好きな子と混合ダブルス組むために全国トップを要求された   作:小賢しいバドミントン

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一万文字以上全部試合。

長過ぎ。




ゾーン

15 - 8

 

終盤に差し掛かった今、その二倍近い点差を返せる試合は限られる。しかも未だ紅運のスマッシュを一度しか返せていないこの状況に置いては絶望的な点差だった。

 

だがこの試合を見ている誰もがこのままで終わると目を逸らしたりはしなかった。対戦している麗暁(リーシャオ)紅運(コウウン)もまた、目つきの変わった二人に今日何度目かの喜びを味わっている。

世界のトップに立つ二人がバドミントンを愛していない訳がなかった。このたった1ゲームの短い試合で、綾乃と弦羽早は目に見える程に成長し続けている。メンタル的にも、技術的にも。

それが嬉しくてたまらない。自分達を越える逸材を見つけるのがこんなにも楽しいものなのかと気持ちの高鳴りが抑えきれずにいた。

 

レシーバーは弦羽早。

ネット越しの彼と視線が合った麗暁は、心の中で非礼を詫びる。

 

【(一瞬でも君を期待外れと思ったこと、謝罪するよ)】

 

トンとラケットを前に押し出す。

再びショートサーブから始まる。ここまで頑なにロブを恐れていた弦羽早が、ヘアピン勝負もせずにいきなり高いロブを上げた。

 

【へぇ】

 

この試合、紅運のスマッシュを返せるようにならなければ負ける。ならばもう、あと五点以内に見切るしかないというのが二人の出した決断。

グッと腰を下ろして二人は呼吸を一瞬止め、その一瞬に全神経を集中させた。

 

 

集中一つでも人間の能力は変わる。

交通事故にあう、あるいは怪我をすると確信した直前、人は一瞬周りの景色がスローモーションに見える。

同じ本を読んだ人間でも、適当に文字を流しながら読むのと集中しながら読むのとでは理解が大きく違う。

 

人間はその時の脳の働きによって、絶好調にも絶不調にもなれる。

 

そして一流アスリートの中でも一際スター性を持つ選手は、その絶好調時の瞬間を意図して入る事ができる。

 

それがゾーン。

 

科学的に証明されたものではないが、大スターのプロアスリートの一部がこの状態に入ることができる。

ピッチャーの球がスローモーションに見えた。

フェンシングの剣の先まで鮮明に見えた。

身体と心が完全に一体化して自然に体が動いているようだった。

コートを上から見ているような感覚。

 

それは決して一般人に起こりえない現象で、ただ極限に集中しているだけでは駄目だ。

ゾーン状態になると所謂無意識の処理が行われる。例えば本に集中してたら周りの雑音が聞こえないなど、それが無意識の処理だ。

その状況をスポーツで活かす場合、無意識の内に体やラケットが動かせる程の膨大な時間を掛けた練習量が必要になる。だから並みの選手ですらゾーンに入ることはできない。

 

その領域に二人はたった今同時に入った(・・・)

 

紅運の打ち出したシャトルは軽いドライブでも打っているのかと思えるほどに緩やかで、弦羽早は自分の元へと伸びて来たシャトルの軌道上に面を置く。

刹那、スローモーションは解除され弾丸の如きスマッシュが飛んでくるが、弦羽早は当たる瞬間に丹田を少しだけ前に出して勢いよく打ち返した。

 

「返した!?」

 

それまで僅か一回しか当てることのできなかったスマッシュは、激しいクロスのドライブとなって打ち返される。

麗暁も驚いたものの、こちらへ飛んできたカウンタードライブを見逃そうとはしない。両足をギュッと踏み込むと、紅運と弦羽早の二人の威力が乗ったシャトルを力を入れず面で押す。そうすると激しい重さを持っていたシャトルは一気にエネルギーを無くし、ネットを越えてゆっくりとサービスライン辺りまで進んでいく。

そこを見逃す綾乃ではない。彼女は体を屈めることで、ネットと同じ高さのシャトルを上から叩く。

 

【上げるね!】

 

紅運はコートの角へと伸びるプッシュをバックハンドで無理やり奥へと飛ばし、サイドバイサイドの陣形へ移る。

 

