好きな子と混合ダブルス組むために全国トップを要求された 作:小賢しいバドミントン
この回入れてあと3話とかアホかよ。
これまでも結構描写する機会ありましたが、前回ハッキリと主人公の強みを書きました。
まず大前提として両利きのダブルスペアって面白そうやなって言うのがあって両利きは確定したんですが、ただでさえ綾乃の強みが前衛向けなので、それで強打ポンポン打てると味気ないな~ってことで強打は並みに。
そして反射神経を良くしても綾乃と被ってこれまた面白くないので、もし両利きだったらどういうメリットあるんだろうと考えて体幹と重心移動にしました。
地味やな~
「羽咲、アウト!」
そう叫ぶが彼女は耳を傾けてはくれなかった。無意識の内に舌打ちをしながら、その背中をジッと見つめる。
完全にパートナーとして信用されていないのだろう。
綾乃は全て自分で取るようにネット前で麗暁に勝負を挑んでいる。紅運がサポートに入れないように事細かくコースを別けながら、僅かでも甘い球が来れば麗暁のボディを目掛けて放つ。
だが世界ランク一位の彼女がその程度で怯むわけがない。特に低身長の少ないメリットであるボディ回りのラケットワークは世界レベルまさにそのもの。
だが綾乃はひたすら食らいついた。持ち前の読みと動体視力、タッチの速さをフルに活かして上げることなく攻めを続けていく。
そんな彼女の背中を弦羽早はただジッと見つめていた。
『だからダブルスって嫌い。これ以上、足を引っ張らないで』
『それでも、楽しかった。秦野とのミックス』
『秦野…幻滅した? それとも、スッキリした? 私が同い年の女の子に無様に負けて…』
『私は何か、秦野の役に立ててる?』
『秦野だよ、そんなのあり得ない』
『よろしくね、秦野!』
再開してからの綾乃に関わる出来事が走馬灯のように過る。
ダブルスが楽しいと言いながら嫌いと言って、自分を見下しておきながら役に立ててると聞いてきて、馬鹿にしながらも頼ってくれて。
彼女は本当に不安定だ。言動も思考も矛盾してばかりだ。
いつもいつも周りを振り回して自己中で、そのくせちっとも気遣いができない。
ここまで動揺している自分に対して声の一つも掛けられないのかと、ハッキリ言って苛立ちを覚える。
だが、彼女は変わっていない。
がむしゃらにシャトルを打ち返し続けるその背中は、かつて有千夏と本気で打ち合っていた綾乃の背中を思い出させた。
”ラリーゲーム”。綾乃と有千夏が行っていた遊びだが、綾乃が成長すると共にその質は上がっていった。単純に回数を競うだけならそれこそお遊戯のバ
だから綾乃は全力で有千夏とラリーゲームをした。スマッシュ、プッシュ、フェイント、ドライブ。決め球と言えるショットをどれだけ打っても有千夏はシャトルを落とさない。それらはむしろ強力なカウンターとなって綾乃へと襲い掛かる。
年月と共に趣旨も少しずつ変わって来たラリーゲームは、一点限りの試合と言える程毎度白熱しており、いつもは涼しい顔をして自分と試合をする綾乃が、その瞬間だけは全身汗まみれになりながらも笑顔でシャトルを拾っていた。
「(でも、俺にどうしろって言うんだ…)」
確かに自分は中学バドミントンにおいてもっとも名誉ある称号を手にすることができた。しかし相手は規模が、スケールが、格が違い過ぎる。
相手のプレッシャーを自分一人で抱えながら戦うなど弦羽早には不可能だった。この試合が負けてもいい試合であれば彼だって素直に楽しめる。世界ランク一位と戦えるなんて光栄だと、ノリノリでプレイするだろう。
『ちょっとでもいいから俺の事も頼ってよ。パートナーなんだから』
ふと、合宿で初めて綾乃と組んだ時の自分の言葉を思い出した。
そして同時に既視感を覚える。あの頃の自分と、今の自分は少しばかり似ていた。
綾乃に頼ってもらう事ばかり考えて、自分は綾乃を頼ろうとはしなかった。その理由は自分でも分かる、綾乃にはカッコいいところを見せたいという下らない男の欲だ。
だがもう一つあった。綾乃が無自覚に弦羽早を見下していたのに対し、弦羽早もまた無自覚にそう思っていたのかもしれない。
「(ああ…、羽咲に選手として認めてもらいたかったんだ)」
