被る部分は程々にカットしたりしなかったりしています。
二人が共に暮らすようになってから、十数年の月日が流れた。
ミアスが目覚めない。
それが異常事態だということに気がついたのは、リィンが目を覚ましてから数時間ほど経った頃だった。
揺すっても、さすっても、ちょっぴり暴力的にデコピンしてみたりしても、ミアスはちっとも目を覚まさない。
かと言って、気持ちよさそうに眠っているのかといえばそうではなく、リィンには心なしか苦しそうにさえ見えた。
別に睡眠を絶っていたという訳でもなく、いつも通りに寄り添って眠りに落ちたはずなのだ。
そもそもミアスはリィンほど睡眠を必要としないらしく、リィンより後に寝てリィンより先に起きるのがデフォルトだ。
そういう意味では、恋人の寝顔を数える程しか見たことがないのだった。
そう考えてみると、これはチャンスなのかもしれない。せっかくの機会だし、ミアスの寝顔をじっくりと観察させてもらおう。
リィンはミアスの横に寄り添うように転がると、ほっぺをつついたり唇を撫でたり、髪の毛を梳いたりしながら、愛しい人の寝顔をじっくりと堪能していた。
ーーーー
ミアスが目を覚まさない。
あれからもう、七日は経っているだろうか。
一向に目を覚まさないどころか表情は徐々に曇り、今でははっきりと苦しんでいるのがわかるようになっていた。
ただ、その理由がわからない。なぜ目を覚まさなくて、なぜ苦しそうにしているのか。
リィンにはそれが分からなくて、もどかしくて、隣に一緒にいてあげることしか出来ない自分が情けなかった。
そっと髪を撫でれば、ほんの少しだけ表情が和らいでいるような気がして。
美しい銀糸のような毛の一本一本を丁寧に解きほぐした。
「ミアス……」
思わずこぼれた声は、眠り姫には届かない。
リィンは、たった一週間話ができないだけでこんなにも胸が張り裂けそうになるんだということを知り、出会った頃の自分がどれほどの寂しさをミアスに与えていたのかを、今更ながらに理解した気がした。
ーーーー
ミアスが、目を覚まさない。
もう、ひと月も、ミアスは眠りについたままだった。
「ミアス、行ってくるわ」
眠りにつくミアスの頬にそっとキスをすると、リィンは酸の湖を通って谷へと降り立つ。
ミアスが寝込み始めてから、十日ほどたった頃だろうか。リィンは瘴気の谷に蔓延る瘴気が、尋常ではない規模で膨れ上がっていることに気がついた。
これからリィンが出向くのは、膨れ上がった瘴気の鎮静作業である。
今、この谷の瘴気が爆発的な増加を見せている理由はミアスにある。
彼女がその身に宿し、完全な制御下に置いていたはずの古龍としての力が、谷の全体に広がっているのだ。
眠りについているせいで、内から溢れ出る力を抑えきれていないのだろう。
リィンはもう、ミアスがなぜ目覚めないのか、そして苦しそうな顔をしているのかを理解していた。
彼女は今、抵抗しているのだ。
目覚めてしまえば抗えなくなる、そんな何かに抵抗している。己の身を強制的に睡眠状態に押しとどめて、目覚めることを拒否している。
それでもなお溢れ出る力の残滓だけで、瘴気の谷は活性化してしまっている。
正直な話をすると、こんなに瘴気が「濃い」状態が続いてしまえば、この谷の生物は残らず瘴気の侵食を受けてしまうだろう。
そうなればどうなる? 屍肉を喰らい分解する者がまともに機能しなくなれば、陸珊瑚の台地を支える栄養分が消え、二つの環境は諸共に滅びるだろう。
もちろんそれは長いスパンで見た時の話だが、今の谷を数百年維持し続けてきたミアスがそれを望んでいないことくらいはリィンでも分かる。
そして、リィンはミアスの力を不完全ながらも抑える事が出来る。
ならば、これはリィンの仕事だ。
苦しむミアスのそばに居てやれないのは張り裂けそうになるほどに辛いけれど、目覚めた時、瘴気の谷が何も変わらぬ場所である為に。
ああ、でも。
ミアスのいない日常は、酷く寂しくて冷たかった。
ーーーー
更にひと月経過したが、ミアスが目覚める気配はない。
日に日に増していくミアスの力を前に、睡眠を取っている暇もなく、瘴気の谷の最下層でリィンは不眠不休で谷の瘴気を抑え続けていた。
それでもなお、瘴気の増加が抑えきれない。濃い瘴気の中にいるおかげでリィンも回復はできるけれど、限界まで力を振り絞っても鎮静が追いつかないのだ。
正直な話をすると、リィンには一切の余裕がなく、既に上層を覆い尽くさんと広がり続ける瘴気をかろうじて谷の内部に留めているのが現状だった。
(人、だ)
そうして、懸命に瘴気と格闘するリィンの知覚に、三つの人影が入り込んできた。
リィン自身が瘴気の内部にいる限り、瘴気は全てリィンの知覚器官として働いてくれる。