そのロブを担当する弦羽早の瞳には、シャトルの落下地点がまるでマーキングされている様に見えた。ここで打てば確実だとまるでゲームのように。

 

弦羽早はマーキングされている場所から両足をバネに高く飛び上がった。

 

「(紅運(アンタ)と俺は体格も筋力も肘の柔らかさも違う。でも、今の俺ならアンタのスマッシュに一歩近付ける!)」

 

完璧な重心に完璧な体幹。高く飛び過ぎたのかいつも以上に相手のコートが良く見える。

シャトルを打つのは頭で意識せずとも体が勝手に動いてくれるので、そちらには思考を回さずにゼロポジションを探す。

 

ゼロポジションとは肩回りの筋肉が最も緊張の少なくなる状態。ゼロポジションがどこにあるかは人によりけりだと言うが、弦羽早は直感的に肩の軽さを感じ、そこを中心にラケットを振った。

身体を回転させるとか、重心を乗せるとか、そういったものは体が勝手にやってくれる。

 

【なっ!】

 

それはこれまでの弦羽早のスマッシュより一つ上のレベルの速いスマッシュだった。それまで学生レベルだったスマッシュは、ゼロポジションを最大限に利用した今、一段階上のレベルに進化している。

コルクに衝突して紅運のラケットフレームがカンと音を鳴らし、シャトルは線審のところまで飛んで行った。

 

『オーバー! 9(ナイン) ‐ 15(フィフティーン)

 

審判の声がほとんど聞こえない。まるで自分と審判の間に見えない壁があるようだった。

綾乃も弦羽早も一言も交わさなかった。ただラリーが終えると手を合わせる。

 

まるで自分の心が体をリアルタイムで操作しているような感覚に弦羽早は言い様の無い心地良さを味わっていた。

 

緊張感も一切ない。コートの隅々までが広々と見え、でもコートを囲う線審や審判、点数ボードなどがほとんど焦点に会ってこない。

 

サーバーは綾乃。徐々に黒くなる彼女の瞳に麗暁は武者震いをする。先程泣いていた少女の面影はどこにもない。ただこの試合に少しずつ入っていく。

 

【(驚いたな…。少年の方が深いがこの子は入り続けている…)】

 

じっくりと腰の前にラケットを構えた綾乃は、麗暁の胸が三回沈んだタイミングでロングサーブを繰り出した。

呼吸を吐いたタイミングでの後ろへと追い込むロング。その軌道は決して高くなく、多少よろけはするが、麗暁は後ろへと跳びながらジャンピングスマッシュを綾乃へと放つ。

 

綾乃はそのシャトルを”避けた”。足音と気配から自分のすぐ後ろに弦羽早が居てくれると判断し、その球を弦羽早に任せる。

そして後ろにいた弦羽早はドライブで打ち返そうとした瞬間に、ピタリと面を止めてドロップショットを送る。

 

【私が出る】

 

フォローに入ろうとしている紅運を止め、麗暁は着地と同時に足を勢いよく蹴って、右側へと落ちて来たドロップに対してヘアピンを送る。流石に余裕がなかったので白帯に転がすことはできなかったが、質は高い。

だが打った直後に既に目の前にいた綾乃は、それをがら空きとなったクロスのネット前に送る。

 

もっともこれだけではまだ決まらない。世界トップの麗暁のステップの本領発揮はここからだ。

綾乃がクロスへと打つと、再度跳ぶように地面を蹴ってシャトルと並走するように走り、僅かに浮き上がったシャトルをフォルトにならないように横にはたいた。

 

「上げる!」

 

シャトルはカバーに入った弦羽早によって中央地点で上げられた。

 

再び二人はサイドバイサイドの状態へ変わる。現在紅運の正面にいるのは弦羽早だが、綾乃もまた視界に映る情報を最優先に処理する。

 

【(面白い、面白いよ!)】

 

紅運は抑えきれない喜びを表情にあらわしながら両足で飛び上がり、再び弦羽早にストレートのジャンピングスマッシュを打ち込む。その速度は一切衰えない、初速400を超える世界トップのショット。

 

ゾーンは消えていない。しかし紅運の打ったショットは先程より極端に遅くは見えない。

弦羽早はシャトルが当たる直前に手首を捻って牡丹を通して球に重さを乗せる。

 

バシン!

