ロンドン郊外 ハイゲート
――ヤバイ。ヤバイヤバイヤバイ。
見つかるのは時間の問題だとは思っていた。
男はついに修羅へと足を滑らせた。
街灯もない夜の森を、追っ手から逃れるために男は全速力で走り抜けている。
着の身着のまま何も持たずに外へ飛び出し、潜伏場所にこの墓地を選んだ。
左右から照らされるライトの応酬。今や逃げ場はほとんどない。
普段は静かな夜の森であるが、この夜の大脱走に近くの動物たちは震えてその場でうずくまるか、すぐに距離を取って逃げ出すかの二択を迫られている。
すぐ近くで銃声がした。威嚇射撃だ。
続いて響く警官の怒号。
心臓が口から出そうになるほどの衝撃に瞳孔は最大限まで開き、ライトに目をくらませながらそれでも男はひたすらに左右の足を全速力で交互に動かしていた。
「ちくしょう……なんでこんなこと……!!」
息も絶え絶えに悪態をついて、"脱獄囚"はハイゲートの森で命がけの逃走劇を続けていた。
すでに十数人もの警官たちに彼は囲まれていた。
***
男の名前はセルデン・オースティン。
十数年前、妻とお腹の子どもを殺害した罪で捕らえられた囚人である。
当時はシリアルキラーとしてしばらくの間ニュースでトップを飾った大事件の張本人である。
セルデンは一貫して無実を主張したがこれが聞き入れられることはなく、判決はイギリスでは最も重い無期懲役で裁判は締めくくられた。
被害者の遺族、そしてセルデンの両親でさえ激高した。
裁判結果ではなく、彼の犯行に。
彼の無実を主張するものは彼以外にはいなかった。
警察の調べでは証拠は決定的であり、彼以外に犯行を行うことが可能な者はいなかった。
――魔術師という可能性を除いては。
男はコンクリートの独房で今後の長すぎる時間を過ごすはずだった。
しかしこの世のすべてに絶望した男の前に、ある時現れた老人が彼に復讐の炎を起こさせることになる。
「セルデン・オースティンというのはおぬしのことか?」
「……」
独房には独自のカーストがあった。もはや終身刑ですでに十数年の時を過ごしていた。
彼も入所当時は先輩の囚人たちにこき使われるような小物であったが、やがてそれもすぐに終わる。
腕っぷしには自信があり、体格も大きく目つきは肉食動物のように鋭かった。
投獄されて間もなく彼のカーストは頂点へと達するが、それと同時に酷く心を消耗させてしまっていた。
いっそ本当に罪を犯して投獄されていたのならば、諦めもついていただろう。
入ってきたばかりの向かいの独房の老人に礼儀の一つでも教えてやろうかと思い立ったセルデンは、起き上がって老人の方を格子越し見た。
外見の年齢はゆうに100歳を超えているように見えて、生きているのが不思議にさえ思えた。
「おいおい、その体でどんな罪を犯したってんだ、あんたは?」
――このじいさんは何をやらかしたんだ。
俄然興味がわいてきたセルデンはカーストの事も忘れて老人に尋ねようとした。
だが、尋ねる前に老人の方からセルデンへ言葉を投げかける。
「セルデン・オースティンというのはおぬしのことじゃな」
「……そうだ」
「十数年前、妻子を殺して終身刑になった?」
「俺は殺してない」
「殺した、というのが世の中の判断らしいがの」
セルデンは老人を驚かせようと、格子を拳で殴りつけて派手な金属音を立てる。
周囲で気弱そうな他の囚人の喚き声が上がるが、彼らの気にするところではない。
ところが老人は関せずといった様子で彼の愚行を眺めていた。
「……真実を教えてやろうか、セルデンよ」
「なに?」
老人の言葉から気になる言葉が聞こえてきて、セルデンは再び静かになった。