ほとんどの生物が瘴気から逃げ去った今のこの谷に人間が現れる理由はリィンには分からなかったが、それを考えることすら億劫で、徐々に近づいてくるそれらを排除する気も起きない。
いや、むしろ、リィンは近づいてきて欲しいとさえ思っていた。
(ミアスは、怒るかもしれない……でも、必要なことよ)
疲れ果てた身体。抑えきれないミアスの力。
己の身一つではどうしようもないことを理解したリィンは、人を頼る事にしたのだ。
数時間後、リィンの視界に入ってきたのは、太刀に手をかけて警戒するようにこちらを睨みつける赤髪の女ハンターと、ガスマスクを付けた二人の同行者だった。
「……ん、珍しいわね。人間がここまで降りてくるなんて」
あたかもたった今気づいたかのように、リィンは疲れ果てた声で呟いた。
リィンの姿を見て拍子抜けしたのか、なかなかの間抜け面を晒している女ハンターはさておき、大きなスリンガーを身につけている方の同行者が突然近づいてくるのを見ても、リィンは避けることをしなかった。
「りぃ、ん? リィン、なのかい?」
「私を知ってるの? 知り合いかしら」
先頭のハンターが若いから、三人とも若いハンターなのだろうと思っていた。が、どうもこの一人はリィンが人間をやっていた頃の知り合いらしい。
マスクをとった女の姿は、どことなく見覚えがあるような気がして、ふと一人の人物が記憶の中でヒットする。
それを順当に老けさせれば、たしかにこんな見た目になるような気がしないでもなかった。
「……一期団の、フィールドマスターさん?」
「ああ、そうだよ! 覚えててくれたんだね、リィン!」
絞り出した答えはどうやら的を射ていたらしく、リィンは己の記憶力に感謝した。
(知り合いか。本当はあまり好ましくはないんだけど、今は少しでも可能性が欲しい。そういう意味では理想的だ。彼女ならきっと理解してくれる)
嬉しさからかリィンを抱き締めるフィールドマスターを見て、リィンはあまり表情を変えないままに打算を働かせる。
そして次に赤髪の女ハンターを見て、その実力の高さを大凡ながら感じ取る。
(……強い。古龍の残滓が残ってるから、比較的最近に二……いや、三体は狩ってるはず。多分今の私でも勝てないわね)
リィンは降って湧いた幸運に感謝して、適当な言葉で三人を地底湖の方へと誘い出す。何にせよあんな場所では会話もままならないだろう。
瘴気の影響をほぼ受けない、酸の湖のある最深部で、リィンは三人と相対する。
赤髪の女ハンターはアリアと名乗り、編纂者らしい少女はトアと名乗った。
リィンとしても久方ぶりの人間との会話だったが、如何せん今のリィンには会話を楽しむ余裕が無い。それは体力的にも、心情的にも、時間的にもだ。
警戒するアリアに問われるままに、とにかく端的に経緯を説明し、現在の状況を説明した。
一か月前。ミアスが地脈を通じて何者かに暴走を促されていることに気がついたのは、リィン自身にまでその誘惑が及ぶようになってきたからだ。
己の龍としての力が弱いからなのか、ミアスが防波堤になってくれているからなのかはわからないが、リィンはまだ理性を保ったままでいられる。
その反面、リィンの理性が崩れた瞬間、瘴気の谷は終わる。その前に、何とかしてこの状況を覆さなければならない。
目の前の存在、アリアは、それを成し遂げられる力を持っているとリィンは確信していた。
(黒幕、という訳では無いけど、ミアスは確実に何かに抵抗している。何かがいるはずなんだ、大陸を走る地脈の中心に)
その存在に関して伝えてやれば、他の二人はさておきアリアには何やら心当たりがあるようで、得心がいったような顔でリィンを見つめていた。
結局、アリアはリィンの意を汲んで、この異変を必ず解決することを約束してくれた。
それがいつになるかは分からない。けれど、何となく、そう遠くない未来になるのだろうという予感がある。
地脈の果てで膨大なエネルギーの塊が胎動し、そして絶命するのをリィンが漠然と感じ取ったのは、それから僅かに十日ほど後のことだった。
ーーーー
酸の湖を、重たい身体を引きずりながら歩いていく。
瘴気の谷を支配していたミアスの力は徐々に弱まりつつあり、一日と経たずに立ち消えるだろう。
瘴気の解消には時間がかかるかもしれないが、これ以上の悪化は少なくとも起こらない。
やっと休める。やっとミアスのそばに戻れる。
リィンの頭の中は、その言葉でいっぱいだった。
屍肉の山。数十日ぶり程度なのに、酷く懐かしく感じてしまう。
脚に纏わり付く酸が足元の骨を溶かしていくのも構わず、リィンはミアスを目指して歩き続けた。
「……まだ、寝てるか」
あわよくば。
目覚めていてくれるのではないか、なんて淡い期待を抱いていたリィンは、小さなショックと共にそんな言葉を呟いた。