 

レシーブとは思えない激しい音が館内に響く。

その激しい音にアウトかと判断しかけるが、レシーブは高めであり、頂点に達した時点で急速に失速する。

紅運は素早いフットワークでその落下地点へと構えるが、流石にフルスマッシュを打てる体勢まで持って行けなかった。

それでも彼が放つスマッシュはゼロポジションを最大活用した弦羽早のスマッシュより速い。

 

「(速い、でもッ)」

 

――視える

それだけで良い。現在体が半ば無意識下で動いている綾乃は何の違和感もなく肘を上げ、胴体へとえぐり込むようなスマッシュを裏面で弾き返す。今度はロブではなくカウンタードライブ。

 

筋力の影響や弦羽早ほどの体幹を持ち合わせておらず、そのドライブは鋭いが速いとは言えない。そして差し込まれたスマッシュに対し綾乃がクロスへ返せる可能性を低いと読んだ麗暁が張っていた。

 

腰を下ろして背を低くした麗暁はそのドライブを綾乃へと打ち込む。

 

速すぎる麗暁のシャトルタッチは、本来綾乃ですらラケットを振った硬直によって反応できないはずだがこの時だけは違った。

現在綾乃は正面のシャトルをバックハンドで打つために、左肘を上げている状態となる。であれば、辛い部分はフォアハンド(左側)と左肩周り。

流石の麗暁も速いドライブに肩回りを的確に狙うことは困難だったので、サイドライン寄りのフォアハンドを狙う。

 

「(これも返せる)」

 

シャトルの軌道が見えれば後は体が勝手に動いてくれた。

綾乃は足を開いて無理やり上半身を僅かに左に寄せると、フォアハンドに構え直すのではなく、そのまま腕を捻って、フォアハンドの球をバックハンドで打ち返す。

 

更に麗暁のプッシュに重みが少ないのをいいことに、打つ瞬間に手首のスナップを利かせて無理やりクロスへと落とす。

 

完全に決め球だと確信しネットに詰め過ぎた麗暁はその返球に対応できず、コトンとシャトルが床についた。

 

『ポイント! 10(テン) ‐ 15(フィフティーン)

 

再び会場全体に歓声が巻き起こる。

後半戦に入って遂に紅運のスマッシュをレシーブできるようになった。

 

スマッシュをレシーブするというのは、本来ダブルスであれば大前提だが、彼の規格外のスマッシュはその前提をずっとぶち壊していた。それがようやく、綾乃と弦羽早は彼等と同じ土俵に立つことができた。

 

【僕のスマッシュ返しちゃったよ】

 

【凄まじい集中力だな。少年も一度簡易的なゾーンに入っていたが、今回は深さが違う】

 

【だね。それにしても、綾乃ちゃんが集中すると怖くなるのって有千夏のDNAか何か?】

 

【まあ、良く似ているな…】

 

静かにシャトルを構えて麗暁と紅運を待っている綾乃と視線が合い、紅運は小さく肩を震わせる。

彼も麗暁ほどではないが有千夏にはお世話になっており、そのお気楽な性格故に時折彼女には怒られていた。その記憶が蘇ったのだろう。

 

続くラリー。紅運の本領、ジャンピングスマッシュの連打が二人の防御を貫く。

 

16(シックスティーン) ‐ 10(テン)!』

 

ハーフ球を読んだ綾乃のジャンピングスマッシュ。弦羽早のリバースカットのフェイントが刺さり二点連続取得。

 

12(トゥエンティー)  ‐  16(シックスティーン)!』

 

前衛同士の激しいドライブ合戦。タッチが速すぎるそれはまともにコースを選んでいる余裕もなく、ついにフレームに当たった綾乃の球を麗暁が叩き一点。

 

お返しと言わんばかりに綾乃が速攻。更に弦羽早もコート中央まで前線を上げ、綾乃が作り出した甘いロブ球を打ち落としてサーブ権を取り戻す。

 

世界ランク一位を相手に二人は無我の境地で食らいつく。だがどれだけゾーンを維持しようとも絶対王者の二人は点差を詰めさせてはくれない。

それに加え、ゾーンの極限の集中状態が二人の脳を激しく消耗させ、二人とも一ラリー毎に膝に手を当てて呼吸を整えている。

 

