英国 ロンドン 繁華街
――この頃の世界情勢というものは、ここ数十年でもかつてないほどの緊張の中にいると言っても過言ではない。
このヨーロッパの少し離れて北にあるブリテン島でさえ、その影響を少なからず受けていた。
中東での動乱をきっかけに人々は故郷を離れることを余儀なくされ、難民が現れる。
各国が対応に追われている中で、イギリスにも決断を迫られた。
最終的にイギリスにも多くの移民が流れ、ロンドンの人口は増大。
文化の違いから諍いに発展することも多く、現地の住民たちも共生の難しさを経験として持っている。
これらの出来事はすべて魔術とは関係なしに刻まれてきた歴史である。
魔術などなくとも、世界は銃器や爆弾によってたやすく危機に瀕するものである。
まして世界から隔絶されたはずの、錬金術師や魔術師などという存在がこの世界に露見されでもしたら、世界中の人々は一体どんな顔をするだろうか。
とある軍事国家の首相が、長年の財力と権力をもって実行してきたそれをいともたやすく覆すようなモノが、果たしてこの世の地中奥深くに隠されているなどとは想像もしえないだろう。
これからセイバーを召喚し、そのマスターとなってしまうごく普通の大学生、カナウ・アルバーンは小説をこよなく愛してはいたが、それら"魔法"といったものが多くの場合"偽物"であるという一般的な分別は当然持ち合わせてはいた。
この日彼は研究室で課題を提出して用事を済ませた後、同学年の友人とカフェでのんびりしていた。
本人曰くなんとも普通な一日になる予定だった。
落ち着いた茶色い木造の空間は、彼らのお気に入りの穴場である。
有名チェーン店のカフェは少しばかり賑やかすぎて、カナウの好みの雰囲気ではなかった。
「ほら、まーたサイレンだ」
「早く捕まるといいね、脱獄犯」
「目撃証言はたびたび出てるらしいが、奴さんはかなりの俊足らしいからな。まるでニンジャさ」
円卓に向かい合って座り、机の上にノートやアイスコーヒーを広げる学生が二人。
この静かな空間にも徐々に浸食を開始するけたたましいサイレンにため息をつきながらカナウと、彼の友人アーサーは気だるげな会話を続けていた。
サイレンの主が離れていくのを確認すると、店には再び静寂が訪れた。
ここ最近は毎日鳴っていて、聞きなれたという感じでアーサーは冗談っぽく笑い飛ばす。
「そういえばオカルト好きの間じゃ色々噂になってるらしいぜ」
「噂?」
頭の後ろに両手を回し、枕のようにして椅子にもたれかかりながらアーサーは話し始めた。
「どうもここ最近のサイレンは連続通り魔事件によるものらしいんだ。死亡している者もいる」
「そんなこと、ニュースで全く言われてないけど……」
初耳だとカナウは返す。
「何故かニュースにならないんだよな。ほら、同学年のリサっていただろ?」
「リサ? そういえば先週から顔を見てないけど……え、まさか」
「実は聞いちまったんだよ、教授たちが話しているのを……あいつ、入院してるんだと」
――アーサーにしては今回の話はよくできてる。
興味がわいたのか、身を乗り出してカナウはアーサーの言葉に聞き入った。
「運ばれてきたリサが、両親や見舞いに来た教授に言ったらしいんだ。"黒い犬"を見たって」
「"黒い犬"!」
目を見開いて、喜々としてカナウは復唱する。
「ああ、そうだ……死神犬だよ。なーんでか情報統制がされているっぽいんだよなぁ。イギリスで死神や幽霊なんて、別に珍しいものでもないだろうに」
「そういうニュースなら喜々として報道しそうなものなのにね」
「ああ、だからこそ連中が期待してるんだよ。『今度は本物かもしれない』って夜中に十字路という十字路を回っているらしい」
その様子を思い浮かべてニヤニヤしながらアーサーは尋ねた。
「お前も興味あるか、カナウ?」
「でも、死神犬って見たら死ぬんだろ? 仮に本当だとしても危険じゃないか?」
「まさか、いくら犬でもさすがに見ただけで死にはしないだろ!」
「だといいけど……」
――死神犬か。こう言っちゃなんだが、ロンドンの街を賑わす都市伝説としてはロマンのある話だ。
何より安易に吸血鬼とか、怪人とか持ち出してこないあたりが渋くて、現実味がある。
