V's If-Story:ScalePowder of WhiteMoth 作:よしおか
ハルトが放った一言を理解するのに、ミツルは数秒の時間を要した。
「にんげん、じゃない……って」
つい今しがたハルトが見せた、異常な回復能力。指先の小さな切り傷から血が止まった程度ならば十分に有り得るが、その傷が瞬時に凝固し、切断された皮膚と皮膚の癒着までもが一瞬で終わるというその光景はどう見ても異常だ。
人間本来の治癒力に頼るのであれば数時間以上の時間をかけて行われる筈のそれは、早送りのVTRでも見ているかのように一瞬の出来事だった。
だがそれが何故、人間じゃないなどという突拍子も無い発言につながるのか。残念ながらミツルはこの時、言葉の意味を理解出来ても、その真意をすぐに察することは出来なかった。
「ミツル。ヴァルヴレイヴに乗った時、怪我してたって言ってたよね」
「あ、ああ、はい。でもあれは、ヴァルヴレイヴのメディカルシステムで―――」
「僕のヴァルヴレイヴには、そんなものは付いてないよ」
追い打ちをかけるようなハルトの言葉に、更なる混乱がミツルを襲う。
「ヴァルヴレイヴと“契約”したら、首の所に変な針みたいなのが刺さって、それで僕達はヴァルヴレイヴの操縦を一瞬で覚えた。たぶんその時に、薬か何かを一緒に流し込まれたみたい」
「そのクスリってのが俺達の身体を治した……じゃ、じゃあ俺があの時『撃たれた!』って思ったのって」
「多分、勘違いじゃないと思う。僕も戦う前に左腕が折れてたんだけど、あのメッセージに応じたら……気が付いたら腕が治ってた」
「折れて……!?」
絶句するミツル。
そのまま何も言えない二人に、おずおずとアイナが話しかける。
「やっぱり、お医者さんに見てもらった方が良いんじゃ……」
「ちょうどARUSが怪我人の手当てをしてくれてるし、軍隊なら良い医者も設備も整って―――」
「止めた方が良いわ」
アイナに同調したキューマの言葉を遮ったのは、腕を組んで立つサキだった。
「マンガなんかじゃよくある話よ。軍医に見せたりしたら、きっとモルモットにされる。捕まって利用されるのがオチだわ」
「……人道支援で来てる軍隊がンなことするか?」
「あんたが思ってるより汚いモノよ、大人って」
自分たちを保護した軍隊に疑いなど微塵も持っていないミツルの言葉を、サキは一言で切り捨てる。ミツルからすれば腹の立つ物言いだが、その言葉を吐き捨てたサキの瞳があまりにも冷たい色を湛えているのに気付いてしまい、反論の言葉を飲み込んだ。
ミツルだけではない。大人という存在を自分は憎んでいるのだと、隠すことなく蔑みの声を上げたサキの姿は、ハルトにも、アイナやキューマにとっても、何か底知れぬ“凄み”を感じさせるものだった。
「流木野さん、君は―――」
どうしてそこまで、と。
ハルトがその言葉を続けることは出来なかった。
(熱、い。のどが、かわいて……)
急激に、身体を焼くような熱。
立ち眩みを起こしたように視界がぐらぐらと揺れて、息が苦しくなる。
(なんだ、これ。あの時と同じ―――ー!?)
「が、っあ」
「ハルト?」
呻き声を上げたハルトに声を掛けたキューマは、ハルトの瞳がぐるぐると揺れて額にじっとりと脂汗を浮かべていることに気付く。
「ハルトさん? ハルトさん、大丈夫ですか!?」
「はっ、ぁ、かひゅっ……」
アイナが慌ててハルトの顔を覗き込むが、不規則な呼吸と共に荒い息を吐き出すハルトの瞳は焦点が定まらず、アイナが急接近していることにすら気づいていない。
「ハル先輩! うわ、すげえ汗だ!」
「ど、どうしちゃったの!?」
「ハルトっ、おいしっかりしろ! ミツル、そっち持て!」
明らかに尋常でないハルトの様子にざわめく一同。ひとまずハルトを医務室のソファに寝かせるべきかと判断したキューマはミツルに指示を出し、二人掛かりでハルトを運ぼうとする。
ミツルが異変に気付いたのは、キューマと共にハルトの肩を担ごうとしたその時だった。
「うぁ、う、う……!」
苦しげに呻くハルトの額に、見慣れない物が浮かび上がっているように見えたのだ。
(バッテンみたいな、痣―――?)