そして遂に弦羽早の球を読んだ麗暁のスマッシュが決まり、点数は20‐15となる。

 

 

 

もはやコートの中に言葉はなかった。弦羽早も綾乃も「上げる」とも言わなくなり、何も言わずともローテーションの切り替えを行っている。

麗暁もまたゾーンには入っていないが集中しており、紅運も下手な軽口は言わなくなった。

 

マッチポイント。

点差は五点。

 

綾乃は屈伸をして体を伸ばし呼吸を整えると、右手を後ろに差し出す。その手がパンと叩かれたのを合図にラケットを構えた。

 

「……」

 

タン!

 

麗暁のサーブは綾乃を奥へと追い込むロングサーブ。これまでタッチの速い綾乃がレシーバーでも一度も打たなかったロングを、マッチポイントで解禁してきた。

 

重心は前だったが即座に足を一歩後ろに下げ、同時に地面を蹴って後ろに飛ぶ。ダブルスのロングサーブはシングルスと違い、相手をコート一番奥の線(バックバウンダリーライン)まで追い込めないので、自然低く鋭いロングサーブが基本となる。それは引っ掛かれば致命傷になるのと同時に、綾乃のように低身長のプレイヤーでも飛べば十分に届く。

 

バシュン!と後ろに飛びながらとは思えないエネルギーの込められたスマッシュが、サーバーである麗暁へと返球される。

上げると予想していた麗暁は少し驚きながらも、冷静にラケットを構えってシャトルを捕らえようとするが、そのシャトルはぐにゃりと大きく左に曲がり、結果ラケットフレームにカンと弾かれる。

 

『オーバー! 16(シックスティーン) ‐ 20(トゥエルブ)!』

 

【…クロスファイアか】

 

クロスファイア。左利きの選手がカットスマッシュを打つと、シャトルの巻き方によりシャトルがプレイヤーから逃げるような軌道で曲がる。左利きの麗暁も当然それを武器として持っているが、咄嗟に後ろに飛びながら、ストレートより速度の落ちるクロスファイアを前衛の自分に突き刺してくるとは。

 

上手い駆け引きだ。麗暁はこの試合何度目かの喜びの感情を抱くと、次のサーバーである弦羽早へとシャトルを渡す。

 

 

この一点も失えない状況で弦羽早がサーブという状況は決して良いとは言えない。彼のサーブが悪いからではなく、二人は従来のダブルスのポジション通り、サーバーが前、パートナーが後ろで構えるからだ。

 

何故ここに来て尚ミックスの王道のポジションをしないかというと、答えは綾乃が嫌っていたので、これまでその立ち位置の練習をしていなかった。それだけだ。

無意識の内に弦羽早を見下していた綾乃は男女の違いを理解していたが、女子であることを理由に必要以上のフォローを貰うのを嫌ってい()

 

弦羽早のサーブを麗暁がロブを上げる形でラリーが始まる。

その球を打つのは当然、強打を持たない綾乃だ。自分のスマッシュでは決まらない事を綾乃は誰よりも理解している。だから少しでも激しいカウンターを食らわないようにジャンプして打つことで、無理やり角度をつける。

 

『ここぞと言う時に留めておくこと』

 

弦羽早からジャンピングスマッシュを教えてもらった時の決め事だ。

 

「(確かに一回一回がキツイ…。限界を感じる。でも!)」

 

そのここぞと言う時は今だ。

どの道ここで一点でも失えば負ける。ならもう後先考える必要はない。正面にいる麗暁へと打ちまくる。

そして五打目。飛び上がる綾乃が繰り出した球は、サイドラインギリギリに落ちる緩やかなドロップ。おまけにネット際に落ちるそのショットはまさにドロップの理想形で、流石の麗暁もスマッシュを警戒していたのもあり、グラリと少し身体を揺らしながらヘアピンで返すが、足を踏み出す弦羽早のプレッシャーに押されネットスレスレを狙ったのが仇となりネットに引っ掛かる。

 

そうした綾乃が後衛で攻める展開が更に二回続き、遂に残り一点差となる。

 

19(ナインティーン) ‐ 20(トゥエルブ)!』

 