綾乃は異性として好きだ、ずっと彼女に恋している。でもそれとは別に、バドミントンをする彼女の隣にただ立つだけでなく、彼女に認めてもらいたかったのだ。自分の努力を。
努力してできない人間じゃなくて、努力して強くなれる人間というのを、優勝の称号に関係なく綾乃に心の底から認めさせたかった。
ガチャン!と綾乃は落下するシャトルに飛び込みながら返す。
そんな彼女の行動を嘲笑うかの如く、棒立ちの
圧倒的な相手を前に絶望して、取れないシャトルに悲しみと自分自身への怒りを抱き、それでも諦めたくないと切に願っていた。
エレナと喧嘩した時や、薫子に負けた時とはまた違う。今の綾乃はただひたすらに、大好きな母親を求める普通の少女だった。
「(…羽咲にカッコいいところ見せる…? 冗談だろ? パートナーがこんなになって何もできないプレイヤーが偉そうな事考えてんじゃねぇよ)」
ギュッとラケットを強く握ると、
「はた、の…」
「………」
集中しろ。
今は綾乃に気を使う余裕はコンマ一秒たりとも存在せず、この広いコートを全て守るべく全神経に集中させる。体周りに来た時すらかすりもしないスマッシュをどうやって返すのか。
決まったなと皆がラリーの終わりを予期する状況で、弦羽早は
弦羽早には先輩の志波姫のようなバドミントンIQは無く、綾乃のような動体視力も持っていない。だが決して観察眼が悪い訳ではない。
弦羽早から見て右奥で飛び上がる紅運。彼の腕の動きはこの際どうでもよい。ラケットの面を注意したところで速すぎて見えないのだから。
だが胴体となれば話は別だ。
「(どっちだ…どっちだ…どっちに
身体の向き、腰の捻り具合、付け根から膝の位置。観察する、観察する。
まるで世界がスローモーションのように見える程に弦羽早は一点に集中する。見るのはシャトルではなく、紅運の重心。仮にシャトルが見えたところで、このダブルスコート全てを一人で守るのは不可能だ。
だから読まなくてはならない。綾乃のようなセンスからの読みではなく、重心という弦羽早の中で理に適ったやり方で。
そして見えた。
紅運の重心は中央にはなく、やや右寄りにあった。何故それが分かったか、それはおそらくずっとその存在を意識し続けてバドミントンを続けて来た弦羽早だからこそ見える何かがあった。
弦羽早は紅運が打つ直前に右足を大きく左側へと伸ばしながら、シャトルを見つめる。
「(大丈夫、一瞬だけなら捉えられる。間に合う!)」
弦羽早の右腕に重い振動が伝わって来た。
ガットに跳ね返されれたシャトルはネットを越えるが、しかしすぐ麗暁によって弦羽早が手足を伸ばすのとは反対の右側へと打たれる。
「は、秦野!」
「前にいろ!」
「(これも行ける!)」
弦羽早は麗暁のショットと同時に、踏ん張っていた右足を戻しながら重心を右へと倒す。グラリと弦羽早の視界と身体が大きく右へと傾いた。
だがこれだけではシャトルには届かないと、唯一地面と接触している左足を蹴りだす。その瞬間、弦羽早の体はほぼ真横へと飛び上がった状態となり、彼は胸から上部分だけを起き上がらせて麗暁のプッシュを空中で打ち返しえした。
この勢いのまま飛んだら間違いなく着地は失敗する。誰もがそう思う中、無慈悲な紅運のアタックロブががら空きのラウンドへと伸びる。
しかし弦羽早は倒れなかった。右足一つで地面に着地し、本来なら慣性で倒れるはずの体を有千夏曰く世界に通用する体幹を用いて安定させ、まだ左足が地面に着く前にラケットを持ち替えながら再度地面を蹴る。
一瞬の間に行われたその動きはまるでCGを使ったかのようにアンリアリティで、ただ彼が打ち放ったスマッシュがそれを現実のものだと認識させた。
「ハァ…ハァ…ハァ…」
息切れする綾乃の肩を支えるようにして、彼女をパイプ椅子に座らせる。
するといつの間にか来ていた健太郎が慌てたようにスポーツ飲料を二人に手渡した。
二人とも何故ここにいるのか、そんな質問をする時間も余裕もなかったのでそれを口につける。
「羽咲…まずは色々ごめん。相手が誰だか分かって、俺、諦めてた」
ゴクンとスポーツ飲料を呑み込むと、パイプ椅子に座る綾乃に目線を合わせるように中腰になって彼女に謝った。
