全身があちこち痛む。結構な無茶をしたからだ。
だが多少の無茶をした程度であの蟻型ネウロイを撃破出来たのは喜ぶべき事だろう。更に風邪の症状も控え目になってきた。未だに倦怠感こそ残るものの、高熱が引いていったのである。靄がかっていた思考が、比較して冴え渡っている気がする。
しかし、未だに友軍と合流出来ていない事は嘆くべき事だ。雨は止み、だが気温は未だに低いままだ。今は森の中に身を潜めているが、休憩を終えたら直ぐにでも出発するべきだろう。
その時、遠方で木が倒れる音がした。木の幹が裂ける、何か重機のようなもので無理矢理引き倒す音だ。だが、エンジン音のようなものは聞こえてこない。聞こえてくるのは、あの特徴的な金属音だ。
不運な事に、音源は手製の地図に丸が付けられた味方陣地への方向と同一のものであった。
腰にぶら下がっている集束手榴弾を意識する。残数は二つ。二つあれば、やりようはある。
奴を迂回するか、撃破するかーーー
■
風で揺れ、擦れる音を響かせる木々。それによって構成された閑静な森の中に、異色を放つ黒い物体は存在していた。
蟻に酷似した型のそれは、六本ある脚を使って木々を薙ぎ倒し、自らの道を切り開いていく。
土木作業に従事していた蟻型ネウロイだったが、鋭い風切り音と共に貧相な弾丸が表層装甲に着弾した事に気が付いた。弾丸は弾頭が潰れ、地面に虚しく落ちる。
少しの間動きを止めていた蟻型だが、直ぐに頭を弾丸の飛来してきたであろう地点へ向け、歩みを開始する。
悠然と迫ってくるネウロイを見ながら、彼は笑っていた。今まで、彼の親しい友人である二人の少女ですら見た事の無い程の、深い笑みを浮かべていた。
ライフルを何度も当て、仕掛けが施されている地点へのルートから外れようとしたネウロイを修正していく。
死んでしまうかもしれない。死ぬ事は恐ろしい事である。その事を表現する言葉はないし、それを言葉で表せる気もしない。だが、しかし、彼にとって、それは最早些細な事であった。
命のやり取り、例え失敗しても、何回でもやり直せる。そんな認識が彼の心の根底を変えていった。死の危険に直面した時の危機感、高揚感、そういったものに取り憑かれてしまった。デメリットは多大な恐怖、メリットは多大な高揚感。彼はそれを天秤にかけたのだ。
その結果は語るまでも無い。
ネウロイに挑発行為を行っている時点で、彼の天秤は傾いたのだ。
ライフル弾が飛んできたであろう地点に到達した蟻型だが、肝心の敵が居ない。これはどうした事かと周りを見渡すが、近くにヘルメットが見える事に気付く。それは塹壕の中から少しはみ出ていた。
恐らくそこに敵は居るのだろう。頭部に装備されている自慢の主砲を向けようとするが、射線が通っていない。仕方が無いので、少し前に出て撃とうと前進する。
その時蟻型の、昆虫の関節肢に良く似た金属仕掛けの脚が細い糸を引きちぎった。
その瞬間、蟻型の足下が爆発した。
一つ脚が吹き飛び、他の脚はあらぬ方向を向き、姿勢を崩して倒れ込む。直ぐに体勢を立て直そうと足掻き始める蟻型の頭上に、何かが落ちてきた。
それは、集束手榴弾と呼ばれるものであった。
それを見て、樹上に身を潜めていた兵士は、笑っていた。
■
はっきり言おう。
あの奇襲作戦は完全に失敗だった。致命的にだ。
自分は、
余りにも思慮が欠けた、向こう見ずで軽はずみな行動のツケは、砲弾によって身体が消し飛ばされる結末を自分に運んできてくれた。
次の瞬間には遠くで木が薙ぎ倒される音が響いている。略帽を被り直し、自分は迂回するルートを選択した。
一体を不意打ちで倒せたとしても、後続が爆発音に寄って来ることは、安くない授業料を払うことで学習する事が出来た。それは不幸中の幸い・・・いや、どこか慢心していた自分に対しての戒めになるだろう。
ウィッチでも、航空機でも、機甲戦力ですらない自分が出来る事、出来ない事をしっかり弁える事が大切である。手持ちのライフル銃は注意を引く事が出来るかどうかの豆鉄砲で、集束手榴弾は小型ネウロイには有効だが、それ以上のネウロイになると途端に力不足だ。
可能性が有るとすれば、歩兵が携行出来る対戦車兵器。無反動砲の類だが・・・未だにこの世界では生産されていない。恐らく試験段階ものは存在するだろうが、実用化はまだ遠いと思っている。