「ハァ…ハァッ…ハァ…」

 

この終盤でジャンピングスマッシュを連打し続けた綾乃の体力はもう欠片程しか残っていなかった。頭はフラフラと揺れ、膝がガクガクと笑い始めている。もはやリストバンドもウェアも汗を帯びすぎて汗を吸ってくれない。

だが弦羽早はその頭をポンポンと撫でるだけで、次のサービスもラインギリギリに構える。

 

その背中に綾乃は喜びを覚えた。

 

――後ろは任せた

 

彼はこう言ってくれているのだ。

 

ならばそれに応えるしかない。綾乃は中央コート線をまたぐ位置に腰を下ろして構える。

 

紅運へのサーブ。ブレの無い放たれたショートサーブに紅運がハーフ球を送る。

このたった一打にも互いの技術の高さが籠められており、ラケットの面を見て打ち落とそうとしていた弦羽早と、それを察して直前に面の角度を切り替えることで上手くいなす紅運。

 

「(ハーフ球。カウンターは弦羽早が張ってくれている。なら強引に!)」

 

綾乃は左へのハーフ球を紅運のフォアハンド側へとドライブを送る。

 

【(甘い。誘い球か)】

 

クロスへカウンターで返そうとするが、その直線状でラケットを構える弦羽早の姿に、紅運はすぐにプランを変更して前へと落とす。同時に麗暁がすぐに前へと出て、紅運が後ろのトップアンドバックにフォーメーションする。

 

「(麗暁相手にヘアピン勝負は出来ない。だがッ…)」

 

紅運のスマッシュを100%取れる保証はない一方、ネット前の勝負で麗暁を出し抜ける可能性もまた低い。

 

「(不味い。私の配球が甘かったッ)」

 

「上げて!」

 

誘いを読まれた結果弦羽早が配球に迷っているのを察する。それはほんの数秒にも満たない僅かな時間であったが、綾乃は瞬時に指示を出した。

その声が届いた弦羽早は迷いを捨ててクロス、つまり綾乃の正面側へとロブを上げる。

 

「(ありがとう弦羽早)」

 

本来なら可能な限り自分にスマッシュを誘う為、男子は自分のストレート側へとロブを上げる。だが弦羽早は自分よりも綾乃を信じてクロスへと上げた。

 

シャトルが最高地点に達した時には、既に紅運は跳ぶ準備に入っていた。

 

「「(来るッ!)」」

 

二人の心がシンクロすると共に、アリーナ中に響き渡る巨大なスマッシュ音が鳴った。コースは綾乃のボディではなく、二人の丁度ど真ん中。

 

真ん中へシャトルが来た時の取り決めは、強い球、ロブが弦羽早。カウンター可能な球、ネット前の球を綾乃が担当するようにしている。

 

だが二人の思考に迷いはない。コートの中央に落下するように進むシャトルを、綾乃が(・・・)地面スレスレの位置で返す。トンという緩やかにガットが揺れる音と共に、シャトルは浮かび上がる。

すぐさま軌道を読んでネット前に詰める麗暁だったが、叩くことは叶わなかった。ネットの白帯にコルクを擦らせたシャトルはコロコロと転がるように麗暁の手前へと落ちた。

 

『ポイント! 20(トゥエンティー) ‐ 20(オール)!』

 

「お、追いついた…」

 

記者の一人がそうポツリと呟く。一回のミスで勝敗が決するマッチポイントという極限の緊張状態にも関わらず、切れる事の無い集中力。むしろ綾乃は深く、より深く集中を高めている。今のレシーブも、偶然ではあるが奇跡ではない。

 

もうゲームは最終版。怒涛の追い上げをする二人だったが、ここに来て遂に弦羽早の集中力がぷつんと、電源を消されたテレビ画面のように切れてしまった。

 

「しまっ…」

 

ポンと打ち出したショートサーブは浮いた。それはネット上十センチ弱。出の遅い選手が相手なら打たれる高さでは無いが、世界トップの彼女が見逃さない訳が無い。パンと叩くプッシュは弦羽早の隣を抜け、コートの角を突き刺す様に伸びる。

 