SF小説もたまには読むが、最近は悪魔だとか吸血鬼だとか食傷気味だったからな。
「オーケー、とりあえず夜道には気を付けることにしよう。実害も出ているみたいだからね」
「ああ、その方がいいだろう。お前、いつも図書館通いで帰宅が遅くなるんだろ?」
「まあね。今日も行くつもりだ」
「本を借りにか?」
「読ませたい人がいるんでね」
いつの間にか氷が解けて薄くなっていたコーヒーを一気に片付けると、カナウは広がっていたノートをまとめてカバンにしまい込む。
「都市伝説がいるなら、ヒーローがいたっていいとは思うんだけどな」
不意につぶやいた言葉が波紋のように自分の頭で反響する。
少し面を食らったような顔をして、アーサーが冗談気味に尋ねる。
「バッ●マンみたいなか?」
「ロンドンってそういうのいないだろ?」
「いるにはいるさ。アメコミほど人気じゃないだけで」
「だといいんだけど」
「あー……ええと、今度お前の読んでる本、俺にも貸してくれよ。あんまり長くないやつ」
「ありがとう、今度用意しておくよ。」
友人に手を振ってカナウ・アルバーンは喫茶店を後にした。
浮かない顔をして去っていく友人を窓ガラスの向こうから眺めてアーサーは呟いた。
「しまった……今のコミュニケーションはだめだったかな。カナウは面倒くさいやつだからなぁ」
そして自分の分のコーヒーを一気に飲み干した。
***
――ヤバイ。
――ヤバイヤバイヤバイヤバイ。
バーサーカーの言葉を引用するならば、近道にハイドパークの敷地を横切ろうとしていたこの瞬間が、カナウ・アルバーンにとっての「運命」の予兆であった。
彼の人生史上で最も早い速度で左右の足を交互に動かし、夜の森の凸凹した道もものともせず、彼はかばんを小脇に抱えたまま脱兎のごとく走り続けていた。
後ろから追いかけてくる得体の知れないバケモノたちから逃げて、"なにも見なかったことにする"ためだ。
だが追っ手は簡単には諦めてはくれない。
彼らもまたカナウにとって最悪な結果で"なにも見なかったことにさせよう"としていることは明白だった。
――誰だ!?
――あ……まさか見られたのか!
「なんだ……いったいなんなんだ!」
――時代に似つかわしくない格好の男が二人。『魔術師』という言葉……。
普通の人間ならおとぎ話か、さもなくば漫画の読みすぎだ一蹴されることだろう。
あのサーヴァントたちから放たれる人間離れした武器や奇跡とも言える"何か"。
そして殺気。目撃者を残さないとする強い眼光。
彼は瞬時にそれらが"本物"であることを確信してしまった。
見てはいけないものを見てしまったことにはすぐ気が付いたが、目の前で繰り広げられる戦いに足がすくみ、反応が出遅れてしまっていた。
全身から体温が引いていくのを感じると、ようやく無我夢中で振り返り、来た道をダッシュで走り出していた。
まるで一挙手一投足がスローモーションのようだ。
彼の中で走馬灯という言葉がよぎる。
カナウ・アルバーンはあまり運動は得意な方ではない。
どちらかといえば室内で本を読みふけるような人間で、スポーツも大学の講義や友人との付き合いでやる程度のものだ。
これまでの彼の日常はいたって平凡である。
この日もセント・パンクラスにある大英図書館で数冊の本を借り、それを彼の新しい友人に紹介しようというところであったが、それが――
――それが、こんなことになるなんて。
――あの男女の魔術師?もずいぶん若かったな。くそ、もっとそういうのは隠れてやれよ。未熟者め!
彼はもちろん魔術師の事情など知らない。
彼らのかけた人払いの魔術が不完全だったのかどうかはこの時誰にも定かではなかったが、彼は半ば八つ当たり気味にあの場にいた名も知らぬ四人を心の中で罵倒した。
***
――私を呼べ。
――私を呼ぶがいい、マスター。
――さあ、呼べ。呼ぶんだ。
――お前は聖杯に選ばれた。
***
しばらくして再び街の景色が見えて来た。
マーブル・アーチ――先ほどカナウが横切って近道にとこのハイドパークに忍び込んだ方角である。
ロンドンは夜間も賑やかなものだ。
適当に警官か、バスの運転手でも捕まえて、さっさとここから離れてしまえばよいだろう。
――逃げ切れる!