「お前の愛する妻子を殺した者の正体を教えてやろうと言っている」
「……どういうことだ」
セルデンの表情が一層険しくなる。
「お前の妻子を殺した人物……"魔術師"について教えてやろうと言っている」
再び鉄格子を叩く激しい音に、今度は怒号が飛ぶ。
「おいクソジジイ! 四股どころか脳みそまでダメになってるみてぇだな!」
「人をイライラさせて楽しいか!?」
「……」
セルデンの怒号に、老人は何も答えない。
しかしセルデンが興奮したあとの息継ぎに一度言葉が止むと、しばらくして再び口を開いた。
「おぬしの妻子は魔術師に出くわし、そして口封じに殺された」
「……それ以上喋ると殺す」
「やれやれ、強情じゃのう」
「では、実際に見せるのが早いかのう?」
セルデンはギョッとした。
聞こえるはずのない声が後ろから聞こえてすぐに振り返ると、そこには四股を持った老人の姿があったからだ。
両腕で杖を突いて、老人はセルデンのすぐ後ろにいた。
「なっ……!」
目の前の出来事をうまくのみこめずに、セルデンは目を見開いたまま立ち尽くす。
「な、なんだ。刑務官のやつら、俺をだまして笑いものにしようとしているのか?」
「目の前の出来事は紛れもない事実だ。秘匿された存在。これが魔術師というものじゃ」
「ありえねぇ……そんなのいるはずがねぇ……! 手品か何かを使って」
――手品か何か。
セルデンがそのような言葉を口にして老人は突然大声で笑い始める。
明らかにこれまでの様子と違う声量と迫力のある笑い声にセルデンは委縮し始める。
――ビビってる、この俺が?
ふと鉄格子の向こうの、先ほどまで老人がいた側を見やる。
再び老人は反対側の独房に収められている様子が見えた。
そして後ろから杖を突いた老人の姿は消えていた。
取後れた目をこすったり、自らの頬を叩いたりしてこれが夢でないかと確認するセルデン。
そんな彼を見て四股のない老人が再びにこやかに微笑む。
「近いうちに、お前にチャンスが訪れるじゃろう」
「魔術師たちに"復讐"するチャンスがのう」
枯れた声が独房に響く。
老人の言葉はまるで甘い蜜のようにセルデンの心を突き動かそうとしていた。
「この世の裏側の住人。魔術師たちだ。よく覚えておけ」
「此処を出たらまずはハイゲートに行け。復讐するなら、このチャンスを逃さない手はないぞ」
「あんたは俺に復讐してほしいのか……なんのために?」
セルデンの声は未だに興奮と恐怖で震えている。
「……」
老人は何も答えない。
「教えてくれ、魔術師ってやつらのことを! 教えろ! クソジジィ!」
老人は何も答えない。
「俺の家族を殺した魔術師はどこにいる! 教えろ! さもないと!」
格子をガンガンと揺らして男は老人に迫る。
老人は何も答えない。
騒ぎを聞きつけた刑務官が老人の容体を確認する。
老人は静かに眠っていた。
***
ほどなくしてセルデンの収容されている独房で信じられない出来事が起きた。
外に出ての囚人たちの運動の時間の時である。
クリケットをしていた囚人たちだが、バッターの一人がボールを信じられないほど飛ばしていまい、守備をしていたセルデンはボールを探しに刑務所の隅まで走っていた。
そこで彼は見つけた。
刑務所の壁の一部が消失していて"外の世界"へつながっている。
恐る恐るセルデンは壁を見つめた。
水面のようにゆらゆらと壁が動いていたが、誰も何も気が付いていないようであった。
緊張につばを飲み込む。彼はこの後の自分の進退を天秤にかけた。
――このままここにいても、どうせ終身刑でみじめに人生を終えるだけ……。
ならばせめて、"やれるだけやってみる"というのもアリか?