「私も、お母さんに会えないって思ったら…、ごめん」
「ううん。羽咲の気持ちの強さは分かっていたつもりだった。その上で支えようとしていた俺がおごっていたんだ。偉そうな事言ってたのに相手を知ったらあのざまだ…」
「あの二人を…知ってるの?」
「……ゴメン。本当はプレッシャーになるだろうから言わない方がいいのかもしれないけど、俺だけじゃ無理だった。何とか持ち返したけど……最後まで持ちそうにないから言うね。あの二人は混合ダブルス世界ランク一位の
「え…?」
「…嘘だろ?」
世界ランク一位。何かの間違いではないかと綾乃は引き攣った笑みを浮かべて弦羽早の瞳をジッと見つめるが、彼の瞳は依然ブレない。恐る恐る健太郎を見上げると、彼は二人を観察していており、少しして二人の変装に気付いたのか顔色が悪くなる。
「羽咲、あの二人を倒しておばさんに会うには、俺達が同じ目的を目指さなければならないと思う」
言い訳に聞こえるかな? そう弦羽早が苦笑すると、綾乃はフルフルと髪を揺らしながら答えてくれた。
「あ、あのね秦野。ダブルス嫌いって言ったの、あれ、嘘だから…」
「うん。俺も、羽咲ならシングルで絶対勝てるって言葉を信じてる。でもだからこそ、俺がいたから負けたなんて事にしたくない」
ずっと謝りたかったのか手をモジモジと動かす綾乃の頭を優しく撫でながら、弦羽早は右手のリストバンドを見せる。
「…羽咲。お前はもうこれで五試合目だ。もし危険だと判断したら、無理やりにでも止めさせる」
「コーチ……ありがとう。でも私…私達は大丈夫だから」
その大丈夫には、”絶対に手を出さないでくれ”という意思が込められていた。静かなトーンだったが、震える事のないその強い口調が綾乃の意志の強さを物語っていた。
『コートに戻って下さい!』
審判が両チームに語り掛けると、各々タオルや水筒を置いて再びラケットを手に取りコートの中へと戻る。
改めて見る対戦相手の二人は、その正体を知った途端に視線が合うだけで震えそうだった。
「(秦野は二人が世界ランク一位って知った後でもあんなに戦えてた。相手は私一人が頑張ったって絶対に勝てない。完璧なコンビネーションで動いて、あのスマッシュを取って、攻め続けたらきっといける。だから秦野を信じなきゃ)」
レシーブの構えを取る彼を見つめながら、綾乃は自分に言い聞かせるようにギュッと左腕のリストバンドを握り絞めた。
綾乃と弦羽早のパターンはコニー戦と同様徹底したトップアンドバックの維持だった。弦羽早のレシーブの強みを活かせる守りは、紅運のスマッシュによって無意味なものとされている。彼が存在するだけで綾乃と弦羽早はロブという大きな一手を失っていた。
将棋に例えるならプロ棋士相手に金銀落ちで戦っているようなもの。だが綾乃という飛車と角を兼ね備えるクイーンの存在で、その戦略はギリギリ形にはなっていた。
しかし世界トップ相手がそう簡単に綾乃にシャトルを取らせてくれるわけもなく、鋭いドライブかロブ、あるいは綾乃の身長を越えるハーフ球を使用して後衛の弦羽早へと圧を掛ける。
「ッ!」
背中から弦羽早の息の乱れが聞こえる。インターバルに入ってから明らかに相手の動きが守りに変わった事で、弦羽早が振り回される状態が続いていた。
左手に持ち返る事で発生するノビの違いも通じなくなり、元々学生レベルの弦羽早のスマッシュが、完全に守りに入った世界トップに通じる訳がなかった。
「(落ち着け、秦野なら大丈夫、信じなきゃ。相手は私を警戒して守りに入ってくれているのなら、カウンタードライブを狩る!)」
弦羽早はひたすらに攻め続ける。クリアーを除いた自分の持ち球を打ち続けた。
フルスマッシュ、チェックスマッシュ、カットスマッシュ、ハーフスマッシュ。ドロップもカットドロップもドライブも使う。だが崩れない。崩せるエースショットを弦羽早は持ち合わせていない。
こういった守備を崩せない場合は一度上げて逃げ、守りに入ってカウンターを狙うのがセオリーとなるが、上げたらチェックメイトだ。
「(麗暁にドリブンクリアなら…いや、それも兼ねて後ろ寄りにいるはずだ。ハイクリアを麗暁側に打っても間違いなく紅運が入って打とうとする)」
