どれくらい経っただろう。
あれから、一ヶ月くらい、経ったような気がしている。
いつものように、虚ろな意識をゆっくりと覚醒させて、腐肉の山のてっぺんでリィンは目覚めた。
あの日。リィンの身体が変わり始めたあの日から、この腐肉の山にも瘴気が発生し始めた。
苦しい、助けて、そう思ったのはほんの僅かな時間だけで、リィンの身体はすんなりと瘴気を受け入れた。
身体の怠さはあの時以上で、今はもう、歩き回るのさえ辛い有様だった。
ミアスは甲斐甲斐しくリィンの世話をしては、あまり動けないのをいいことに好き勝手に甘えている。
相変わらずミアスと接している時間だけがリィンの身体に力を与えてくれていて、でも、今は瘴気を吸っている時も似たような開放感を覚えている。
当たり前だが、リィンと同じようにミアスも瘴気に侵されることは無いらしい。
むしろリィン以上に瘴気に親しんでいるようで、彼女は出会った頃よりも活発に動き回っていた。
「リィン! おはよう、きょうはおきてるのね」
「うん。ミアスは今日も元気ね」
「ねぇ、リィン。ぎゅぅってして」
「いいよ、おいで」
ミアスはもう、随分と流暢に言葉を喋れるようになった。まだたどたどしさはあるが、意思疎通は充分可能なレベルである。
リィンが教えたり、自分で覚えたりしながら、驚くべき速度で言葉を学んでいった。
そのほとんどをおねだりにしか使わないのはどうなんだろうと思わなくはないが、リィンとしてもミアスとの触れ合いは今や唯一といってもいい楽しみなので、断ることは無かった。
抱きついたり、頬ずりしたり、胸に顔を埋めたり、キスをしたり匂いを嗅いだり、膝枕をしたりされたり、ただ触れ合いを求めたり。
撫でてあげれば喉を鳴らすアイルーのような反応をしたり、逆に拙いながらも撫でてくれたりもする。
ただ触れているだけで心が安らぐ。ミアスのおかげで心は安定してくれている。
けれど、最近、声が聞こえる。
──足りない、タリナイ。
そんな、何かを求める声が。
リィンにはそれが酷く苦しそうで、切羽詰まったものに聞こえて。
そんな声が静かにしているのも、ミアスと触れ合っているこの時だけなのだった。
「リィン、くちあけて?」
「うん、いいよ」
ミアスとの触れ合いであえて変わったところといえばこれ。
ミアスに言われるがままに小さく開いた口に、ミアスは啄むようなキスを落とした。
ちゅ、ちゅうと軽く吸い付く音が静かな空間に響いていく。唇同士を吸い合わせる音は、キスマークをつける時より淫靡に聞こえる。
ミアスはリィンの唇を食んで、舌で唾液のリップを塗りたくる。一通り化粧を施した後は、貪るように唇を合わせてくる。
感情の昂りからか、自然と入り込んできたミアスの舌を、リィンは自分のソレでそっと受け止める。
キスをしながらキスをしているようで、リィンは甘い感覚にほんの少し頬に朱が差すのを自覚した。
舌を合わせるだけではなくて、広々とした口の中を少し乱暴なくらいに荒し回るミアスの舌は、不思議とリィンに甘い快感をもたらしてくれる。
リィンは成されるがままに、そうしてたまに踊るように舌を絡めたりして、長い時は一時間くらいミアスはディープキスを続けるのだ。
ミアスがこうして、リィンの口腔を緩やかに蹂躙することを要求し始めたのは十日くらい前のことだったと記憶している。
あの日は酷く眠たくて、起きたはいいもののすぐに眠りにつきたくなって、そんなリィンの姿を見て、ミアスにしては珍しいことに焦るような表情をしていたように思う。
あの時は了解を得ることもせずに無理矢理にリィンの唇を奪って、慣れない舌付きでありながら精一杯のキスをしてくれて。
ファーストキスに加えてディープキスまでミアスに奪われてしまったリィンは戸惑いながらも、普段は見せることの無いミアスの姿に胸が高鳴るのも感じていた。
結局その日は初めての興奮で眠るどころじゃなくなって、逆にミアスの方が空気の抜けた風船のようにへにゃへにゃになってリィンに張り付いていたのを覚えている。
それ以来、毎日一回は必ずこうして深く繋がるようになった。大抵の場合、ミアスの要望で起きてすぐになることが多いように思う。
リィンが少し前のことを思い出していると、今日もまた長いこと続いていたミアスの行為も終わりを迎えたようで、抜き去られる舌に擦るように舌を絡めて今日の分のキスは終わった。
お互いの舌と舌を繋ぐように透明なアーチが掛かる。