それでも、ミアスの顔に刻まれていた苦悶の表情はすっかり消え、なんならだらしないくらいに柔らかな表情に変わっている。
少なくとも、異変は解決されたのだ。約束を守ってくれたのであろうアリアに心の中で感謝を伝えつつ、リィンは横たわるミアスの横で座り込んだ。
「ただいま、ミアス」
寝ているミアスの頬を撫でながら、リィンは愛おしそうな声で語りかける。
ああ、やっぱり、隣にいると温かいなぁ……。
徐々に重くなっていく瞼と戦いながら、そんなことを考えて。
「リィ、ン? ふふ、本物のリィンだ」
耳に届いたのは、焦がれ続けた人の声だった。
起きたばかりで寝ぼけているのか、ミアスはもぞもぞと上半身だけ起こしてから大きな欠伸をしている。
そうして両手でリィンの頬をムニムニと弄んでから、自分の上に倒れ込ませるようにリィンを抱き寄せた。
抵抗する力のないリィンをそっと受け止めたミアスは、リィンの頭を撫でてくれる。
安心感で目が潤むのを隠すことも出来ないまま、リィンはミアスに身体を預けていた。
「何も言わずに、ごめんね。心配、かけちゃった」
「……うん。心配した」
「リィンは、頑張ったね。眠ってても、わかった。この谷も、上の台地も、一人で守ってくれたんだよね」
当たり前だ。なんて言おうとして、ポロポロと涙が零れてくるのがわかった。
ずっと胸を支配していた寂しさが。
ミアスがこのまま目覚めないのでは、という恐怖が。
帰ってくる場所を守らなきゃ、という責任感が。
ぐちゃぐちゃになった心の中身がミアスの温度で溶けだして、リィンの中から溢れだしていた。
「寂し、かったわ」
「うん」
「ずっと、いっしょだって、言ってたのに」
「うん」
「起きないんじゃ、ないかって」
「でも、こうして目覚めた。何とかしてくれるって信じてた」
グズグズと鼻をすすりながら涙声で泣きつくリィンを、ミアスは真正面から受け止める。
実際のところ、リィンがどうにかしてくれるかどうかはミアスには分からなかった。
生粋の古龍であるミアスは、ここ数十年でどんどん力をつけていく地脈の主の誘惑に抗えなくなってきていて、目覚めの時を迎えつつあった今回は尚更だった。
その上で、間違っても瘴気の谷から出てはいけないことを理解していた死の龍は、自ら眠りについたのだ。
ただ、眠りにつくということは、全てを放棄するということでもある。出来る限り力を抑えてはいたけれど、リィンにはかなりの負担をかけてしまったようだ。
最悪の場合、陸珊瑚まで壊してしまう可能性もあったけれど、それでも、ミアスはリィンと人間を信じていた。
泣きじゃくりながらぐりぐりと頭を押し付けてくる子供のような少女。人だった頃のリィンを知っている者が見れば、驚くであろう光景だ。
けれど、人間だった頃の彼女と、龍に成ってからの彼女が変わった訳では無い。
ただ純粋にミアスの前では、弱い自分をさらけ出せるというだけ。リィンよりも遥かに強く、優しく守り、寄り添ってくれるミアスだから、リィンは全てをさらけ出せるのだ。
それが分かっているから、ミアスは決してリィンを拒絶したりはしない。
そもそも、ミアスだって同じなのだ。人と龍、本来相容れないはずのミアスを受け入れてくれたリィンを手放すことなんてありえない。
「手、握ってて。起きるまで、ずっとよ」
「ふふ、わがままなお姫様みたい。……おやすみ、リィン」
散々に泣いて、やっと泣き止んだからだろう。いじらしいことを言ったかと思えば、一瞬で眠りについたリィンに苦笑しつつ、ミアスはようやく全てが終わったような解放感を感じていた。
ほんの少しだけ力を解放して、谷の上層に侵食していた瘴気を全て非活性化させると、瘴気の濃度はミアスが眠りにつく前と変わらぬ姿に戻る。
台地まで逃げ出していた
「とりあえず、目が覚めたらたっぷり甘えさせてもらわなきゃ」
リィンが寂しさを感じていたように、ミアスもまた長い眠りについていたせいでリィンの熱が欲しくて堪らない。たまには初心に帰って甘え倒してみるのもいいだろう。
さしあたり、しばらくは起きそうもない小さな恋人をゆっくり休ませてやらねばならない。
繋いだ手はそのままに、寝ているリィンに柔らかなキスを落として、ミアスは愛しい人の寝顔をじっくりと楽しむのだった。
前話でリィンが三人に対して終始平坦気味な対応だったのは、ただ疲れていただけだったという話。
ミアスとリィンが操れる瘴気の規模は象と蟻くらいの差があります。本当に僅かな力の漏出でミアスはアレだけの現象を起こしていて、リィンはちょっと可哀想なくらいがんばって抑えていました。ミアスが苦しそうな顔をしていたのは、出来る限り力の漏出を抑えるためだったわけですね。
そのうちオリキャラ、オリ設定をまとめて投稿する予定です。