だがそのシャトルは床に落ちることなく、弧を描く様に奥へと飛んだ。綾乃の瞬発力はプッシュに対しても驚異的な守備力を誇っている。

 

ふぅー!と勢いよく息を吐いて、シャトルが上がっている間に呼吸を吐いて集中力を取り戻す。紅運の正面には女子の綾乃。この状態でクロスにいる弦羽早へと打つのはまずあり得ないが――。

 

乾いた音と共に放たれた弾丸の如きシャトルは弦羽早へと飛んできた。

だが弦羽早も、集中力が切れた事に紅運が気づくだろうと予測しており、自分の元に来るだろうと構えていた。

 

これまで何度も取りこぼしてきたスマッシュだが、その速さにも目が慣れて来ている。集中力が落ちて激しいリターンはできないが、当てる事なら可能だ。

 

前の麗暁が落とし、なるべく綾乃の体力を温存すべく弦羽早が前に出て再度ロブを上げる。

 

紅運から放たれるのは全てスマッシュだった。

ダブルスのスマッシュは速いだけでは早々決まらない。そう言われるが、彼のスマッシュにその常識は当てはまらない。二回目のスマッシュもなんとかタッチする。だが三回目のスマッシュは弦羽早の正面に突き刺さり、シャトルはそのまま股を潜る。

 

『オーバー! 21(トゥエンティワン)  ‐  20(トゥエンティ)!』

 

「(不味い。このタイミングで切れた…)」

 

最初こそ綾乃のゾーンよりも深く潜っていた弦羽早だったが、彼が有千夏に認められた才能は重心と体幹であって集中力ではない。綾乃のように終盤のプレッシャーが極限状態になる中で、潜り続けられるプレイヤーは希有な存在だ。

 

「(不味い。並みの選手相手ならいい。だが二人はもう俺の集中が切れてるのに気付いてる…)」

 

極端に自分を狙う三連続スマッシュはそれ以外に説明がつかない。直感的に相手の嫌がる場所へスマッシュを打ち込めるのも彼が主砲たる所以だ。

 

ゾーンがアスリートの中でも一部の者にしか使えない所以は、まず頭で考えすぎると入れなくなることだ。故に頭をフル回転させる薫子や志波姫といったプレイヤーは、上級者であってもまずゾーンに入れる事はない。

また緊張感も妨げとなり、一度感じた疲労やプレッシャーもまた集中の邪魔をする。

 

入った瞬間は焦点に当たらなかった点数ボードや線審の顔がくっきりと見える。アリーナの鎮まり返った空間が落ち着かない。

 

『早く構えて下さい』

 

「……」

 

無意味だと分かっていたが、なるべく集中している風を装うために弦羽早は無言で後衛のポジションへとつきラケットを構えるが、今度は綾乃が持ち場を離れた事でサーブが放たれることはなかった。

審判は注意しようと声を掛けるが、紅運が笑顔で首を横に振ってそれを抑制する。

 

「弦羽早、勝つよ」

 

「…おう」

 

弦羽早の返事は一見落ち着いているようなトーンであったが、実際焦りを帯びていた。普段中々気遣いのできない綾乃だったが、深く入り続けているからか、あるいは弦羽早への信頼が生まれたからか、彼の焦りに気付いていた。

 

「勝って。私をお母さんに会わせて」

 

そう呟いてスッと手の平を差し出した。ピクリとも動かない頬に、雨夜(あまよ)のように暗い瞳。肉まんを食べる時は瞳を輝かせる彼女と本当に同一人物なのか疑う程に今の彼女は冷たい。

かつて綾乃に憧れた弦羽早少年が、ごく稀に彼女に感じた事のある底の見えない不気味さ。

もし自分の命が掛かっていようとブレる事なき集中力を身に纏う彼女に、弦羽早はゾゾッと背筋を震わせながら微笑んだ。

 

「任せろ」

 

これが自分が憧れた羽咲綾乃の強さだ。

ラケットワーク、選球眼、読み、フットワークの速さ、両利き。彼女を支える強さは無数に存在するが、時にはメンタルすらも驚異的なものへ変わる。

 

今の彼女のコンディションは疲労を除けば完璧だ。

 

