冬の陽炎   作:Boukun0214

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ひとつ

まさか、こんなに早いなんて、思ってもいなかった。

ぼんやりと、自分にもいつかは訪れる出来事だと認識はしていたが、理解はしていなかった。

 

今、両親は棺の中で焼かれている。

あと少しで、灰と骨だけになった両親を壺に入れる。

いまいちまだ、実感が沸かないのも事実だ。ああこんなことなら、という考えが浮かばないこともないが、それはもう考え尽くした。

人が死ぬ、というのは大変だ。何人も何人も、知らない顔の相手をしないといけないし、各書類を役所なり保険会社なりに提出して。そして葬儀の準備や遺産の管理。・・・もっとも、両親の親類は正真正銘俺しかいないので、その分楽なこともあった。

後で知った話、両親は孤児だったそうだ。特に里親もないまま成長し、大人になって、似た境遇の二人が結婚した。昔、彼らが世話になった孤児院の人が来ていたので、知ることができた話だ。

要するに、俺はこれで、天涯孤独(ひとり)になったわけだ。

「・・・(しゅう)ちゃん。」

ああその声は久しぶりだ。

「久しぶり。(りん)。」

「うん。久しぶり。」

大学に進学して以来、あまり顔を会わせることはなかった。だから、大体二年ぶりになる。平たく言えば、俺の幼馴染みだ。

「・・・どう?大学。」

「それなり。楽しいよ。」

「そっか。私も行けばよかったな。」

待合室の縁側で、二人で座る。

空から雪がしんしんと降ってきた。もし今、障子の向こうから聞こえる思出話が無ければ、雪の降る音が聞こえてきそうなくらいで、手持ち無沙汰に、降る雪を数えた。

「そういえば、今度、結婚するんだったよね。」

「・・・・うん。」

「相手の人、いい人そうだった?」

「うん。いい人だったよ。」

「そっか。良かった。」

これ以上、訊くのはよそう。これ以上は、俺が辛い。

彼女の家は地元では少し名の通った会社で、そこの一人娘である彼女は、親の決めた結婚相手と結婚することがほとんど決定していた。なんでも、()()()()()()だそうだ。文句のひとつでも言ってみたいが、俺は彼女の親に会ったことはないし、この先ももう、恐らく会う機会はないだろう。

・・・きっと、俺とは馬が合いそうにない。今まで通り、昔からの顔馴染みとして、それで良いじゃないか。

「綉ちゃんは、いい人、いるの?」

「俺は・・・別に。」

「そうなんだ。綉ちゃんなら大学で彼女作ってそうなのに。」

「そんなことないよ。」

「・・・うん。」

「・・・・。」

「・・・・。」

会話が途切れてしまった。

あと、数センチ手を動かせば触れられるような距離。

ただそれを踏み込むだけの勇気も資格も、俺にはなかった。

 

どれくらいの時間か、降り積もる雪を眺めていた。二人とも口は開かず、動きもせず、そこに居るだけ。

どのくらい経った後か、火葬が終わったという知らせが入り、その後、まだ熱の残った白い骨を壺に詰めた。少し入りきらなかったようで、上から押し込まれたそれは、小さくパキポキと音を鳴らしたのを覚えている。それでもまだ入れていない灰は、従業員が回収していった。二人はまだ若かったから、結構、残っていたらしい。

二人分の箱を抱えて、これが結構重くて、それでも、無理を言って一人で持った。これを墓地に埋葬したとき、ほっとした自分がいて、柄にもなくそこで泣いた。

その後は、実家に行った。今日はここで泊まるつもりだったから、着替え等を持ってきてはいたけど、とても着替える気にはなれなくて、携帯をいじっていて、その電話帳の両親の番号はどうしても消せなくて、無性に寂しくなった。

進学以来、どうして一度も帰ってこなかったのだろう。そんな後悔を、何度目かわからないほどだけど、してしまった。後悔だけは飽きることのない人生。この先、いくつ後悔を重ねるのかと思うと気が遠くなる。

ああやめだ。この一時間だけで何度今日の回想をしたら気が済む。何もしないでいると悪い方向悪い方向に気分が向く。だったらいっそ、寝てしまうか。意識の放棄は、疲れきった心身には容易なことで、すぐに眠りの底についた。

 

 

夢は特に見なかった。

 

 

ただ、変わらないような次の日の朝が来た。

 

