久しぶりに乗る電車の振動に揺られながら、私は外の景色をぼんやりと眺めていた。
目に入る街並みや建物はどれも見慣れぬものばかりで、自分が知らない土地に向かっていることを否が応にも認識させられる。
「次の駅で降りるわよ」
隣に座るエリカさんが目的地――熊本市内にあるエリカさんの実家まであとほんの僅かな所まで来ていることを教えてくれた。
想像していたよりも遥かに唐突な恋人の家族との対面。
それが目前にまで迫っていることを意識してしまい、張り詰めていた緊張がより高まっていくのが自分でもわかってしまう。
朝のやり取りの最中、「1人でいるのは寂しくない」なんて強がりを言ってしまったものの、本当は誰もいない寮で孤独に過ごすのが寂しくて寂しくて、お母さんのことを思い出して泣いてしまったことだってある。
だから、エリカさんが実家に来なさいと誘ってくれた時は本当に嬉しくて嬉しくて、どうかなってしまいそうだった。
でも、愛しい人と一緒にいられる喜びと同時に不安な気持ちも宿ってしまった。
エリカさんの話を聞く限り、きっとエリカさんのご家族は皆エリカさんのことを愛してくれる良い家族なんだろうと容易に想像できる。
そんな仲の良い家族の久しぶりの団らんを私なんかが邪魔していいのだろうか。
それ以前にエリカさんの恋人として受け入れてもらえるのだろうか。
ほんの少しだったはずの疑念は時間が経つ度に少しずつ膨れがっていって、私の心を圧迫していった。
冷房が効いた車内にも関わらず、頬を汗が滴り、手が震えてしまう。
「小梅、大丈夫?」
おそらく私の不自然な様子に気付いたのだろう。
心配そうな顔をしたエリカさんが私の顔を覗きこみながら声をかけてくる。
緊張のあまり、無言で首を縦に振るのが精一杯だった私を察してか、エリカさんは何も言わずに手を差し出して私の手を握ってくれた。
私よりほんの少し大きくて、体温の高い手のひら。
柔らかくもしっかりとしたその感触は、どこか安心できて徐々に不安感が薄れてくる。
「安心なさい。うちの家族はお人好しだし、良くも悪くも私に関してはだだ甘なのよ。だから連れてきた恋人を無下に扱ったりなんかしないわ」
「そうだと嬉しいんですけど……」
「むしろ、歓迎のあまり過剰に接してこないか心配なぐらいよ。マ……母さんと姉さんは何も言わないとスキンシップがどんどんエスカレートしていくから……。あなたも遠慮しないで嫌な時は嫌って言わないとダメよ」
慰めていたはずなのにいつの間にか溜息をついているエリカさんがどこか可笑しくてつい笑みが零れる。
過剰なスキンシップに困ってはいるのだろうけど、不快感や嫌悪感といった負の感情が見られないあたり、エリカさんもお母さんやお姉さんのことを愛しているのが良くわかる。
「ほら、心配なんて後にしてさっさと降りましょう」
話に夢中になっている間に、いつの間にか電車はスピードを緩め、ちょうど駅に停車するところだった。
エリカさんに手を引かれるままに立ち上がって、開いた扉からホームに出る。
電車を降りた瞬間、短時間とはいえ、電車の冷房に順応してしまった体に容赦なく強い日差しと立ち込める熱気が襲い掛かって来る。
「暑いですね」
「そうね」
元々熊本は夏の暑さが厳しい所ではあるものの、その中でも今日は特に暑く感じられる。
夏休み中とはいえ平日の昼間、それも閑静な住宅街ということは勿論考慮しなくてはいけないだろうけど、この強烈な暑さのせいか人通りはほぼ0に等しい。
「家はここから近いんですか?」
「歩くと20分ってところね。でも今日は姉さんが迎えに来てくれるみたいだから暑い中歩かなくても大丈夫よ」
「なら安心ですね。私は平気ですけど、エリカさんは暑いのダメですし」
エリカさんは戦車内の熱気による暑さは全然苦にならないらしいけど、
色白なこともあってか照りつける日差しに起因する暑さは苦手にしている。
今も日差しを避けるためかタオルを頭にかけているぐらいだから、この暑さは相当堪えるのだろう。
「……これぐらいなら平気よ。どうしてもダメな時はちゃんと言うから安心して」
降り注ぐ強烈な日差しに顔をしかめるエリカさんが少々心配になるものの、昔ならともかく今のエリカさんは辛い時や大変な時にちゃんと助けを求めてくれることは私が一番わかっている。