■
途中で森を抜け、ひたすら平野が広がる区域に突入した。穏やかな稜線が続くこの場所は、農業には適しているだろうが、自分にとっては都合が悪い。
見晴らしが良いという事は、身を隠す場所が無いし、射線も通り放題だ。ここで襲われたら一溜りもない。だが、回り道をしている暇もない。何故なら直接ネウロイに追い掛け回されているというより、瘴気が迫って来ているのだ。
森林地帯から一歩足を踏み出す。行動しなくては何も始まらない。無為に死ぬのなら、少しでもこの平原の情報を得てから死ぬべきだ。
背の低い雑草に覆われたこの平原は、風に揺られてさわさわと快い音を辺りに響かせている。その中を、土を踏みしめながら自分は歩み、進んでいた。
この平野に侵入してから暫く経つが、危惧していた事態は未だに訪れていない。
そしてこれまで歩いていてわかった事に、小規模な森林地帯が途中途中に存在している事、というものがある。自分はそれを知って少し安堵していた。
もし途中でネウロイに襲われても、そこに逃げ込める事が出来れば、元々の確率が低過ぎる事も相まって、生存率は跳ね上がるだろう。
さわさわ、さわさわ。そんな音が、荒んでいるのかそうではないのかすら分からなくなった心に少しずつ染み込んでくる。
戦場と薄皮挟んだだけのこの場所は、そんな血みどろな事象は知らないと言わんばかりの態度だ。知らず知らずのうちに、自分はここを気に入り始めていた。扶桑にも似たような場所があったからだろうか。
脳裏に浮かぶのは二人の少女。自分は保護者の様な立ち位置にいつも居た。楽しげにここに似た、平原で駆け回る二人を見守り、時には二人に見ているだけではつまらないよと、引き摺り込まれていたっけ。
・・・二人には、親友達には出征する事を、自分は言わなかった。
言えなかった。心配掛けさせたくない、なんて勝手な考えで、黙ってここに居る。
風で草が揺れ、波のように動いているのを見ながら、昔を思い出す。
■
余り意識していなかったが、自分の二人の親友は、どうやら家が裕福らしい。地主・・・というものだ。
対して自分の家は小作人、貧乏人だ。この扶桑という国は日本に似通っているが、こんな所まで似てなくてもよいだろうに。
21世紀の日本からは想像も出来ないだろうが、戦前の日本は凄まじい格差社会だった。そしてそれを是正する社会保障制度もない。その格差は貧乏な小作人の娘の身売り、一家心中、なんてものが社会問題になる程度には激しかった。
実際、自分の家も月単位で貧相な食事が続いた時もあった。悪いと食事すらない事も。
そんな時、どこからともなく、いつの間にか隣にニコニコしながら座っていた親友達が自分の肩を叩いて、快く食べ物を分け与えてくれた事を、自分は忘れる事は出来ないだろう。
扶桑に帰って、給金を与えられたら、親愛なる親友達に様々なお返しをせねばならない
自分が若くして軍隊に志願したのも、口減らしという側面を持っている。そして、衣食住が保証されているという事も決め手だった。軍隊というものは、社会のセーフネットも兼ねているのだ。
もし平時であったら年齢的に考えて、自分が軍に志願したのはあと数年後だっただろう。だがある事件が起き、徴兵年齢は引き下げられた。
扶桑海事変。
それは大陸との間にある内海で終結したネウロイとの戦争で、それによって損耗した人員を国は補填しようとしたのだ。一年以上の期間に及ぶ、国家の総力を上げた総力戦の爪痕は、未だに残っているのだ。
ぎりぎり引き下げられた徴兵年齢に適合する年齢だった自分が、志願した後に前世の知識で座学の面において高い評価を得た為に、カールスラントに送られるとは・・・あの時は思いもしなかった。・・・本当に。
・・・帰りたいと思う。記憶の中の親友達は暖かい光を放っていて、また会いたいと思う気持ちが溢れてくる。ネウロイから地べたを這って、泥まみれになり、なりふり構わずに逃げ出す今の自分と対比して、とても眩しく思う。
あぁ、早く帰れないものかーーー
■
また森林地帯に辿り着く。平野を振り返り、そして、前を向く。感傷に、郷愁に浸っている暇はない。そんなのは後回しだ。