前髪の陰からちらりと見えたそれが何なのかをミツルが認識する前に。
「ふ、うぅ……がぁああああああああっ!!」
ぎろりと目を見開いたハルトが、ミツルに襲い掛かった!!
「うぉわあっ!?」
「お、おいハルトっ!?」
キューマの手を振り払い、犬歯を剥き出しにしたハルトは雄叫びを上げながらミツルに迫る。押し退けられようとお構いなしに首元目掛けて顔を伸ばすその様は、まるで吸血鬼が生者の血を求めるかのようだった。
「え? えっ!? は、ハルトさん、何してるんですか!?」
「噛み付こうとしてる……?」
あっさり払いのけられたキューマと抑え込まれたミツルを見て、アイナは背筋を凍らせる。サキもまた、小さい頃に読んだ児童書の吸血鬼を再現するかのような狂態に言葉を失っていた。
「やめろハルトっ、何してんだよ!」
「ああもうっ、これじゃ本当にヴァンパイアじゃない!」
一拍置いて我に返ったキューマとサキが腕や肩を引っ張るが、ハルトは二人を振り払おうとさらに暴れる。押し倒されたミツルも反射的に抵抗するが、見知った相手であることが無意識のうちに枷になり、殴って退ける、といった力任せの反撃に移ることが出来ずにいた。
「せ、先輩!? この、止め―――」
「がぁああっ!! ううぐぅぅあっ!」
「ちょっと、いい加減に――ーきゃっ!?」
小さな悲鳴と共に、状態は急転する。ハルトをミツルから引き剥がそうとしていたサキが、足をもつれさせてしまったのだ。
四人もの人間が密集しているその場ではよろけた身体を立て直すことも出来ず、サキはハルトとミツルの上に重なるように倒れ込んでしまう。
結果、サキの体重を背中に受けたハルトはミツルを押しつぶすように密着し、ついでにハルトを押し退けようとしていたミツルの手もその勢いで払いのけてしまう。
「いづぁっ!?」
伸ばした手を避けられ、とうとうハルトがミツルの首元に食らいつく。そこからは、エルエルフの時と同じである。
「ひっ、ぎ、あああああああっ!?」
牙のように鋭く伸びた犬歯が食い込んだ首元から、ぞわ、と広がる不快な感覚。
身体中の血管に冷水を流し込まれるように暴力的な“侵食”。
蹂躙、と表現するに相応しい勢いで広まるそれは、ミツルの意識を容易くねじ伏せた。
同じ頃、咲森学園の敷地内にARUSのトラックで運び込まれた二体のヴァルヴレイヴのうち、一体―――赤いヴァルヴレイヴ一号機『
無人のコックピットでコンソールの照明が灯り、その中央のモニター上でCGモデルの少女が薄く笑い、ペロリと舌なめずりをしたのだ。
頬を上気させ、情事の後のように瞳を潤ませた『彼女』が艶やかに微笑んだ後、モニターには片仮名で記された文字が浮き上がった。
『ゴ チ ソ ウ サ マ』、と。
ミツルが悲鳴を上げ、その大声に驚きながらもサキが慌てて二人の上から身体を退ける。すると、それまで暴れていたハルトがどさっと医務室の床に崩れ落ちた。
「……は、ハルト!? ミツル! おいっ、二人とも!」
しばし硬直する一同の中で、いち早く立ち直ったのはキューマだった。折り重なって倒れる二人の肩を揺らして声を掛けると、ハルトの下敷きになっていたミツルの口から、う、と呻き声が漏れる。
「ミツル、大丈夫か?」
「うぁ、犬塚先輩……?」
呻きながら身体を起こしたミツルはその場に居た面々を見回し、小さく言葉を放った。
「僕は、一体……?」
ぎくり、と。キューマ達三人は一斉に肩を強張らせる。
彼らの知る草蔵ミツルは、自分のことを“僕”と言うような奴ではない。そしてそのおかしな事態が起こる要因を、彼らは良く知っている。
「草蔵じゃなくて……時縞先輩?」
「え」
サキの問いに素っ頓狂な声を漏らしたミツルは、ようやく自身の足元に転がっているのが誰なのかを認識することが出来た。
ミツル……の身体を乗っ取ったハルトの足元には、意識を失ったハルト自身の肉体が、力なく横たわっていた。
「僕が、いる……あ、ああああっ!?」