パートナーの細い背中とぴょこりと動く後ろ髪が視界に入る。彼女は自分を信じてタイミングを見計らってくれている。弦羽早も中学時代は前衛を担当していたのでそれは分かる。
「(上等だ!なら走らされてやる!)」
弦羽早はなおも打ち続けた。ドロップを止め、全力でスマッシュをサイドライン側やボディへと打ち込む。
既にニ十回近くのスマッシュをレシーブし続けただろうか。それでもなお崩れない二人だったが、その間へドライブのような地面に平行のスマッシュが繰り出された。
現在中央が互いにフォアの状態。そういった状況ではこの二人の場合、男子である紅運が取る事にしているが、弦羽早のスマッシュはやや麗暁より。そして声を出してどちらが打つか確認作業を行えるほど弦羽早のスマッシュも遅くない。
カシャンと二人のラケットが接触する。流石プロと言うべきかそうなっても一方の面がシャトルに当たり返せるのだが、しかしネット前に上がる。
このシャトルは絶対逃さないと、綾乃は飛びつく様に横へ跳躍すると、ストレートにいる紅運のボディへと強烈なプッシュを打ち込む。返せないと判断したのか彼は上半身を逸らしてシャトルを避けるが、シャトルは
『オーバー!
「秦野、大丈夫?」
左右に走らされながら数十回以上にわたる攻撃を続けて行っていた弦羽早の体力はこのラリーで一気に持って行かれた。攻めのショットを一度もネットに掛けず打ち続けたとなると、その運動量はかなりのものだ。
汗をポタポタと地面に落とす弦羽早はリストバンドで額の汗をぬぐいながら、心配するように顔を覗き込む綾乃に笑みを浮かべて。
「頑張ってって言ってくれる?」
「え?が、頑張って…?」
これにいったい何の意味があるのかと首を傾げながら復唱すると、彼はスッと突然背筋を伸ばした。
「よし頑張る」
「えっと、うん」
奇妙なやり取りに綾乃は一瞬表情を和らげながらも、点数ボードを見てキュッと唇を噛んだ。
点数は確かに取れている。だがその差を縮めることがあまりにも困難だった。こちらがようやく一点を手に入れたとしても、相手はアッサリと一点を取り返すことができる。
「(このままじゃ勝てない…。でも…なんとかしないと…)」
綾乃は集中しているつもりだったが、だが完全に入り込めていなかった。
圧倒的な格上二人に対し、こちらはどちらも格下。そこを補うには互いの動きを噛み合わせなければならない。
だが今のような弦羽早が十回もニ十回も一度も上げることなく攻め続けるプレイは、間違いなく持たない。もしここから13点連続で取れるなら持つかもしれないが、そんなものは宝くじの一等が当たるよりも低い。
どれだけ流れを掴めたとしても、実力のあるプレイヤー相手に連続得点は早々続かない。
様々なパターンや状況を考える綾乃だったが、彼女の強みはそこではない。むしろその思考の迷宮は綾乃を弱めていた。
続くラリーも麗暁と紅運のスタイルは変わらない。まるでサイドバイサイドの時の自分達を見ているようだと弦羽早は気持ちは半ばやけくそになりながらも、正確なスマッシュを打ち続ける。
そしてドロップ、ドロップ、更に続けてドロップと、後ろ寄りにいる麗暁へと送って彼女を前後に動かす。勿論そんなことで彼女の体力を削げるとは思っていないが、そのポジションが前寄りになる。
世界一位の女子を相手にそう何度も自分のスマッシュで崩せるとは思わないが、少しでも可能性を上げる。
そう思わせるのが弦羽早の狙いだった。続く麗暁がストレートに来たロブに対して、弦羽早は初撃でクロスに打ち、紅運側のサイドへとジャンピングスマッシュを打ち込む。
【(おっと、こっちか!)】
可能なら麗暁のフォローに回ろうかと考えていた紅運の裏を確かにつけた。
だがそれが決まる程世界は甘くなく、一度前衛の綾乃を見て口元を上げた後、綾乃の正面目掛けてドライブで打ち返した。
「なっ!」
それは自分を徹底して避けていたと思っていた綾乃には奇襲であった。
サイド寄りのドライブを張っていたが正面の球に咄嗟に対応できず、慌ててラケットを前に出して返すものの、ふぁさりとネットに引っ掛かる。
『オーバー!