その彼女と共に戦って彼女が望む勝利を得る。これが弦羽早が何よりも求めていたバドミントンだ。

パシンと差し出された手を叩くのを合図に、再び弦羽早の焦点がコート内に限定された。

 

【(有千夏の言う通り単純な男だ…)】

 

好意を抱く少女とタッチを交わすだけでゾーンに入れるなど、そんな馬鹿みたいな話があってたまるか。

バドミントンだけでなくあらゆるスポーツ選手が望む集中の極地は、無数のメンタルコントロールや願掛け、食事や呼吸をもって初めて意図して得ることができる。

麗暁本人を含める数多のトッププレイヤーが苦労の末足を踏み入れた境地に、彼は綾乃の言動一つであっさりと転がり込む。

 

馬鹿げた話だが現にその瞬間を見てしまった以上、麗暁は呆れよりも笑いをこらえるのに必死だった。普段から表情があまり動かない方で無ければ間違いなく腹を抱えて笑っている。丁度サーバーの紅運のように。

麗暁は真面目にやれとラケットで彼の頭を軽く小突き、再度ラケットを構え直す。

 

それまで賑やかだったコート内が鎮まり返り、四者の呼吸が重なり合った刹那。

 

パン!

 

またロングサーブが放たれる。

それは弦羽早のラウンド側。距離よりも角度優先の追い詰める速い一打。

アウトかと一瞬脳裏を過ったが綾乃の声が無い事からインと判断。持ち替えてフォアで打つのも物理的に不可能な為、弦羽早は後方へ飛び上がると、空中で背中を逸らせるようにして前衛に身構える麗暁の正面へと叩き込む。

 

それを捉えるのを不可能と判断し、麗暁はすぐにシャトルから避けその先にいる紅運へと託す。

 

角度の浅いスマッシュを紅運は着地したばかりの弦羽早へと返す。

綾乃は瞬時にそのドライブに食らいつこうとするが、麗暁の視線が自分の足元を一瞬観察したことに気付いて蹴るのをやめた。

 

その選択は正解だった。

 

並みの選手なら着地直後のボディへのドライブ返しには体勢を崩すが、弦羽早の体幹がその程度で緩むことはない。着地してすぐ、まるで地面に根っこが生えているような安定感で飛んできたドライブを目いっぱいの力と重心を籠めて打ち返す。

 

それまで女子二人のドライブ合戦は行われていたが、男子の打ち合いはこの最終局面においてほぼ初めてだと言ってもよい。コート中央(ミドルコート)からドライブを打ち合う二人の前にはそれぞれトップレベルの前衛二人が構えている。

だが彼女達は手を出さない、手が出せないのであった。

 

彼女達の選球眼ならドライブをタッチするのは容易い。しかしこのドライブは常に彼らの重さが込められている。重いシャトルは強い反発力を持つため、並のタッチではまず間違いなく浮く。そうなれば必ず相手の前衛に狩られるため、手を出せずにいた。

 

同時に男子二人もまた、一番威力のあるストレート以外の選択肢を封じられている。サイドに狙う為にコースを狙った瞬間、僅かに軽くなった球を前衛が叩くからだ。綾乃の直感、麗暁の分析力はその域に達している。

 

先に音を上げたのはやはり弦羽早だった。有千夏曰くこのコート内でもっともすぐれた重心と体幹を持つ彼だが、筋力やリストの強さは紅運に劣る。また、トッププレイヤーの彼が重心の扱いを知らない訳がなく、そうなるとやはり最後は力が物を言った。

 

上がったロブ球。待ってましたと言わんばかりに意気揚々と紅運はスマッシュを打ち込む。

最高速のスマッシュに対して弦羽早はストレートにロブを上げ返す。その体はよろめかない。

 

【(面白いね。ノック練習なら勝負してみたいけど!)】

 

紅運の次のスマッシュは手を伸ばすだけでは届かない、シングルスとダブルスの二本のサイドラインの中央へ迫る。加えて弦羽早のバックハンド側。

あくまでシャトルが地面に落ちるコースへと彼はシャトルを打つ。

 

しかしパァン!とまたもやシャトルの音がアリーナに響いた。バドミントンに精通している者が集まるこのアリーナでも、そのレシーブが並ではないと気づく者は一部だった。

 

【(本物だなこの少年。今のスマッシュをロブで返せるか…)】

 