「とりあえず、あっちの日陰でお姉さんを待ちましょうか」
暑さで顔の火照ったエリカさんの手を引いて、交差点の脇の日陰に設置されたベンチに移る。
地面からの熱気こそ変わりないものの、直射日光が遮られるだけでかなり暑さが軽減されたように感じられる。
「はい、エリカさんもどうぞ」
「ん……ありがと」
買っておいたスポーツドリンクを取り出し、片方をエリカさんに手渡す。
そのままボトルの封を開けて中身をそのまま流し込むと、暑さですっかり温くなってしまったドリンクが火照った体に浸透していく。
「生き返るわ」
日陰に入ったことと水分補給で体感気温もだいぶ改善されたのだろう。
エリカさんの表情や顔色は先程までと比べてだいぶ落ち着いている。
残ったドリンクも飲み干し、一息ついたエリカさんは手持無沙汰なのか腕をもそもそと動かしたかと思えば、空いた手をそっと私の手に重ねてきた。
「小梅の手、冷たくて気持ちいいわね」
私より少し暖かいエリカさんの白い腕。
灼熱の暑さの中にあっても、その繋がりから得られる心の温かさに比べれば多少の温度差ぐらい気にもしないレベルだ。
嬉しくなってその手を優しく握り返すと向こうも同じように優しく触れてくれる。
「あんまり良いことばかりじゃないですよ。冬の朝なんて本当に動かすのも辛くて困りますから」
「なら、冬は私が温めてあがげるわ。その代わり夏はあなたの担当ね」
「仕方ありませんね。その役割分担引き受けましょう」
他愛無い会話に2人して笑い合う。
傍目から見れば本当に、何でもない雑談なのかもしれない。
それでも、私にとってみればずっと憧れてきた大切な人との営みであることに変わりはなく、何事にも代えられない素晴らしい時間であることは言うまでも無い。
「姉さん遅いわね。今日は早く出られるって言ってたのに……まだ病院にいるのかしら」
会話の最中、ふと近くの時計を目にしたエリカさんはお姉さんがまだ来ないことをぼやいている。
エリカさんの視線の方向にある時計に目を向けると既に駅についてから15分ほど経過しているのがわかる。
遅れているのに連絡が無いことも心配ではあるけど、エリカさんの発した『病院』という言葉に少し引っかかりを覚えた。
お姉さんはどこか体の具合が悪いのだろうか。
そんな状態で無理して迎えに来てもらって大丈夫なのか、漠然とした不安に襲われる。
「エリカさんのお姉さんって確か大学生でしたよね? どこか悪いんですか?」
「そういえば言ってなかったわね。姉さん医学部の学生で、今は病院で実習中なのよ。体は健康そのものだから気にする必要ないわ」
どうやら私の取り越し苦労だったみたいだ。
お母さんが病気で苦しんでいた経験もあって『病院にいる=怪我や病気』といった悪いイメージで考えてしまったけれど、言われてみれば大学生といっても医学部や看護学部といった医療系の学部はあるわけだから、
少々早計だったかもしれない。
「そうだったんですか。医学部なんてお姉さん凄いですね」
医学部はとても難しいところという印象があるので、そこに入学できたというだけでもお姉さんはきっととても勉強が出来る人なのだろう。
それに、エリカさんも戦車道は勿論のこと、勉強の方も学年トップクラスに入るほどレベルが高いので、姉妹揃って優秀なんだなあと感心してしまう。
「……まあ成績は優秀かもしれないけど、いつも私にベタベタしてくるし、いい歳して妹離れしてくれない困った人なのよ」
「いいじゃないですか。きっとエリカさんのこと大好きなんですよ」
「そうそう。大好きな妹に触れ合いたいと思うのは当然のことだから仕方ないの」
突然聞こえてきた声に驚いて顔を正面に向ける。
一瞬女性の姿が目に入ったと思いきや、その人影は予想外の速さで私の前を通り、エリカさん目掛けて飛びついた。
「エ~リちゃん、久しぶり! 元気だった?」
暑さで集中力を欠いていたエリカさんは突然の奇襲に対応できず、聞いたことも無いような変な声を上げる。
唖然とする私の目の前で、襲撃者は愛おしそうにエリカさんの体を抱きしめた。
「遅くなっちゃってごめんね。後でエリちゃんの好きなケーキ買ってあげるから許して」