今日と明日で、俺は地元を去って独り暮らしをしているアパートに帰る。だから、ほんの気紛れに、俺は家を出て、散歩をすることにした。

「・・・おはよう。」

「ああ。おはよう。」

車から降りる鈴を見掛けた。その横には、見慣れない男性が立っている。

「鈴、そこの方は?」

「私の、昔からのお友達なの。」

彼に軽く、俺のことを紹介する。すぐにわかった。例の婚約者だろう。優しそうで、身なりがしっかりしていて、本当にいい人そうだ。きっと、彼と一緒にいれば鈴は幸せになれる。そう思える。

「よろしくお願いします。」

「あ・・・、よろしく。」

相手につられて、俺も頭を下げる。礼儀正しい。何か欠点でも、と思ったが、惨めになるだけだ。やめよう。

「これから、何処かに行かれるんですか?」

「いや、久しぶりの地元なので、散歩を。少し。」

できることならここら走り去りたい。逃げるように、なにも見なかったことにして。

「あの、久しぶりだし、少し彼と一緒に話してきてもいいかしら?」

ふいに鈴が、そんなことを言い、俺の横に立った。

「構わないよ。地元の友達に会うことも、そうないだろうしね。」

「ありがとう。」

彼の反応は意外だった。てっきり、少しでも嫌な顔をするものかと思っていたけど、そんな素振りは全くなかった。いや、見せなかったのかもしれないが。

そんなこんなで、二人で地元を散歩することになった。何を話したら良いか、しばらく無言で歩いた。住宅街を少し外れて、商店街に差し掛かって。歩道橋を歩いているときに、俺は口を開いた。

 

「この街、出ていくの?」

「・・・うん。相手が都内の方に住んでるから。」

彼女は少し驚いた顔をして、でもすぐに笑顔になって答えた。

「なあ。」

歩道橋の中腹で、俺は立ち止まって、後ろ姿に言った。

「・・・・。」

「・・・幸せか?」

特に、深く考えなかった。いや、深く考えてないが、口をついて出てきた。

君は、何も言わない。

歩道橋の下を通る車の音が、変に響いて、不安を掻き立てる。

「・・・・。」

君が近寄って、俺の腕を少し下に引いた。

ふんわりと、香りが包む。焦点が合わないほど、顔の距離が近い。というか、唇が触れた。

「私ね、"今"とても幸せだよ。」

ほんの一瞬だった。それでも時間が止まったような感覚さえ起こした。

それがいけなかったのだ。

 

「鈴・・・!」

 

慌てて手を伸ばしたがもう遅い。

歩道橋の手摺に仰向けに体重をかけて、身を乗り出す。

ふわりと、その身体が宙を落ちる。

その顔はとても穏やかで、俺のことを  そうな瞳で見つめていた。

「・・・・ッ!」

その身体は、車に撥ね飛ばされて、玩具の人形みたいに転がる。ブレーキの音が幾重にも重なって、他人の叫び声やら、怒鳴り声やらが聞こえる。

少しして、救急車のサイレンの音が聞こえた。

「この女性の関係者の方はいらっしゃいますか!」

声を出そうとした。走り寄って、病院までついていこうと思った。

「・・・・・・。」

 

でも結局、声をあげることはなかった。

いや、できなかったのだ。

 

 

 

 

 

 

彼女は一命を取り止めたようだ。

その事がわかったのは、一日経ったあと。彼女が意識を取り戻したのはそこから四日経った日のことだった。

頭蓋骨に皹、左腕、左肩、右脚の骨折とところどころに打撲や擦り傷、そして一部に切り傷。傷跡は残るが命に別状はなく、日常生活に影響するような後遺症もほとんど心配がいらない。奇跡に近い損傷具合だそうだ。

そして俺はその日の午後、病院からの電話によって呼び出された。

 

「・・・・鈴!」

面会の手続きの後、看護師の注意を降りきって、走って病室に駆け込む。俺以外に来ている人間は居ないようだった。頭や腕に包帯を巻き、窓の外を眺めていた彼女が振り向く。

 

「しゅう、ちゃん・・・?」

 

その瞳は大きく開き、ぼろぼろと涙が零れ出した。

ガーゼの貼られた頬の涙を拭こうと、近寄って、手を伸ばした。そうしたら、あまり傷の無い彼女の右腕が、俺の体を引き寄せた。

なぜ呼び出されたのが、彼女の親でもなく、婚約者でもなく、俺なのか。理解するのは簡単だった。

おそらく、俺の前に、既に彼女と本来親しい間柄の人間は呼ばれたのだろう。

 