「ッ!」
「ナイスタッチ羽咲。気にしないで」
弦羽早の励ましの声が背中から聞こえてくるが、今の綾乃には気休めにもならなかった。ようやく自分に繋がって来たシャトルを見逃した事が、綾乃により深い混乱を招いていた。
「(駄目だ。あと七点しかない…。勝たないと、勝たないとまたお母さんに――)」
ずっとずっと母親を求めて勝ち続けて来た。
どんな相手にだって圧倒的差をつけて勝ってきたのに彼女は戻って来てくれなかった。
そんな中、弦羽早と再開して、健太郎にスカウトされて、なぎさとの勝負に負けて渋々始める事になったバドミントン。
沢山嫌なことがあって、喧嘩して、酷い事を言って一人で勝手に傷ついて。
でもきつくてもみんなとやるバドミントンは確かな繋がりを感じられて、弦羽早とのダブルスはあんなにも楽しかった。
ようやく巡り合えたチャンスを阻む相手は、世界ランク一位のペア。
麗暁のサーブに綾乃はヘアピンで応える。彼女達の守りに入る戦略も終わったのか、麗暁はロブを上げずにヘアピンを打つが、その瞬間に面を切ってシャトルを回転させる。
回転したシャトルのコルクは再びネットの白帯に引っ掛かり、綾乃はネット際に落ちる前に素早くロブを上げて下がろうとするが。
バシュン!
彼女の足元にまるで突き刺さるような勢いで紅運のスマッシュが放たれた。
『ポイント!
――駄目だ。
綾乃はおそらく生まれて初めて、本気で勝てないとそう心から感じた。
有千夏には本気で勝ちたいと思ったことは無い。彼女は目標であり優しい母親で、倒すべき壁とは思った事はなかったからだろう。
だが今目の前にいる二人はまさに壁だ。世界という頂の頂点に経つ二人が、頂の麓にポツンと立っている自分を進ませてくれない。
頂の向こうにいる母親に会う為には回り道は無く、この天辺を上って越えなければならない。たった今、この一ゲームの間でそうならなきゃいけない。
「(嫌だ、この二人に勝たなきゃ…。お母さんに、会えない…会えない!)」
絶対にこの試合は諦めたくないという母親への強い思いと、圧倒的な実力差を見せつけて立ちはだかる世界トップの二人に弱気になる心。
勝ちたい
勝てない
また綾乃の中で矛盾が生まれてしまった。
刹那、ゴチャゴチャとしていた感情が爆発し、綾乃の瞳から大きな涙がポロポロと零れだす。
「いやだぁ…。おかぁさん…」
【…ッ】
悲しみに溢れた喉を振り絞るような弱々しい声に、麗暁は眉をピクリと動かして特等席の隣でジッと立っている有千夏を見上げるが、彼女は小さく首を横に振った。
事情を知る紅運もまた、それまで不敵な笑みを浮かべていたが同情するような穏やかな笑みを弦羽早に送って。
【床が濡れたから拭いてくれる?】
弦羽早には彼の言葉が理解できなかったが、ただモップを持った係員がコート内にやって来たことから気を使ってくれた事は分かった。
弦羽早は綾乃の手をそっと引いて、一度コートの外に出る。
「うっぐ…はたのぉ…」
「ッ…はねさ――」
必死にリストバンドで涙を拭うが、溢れ出る涙は止まらずに白い頬をつたう。
そんな彼女を前に”大丈夫”なんて言えるはずが無かった。綾乃が求めているのは勝利の先に待ってくれている母親で、ただそこにたどり着くには世界最強のプレイヤーが二人立ちはだかっている。
自分がもっと強ければ、なんて思う事すらもおこがましい程に彼女達は強かった。でも勝たなければいけない。