自分は一歩踏み出した。
■
今自分は洞窟の中に居る。辺りが暗くなってきたので、今夜はここで休息をとることにしたのだ。
腰の小物入れから紙袋に包まれたリベリオン製のクラッカーを取り出し、口に含む。・・・やはり、クラッカーは口の中が乾燥するのが難点だ。中身が心許なくなってきた水筒の水を飲んで、そんな事を考える。
手帳を取り出し、今日の日記を更新する。内容は少々感傷的であった。
懸念材料であった風邪は治った。余り食糧に余裕がないから、今日はもう動かずにじっとする事に決めた。ゴツゴツした壁面に背中を合わせ、立てた膝に頭を預けて目を閉じる。夢くらい、良いものを見せて欲しいものだ。
透明感のある金色が目に入る。まさか、そんな、そんな筈はない。
ここは
ここであった事を思い出す。最後の成功例までの失敗例を。
倒れていた金髪のウィッチの前で情けなく助けてくれと体を丸めて泣き叫んだ事も、放心して座り込み、瘴気に呑まれて血反吐を吐いて苦しみ抜いて死んだ事も。腕が、足が、千切れ、吹き飛ばされた事も。
進んで、殺されて、進んで、殺されて。
それまで数回死んでいた段階で、壊れ掛けていた心が、完全に粉砕された。
粉々になって、取り繕う事すら出来なくなった心が回復するには容赦の無い荒治療が待っていた。"慣れ"という現象が起きるまで自分は死に続けた。
何時からだろうか。体が震えなくなったのは。
何時からだろうか。死ぬ事に余り忌避する事がなくなったのは。
自分には分からない。分かるのは、自分の大事な何かが変質し、二度と元には戻らないだろうという事。
だがその事実を、今の自分はそんな事だと言えてしまう。
・・・後悔があった。それは最初に金髪のウィッチを見付けた際に、助けようとしなかった事。
彼女の助けを初めて借りた時から、自分は自身がどんな選択をしていたのかを自覚した。兵士として、その選択は絶対にしてはならなかった事も。
自分の命すら保証出来ないから?運びながら逃走するのは不可能だから?
・・・
罪悪感が、自責の念が、胸を焦がすのだ。彼女の顔が脳裏を過ぎる度に。だから、自分は二度と同じ事はしないと約束した。他でもない、自分自身に。
・・・自分は何処までも、自分本位だ。
■
夢を夢と自覚するのは、何時も起きてから少ししてからだ。
起き抜けの脳は機能が著しく低いし、夢と現実の区別すら出来ない。
重い腰を上げ、固まった体をよく解すように動き出す。体の各所の筋肉が解れていく感覚が心地良い。・・・最近、まともに横になって寝れていない気がする。
薄暗い洞窟から這い出て、陽の光を浴びる。小鳥の鳴き声が小さく聞こえてきていて、本当にここが戦場であるのかという疑問すら浮かんでくる穏やかさだ。
手帳の地図を見ながら、今日のルートを確定する。予定では、今日中には味方陣地に辿り着く筈だ。
あともうひと踏ん張りだと自身に気合いを込め、歩き始めた。
■
鬱蒼とした森の中は視界が余り良いとは言えず、死角が多く存在する。射線を遮る障害物である樹木が群生しており、自分にとってとても都合の良い環境と言えるだろう。
鳥の囀る声が微かに聞こえてくるが、彼等は瘴気を吸ったらどうなってしまうのだろうか。鳥だけじゃない、虫や微生物、魚はどうなのだろう。
もし、死んでしまうとしたら、今ネウロイに占領されている地域は、生き物の存在しない、死の領域と呼べるだろう。
瘴気は、分類するなら生物兵器か化学兵器の一種だ。
吸引すれば死に至る、ガス状の物質。そんなものがバラ撒かれているのなら、もしネウロイから占領地を取り戻しても、復興は時間が掛かるだろう。土壌や周辺環境を形作っている生物が死滅するという事は、そういう事なのだ。
生き物を殺すなら爆弾や機関銃よりも、毒物やウィルス、細菌の方が手っ取り早く、効果的だという事はスペイン風邪、ペスト等が証明している。
瘴気について考えていると、遠くからエンジン音が聞こえてきた。
恐らく航空機のエンジン音で、此方に接近してきている。
その時だった。急に辺りが暗くなったのだ。これは一体、どういう事だろうか。上を見上げると、答えは出た。
ーーー巨大なネウロイが我が物顔で、上空を席巻していたのだ。
お金持ちの幼馴染って響きいいよね・・・