま駆けつけたルカはそばにしゃがみ込み、彼の名を必死に叫びながら撃たれた喉に一緒に手を当てて止血を試みる…だが深々と抉られた傷口から血は大量に流れ、マルコの顔はどんどん青ざめていく。
何度もマルコの名を呼ぶルカの傍で、79式は何も出来ずただ茫然と立ちすくむ。
「マルコ! おい、しっかりしろよ! こんなとこでくたばってんじゃねよ、嫁さんと息子が帰りを待ってるんだぞ!?」
涙をその目に浮かべながらルカは呼びかける…しかしマルコは、その瞳から光を消すとそれっきり呻くことも身動きをすることもなくなった…。
マルコが死んだ……。
いつの間にか銃声が鳴り止んで、ルカの慟哭が山に木霊した。
「ルカ、くそ……マルコがやられた」
「待ち伏せを受けたんだ、奴らはオレたちがここを通るのを知ってやがった。確か村が近くにあったな、そいつらが密告したに違いない」
「よし、その村へ行くぞ。敵かどうかなんて知ったことか…皆殺しにしてやる」
民兵たちは口々に憎悪の言葉を吐き散らし、疑いを近くにあるという村の住人へと向け始める。
自分を見守ってくれていた一人の死は、79式の心にも深い闇を落とす…憎悪の言葉に感化されて、憎しみと怒りの感情が湧き上がる。
小隊が村への攻撃を決めた時、79式は異議を唱えることも考えることもしなかった。
復讐心に囚われた民兵たちはありったけの武器弾薬をかき集めると、村の出入り口を封鎖し高台に迫撃砲を設置すると、のどかな村の中心に砲弾を撃ちこんだ。
最初の砲撃で村の中心で遊んでいた子どもたちが犠牲となり、突然かけられた襲撃に村人たちはパニックに陥った。
村から逃げようとする住人を、民兵たちは銃撃し村に押し返す。
武器を持たない村人は悲鳴をあげて逃げ場のない村の中を闇雲に走り回る…。
抵抗してこないのをいいことに民兵たちは村へと突入して、逃げる住人を殴りつけ、蹴り飛ばし、撃ち殺す。
若い女は髪を鷲掴みにされて引きずられ、公衆の面前で犯された……虐殺の嵐が吹き荒れる、その中で79式は憎しみをその目に宿し無抵抗の村人に襲い掛かる。
「誰が撃ったんだ! 撃った奴を教えろッ!」
「知らない…! 私は知らない…!」
79式は怯える老人の襟を掴み井戸まで引っ張っていくと、銃をつきつけながら井戸の穴に追い詰める。
「これが最後だ、誰が撃ったんだ!」
しかし老人は目を見開いて怯えるばかりであった。
しびれをきらした79式は老人を井戸へと突き落とすと、井戸に向けて弾を撃ち尽くすまで引き金を引いた。
「79式!」
自身を呼ぶ声に振り返る…ルカは豹変した79式の凶行を止めようとするが、79式は強引に突き飛ばし、村の民家の扉を蹴破り土足のまま家の中へと入り込む。
家の中にいたのは若い夫婦だ。
夫の方は怯える妻をかばうように立ちはだかる。
「助けてくれ、お願いだ…」
助けを懇願する男を殴りつけると、79式は悲鳴をあげる女の髪を掴み引き倒す。
祈りの言葉を口にする女性を蹴って黙らせると、その頭部に銃口をつきつける。
「セルビアのクズめ! お前たちが私たちの動きを連中に知らせたんでしょう!? お前たちのせいでマルコさんが…!」
「やめろ、止めてくれ!」
「うるさい! 早く裏切り者を差し出せ!」
お互いに叫びあい、家の中には夫の懇願と妻の泣き叫ぶ声が響き渡る。
苛立つ79式が女の髪を引っ張り首にナイフをあてがうと、男は妻を救おうと走りだしたが、即座に79式は銃口を向けてその引き金を引いた。
無数の弾丸に撃ち抜かれた夫はその場で崩れ落ち、妻は夫の亡骸に駆け寄ると大声で泣きわめく。
「どうして…? どうしてこんな酷いことをするの!? 私たちが何をしたって言うの!?」
「うるさい! この裏切り者め、お前たちのせいで…!」
「私たちは静かに暮らしてたかっただけなのに…! アンタたちが、アンタたちがこの国を地獄に変えたのよ!」
「黙れ…」
「あなたたちみたいな奴らが戦争を起こした……みんな平穏に暮らしていたはずなのに、アンタたちのせいで! あなたたちこそ犯罪者よ!」
「黙れッ!」
79式は女性を何度も蹴りつける…血を流しても、骨を折っても暴力を振るうのを止めはしない。
痛みに呻く女性を冷たく見下ろした後、79式は家の中を探って回る。