だが弦羽早の頭にプランや作戦など一つも無かった。未だにあのスマッシュを見切れてもいない。ずっと探しているが弱点もない。フォーメーションに無駄もない。
「(でも、それでも勝ちたい。勝って、羽咲に喜んで、認めて貰いたい)」
「……
自分の名前を呼ぶ優しい声と、心地よい温もりが綾乃の心と体を両方包み込だ。
少しゴツゴツしてて、ちょっと汗臭くて、汗で濡れたウェアは冷えていて。ただその匂いやウェアの冷たさは彼の頑張りの証のようで不思議と心地よい。
「この試合、勝とう」
「……むりだよぉ。だって、だってぇ…」
「ッ、ゴメンね。やっぱり黙っておくべきだった。ほんと俺、綾乃の事になるといっつも空回りになる。綾乃のこと支えてあげたいのに」
フルフルと弦羽早の腕の中にいる綾乃は首を小さく振ると、ギュッと目の前の黒のユニフォームに顔を当てる。
ツンと痛む喉に精一杯力を入れて出て来たのは、かき消えそうな弱々しい声。
「…そんなことない…。はたの、優しくて、再会してから、いっつも、支えてもらってる。今も、強い相手に、いっぱい戦ってくれてる…」
「…じゃあ、もっと支えたい。もっと一緒に戦いたい。俺が憧れた綾乃はこんなに強いんだぞって、日本だけじゃなくて、世界中に自慢してやりたい」
弦羽早は胸元にある綾乃の頭をそっと撫でながらゆっくりと離れる。嗚咽を込み上げる彼女は未だ涙のダムの崩壊を抑えることができずに、涙がポロポロと床に零れ落ちる。
それをそっと指で拭いながら、優しくも芯の通った低い声で告げる。
「だから、綾乃にも自慢して欲しい。俺ってパートナーがいて、そんな俺をいつも支えて、綾乃の存在が俺を強くしてくれるんだって」
「…ほんとに?」
「ああ。他の誰でもない、綾乃が俺を強くしてくれたんだ」
綾乃の瞳がまた一瞬潤う。それが悲しみから出た涙でないことは誰の目から見ても明らかだった。綾乃の泣き顔に変化があった訳では無い。でも彼女の身に纏う雰囲気が温かみを帯び、震えていた肩や嗚咽がゆっくりと収まっていく。
「私達……勝てるかなぁ…?」
「うん。だってまだ俺達このゲームで繋がり合えてないから。試合始まってすぐの俺はどこかちょっと羽咲の勝ちたいって気持ちを軽視してて、そこから相手の事を知って怯えた。そして俺よりずっとプレッシャーを抱えている羽咲にその怖さを押し付けて。って、全部俺が原因だね」
「ううん。…私も当たったり酷いこと言ったからお相子…」
「…ありがとね、綾乃。よし!」
パンと気持ちを切り替えるべく手を鳴らした。
周囲を見てみると会場全員が自分達を見つめており、弦羽早は途端に顔全体が熱くなるのを実感した。しかも無数の記者がいることも頭から抜けており、時折小さなシャッター音が弦羽早の耳に届く。
穴があったら今すぐ入りたい程の羞恥心だったが、しかし隣で恥ずかしがる様子もなくラケットを手に取る綾乃の姿を見て、そのらしさが弦羽早の精神を落ち着かせた。
「はた―――
ラケットを拾う弦羽早の眼前にAのイニシャルが刻まれたリストバンドが突き出される。先程まで泣きじゃくっていた彼女の表情は硬く、同時に弱々しい。でもプルプルと震えるその腕と、彼女の力強い眼差しは”勝ちたい”と強く訴えかけていた。
「行こう、綾乃」
トンとTのイニシャルの入った色違いのリストバンドを合わせると、二人はコートへと歩みだした。
このやたらと長く書いたのもここまでの溜めというのも多分ありけり。
試合内容ほぼカットして突然この流れになっても違和感あると思うの(必死)