自身が何を仕出かしたのか、ようやく正しく認識したハルトは、頭を抱えて絶叫する。
「あ、あの時と同じだ……エルエルフに、あいつに噛み付いた時と!」
これで、ハルトは確信してしまった。自分がエルエルフの意識を乗っ取ったのは夢や妄想では無く、確固たる事実なのだと。人にあるまじきその力を、望まぬうちに手に入れてしまったのだと。
いや、それだけならまだ良かった。エルエルフという“敵”だけならまだしも、渇きのような衝動に呑み込まれたハルトは見知った“仲間”であるミツルにすらその牙を向けてしまった。
それは即ち、ハルトが手に入れた『化け物の力』はハルト自身の意思に関係なく彼の大事な人達にすら向けられる恐ろしい代物なのだという、何よりの証明だった。
「やっぱり僕は化け物なんだ! ミツルだけじゃない、皆にだって何をするか―――」
「止せハルト、落ち着け!」
座り込んだそのままに、肩を震わせるハルト。恐怖と混乱の極みに居る彼を正気に返そうとキューマが声を掛けるが、自分の行いに慄くハルトにはその言葉も届かない。そんな彼の姿を見ていられなくて、堪らずアイナが涙ながらに訴える。
「そんな言い方しないで下さいっ! ハルトさんは、その力で皆を助けてくれたじゃないですか……」
「でも、僕は……」
俯いてしまう
「……ひとまず、話を整理しましょう」
ややあって、沈黙を破ったのはサキだ。或いは彼女自身も、次から次と問題が出てくる現状を少しでも整理したかったのだろうか。
「時縞先輩が草蔵に噛み付いたのは、先輩がやろうと思ってやった事じゃない。違う?」
「あ、ああ。なんかこう、急に目の前がぐるぐる揺れて……」
サキの問いかけに応じたハルトは、ひとまず意識を切り替える。彼女が言った通り、先程の狂態は決してハルト自身の意思ではない。少なくともハルトは親しい人間に牙を突き立てようなどと考えるような人間ではない。
しどろもどろになりながらも先ほどの状態を主観で語るハルトに、サキは顎に手を当てて思案する。
「衝動的なもの、要するに発作って訳ね。だったら多分、一定の周期だとか条件でそうなる筈よ。落ち着いてから調べてみれば、対策もとれるかもしれない」
ハルトの二度の“乗っ取り”と、そこから元に戻る場面を見たサキは、人差し指を立てて自分の推測を語る。現在意識を封じられているミツルも含めて、襲撃の日からもっとも長くハルトと共にいた彼女の言葉には、不思議な説得力があった。
「ひとまずは元に戻ったら? あいつの時と同じなら、先輩の身体に噛み付けばまた元に戻るでしょ」
ぐったりと倒れ伏したハルトの“抜け殻”を抱き起しつつ、テキパキと未知の事態に対処するサキの言葉を、ぽかん、と間の抜けた顔で聞くハルト(inミツル)。頼もしい後輩の女生徒の姿に有り難いやら申し訳ないやら色々と複雑な気分だった。
「流木野さん、なんていうか落ち着いてるね」
「さっきも言ったでしょ? マンガだとかライトノベルなんかじゃ良くある話……あ」
アイナの言葉にしたり顔で答えるサキだが、不意に言葉を止めるとそっぽを向く。
「って友達が言ってたのよ。私は全然ちっともこれっぽっちも詳しくないけど、その子が言うにはそういうものらしいわよ」
特に取り乱すような様も見せず淡々と告げるサキに、なるほどそういうものなのか、と納得するハルトとキューマ。しかしそんな三人を余所に、アイナは心中で乾いた笑みを浮かべていた。
―――流木野さん、私以外に友達居たっけ? と。
アイナの素朴な疑問は、言わぬが華、という奴であろう。一年三組の孤高の少女は意外と俗っぽい趣味を持っているようだった。
「……ぁ……」
暗闇の中で、ミツルは呻き声を漏らす。そこは、つい数時間前までミツルが乗っていたヴァルヴレイヴのコックピットの中だ。
焼けるように痛む腹部から、止め処なく血が流れ出す。リヒャルトに撃たれた腹部に風穴が開いていたのだ。
(撃たれた、のか……あ、痛い、痛いぃ……!)