――何より、家族の仇を……魔術師を殺す。そんなチャンスが本当に……。
セルデンは次第に壁に浮かび上がっていた波紋が消えかかっていることに気が付いた。
決断を迫るように外の世界は次第に見えなくなって元の壁に戻ろうとしていた。
「!」
この出来事がついにセルデンを船へ乗せることとなる。
宛てもない過酷な航海になることは彼も確信していたが、それでも修羅に身を落とすことへの躊躇をついに捨て去った。
彼は信じられないほどの反射神経を見せると、一気に壁に向かって跳躍し、やがて姿を消してしまった。
***
ハイゲート墓地の中心部、老人に言われた場所に向かってセルデンはひたすらに走っていた。
現代の警察の捜査力を甘く見ていたわけではないが、それでも驚き憔悴していた。
――こうもあっさり見つかってしまうとは。
しかしながら彼の目標地点で合ったハイゲートの墓地にはすでに到達している。
このまま何が待つかもわからない場所へただ縋るようにしてセルデンは走り続けた。
不意に脇腹に激痛が走る。
痛みによって急に感覚が鋭敏になった。
銃声が周囲で鳴りやまないが、そのうちの一発の銃弾がセルデンの脇腹をかすめたのだ。
アドレナリンが爆発しているためか、それでもセルデンからスピードが失われることはなかった。
投獄前は特殊部隊で国のために身を粉にして働いていた。
この程度の怪我で止まれるはずが無かった。
――バカなことをしたとは思わない。
不思議と正しいことをしている工程完了だけが募り始めていた。
これはただの復讐ではない。真犯人を捉え家族の仇。
そのための一手だ。
――だから、なんとしてでも生き残らなければならない。
「……!!」
ついに原生林を抜けて、開けた通路に場所に出る。
セルデンは大きく目を見開いて、その場所をじっと眺めた。
周囲に墓石がひとつも無い敷地、十字路の小路の上に大きく描かれた赤い円形の陣。
見たことも無い字が陣に沿うようにして書かれている。
セルデンもゲームぐらいはしたことがあるので、このような陣に縁がないわけではなかったが、それを力なく笑った。
――やっぱり、子どもだましか。あーあ、バカなことをした。
――こんな玩具みたいなもののために脱獄までしてここまで走って来たのか。
「……つっ」
熱が冷めるのと同時に脳内麻薬は切れていき、腹の痛みが戻って来た。
ドクドクと血が流れているのを肌で感じる。
特殊部隊にはいたが、彼は銃弾を浴びるのがこれが初めてだった。
それもかつての仲間に撃たれて。
「動くな!」
後ろからセルデンに声をかける者がいた。
全身を黒い装甲に身を包んだ機動隊兵士。
セルデンもかつてはあのような制服に身を包んで正義のために戦った。
「それが今じゃ、こんな終わりか……」
機動隊の警告を無視して闇夜に大笑いするセルデン。
次の瞬間、セルデンに向けて大量の銃口が向けられる。
「……魔術師……魔術師……魔術師!」
そして前方の兵士の合図とともに、セルデンに向けてあまたの銃撃が浴びせられた。
***
「素晴らしい。素晴らしいセルデン・オースティン! お主はやはり逸材じゃった」
「誰だ!」
銃殺されたセルデンの死体。
銃撃の反動で彼の体は血みどろのまま召喚陣に投げ出された。
機動隊がセルデンの死体に近づこうとしたところで、彼らはもう一人の人物の存在に気が付く。
茂みの中からライトに照らされたまま現れたのは杖を突いた老人であった。
「お主の"復讐心"は素晴らしいものであった。よくぞここまでたどり着いてくれた、奇跡の逸材よ」
「お主という触媒があれば召喚出来ると思って負ったわ。聖杯をわが手にする絶好の機会というものよ」
歓喜に満ちた表情を浮かべて、まるでステージの演者のように朗々と死体に話しかけた。
機動隊の警告も無視して、老人は召喚陣に近づく。
「止まれ! これ以上近づけば……」
「礎に銀と鉄、礎に石と契約の大公……」
召喚陣の前に立つと、ぶつぶつと何かを呟く老人。
やがて召喚陣からは一陣の風と光が放たれ、周囲を眩しく照らす。
危険を察した機動隊員が銃を連射する。
弾丸のいくつかは老人に当たるかと思われたが、弾丸は反れていき魔術師に当たることはなかった。
そしてまばゆいばかりの閃光のあと、機動隊員たちは目の前の光景に驚愕した。