裏切りの証拠、もしくは武器などを隠しもっていないか探すためだ……タンスや戸棚を乱雑に開けては散らかしていき、家のあちこちを荒す。
そして79式が小部屋へと近付いた時、女性は突然動揺したかとおもうと、声をあげながら79式を引き留めようとした。
それを彼女は突き飛ばすと、女性めがけ銃を乱射した。
「79式、おまえ…」
「裏切り者のクズです、死んで当然ですよ…」
後を追ってきたルカに憎悪を込めた言葉を吐き捨てると、79式は小部屋の扉に手をかけようとしたがその腕をルカに掴まれた。
腕を掴む彼を冷たい目で見上げながら、79式は抗議する。
「離してくださいよ」
「あとどれだけ殺すつもりだよ、それでお前は気が晴れるのかよ?」
「今更なんですか? みんなやってることじゃないですか」
「こんなことは止めろよ、お前は…」
「今更きれいごと言わないでくださいよ……私が初めて人を殺した時は止めてくれなかったくせに。あの時と今は何が違うって言うんですか? あの時止めなかったのに、今は止める理由って何なんですか………なんで黙ってるんですか? ねえ先輩、答えてくださいよ……答えてくださいよ!」
79式が怒鳴ると同時に、ルカは彼女に掴みかかり壁に押し付ける。
一瞬怯えたような表情を見せる79式だが、すぐに笑みを浮かべて嘲り笑う。
「殴るんですか、また? 仕方ありませんよね、先輩が私の教育係なんですからね……一度殴ったんですから、また殴るのなんて簡単ですよね? 殺しも同じです、あの時初めて殺しをしたときから引き金がとても軽く感じますからね」
「79式…」
「それとも私を犯して服従させますか? 収容所でやってるみたいに…どうせ先輩も収容所の女をレイプしてるんでしょう? 責めはしませんよ、だって他の人もやってるんですからね。あはは……別に、先輩だったらいいですよ、私? 」
79式のメンタルはとても不安定で、様々な感情に揺さぶられていた…いじわるそうに笑みを浮かべ、ルカの胸に指を這わせていく。
そこに以前のような真面目で誰にでも優しい79式の面影はない…長引く戦争が彼女を壊してしまった。
だが例えどんな姿になってしまおうと、彼女はルカにとって大切な存在であった……彼は何も言わず、そっと彼女を抱きしめる。
「はは……今更優しくしないでくださいよ先輩」
「ごめんな79式、何度も助けられたはずなのに……」
「謝らないでください…自分が惨めに思ってしまいます…」
自嘲するような笑みを浮かべる79式はそっと、ルカの背中を抱きしめ返す…その瞳から、涙の雫がゆっくりと零れ落ちる。
内戦など起きず、あのままだったらどんなに幸せであっただろうか。
街の平和を守るために頑張って、くだらない事で笑い合って、恋をすることだってできたはずだった。
しかしそんな日常は、もう二度と戻っては来ない。
犯した罪の重さが、それを許すことは無い。
「今だけは、あの頃に戻っていたいです…」
「いつだって戻れるはずさ」
「いいえ、今だけですよ…」
ルカの胸に顔をうずめながら、79式は小さく微笑む。
時間にしたら数十秒…だが二人にとっては長いこと抱きしめ合っていたような錯覚を覚えていた。
名残惜しく離れる二人であるが、ルカは最後まで79式の手を握ったまま離そうとしない…これを離してしまったら、もう二度と戻って来ないという思いがあったのだ。
79式も嫌がるそぶりを見せず、ただじっと、ルカを見つめていた。
そんな時だ、家の中に奇妙な声が聞こえてきた。
それは先ほど79式が開こうとしていた小部屋の方から聞こえてくる……ルカは彼女の手を握りながらその小部屋へ歩み寄ると、そっと扉を開く。
小さな小部屋の中にはバスケットに入れられた赤ん坊がおり、小さな声で泣いていた。
一度お互いの顔を見合わせた後、ルカはそっとその赤ん坊を抱きあげる。
「子どもに罪はない……子どもを導くのは大人だ、大人たちが変わらなければ未来は変えられない。オレは子どもに業を背負わせたくない、未来を奪いたくない……79式、オレは何で警察になる道を選んだかもう一度思い出したい」
「先輩…?」
「79式、一緒に逃げよう……」
なに…これ…?
あと2話……メンタルが持たない…