少し力を抜けば、気が狂いそうな痛みの感触。半ば無意識に動かした右手が、せり上がっていたコンソールパネルを叩く。
「い、っつつつ……う、ん?」
段々と痛みに慣れてきたミツルの視界に、コンソールパネルに点滅する文字が目に入り、数泊遅れてその意味を理解する。
[搭乗者の生命維持に甚大な障害を確認。速やかな契約を推奨します]
[ニンゲンヤメマスカ? ― Yes/No]
(せーめーいじに、じんだいな……いや、契約って……? これを押せば、痛くなくなるのか?)
痛みで朦朧とする意識で思考を練るには、成長しきっていない少年の身体はあまりにも脆く。結局ミツルは、その意味を十分に理解することなくその契約を結んでしまう。そうしなければ死んでしまうと、頭のどこかが本能的に計算した故か。
(死にたく、ない。まだ、やりたいこともできてないのに。言いたいことも、言えてないのに。ニンゲンヤメルだか何だか知らないけど……)
死ぬよりはましだ、と。あまりにも安易に、しかし強い意志のもとに―――ミツルは、【Yes】のボタンに指を乗せた。
瞬間。
首元に走る小さな、しかし鋭い痛み。それはミツルの体組織を、遺伝子レベルで“革命”する。
「あ、あああぁぁぁぁぁ!?」
首元から全身に広がる熱。
ぼこぼこと身体が泡立つ感覚に身の毛がよだち、脳から乱雑に発せられる信号が全身を侵す。
筋肉が収縮と弛緩を繰り返し、血液がその構造を変えて行く。
―――全身を侵蝕する“情報”に捻じ伏せられ、ミツルの身体がミツルの物でなくなっていく。
痛みは無い。だが、強烈な不快感と嫌悪感を脳に叩き付けられるのと同時に、白の巨兵の操り方が、ミツルの全身に刻まれる。
―――当機はスリーヴイ計画における霊長兵器八号機である以下これを
やがて脳裏に焼き付けられたそれを、ミツルが理解した時。
「やるぞ『ヴァルヴレイヴ』……あいつらを、やっつけるんだ!」
コックピット越しに見えた“敵”を葬る為、ミツルは操縦桿を握った。
『―――!?』
『――、―――――!!』
コックピットの外で何かを叫ぶ敵。しかしミツルはそれに構わず、少し離れた場所の敵へと巨兵の指を向けると、比べるのも馬鹿馬鹿しいその体躯を無造作に握り込む。
なにかつっかえていた様なものが取れる軽い感覚と共に、標的はぷちっと潰れて簡単にひしゃげる。
残る一人を“やっつけようと”した瞬間、がくん、と視界がせり上がった。
「何だっ!?」
狼狽えるミツルだが、すぐに焼き付けられた情報から、緊急起動用のカタパルト・エレベーターが作動したのだと“思い出す”。
上空に目を向ければ、地下八階から地上へ直結した縦穴の向こうに、太陽を模した光が見える。
そのまま八号機の脚部アクチュエーターを動かし、ミツルはその光の中へ飛び込み―――
目を覚ましたミツルの視界に入ったのは、医務室のソファの背もたれだった。
「俺は……」
「気が付いた?」
自分の身体が横になっていたのだと気付くと同時に、ここ二日間で多少は聞き慣れてきたクラスメイトの声が耳に入った。
「流木野……そうだっ、ハル先輩は」
何故自分の隣に流木野サキが、と疑問に思うのも束の間。ミツルはつい先ほど、医務室で何が起きたのかを一瞬で思い出す。
飛び跳ねるように身体を起こすと、ぐら、と視界が揺れてそのまま前のめりに倒れかける。
「時縞先輩なら、七海先生に呼ばれたわ。ARUSのお偉いさんと面談だそうよ」
「あの後どうなったんだ。先輩は一体、ていうかなんで俺気絶して」
「落ち着けよ、ミツル」
矢継ぎ早なミツルの問いを押し留めたのは視界の外から聞こえてきたキューマの声と、一緒に飛んできたペットボトルだった。
「うお、っと」
放り投げられたペットボトルをあわや取り落としそうになりながらもキャッチしたミツルは、同じものを複数抱えているキューマと、その後ろに見える壁掛け時計に目を向ける。
「だいたい五、六分ぐらいだな、お前が気を失ってたのは」
「そうッスか……あれ、櫻井は」
「たった今全校に、自分の教室に戻れって連絡があったんでな。お前と、あと流木野さんが医務室で休んでるって伝えに行ってくれたよ」