「やっと・・・()()()()()に会えた・・・。」

 

 

幼馴染みの、白雨(シラサメ)(リン)は、俺、(タチバナ)(シュウ)を除いた人生の縁を総て、忘れてしまったのだ。

 

「みんな、知らない人ばっかりで、不安で・・・寂しくて・・・」

 

俺は床に膝をついて、彼女の頭を抱えた。

じんわりと、水が染みていく感覚が胸に伝わる。

震えるその背中を、そっと撫でた。

「綉ちゃんだけなの。私には・・・。」

 

 

喜ぶなよ。

笑うなよ。

今彼女は大変なんだ。

でもどうしても、その言葉が嬉しいだなんて思ってしまう。思わないのは無理だ。

 

「ねえ、少し、こうしてて、いい?」

「・・・ああ。いいよ。」

 

言うべきだろうか。

いや。何も言うべきではない。少なくとも、今は。

たとえこの状況が誤りであったとしても、今の彼女の世界にあるべきなのは俺以外に存在しない。そう思っていたい。これは惨めな男の懇願だ。まさか聞き届けられていたとは思っていなかった。

「あったかいね。」

「・・・うん。」

似たようなことが、昔あった。

あれは確か、中学生のときか。何だったか。何かが原因で鈴が泣いていて、俺はつい、こうやって抱き寄せてしまっていた。前後は全く覚えていないのに、何故かそういうことは覚えていた。

「明日も、来てくれる?」

縋るような目だ。

こんなものをはね除けられるほど俺は強くない。

「ああ。来るよ。退院するまでは、通うから。」

俺が知るままの彼女だ。

辛いほどに、想い出のままの、笑顔だったのだ。

「じゃあ、約束だよ。」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

あれから一週間。

大学の講義が終わってから病院に通う日々が続いた。

彼女は、鈴は俺が大学生であるという知識は普通に持っていて、別に記憶が巻き戻っているわけではなかった。医師から聞いた話。彼女が失っているのはエピソード記憶と呼ばれる、個人の経験に関する記憶らしい。別に記憶喪失としてエピソード記憶が欠落するのは珍しいわけではないが、今までの人生まるごと分の縁を忘れ、特定個人に関することのみ覚えているのは例がないとのことだ。他にも色々と説明をされたがよく覚えていない。要約をすると、唯一覚えられているままの俺が思出話をすることで彼女の記憶を刺激して欲しい、ということだった。何かの原因でふっと思い出すことも十分あり得るそうだ。

「おはよう。・・・元気?」

「うん。大丈夫だよ。今日も大学?」

「まあね。結構忙しいんだ。これが。」

「いいなぁ。私も通ってみたかったな。キャンパスライフって、少し憧れてたんだ。」

「何か勉強したいことでもあるの?勉強苦手なお前が?」

「憧れるってだけ。サークルとかさ。」

最初の数日に比べて、随分と明るくなった。いや、それが俺の記憶の彼女の本来のものだと思う。本当に最初の日はずっと泣いていたし、二日目も俺を見るなりぼろぼろの身体をベッドから乗り出して危ないところだった。

話すことと言えば知らない人ばかりで怖いだとか、自分は初対面のはずの知り合いにどう対応すれば良いのかわからないとか、そういったことだった。そういえば鈴は、昔から泣き虫だったことを思い出す。三日目あたりから少し落ち着いて、何か食べたいものはあるかとか、そういった他愛のない話をするだけの余裕は出来ていた。ちなみに返答は曖昧なものだったので、仕方がないから次の日は何か食べやすいものをと思いみかんを買っていった。片手では食べにくそうだったから、皮を剥いて渡した。白いすじを取って食べる癖は変わっていなかった。そこに少しだけ安らいだのを覚えている。何故だかはわからなかった。

「鈴は、部活とか、頑張ってたもんな。」

「・・・うん。」

「覚えてる?そういうことは。」

「ごめん。あんまり。なんとなくしか。」

彼女が忘れているのは主に、人に関することだった。誰とどんなことをしてどういう関係だったのか。そういうことが思い出せないらしい。顔と、名前が薄ぼんやりしている、だとか。・・・あと、確認はしていないけど事故の前後の記憶もなさそうだった。それは彼女のことを思えばよかったのかもしれない。あの痛々しい表情のときに彼女が何を思ったかなど、誰一人覚えていなくてもいい。それは俺もそうだし、彼女本人も例外ではない。