そう確信したのもつかの間。
「……うわっ!」
全速力で走るカナウをものともしないスピード、彼の目の前に一つの影が下りたって、衝撃と共に土煙が巻き上がる。
突然の出来事に驚いてバランスを崩したカナウはそのまま地面にしりもちをついてしまった。
影の方を見ると、先ほどカナウに対して鋭い視線を向けた鎧兜の男がすぐそばにいた。
両手に剣を構えていて。
「よう、こんなところで何してるんだ?」
「……!!」
走りきったばかりのカナウの体は、動機が収まるどころかさらにその拍動を速めていく。
「お、お前たちはいったい……」
足が震えて立てぬままのカナウ。
「そのセリフからして、お前は"こちら側"の人間ではないな」
恐る恐る尋ねるカナウの言葉にも、ランサーは冷酷に返す。
「それにしても人払いすらしっかりできてなかったとは、マスターの今後が少し心配だな」
「何か言ったか、ランサー?」
遅れてランサーの後を追いかけて来たマスターの少年。
カナウも同様にこの少年に対してはその幼さに先に目がいく。
「子どもがどうしてこんな……」
「うるさい、僕を子ども扱いするな!」
「子ども」という言葉に激高した少年は右手の袖をまくり上げると、ひじから指先にかけて電気回路のような直線が複雑に絡み合う文様が浮かび上がる。
そのまま指先をカナウに向けたかと思うと、次の瞬間銃でも撃つかのように赤黒い"弾丸"がバチバチと音を立てて放たれた。
「うわぁ!」
弾丸がカナウの肩に直撃する。鋭い痛みと、直撃した個所から徐々に体温が失われていくのを感じていた。
恐る恐る彼が見てみると肉体の方から先が青くなっていて、その色が徐々に広がっていくにつれてカナウの悲鳴は大きくなる。
「な、なんだこれ。なにを、した!?」
「フン、ガンドも碌に対処できないとはな……本当に巻き込まれただけの一般人か。シャルロットのやつ、人払いも碌にできないとは、今後が少し心配だな」
「……」
ランサーはリャオファンの方を見て少しため息をついたが、すぐにカナウを視線に戻しながらマスターに指示を仰いだ。
「このままガンドで苦しみ、死ぬだろうが、俺が楽にしてやることもできなくは無いぞ。いいよな、マスター?」
「だめだランサー。こいつは僕が殺す」
「……了解した」
苦しむカナウを前にしてリャオ・ファンは半ば独り言のように続けた。
「倫敦の一大事だってのに、お前たちみたいな平民がのうのうと生きているのを見ると、虫唾が走るんだよ」
「どれだけ努力してると思ってるんだ。この崇高なる星の歴史の裏で僕たちがどれほどの活躍をしているのか、お前にわかるか!」
「長く苦しいものだ。あらゆるものを犠牲にして……そんなの割に合わないんだよ」
「せめて僕たちを楽しませるようにして死んでくれたら文句はない。何分あがけるのか見物だなぁ……!」
語尾が強まる。
13歳前後の子どもが言うには、それはあまりに残酷で冷酷な言葉だった。
カナウ・アルバーンは目の前の顔をゆがめた魔術師を前にして、ただただ震えて悲鳴を上げることしかできない。
――痛い。それでいて徐々に意識が薄れていく。肩の先から感覚がなくなっていく。
左手から先は既に何も動かなかった。
青い痣が広がり首筋まで迫っていた。
――嫌だ。こんなところで死にたくない。死んではだめだ。
もがき苦しんでうずくまるカナウ。視界の端でふと抱えていたカバンを捉える。
布のカバンからわずかに漏れ出す光が見える。
――助けてくれ。誰か、誰か助けてくれ。
既に意識を保っているのも限界だったはずのカナウ・アルバーンは、その光に手を伸ばしていた。
目の前の芋虫のようにのたうち回る"ただの青年"を前にしてリャオ・ファンはただ満足げに、魔術師の何たるかをつらつらと語っていた。
そして、カナウがその光に手を伸ばしていたことにも気が付くことが無かった。
「……」
ランサーだけはその光景をただ静観していた。何かの予兆を感じ取って――
――新たなサーヴァントの召喚を予見して。
***
そして森に一陣の風が吹いた。
少年が光に手を伸ばすと、光はあっという間に拡散していき、周囲をきつく照らしていく。
よそ見をしていたリャオ・ファンだったが、突然の光に動揺し悲鳴を上げる。
「なっ……なんだ! 敵襲か!?」
「いや違うぞマスター……こいつは」
慌ててランサーの場所を確認しようとするリャオ・ファンとは対照的にランサーは冷静に対応する。
ランサーはこの輝きの中でも決して顔をそらさない。
目の前で、新たなサーヴァント――新たな強敵の瞬間を今か今かと待ち望んだ。
――誰が来る?
――召喚陣も無しで、ただの一般人が、一体何を召喚する?
ランサーは期待に胸を膨らませ、その誕生を一挙手一投足見逃すまいと召喚陣を見つめていた。
英霊召喚の神々しい光が柱となって天まで届く。
倫敦の陰鬱な雲を割いて高みに届くと、代わりに稲妻が下りてきて光の柱は徐々に狭まっていき、その中に人影が増えていることにランサーは気が付いた。
風が止んだ。
代わりに倒れていた青年をかばうようにして一人の"騎士"が剣を地面に突き立てて堂々と立っていた。
ランサーはその体躯に目を見開いた。
召喚されたサーヴァントは鎧兜に身を包んでいたが、顔を隠してはいなかった。
現れたその騎士は、騎士にしては華奢な体躯であった。
頭部は羽のような装飾が付いていて美しさを重視していた。
灰青色の軽そうな鎧に身を包み、手にしていた剣は両手持ちの、豪華な装飾の込められたものである。
そして何より、召喚時に風で吹かれていた長い青の髪の毛、控えめではあるが少し山なりに突き出た胸部の装甲。
そのサーヴァントは女性であった。
「女……?」
ランサーが呟く。
今しがた現界したそのサーヴァントがランサーを見て開口一番言い放った。
「サーヴァント、セイバー。汝らの不正をただすため、ここに推参した誇り高き騎士である!」
投稿予約の設定を間違えていて、お昼に投稿できていませんでした。
お待たせして申し訳ないです!