ミツルについては勝手にスマートフォンを弄って誰かにメールするわけにも行かず、サキの場合はそもそもメールを送れる相手がアイナしか居ないためであろう。
ミツルが納得していると、キューマが腕に抱えていたペットボトルをサキにも渡して、ついでに自分が飲む分も一本開ける。ぷしゅ、と炭酸ガスが漏れる音と共に、『ビースト・ハイ』の柑橘系の香りがボトルから溢れる。
とりあえず飲んどけ、とキューマに促され、投げて寄越されたボトルのキャップを捻る。柑橘の香りに喉の渇きを自覚したミツルは、どうも、とぶっきらぼうに応えると『ビースト・ハイ』を一気に呷った。
グレープフルーツの香りと舌を潤す甘ったるい水分の感覚に一瞬遅れて、しゅわ、と炭酸の刺激が口いっぱいに広がり、爽やかなその感覚が喉を通り過ぎる頃には、起き抜けのミツルは完全に目を覚ましていた。
「……思い出しました。ヴァルヴレイヴに乗った時、何が起きたのか」
上唇に残る水滴を指で拭い、ミツルはキューマとサキを見据える。
「さっき、最初に乗った時のこと夢に見て。勘違いじゃなくて、確かに俺、ドルシアの連中に銃で撃たれたんです」
「じゃあやっぱり、草蔵も……」
「ああ。先輩と同じで、ヴァルヴレイヴの変なメッセージに応じたら怪我が治った……首の所に、薬か何か流し込まれたせいだと思う」
サキの問いに答えたミツルは机の上にあったメスを手に取り、ハルトがそうしてみせたように左手の指をなぞる。
プレパラートの上に血を滴らせる指は、数秒もせず血が止まり、肉が蠢くこそばゆい感覚と共に一瞬で完治した。
「ハルトと同じって訳か……じゃあ、“乗り移り”も出来るのか」
「乗り移り?」
首を傾げたミツル。その疑問に応じたのは、ハルトが二度に渡って噛み付いた相手の意識を乗っ取る様を目にしたサキ。
「あの銀髪の男、最初に時縞先輩がヴァルヴレイヴから降りた時、先輩を殺そうとしたんだって。でも先輩があいつに噛み付いたら、あいつの身体に乗り移ってた」
サキの放った言葉は、これまで散々異常な事態に直面してきたミツルを以てしても、一度には理解しかねるものだった。
「……いや、待て、いやいやちょっと待て。乗り移るってお前……」
「だから、先輩が噛み付いた相手の意識を乗っ取って、そいつの身体を動かすことが出来たの。私だって俄かには信じがたいけど、実際に見ちゃったんだからそうとしか言えないわよ」
何度も言わせるな、と頬を膨らませるサキだが、それにしたって、とミツルの脳は理解を拒む。いくらなんでも本当だとは思えなかったし、何より想像がつかなかったのだ。
人格入れ替わりという現象を、ミツルは漫画の中でしか知らない。それも、ギャグ漫画の演出などで良く扱われる、人と人とが頭を打ち付けたら中身が入れ替わる、といった下らない類のものだ。
だがそんな下らない状況が事実であると、然して親しくも無いクラスメイトが真面目に言っているのを聞くと非常に違和感があった。
疑いの感情を隠さないその視線が癇に障ったのか、サキは眉間を一度ひくつかせると、はーっと大きく息を吐いた。
「……草蔵、ちょっと口開けて目を閉じなさい」
「え」
「早く」
有無を言わせぬ勢いのサキに迫られ、ついついミツルは言われた通りにする。
そしてサキはミツルの頭を右の手で押さえると。
「よっ」
「んぐっ!?」
「ちょっ流木野さ、うぉああああっ!?」
一瞬で捕まえたキューマの手首を、あんぐりと開いていたミツルの口に突っ込んだ。
「……状況はわかった。お前が言った事も本当だった」
数分後。何か目の奥がチカチカと光った次の瞬間、いきなり視界が高くなった事、いきなり自分の声が変わった事、足元に意識を失った自分が転がっていた事などにひとしきり驚き、騒ぎ終わったミツルは、深々と溜息を吐きながらサキに向かって恨めし気に言い募る―――キューマの声で。
「けどさ、もうちょっと他にやり方なかったか?」
「論より証拠って奴よ」
「証拠どころか実演したんだろーが!? 俺達に無断でっ!?」
普段よりも視界の高い体躯で以てがーっと吼えるミツル(外見キューマ)だが、サキはそんな彼に怯む素振りすら見せず、再びソファに倒れ込んだミツルの肉体をしげしげと観察する。