「じゃあ、これから何をしようか。それを考えよう。」

これはつまり、時間の先延ばしであるし逃げとも言える。

「怪我がよくなって、車椅子とかになるだろうけど、外出許可が出たら何がしたい?」

本当のことを言えば過去の話なんてしたくなかった。今のこの状況であれば俺は唯一でいられる。ならば未来の話をしよう。一見ポジティブに見えるその言葉は後ろめたさを強調した。

「何がしたい・・・なんだろう。」

まあ、急に言われても思いつかないか。それが普通だろうし。それはそれでいいのかもしれない。

「思い付いたらでいいよ。あと、何か食べたいものとかある?」

「いや、大丈夫。あんまり甘えるのも、悪いし。」

ああ、なんとなくだけど、風邪を引いた鈴のお見舞いに行ったことを思い出した。あのときは熱がひどくてあまり話もできなくて、ゼリーか何かを置いて親御さんが帰って来るまで待っていた気がする。

「ぜんぜん、甘えてくれてもいいって。」

「そう?」

日はもうとっくに落ちていて、外は暗い。

少し恥ずかしいことを言ったような気になって眺めても、窓にはいまいち割り切れない笑みを浮かべた自分が映っているだけだった。

「じゃあ、最近綉ちゃんが美味しいと思ったものを買って来てよ。」

「・・・わかった。探しておくよ。」

こういう注文はちょっと困る。でも、そうだな。甘いものでも買って行こう。

今までこういう頼られ方を、直接されたことはなかったから。

「そうそう、実はさ・・・」

鈴が急に声をすぼめて顔を寄せてくる。

「ここの院食、あんまり美味しくなくって。」

「ああ。それで何か美味しいものか。」

「味が薄くって・・・濃いのが好きってわけじゃないんだけどね。」

入院したことがないからわからないけど、病院食には当たり外れが大きいとか聞いたことがある。ここはどうやら外れだったらしい。

「じゃあなおさら、美味しいものを持ってこないとな。」

「ハードル上げて楽しみにしてる。」

「・・・お手柔らかに。」

こうした会話をしていると、数年時が戻ったようなデジャヴに襲われる。教室でぐだぐだ会話をしているような、帰り道で当たり障りない愚痴を共有しているような、そういう懐かしさだ。彼女の中にはそれはあるのだろうか。ほんの数年前なのに、もう手が届かない昔のことに思えてしまって、寂しくなる。

そのうちに、面会時間も終了時刻が近づいてきた。

「じゃあ、俺はそろそろ帰るね。」

「あ・・・。じゃあ、また。明日も、来る?」

「うん。明日も来るから。」

少し寂しそうな顔をする鈴に軽く手を振って、病室を出た。

廊下に出ると誰もいなくて、足音が、響いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

アパートに帰ってきて、鞄を雑に下ろし、ベッドに寝転がった。

部屋は静かでテレビのない部屋にこれといった音源はない。

「・・・・ああ。」

意味を含まない声を漏らす。

俺は何をしているんだろうか。そういうことばかりを考えてしまう。如何せん、死に触れすぎた。きっと、隣人の一人が死んだとしてもかなりのものになるだろう。()()()()()負担は。人は親が死ぬと命の有限を実感するというが、どうやら俺は急すぎて麻痺してしまったらしい。というより、脳が己に絶望を赦さないかのように、底なしの闇へと触れることを拒む。お前にはもっと見るべき現実があるだろうと、確約された現実はその影に消えてしまう。

一度、彼女の婚約者から連絡がきたことがあった。直接ではなく、電話で。病院で担当医から伝えておく旨は話されていたので別に変なことではない。「鈴のことをよろしくお願いします。」とだけ。きっと、記憶のことを言っているのだろう。彼は仕事で忙しいそうだ。そりゃあ、大きな会社の跡取りなのだから当然だろう。一度しか会ったことはないが好青年、という印象で、やはり俺が敵うところなどないように思えた。けれども今は、鈴の思い出の中に存在が許されているというただ一点だけで俺が優れている。それは良いことなのだろうか。きっと良いことなのだろうと思わなければやっていけない。