先ほどまでセルデンの死体があった場所に代わりに立っていたのは、体長3メートルはあろうかという巨大な黒い犬であった。
月夜に照らされた黄金の眼が周囲の人間を人にらみすると、鋭い牙の並んだ口を広げて、すさまじい音圧で咆哮をあげた。
周囲の空気が激しく振動した。
あまりの音圧と口から発せられる風圧にあるものは立ち尽くし、ある者はその場で気絶し、ある者は叫びながら錯乱してアサルトライフルのすべての弾丸を黒い犬に向けて発砲した。
黒い犬はその体長からは信じられないほどの敏捷で弾丸をいともあっさりとかわすと、発砲した隊員の目の前に音もなく降り立った。
「ひ、ひぃ! 化けも……」
犠牲者はそこから先は言葉を発することができなかった。
黒い犬はそのまま重く地面をけると隊員の頭にとびかかって噛みつき口の中で一気にかみ砕いた。
強い憎悪の念でもって胴体から首を噛んで切り離すと、苦々しい表情をして仲間の足元にそれを吐き出した。
「あ、ああぁ……あぁ」
戦意を喪失した機動隊員を舐め回すように見つめる犬のサーヴァント。
そして次の瞬間、隊員のはらわたが、ポッカリと穴でもあけられたかのようになくなっていた。
隊員は突然3等身になったかのように体のほとんどを失い、バランスを失った積み木のようにぼとりと地面に崩れ落ちた。
周囲は先ほどまで生きていた人間たちの肉と血の匂いで充満し、小路の十字路は真っ赤な湖と化す。
地獄もかくやと想像を絶する光景が広がる。
老年の魔術師はその光景に満足すると、黒い犬に向かって歩き、こう呼びかけた。
「召喚は無事にうまくいったようじゃの。ライダー……いや、アヴェンジャー!」
「ふふふ……危険を冒してエクストラクラスの召喚を試みたが、こうももうまくいくとはな」
「噂に聞く最強のクラス。これなら、聖杯戦争にも勝利できる……必ずな!」
『……』
老人は自らの皺だらけの腕に現れた令呪を高く掲げてアヴェンジャーに見せた。
口の周りを真っ赤にしたアヴェンジャーのサーヴァントはその令呪を見るや否や、低くうなってその場で座りこんだ。
「そうだ! それでいい、わしがお前のマスターだ。この令呪がある限りお前はワシに逆らえない。よく覚えておけ! 下僕が!」
『……なるほどな、それを聞いて安心した』
口橋をゆがめて不意に笑う老人であったが、次の瞬間、違和感を覚えて令呪のあった右腕を見た。
――右腕の肘から先がすでに老人の体から消えていた。
「あ……れ……いつの間に」
目の前の事実を認識して、ようやく老人の体に激痛が走る。
強烈な痛みに意識を混濁させて、激しくのたうち回るようにしながらも、老人はアヴェンジャーの方を見た。
『探し物はこれか、魔術師?』
赤い痣の入った皺だらけの手を噛み砕きながら、黒い犬は何の感情も込められていない素っ気ない声で尋ねた。
「き、貴様……!令呪を……!!」
『まだ奥の手のひとつでもあるかと警戒していたが……がっかりだぜ』
「ぐぅあああ……き、貴様、マスターであるわしに逆らう気か?」
「マスターのわしがいなければ貴様は消滅するんだ!わかっておるのか?」
『逆らうも何も、お前の手ごまになった覚えはない。そもそも俺の敵は"魔術師"だ』
「なんだと……!?」
アヴェンジャーは腕を飲み込んだ。
すると、右の前足に先ほどの老人の手に刻まれていた"令呪"が浮かび上がった。
『悪い気はしないな。十分すぎる力だ』
『俺の願いは……この世から魔術師を"すべて"ぶっ殺すこと。魔術師を一人残らず殺すことだ』
『そのためならなんだってすると決めた。本物の外道に堕ちたってかまうものか』
老人の魔術師の視界に最後に移ったのは、大きく広げられた巨大な牙を持つ口であった。
――俺をこんな体にしてくれてありがとうよ、クソ魔術師が。
――この体があれば……お前たちの仲間を皆殺しにできる。
闇夜に響く犬の遠吠え。風が吹くと黒い毛並みが焔のように揺らいだ。
そして街灯も届かぬ暗い森の闇へ、セルデンは消えていった。
***
セルデンの脱獄事件は最悪の形で締めくくられる。
生き残った機動隊員の話は到底普通の刑事たちには理解してもらえるものではなかった。
この事件は英国警察史上にも残る最悪の事件として記録されることとなる。
その姿を見た者は化け物をイギリスの民間伝承にちなんで畏敬の念でこう呼んだ。
――死神犬(グリムドッグ)と。