ミアスは徐々に垂れ下がっていくそれをリィンに飲み込ませるのが好きで、見上げるようにキスを終えたリィンの口内に混じりあった唾液が垂れてくるのを舌で受け止めて飲み下した。
「ぷはぁ……げんき、でた?」
「うん、とっても。ありがと、ミアス」
「つかれちゃった。いやしてほしい」
「いつまでも甘えん坊よね、ミアスは」
身振り手振りで膝枕を要求するミアスのために正座をするリィン。
いつからだったか、フードをかぶることをやめたミアスはその黄色の瞳を隠すことなくリィンに向けている。
同じく露わになった白銀の長髪を梳いてやれば、目を細めて気持ちよさそうにするのだ。
それを見るのが好きで、リィンはよくミアスの髪を手入れするようになっていた。
ーーーー
思い思いに甘えたり甘えられたり。そんな一日を過ごしているうちに、リィンの身体は再び鉛のような重い気だるさを帯びてくる。
──たり、ナイ。
苦しそうに訴えかける声を幻聴する。
きっとこれはリィンの身体が訴えかけているのだ。
どうしようもなく造り変わりつつある、瘴気の谷に適した身体が。
リィンは思う。自分の身体を切り開いてみたら、きっと世にもおぞましい中身に変わっているに違いないと。
──早く、はやく、ハヤク……。
せっかちな声だ。何が欲しいのか、それくらい言ってくれないとわからないと言うのに。
睡魔に襲われながら、リィンは内なる声に対して小さく微笑んだ。
「リィン、リィン」
「どうか、した? ミアス」
「ねむくても、ねむらないで。いまねむったらだめだよ」
眠りかけたリィンの意識を、揺り起こすようにミアスが繋ぎ止める。
抱き締めて、抱き締めて。リィンよりも遥かに苦しそうな顔で、ミアスはリィンを呼び戻す。
その声は泣きそうな子供のようで、リィンは重たい頭を必死に働かせながら返事を返した。
「そっか。でも、ミアス。私、とっても、眠いの」
「ごめんなさい、リィン。はやすぎた、はやすぎたの」
ポタリと熱いものが頬を伝う。
泣いてる、ミアスが泣いている。
初めて見た。彼女が泣いているところを、リィンは見たことがなかった。
寝ている場合じゃない。見下ろすように覆い被さるミアスの頭を、リィンはそっと抱き締める。
「泣か、ないで。いつもみたいに、笑って、欲しいわ」
ああ、瞼が重い。
取り返しがつかないくらいに眠たい。
でも、
あの子の涙を見たくはないから。
「ねぇ、リィン。……これをみて」
涙を拭ったミアスが取り出したのは、透き通るような白銀に輝く一粒の宝玉だった。
宝玉。リィンはこれを、新大陸に来る前に何度か眼にした事がある。
様々な種類があるが、総じて、凄まじい属性エネルギーを秘めたモンスターの力の結晶だ。
リィンが見た事のあるものはどれも掌大の大きさであることがほとんどだった。
今、ミアスがその手に乗せている白銀の宝玉は大きな飴玉くらいの大きさで、しかし感じられるエネルギーは過去に見たどの宝玉よりも力強い。
何よりも、その宝玉から発せられるエネルギーは、くらくらする程に甘く蕩けるような魅力を放っていた。
「これを、のめば。リィンはわたしとおなじになる。わたしと、おなじになってしまう。おなじに、したかったわけじゃないの。ただ、いっしょに、いれるようになってほしくて、それで…………んっ!?」
一度は拭った涙を再び流しながら許しを乞うミアスの言葉を、唇を奪うことで塞いでやる。
これ以上、知らないふりをするのはやめようと、そう思ったのだ。
「ねぇ、ミアス。……アナタは、この、死の世界を統べる、古龍なんでしょう?」
リィンの言葉に、ミアスは驚いたような表情を浮かべる。
人の皮を被った、龍。もっと早く思い出してあげられればと、リィンはほんの少しだけ悔やんだ。
「一番最初に、ね。一度だけ、見ちゃったの。死にかけの私を、救ってくれた、ミアスの姿。アナタが、私の為に、瘴気を集めて回ってたのも、ここに、瘴気を撒き散らしてくれていたのも。不完全な、共生のせいで、衰弱する私を、助けてくれてたのも。全部、知ってるよ。私も、ね。思い出したのは、随分最近、なんだけど」
ミアスとリィン。
二人の出会いは、リィンにとっては恐怖でしかなかった、痛みを伴う記憶が最初ではない。
あの赤い狼のようなモンスターに殺されかけたリィンは、救われていたのだ。
とても残酷で、恐ろしく、美しい古龍に。