目を閉じた。

そうすると、色々な感情が込みあがってくる。

急に増えた口座の残額のこととか、近頃めっきり遅くなった帰宅時間のこととか。それらが肺の底で混ぜこぜになって口の奥にせり上がってくる。けれども吐くことはできない。全部飲み込む。だってそのあてがないから。

スマートフォンの画面をつけて、電話帳のアプリケーションを起動した。

もう二度と繋がることのない番号が二つ。

これは、未練がましい・・・と言うのだろうか。どうにも消せそうにない。これを消してしまったら、本当に独りになってしまうようで、たかが11桁の数字だろうが、消すことができなかった。

「寝よ。」

わざわざ口に出して思考を切り替えた。

眠りは全てからの逃避で、だからこそ魅力的なのだ。

それはとても、死に似ている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「おはよう。シュークリームで、いいかな。」

大学の近くの洋菓子店の袋を手に、病室へ入った。

「・・・こんにちは。」

彼女の母親がいた。

「こんにちは。柊君。」

丁寧にお辞儀をされ、つられて俺も会釈をする。

ちらと鈴のことを確認すると、俯いて、少し不安そうにしていた。

「毎日来てくださって、ありがとうございます。」

「い、いえ。好きで来ているので・・・。」

「そう。娘も、喜んでいて。」

娘、という単語に、鈴の肩が跳ねた。

「こういうとき、本当は私が力になれたらって、思うんですけれど。大事な時ですし。」

「・・・はい。」

大事な時、か。確かにその通りだ。

「婚約も、このままだとなくなってしまいそうで・・・。相手の家がこの状態をあまりよく思ってないみたいで・・・。」

「それは・・・大変、ですね。」

その後は正直、何を話していたか覚えていなくて、ただ鈴の方を気にしていた。

この世界には自分と彼女以外の人間もいて、当たり前のように関わってくるのだという現実に押しつぶされていた、とも言える。だから俺は社会的におそらくそれが正しいであろう受け答えだけをして、あとは愛想笑いで受け流した。自分の意志らしいものは、彼女の婚約の破談を否定しなかったことだけだ。それはそれでどうなんだと自分でも思う。

「私は、この後用事があるので・・・。」

しばらくしてからその女性はお辞儀をして去って行った。たった一人の愛娘に自分のことを忘れられ、そして唯一娘が覚えているのは婚約者でもなくほぼ面識のない天涯孤独の男。そんな状況の母親なら、もう少しくらい取り乱してもいいのに。そう思ってしまうほどに、彼女は礼儀正しかった。

「・・・ごめんね。」

「なんで謝るんだよ。」

「・・・。」

椅子に腰を掛けて、彼女に背を向けたまま、風の音が病室に届いた。きっと、彼女の母親が開けて行ったのだろう。鈴には窓を開けることは無理だから。立ち上がって、窓を閉める。冷える風はきっと身体によくない。

「無理して、さ。思い出そうとしなくっても、いいと思うんだ。俺は。」

それは本心(エゴ)だ。けれど、記憶が戻ることでもう一度彼女のあんな顔を見ることになると思うと、俺は耐えられない。それに、こんなあり方でしか俺が彼女の隣にいることは許されないのだ。それは酷く歪んでいる。信じてもいない神に対する感情はあまりにも複雑だった。

「でも・・・。」

そっと、鈴は言葉を飲み込んだ。それが早いか、俺は言葉を遮るようにずっと手に持っていた紙袋を持ち上げた。

「そうだ。シュークリーム、食べよう。買ってきたんだ。」

「うん。」

紙袋の中から甘い香りがして、少しだけ心が緩んだ。

「折角なら、お茶とか、あればよかったね。」

「そうだな。今度からはそうするよ。」

包み紙ごと渡して、自分の分を一口食む。カスタードクリームの重さが口の中に絡みついた。

「片手で平気か?」

「うん。そのくらいは平気だよ。」

「そっか。怪我、早く治るといいな。」

窓の外では少しだけ雪が降っている。積もらないうちに帰らねばという気持ちと、ずっとここにいたいという気持ちが揺れる。それは仲のいい友人と帰り道に立ち止まり、何時間も談笑をしているときの気持ちに少し苦さを加えた感情と表現ができた。

