"それ"は緑色の液体に満たされた世界の中で、じっくりと覚醒の時を待っていた。
ごくわずかの布を体にまとい、浮力と重力に身を任せたままのからだにほとんど筋肉はついておらず、最小限の皮が彼女の体をかろうじて人間たらしめていた。
彼女は人間の見た目をしていた。
しかし彼女には自我というものが無かった。
人知れない山中の中にある工房、その一角で調整槽の中のそれは何も言わず、何も考えず漂っていた。
ここはアトラス院。
巨人の穴倉。
来たるべき世界の滅亡に向けて兵器を作り、そして廃棄される場所。
多くの錬金術師がまた、この調整槽の中のホルマリン漬け標本がやがて投棄されることを予見していた。
調整槽に近づく影があった。
紫を基調とした制服の上から白衣を纏い、メガネをかけた女性は調整槽の中のそれを恍惚と眺め、また自身の仕事であるバイタルのチェックを事務的に始めた。
「容体は安定している。問題なし……ああ、それにしても」
チェックを終えて再びイザイ・エルトナムは調整槽を穴が開くほど見つめてため息を漏らす。
「すばらしい、君は本当に素晴らしい。誕生の瞬間が実に楽しみだとも」
「創造主である私のことを一体何と呼んでくれるのか、今から考えるのが楽しみだね」
目を爛々と輝かせたまま、聞こえるはずのない言葉を調整槽に投げかける。
当然調整槽の中のホムンクルスは何も言わない。
「しかし残念だな、まもなくお別れの時間か」
「東洋では"可愛い子には旅をさせろ"とも言うらしい。その時が近づいてきたんだね、"セシリア"」
「ああ、セシリアというのは君の名前だ、先ほどつけることにした」
「君はとっておきだ。非検体番号で呼ぶには味気が無さすぎる!」
ホムンクルスの返答など聞くまいといった調子で、イザイ・エルトナムはつらつらと調整槽の前で独り言をつぶやきつづける。
彼女が時計を確認する。
予定していた頃合いが近づいていた。
「さあ、君は外の世界でどんな風に生きる? どんなドラマを私たちに見せてくれる?」
「健気にもこの試練を生き残り、人間の限界を超えてくれるのか?」
「全てを実現する理想の存在、"願望の人間"へと進化するのか?」
寂しげにライトアップされた調整槽の前で、誰にでもなく声を上げるひとりの研究者の姿が依然としてそこにはある。
その言葉は母でもなく、創造主でもなく、また所有者でもなく、放生を目的とする実験者のものである。
「なんであれ、私は君の人生が今ここから素敵で刺激的なものになるということを祈っている」
「決して運命から逃げてはいけないよ。たとえそれが残酷なものだとしてもね」
調整槽に手をかざす。
イザイ・エルトナムの右腕から僅かだが回路のような文様が浮かび、魔力は電のような光を小さく発し、ガラスを覆った。
直後、調整槽のガラスは粉々に砕け始める。
いくらか派手な音がしたものの、彼女の動向に気付いた者は誰もいなかった。
溢れる液体の中から少女の体をがっちりと抱えると、イザイは彼女の背中をポンポンと叩いた。
「寒かっただろう? さあ、まずは外を歩いても恥ずかしくない、かわいらしい恰好をして…それから旅支度だ」
「・・・」
「私の可愛いホムンクルス……自己実現の究極、"願望の人間"よ」
さながら宗教画の、子どもを抱く母親のようなイザイ。
***
それぞれの思いと思惑を胸にサーヴァントとマスターたちは動き出す。
彼らの行く末に待つものは果たして――。
ロンドンでいま、最も奇妙な聖杯戦争が始まろうとしていた。
これはサーヴァントの物語ではない。
これはマスターの物語ではない。
これは、人間が願いをかなえる物語だ。
ただし、その願いは彼女にとって誰よりも特別で、ごくありふれたものであった。
プロローグはこれでおしまいです。
まだ明らかになっていないサーヴァントたちの真名もありますが、それはおいおい…
え? キャスターはどうしたかって?
さあ、どうしたんでしょうかねぇ。
彼(彼女?)もまたロンドンのどこかで暗躍しているのでしょう。
しかし登場するのはもう少し先のこと。
一章からは少し文量が増えるかもですが、お付き合いいただければ…
それでは第一章もよろしくお願いします!