親しげに話かけるその女性は銀色の髪に青い瞳、色白の肌、そしてエリカさんが少し大人びたような容姿で、一目見てエリカさんのお姉さんだと判断出来た。
「ちょ、ちょっと姉さん……止めてよ。恥ずかしい」
「ダ~メ。久しぶりなんだし、もうちょっとエリちゃん分補充させてくれないと嫌」
よほどエリカさんに会えたのが嬉しかったのだろう。
お姉さんはエリカさんを抱き締めながら頬ずりして、嬉しそうに微笑んでいる。
想像していた以上に愛されているエリカさんの少し困ったような仕草がとても新鮮で微笑ましい。
「わかった、わかったからもういい加減離して! ただでさえ暑いのにこれ以上くっつかないでよ」
「しょうがないなあ。じゃあ、いつものしてくれたら終わるね」
お姉さんはエリカさんを離すとそのまま慣れた動きでエリカさんの頬にキスをする。
エリカさんは顔を赤くして恥ずかしそうにしながらキスを受け止めるとそのままお姉さんの頬にそっとキスをし返していた。
人目を惹く綺麗な2人のやり取りについ見とれてしまい、思わず胸の鼓動が高まる。
「それでそれで、この子がエリちゃんの彼女なの?」
エリカさんから離れたお姉さんは嬉しそうな表情を浮かべながら、私の方に視線を向ける。
「は、はじめまして。赤星小梅といいます。エリカさんと……その……お付き合いさせていただいてます」
先程までの胸の高まりも治まらぬまま、恋人の家族と対面することになってしまい緊張が止まらない。
道中にしっかりと考えていたはずの挨拶も、残念なことにひどくありきたりなものになってしまった。
「……ちょっと待って。私恋人を連れてくるなんて一言も言ってないんだけど。どうして知ってるのよ?」
エリカさんの疑問は私も同感だった。
黒森峰を出る前にエリカさんがご家族に電話を入れた時には『家に連れて行きたい子がいる』としか伝えていない。
それなのにどうしてお姉さんは私がエリカさんの恋人だと判断したのだろうか。
怪訝な表情の私たちを前に、お姉さんは苦笑しながら手を指差す。
「だって、いくら日陰とはいえ、こんな暑い時に絡ませるように互いの手を握るなんて恋人同士でもないとしないでしょ?」
「あ……」
至極当然な指摘に2人して顔を見合わせる。
お姉さんがエリカさんに飛びつくまで会話を弾ませながらずっと手を繋いでいたのは間違えようも無い事実で、そこを見られていたのなら確かに言い訳のしようがない。
恥ずかしさのあまり俯こうとした瞬間、突然お姉さんが私の正面まで近寄ったかと思えば、そのまま両手で私の体を思い切り抱きしめてきた。
「あ、あの……お姉さん?」
突然のことに、なされるがままに背中まで腕が回され、すぐ横にお姉さんの顔が近づく。
「いやあ、奥手だと思ってたエリちゃんがこんなかわいい子を付連れてくるなんて。人生何があるかわからないね」
嬉しそうに語るお姉さんは私の体を抱きしめたまま、正面から向き合うとする。
その瞳はエリカさんと透き通るような青色で、私の顔を興味深そうにじっと見つめている。
間近で見る綺麗な顔、微かに漂う心地良い香りに心が揺さぶられそうになる。
「妹のことを大切にしてくれてありがとう。これからもよろしくね」
満面の笑みで微笑んだお姉さんはごく当たり前のように顔を私の頬の方へ向ける。
先程までの姉妹のやり取りを見て、お姉さんが頬にキスをしようとしているとすぐに想像はついた。
相手がエリカさんのお姉さんとはいえ、恋人以外の人からのキス。
受け入れてしまってもいいのか少し思い悩んだものの、せっかく私たちの関係を祝福してくれているお姉さんの想いを断るのも失礼に当たるのではないかと考え直すものの、やはり恥ずかしい気持ちは消えそうになかった。
思わず目を閉じてドキドキしながら、キスが終わるのを待っていたものの、何故かいつまで経っても頬への感触はやって来ない。
どうしてだろうかと不思議に思って視線を横に向けたところ、エリカさんがお姉さんの顔を両手で掴んで強引に動きを止めていた。
「ねえエリちゃん、掴まれてるとこ凄く痛いんだけど……どうして止めようとするの?」
「当たり前じゃない! 人の恋人に何しようとしているのよ!?」
エリカさんはお姉さんが私の頬にキスをしようとしたのがご立腹だったらしい。