「そうだ。怪我治ったら、どこに行きたい?」

在り来たりだな。と思った。黙りたくなくてついて出た言葉は、自分の中にはなかった言葉だった。

ああ、そういえばそんな方法もあったと。この時間が永遠でないのであれば、そこには先があって、過去に立ち寄りたくないならば未来に目を向けるのが一番だと。どうして今まで気づくことができなかったのだと。

なんだか少し笑えてしまったけれど、口の奥で噛み潰した。

「治ったら?」

「・・・うん。」

「じゃあ、綉ちゃんが私と行きたいところでいいよ。」

鈴がはにかんだ。その顔がまぶしくて、直視できなくて、目をそらした。

「そう来るとは思わなかったな・・・。」

「だから、私が退院するまでに、考えておいてね。」

ああ、でも、それまで彼女のことで思考を埋められるのはありがたいと思った。それはある種の免罪符のように思えた。確かに、先のことを考えるというのは、幾分気が楽になった。

「わかった。じゃあ、俺が鈴と行きたい場所にするよ。」

「なんか、デートみたいだね。」

「・・・そうだね。楽しみにしておく。」

だから、はやく怪我を治してね。とは、何故か言えなかった。

「約束だよ。」

と言って、鈴は右手の小指をぴんと立ててこちらに向けた。いい年してるのに、まだ治ってなかったのか。それとも、記憶が消えているからか。そんな彼女の少し幼い癖に、俺は子指を絡めた。

「うん。約束。」

最後にやったのも結構前で、少し照れくさい。

そういえば、あの時は何を約束したんだったか。ぼんやりとしていて、思い出せなかった。

 

 

 

 

 

今日は、実家の荷物を整理していた。

法律上ここにあるほとんどのものは俺の所有物になったわけだが、実感が沸かない。家というものは人が住まなくなると駄目になってしまうらしく、これからはこの家をどうするか考えなければならない。

そこまで広い家でもないけれど、一人でいるには少し心細いのは事実だ。

使いかけの化粧品やら大量の服やら、母の私物は俺が使えるものの方が少ないくらいで、いい加減にある程度整理しないといけない。それでも、棄ててしまうのは勿体ないと感じる自分がいた。二人の骨を見たときも、同じ感情だったような気もする。名残惜しさ。まだあの人達のいた痕跡に縋っていたい。その気持ちを感じる度に、俺は結構、両親のことが好きだったんだ、と。それは多分善いことなのだけど、嬉しくはなかった。

「・・・静かだ。」

玄関で靴を脱いで、廊下を歩いて、リビングをぶらつき、両親の部屋に入り、数年前まで自分が使っていた部屋に入り、ベッドに寝転んだ。よく制服のまま寝転んで、皺がつくと怒られた。適当に着替えてジャージのままでいたりとか、その格好で食事をするのに違和感を感じなくなって、父さんにちょっと笑われたりとか。あと、鈴が時折、こっそりと遊びに来ていたのも。多分、俺の両親も鈴の両親も気付いてなかっただろう。テレビもなければゲームもない俺の部屋で二人して漫画を読んだりして適当に過ごしたり、ああそう考えると、結構青春してたのかも。少なくとも、この部屋に悪い思い出というものはなかった。

暫くの間、ぼうっと部屋の見慣れた天井を眺めていた。時計の音が響いて、窓の外の音がよく聞こえた。

雪が降っていると、そうでないときよりも少しだけ雑音が遠のいて聞こえる。

手を掲げて、小指をぴんと立てる。そして約束を思い出す。

今は少しだけ明るいことを考えよう。デートの行き先は何処にしようか。そんなことだけでいい。きっと答えは何処でもいいのだろうけれど、できることなら最善を選びたい。そういえば、彼女は自分に婚約者がいるということは理解してるのだろうか。いや、きっと知っているが実感はないのだろう。そうならばいい。

「指切りげんまん・・・」

嘘ついたら針千本飲ます、指切った。

馴染みのある、残酷な歌詞を口ずさむ。ああ、ひとつ思い出した。結局果たせなかった約束。いや、保留になっていた約束だ。彼女との行き先も、きっとこれで決まった。

もしかしたら、記憶喪失、なんてものは、誰でも多かれ少なかれ起こしているのかもしれない。だって、こんな単純で大切なことすらも忘れてしまっていたのだから。

「海に、行こう。」

そしてそれを思い出してしまうのは、いつだって唐突だ。

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