返ってこないと慢心していた訳では無いが、しかし間違いなくショートレシーブだろうと構えていた麗暁は目を見開く。

理由は二つ。手を伸ばしながらバックハンドで打つ場合、フォアハンドのように腕を開いて打てない分、どうしても威力が落ちる。

そして一歩で届くバックハンド側の球を打つ場合、利き足でない足を出して打ち込むため、どうしても踏ん張りが弱くなり威力が減衰する。

 

だが今弦羽早は左足を一歩出し、そこを体の軸とした状態で右手で打った。あまりに自然とやるものでそれが普通に見えてしまうが、麗暁でさえ驚きを隠せないプレイだ。

 

続く三打目。流石にロブで守りに徹するのは限界だと判断し、弦羽早はクロス気味にドライブを打って逃げる。すかさずタッチして前に落とす麗暁だが、今度は綾乃が取る。

 

ラリーは終わらない。

 

ヘアピンを交わす前衛、上がるロブ。打ち続けるスマッシュにカウンター。互いのローテーションがグルグルと目まぐるしく回る。一打打つ毎にポジションが変わるのも当たり前なぐらい状況が一転する。

 

80回、時間で言うと二分近い長いラリーが続く。

麗暁のカットドロップに対し、綾乃は冷静に再度ロブを上げて攻撃に転ずるタイミングを待つ。

その綾乃の視界に、ひらりと一枚のシャトルの羽が舞った。

刹那、ひらめいた綾乃は自分が打った回転するシャトルを睨む。

激しいドライブ合戦、紅運のスマッシュ、長いラリーを続けたシャトルはサーブ前は綺麗だったのが嘘のように傷ついていた。

 

「(狩れる!)」

 

スマッシュのフォームを取る麗暁に向けて綾乃はニヤリと口元を歪ませる。そして彼女の強打と共に、綾乃は態勢を低くして前に出た。

 

「なっ!?」

 

おそらくそれは、コートを含めアリーナ全員が驚愕に包まれたプレイングだった。あの有千夏でさえ目を一瞬開く。

そして打った瞬間に麗暁は自分の打ったシャトルの音が籠っていた事に気付く。

完璧なフォーム、位置、運動エネルギーで打った筈の自分のスマッシュは、元来より明らかに遅かった。

 

バシン!

 

スマッシュが文字通り、サービスラインを越える前に叩かれた。

 

『オ、オーバー! 21(トゥエンティワン)  ―  21(オール)!』

 

呆然とする麗暁と紅運、いや、パートナーである弦羽早もコートに落ちたシャトルを見つめる。

ラリーを始める前は傷一つなかったそれはあちこち傷んでおり、一枚だけ羽が落ちていた。シャトルは当然傷がつく程に飛びにくくなり、威力も弱まる。それを瞬時に把握してのスマッシュに対して前に詰めるプレイだった。

 

【…シャトルが傷んでいるのに気づいて前に出た? 悪い夢でも見ているようだよ】

 

愉快気な紅運だったが決して余裕からのものではないことは、彼の正体を知らない者からしても明らかだった。その眉はピクピクと痙攣している。

 

「…弦羽早、この二本で、決めるよ」

 

「…ああ」

 

コンと拳を交わし合って二人はポジションへ着く。

綾乃は審判から渡された新しいシャトルを持つと、乱れる息と揺れる肩を一呼吸おいて落ち着かせる。

 

綾乃の体力、弦羽早の集中力どちらも限界が近づいている。残り二本、ここで決めなければ未だ体力・集中力共に余裕のある麗暁と紅運を倒すことが不可能となる。

 

一点も落とすことができない、最終版のラリーが始まった。

 

 

 




今回ゾーンに入りました。攻撃力4000をリリースなしで通常召喚してきたりしそう。

あとゼロポジションは漫画でも出た単語ですが、実際は重心がゼロの状態って訳ではなく、概要は今回上げたので基本間違いではないと思います。
なんでわざわざリアル路線にするのと言われるとちょっと後に繋がるので。

綾乃のゾーンが早すぎかなと思ったりもしましたが、麗暁戦・なぎさ戦ラスト・益子さん戦では少なからず入ってたんじゃないかなと。

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