「本当に時縞先輩と同じね。二人とも今は同じことが出来る、と思っていいのかしら」
「お前ね……いや、もう良い」
こうも悪びれもせずに堂々とされると、いっそ清々しさすら感じてしまうから不思議なものである。この数時間で完膚なきまでに破壊された『クラスの寡黙な美少女』のイメージの破片を脳内から余所へと追いやり、ミツルは本日何度目か分からない溜息を吐いた。
「けど、本当に噛み付いた相手に乗り移る、なんて……益々以て人間じゃなくなったな、俺」
体格の良いキューマの身体に意識だけ入り込んだミツルは自虐的な笑みを一つ浮かべると、拳を握って開いてを繰り返し、ついでに抜け殻となった
「俺じゃ犬塚先輩の身体を自由に使えない、って訳ではなさそうだな」
「それも、先輩と同じね。あの銀髪を乗っ取った時縞先輩、跳ぶわ撃つわの大活躍だったわよ」
なんだそりゃ、とサキの言葉に首を傾げるミツルだが、そのサキは怒りに我を忘れたハルトが殺人を重ねたことを言いふらすつもりはないと見えて、ミツルの疑問には答えずに思考に耽る。
その様を見て、ぼそっと呟くミツル。
「なんか流木野、随分と楽しそうだな」
「そう? 自分ではそこまで顔に出したつもりはなかったけど」
ミツル自身気付いていなかったが、サキとこうして長時間話したことなど今までには無く、というかそもそもサキとこうして向かい合って話すこと自体初めての経験だった。
「けど、目の前でこんなことが起きてるのよ。何が起きてるのか知った方が面白いじゃない」
「面白い、って……お前なぁ! こんな時にンなこと言ってる場合か!?」
突如引き起こされた戦争と、祖国の事実上の消滅。偶然自分たちが手に入れた武力と、あまりにも大きすぎる代償。
相次ぐ異常事態を楽しむようなサキの物言いに、堪らずミツルは激昂する。確かに漫画やアニメの中にしか有り得ないような事態が連続して起こってこそいるが、当事者であるミツルとハルトにとっては堪ったものではない。楽しげに相好を崩すサキの微笑は常ならば男としては惹かれるものであったが、正直なところ今のミツルにとっては不謹慎を通り越して不愉快極まりなかった。
「こんな時だから、よ」
しかしサキはミツルの怒りにも揺らぐことなく、勝気な笑みで以て言い返す。
「何が起きてるのか分からない事には、解決する方法だってどの道分からないわ。だったら前向きに、もっと肩の力を抜いて取り掛かった方が良いわよ。有り得ない事態を楽しむようなつもりじゃないとやってられないでしょ?」
「……わぁーったよ」
筋だけは通ったその言葉に更に何かを言い募ることは出来ず、ミツルはそっぽを向く。決して言い負かされたのが悔しいからではない。ないと言ったらない。
(そういえばこいつ、俺がヴァルヴレイヴに乗った時、ハル先輩の方に一緒に乗ってたんだっけ)
普段、何事にも興味を示さずクラスの隅で静かにしている彼女の様子とは大違いだ、と考えた時、混乱するアイナから“サキを助けてくれ”と頼まれた時のことを思い出す。
(なんか変、つーか。そもそもこいつ、何で先輩に着いて行ったんだ?)
ここまで熱心に事態を探ろうとしているサキが何を考えているのか気になって、彼女に問おうとした時。
「ミツル、居る?」
医務室のドアを開ける音と同時に聞き慣れた声で名を呼ばれ、ミツルは口元まで出かかった問いを飲み下した。
「っとと、何すかハル先輩」
「あ、犬塚先輩、ミツルは……って、え?」
「あ」
うっかりいつもの癖で応じてしまい、ミツルは自分がキューマの身体に乗り移っていたことを思い出した。
「……犬塚先輩、じゃなくて……」
「……中身、草蔵ミツルです」
「なっ、何してるんだよ!?」
結局そこからハルトを落ち着かせ、更に何が起きたのかを説明しているうちにミツルは自分が抱いた疑問そのものを忘れてしまい、サキの内心を探ることはしなかった。
数週間の後。彼女が引き起こした行動とその動機に、ミツルは呆れ、怒り、ハルト共々忙しなく振り回されることになる。
キューマ「うわっ、俺の最近の扱い、酷過ぎ……?」