失血のショックと、その後の拷問じみたミアスの行為のせいで、酷く朧気な記憶になってしまっていたけれど。
「今、思うとね。最初、私を、弄くり回してたのも、瘴気に、侵すため、だったんでしょう? アナタは、そういう、力を持ってる。とっても、痛かった、けどね」
ミアスに触れられると身体が軽くなったのも、リィンの身体に半ば無理やり埋め込まれた瘴気を通じてエネルギーを受け渡ししていたから。
瘴気が極微細な生物の集まりだからこそ、そして死の王たる古龍だからこそできる、奇跡のような力だ。
「屍肉がね、とっても、美味しそうに、見えるの。ごめん、ね。辛かった、でしょ、わたしと、同じ、ものを、食べるのは」
ああ、そうだ。あの日。ネムリ草を食べてしまった、人をやめかけていることに気づいた、あの日から。
リィンの目には、屍肉がご馳走のように見えていたのだ。
食べれば、人をやめたことを認める気がして。
それがミアスにとっての負担になるとわかっていても、超えることの出来ない一線だった。
「ねぇ、ミアス。アナタの、手で、終わらせて。
涙を流し続けるミアスの目尻を拭って、リィンはミアスを真っ直ぐに見据えた。
「ほんとに、いいの?」
「今更、よ。アナタと、出会って。一ヶ月くらいしか経ってないような、気がするけれど。きっと、一年くらいは、一緒にいるんでしょう? 長いこと、長いこと、眠っていたような気がするから」
そう。それはミアスしか知らない事。リィンが眠りに落ちる度に、身体が造り変わる負荷に耐えるために長い永い眠りについてしまうこと。
出会ってから、もう、三年もの月日が経っているとは、流石のリィンも思わなかったようだが。
それでも、ミアスの様子から、目覚めを焦がれていたのが痛いほど伝わってきて。
だからリィンはそれを理解していた。理解していたから、目が覚めている間は精一杯ミアスと甘い時間を過ごしたのだ。
想いの丈は、語り尽くせない。
リィンには、もう、時間が無い。
だから、残りは
「死の王。屍を、纏う龍。どうか、
挑発するように、許しを与えるように。
リィンは落ちかける意識を振り絞って、最後の言葉を投げかけて目を閉じる。
ほんの僅かに開いた口に、柔らかな感触が重なる。
普段ならば舌が入り込んでくるところだが、リィンの口内に入り込んできたのは飴玉ほどの宝玉だった。
共に、舌を絡めて、少しの間遊ぶように宝玉を転がして。
流し込まれたミアスの唾液を自分の唾液と混ぜ合わせて、リィンは宝玉を飲み下した。
──足りない、食わせろ、早く。
そんな、リィンの脳裏を蝕む声が、歓喜の声に変わる。
──熱い、熱い熱いあつい熱い熱い熱いあつい熱いアツイ熱い熱い熱いアツイあつい熱い。
身体が溶け崩れるような感覚が、リィンの身体を支配していた。
息をすることさえままならないリィンに、ミアスはそっと語りかけるように囁いた。
「だいじょうぶ、それはわたしそのもの。リィンなら、だいじょうぶ」
「あ…………」
苦しいから、抵抗していた。けれど、これがミアスそのものだというのなら。
マグマのような灼熱も、温かく感じられる。
幸せな感覚が、リィンの全身を支配していた。
ーーーー
どれくらいの時間が経ったのか、気付けば身体中を支配する熱は無くなっていて、しかし幸福感はそのまま残っている。
身体が軽い。ずっと付けていた重りを外したような、羽が生えたような、そんな感覚すら覚える。
全身を見渡してみるが、身体は一応人のままだ。
ミアスは同じになると言っていたが、目が覚めたら古龍になってましたという訳では無いらしい。
そんなことより、ミアスがいない。
ぐるりと辺りを見渡すと、変わらぬ腐肉の山の麓で、お目当ての人物が涙を浮かべて立っていた。
「リィン!」
「おはよう、ミアス。また、随分待たせちゃったかな」
「大したことない。一年くらい」
「結構経ってるわね!?」
途切れることの無い歓喜の涙は、ミアスだけが流している訳では無いらしい。
リィンもまた、視界が潤むくらいにはボロボロと涙を流してしまっていた。
お互い格好のつかない姿で、それでも、そんなことはお構い無しに無言の抱擁を交わす。
しばらくして、お互いにお互いの涙を拭って、触れるようなキスを交わして。
リィンは、かつてないほど晴れやかな気持ちでもう一度ミアスを抱き締めた。
「ミアス、好きよ。愛してる」
「わたしも、リィン。ずっといっしょね」
〜Fin〜