お姉さんを無理やり私から引き離すと、そのままボディーガードのように私の間に割って入った。
「え~、だって小梅ちゃんはエリちゃんと付き合ってるわけだし、実質私の妹みたいなものだよね?」
「……まあそこは間違ってはいないけど」
「なら、家族も同然なんだからキスしたって別にいいでしょ? 私とエリちゃんだっていつもしてるんだし」
「それとこれとは別よ! 小梅とキスするのは絶対許さないから!」
必死になって私へのキスを阻もうとするエリカさん。
その姿は私のことを強く想ってくれていることが示すには充分過ぎるくらいで、恋人としてとても嬉しかった半面、自分たちの熱愛っぷりをアピールしているも同然とあってかなりの恥ずかしさを覚えてしまうのも
また事実だった。
「とにかく小梅は私のなの! 小梅にキスをされるのもするのも、していいのは……わ……私だけなんだから!」
エリカさんもさすがに自分が言っている内容の恥ずかしさに気付いたのか、休息で元に戻ったはずの顔色は再びで赤みを帯びる。
後には引けなくなって途中言い淀みながらも、そのまま強引に最後まで言い切るところは実にエリカさんらしい。
「へえ、もうキスまでしちゃってるんだ。いつもどんな風にしてるの?」
「そ、そんなこと姉さんには関係ないじゃない……」
興味深そうにグイグイ尋ねてくるお姉さんに、エリカさんは口を割ろうとしない。
「教えてくれないならいいもん。ねえねえ小梅ちゃん、エリちゃんどんなキスしてくるの? お姉ちゃんに教えて」
お姉さんの目標は黙秘を貫くエリカさんから私へと移動する。
思わぬ事態にどうしたものかと頭を働かせていると、エリカさんがじと目をこちらに向けていて、「言わないで」と視線で訴えかけているのがわかる。
「2人きりになったら間違いなくします。今朝はエリカさんに押し倒されていっぱいキスされちゃいました」
「こ、小梅!?」
「そうなんだ。エリちゃんは絶対受け身だと思ってたのに意外と積極的なんだね」
まさか私が話すとは思っていなかったのだろう。
驚愕の声を上げるエリカさんの頬に触れ、そのままいつものように唇を奪う。
羞恥心からエリカさんの顔はさらに赤く染まり、体を暴れさせるものの、両手でしっかり体を掴んで身動きを取らせなかった。
「いいじゃないですか、愛し合ってるって証明みたいなものですよ」
お姉さんがいることも気にせず、ついいつものようにキスをしてしまったことに恥ずかしさも勿論あったけど、エリカさんのあたふたする仕草がとてもいじらしくて新鮮で、ついつい意地悪をしたくなってしまった。
あんな姿を見せられて、我慢が出来るはずが無い。
「ふふふ、2人はラブラブなのね。でも、お姉ちゃんとしてちょっと妬けちゃうかも」
突然目の前で行われたキスにも関わらず、お姉さんは微笑みを絶やすことなく、私とエリカさんの仲の良さをとても喜んでいるように感じられた。
「……後で覚えてなさいよ」
羞恥心からか、赤く染まった顔を手で覆い隠すエリカさんが小さな声で呟く。
そんなエリカさんの姿を見て、さすがにやり過ぎてしまったと反省する。
「ごめんなさい。お詫びに今度いっぱい意地悪していいですよ。……どんなエッチなことでも」
お姉さんに聞こえないようこっそりお詫びの言葉を耳元で囁くものの、
その一言がどうもエリカさんには刺激的過ぎたのか、顔どころか耳元まで真っ赤になっていく。
「じゃあ2人とも、そろそろ家に向かいましょうか。ママが美味しいお菓子を用意して待ってるわ」
出発を宣言したお姉さんは「むこうに車停めてあるから付いて来て」と日差しの中を歩み始める。
私はまだ恥ずかしがっているエリカさんの手を取り、お姉さんに続いて再び日差しの中に足を踏み入れた。
エリカさんの手を引きながら、私はエリカさんが実家に誘ってくれたことを心の底から感謝していた。
もし誘ってくれなかったとしたら、エリカさんのこれだけ強い想いを耳にすることも、普段見られないような可愛い姿も見られなかったし、何より、まだお姉さんだけとはいえ、大切な家族の恋人として受け入れてもらった幸せをこうして実感することも出来なかったわけだから。
本当に、今の私は一番の幸せ者だ。
願わくばこんな幸福な時間がずっと続きますように。