依田芳乃と天罰の話。   作:姪谷凌作

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前編

「茄子殿、本当に、よろしいのですかー?」

 

芳乃は案じるように問い直す。

 

ここは病室。芳乃の前には、巷では幸運の女神と称されているはずの女性が頭に包帯を巻いて臥している。

 

「ええ、構いませんよ。芳乃ちゃんの手を煩わせるわけにはいきませんから」

「ですがー…」

「大丈夫ですよ。まだ物が少し見えづらくなっただけです。ちゃんと声も聞こえますし、触れば感じられますよ」

 

数か月前。世界中で同時多発的に「五感を1つずつ失ってゆく」という病気が確認されてから、社会は混乱していた。何せ世界中の著名人までもが次々とその奇病にかかっているのだ。人類滅亡論を唱える者、自棄を起こして犯罪に手を染める者、様々だった。

 

日本は比較的秩序が取れている方らしいが、それでも情報は錯綜し、物資の値段が跳ね上がり、一部のサービスが止まり……。人類の営み全てが滞ってしまい、生きるのにも苦労する混沌とした状況だ。そんな中、視力を失ったものの無事に入院できる病室を見繕うことのできた茄子は、不幸中の幸いを掴み取ったとも言えるだろう。

 

「――ところで、芳乃ちゃんはこの病気の原因がわかってるんですか?」

 

今日芳乃が茄子の見舞いに来たのは、茄子の病を治せる、そう思ったからだ。茄子が芳乃にそれを聞くのも当然の事だろう。

 

だが現在芳乃が解っているのは、ネットやテレビを見ていれば誰でも知っているであろう程度の曖昧な情報と、「感覚が失われるごとにその人の気も減衰し、すべての感覚がなくなった時、その気は完全に認知できなくなる」ということだけだ。

治せると思ったのもあくまで依田の血を継ぐ者として、災いを禊ぐことが出来るというだけだ。

つまりそれは依代である自分に病を移し替えるということに等しい。旧知の仲である茄子がそれを知らないわけがなかった。

もっとも茄子が断ったところで、病が酷くなれば無理やりにでも助けると決めてはいたが……

 

「いえー。わたくしには見当もつきませぬー。”終末期”の方々とも幾度かお会いしましたがー、」

 

この病気が流行り始めてから、”終末期”という言葉は専ら、「全ての感覚を失い、それでもなお生かされる人間」の事を指すようになってしまった。

 

視覚、聴覚、触覚、嗅覚、味覚の全てを失い、世界から完全に断絶されても尚、体の生命維持機能だけは働くようで。

死なないままに与えられれば与えられるままに生かされ続ける人間は、いつか生の意味を意識してしまうのだ。

そしてそれを表現する手段も持たないままジレンマに苛まれ、そして狂う。

狂った人間は、自分が何をしているかも知覚できないまま、死を迎えるのだ。

 

それも殆どは事故死ではなく、人の手による死だ。

 

暴れだした患者を抑えようとして手違いで殺めてしまったという事件を皮切りに、終末期の人間を養っていくのは不可能だという世論は急速に波及し、数日前、ついに終末期の人間に直接手を下すことを認める法案が可決されてしまった。

世界中の科学者が研究しているのにもかかわらず、感染経路、治療法、病原体、そのほか何一つ解明されないのだ。諦めて妥協案を探すのも致し方ないことではあるのだろう。

 

「難しいんですね……やっぱり」

「とはいえー、やはりこのまま見過ごすわけにはいきませぬゆえー。怪異が関わっている可能性もあるのでしてー」

「怪異……ですか。私はただ運がいいだけで芳乃ちゃんみたいな霊感みたいなのってないから、芳乃ちゃんが危ないって思ったら諦めて引き返してくださいね、私との約束ですよ?」

 

芳乃にとって幸運体質の茄子が病気にかかることは想定外だった。

お互いの性質は把握しているので、茄子の忠告には芳乃も油断するなという意味も含まれているだろう。

けれど、はいそうですかと引き下がって家に引きこもるわけにはいかない。

 

「‥‥必ずや、依田の力に頼らずとも茄子殿を治す方法を探し出しますゆえー」

「ふふっ、ありがとうございます。でも本当に無理は禁物ですよ」

 

気休めだったが、喜んでくれたようだ。

二人はそれから日が暮れるまで話し込んだ。

何事もなかったかのように。

 

 

 

 

 

それから、ちょうど一週間。芳乃はまた病院に来ていた。

 

茄子が、味覚を失った。

 

一週間と経たないうちに完全に一つの感覚を失うことが多い他の患者に比べると、彼女の幸運の所為か進行は遅いようだ。

しかし病は確実に進行している。解決法も糸口すら掴めない。

それは芳乃を焦らすのには十分すぎた。もう四割以上も感覚は失われているのだ。

 

小走りに院内を歩き病室の戸を押すと、そこには先週と変わらない茄子の姿。いや。やはり気は薄くなっていた。

 

「茄子殿ー。お見舞いに参りましたよー」

「あっ、芳乃ちゃんでしたか! お待ちしてました~」

 

思っていたより明るい返事が返ってきて、少しだけ落ち着く。心はまだ大丈夫なようだ。

 

「今日はお香の差し入れを持ってきましたー。わたくしの好みのものが残っていましたゆえー」

「芳乃ちゃんのお気に入りのお香……、わざわざありがとうございますっ。もしよかったら、今焚いてくれませんか?」

「ええ。構いませぬよー」

 

香の封を切って火をつけ、病室のベッドのそばにある机に置こうとして、ふと気がつく。

 

机の上に置いてある、まだ半分ほど煎餅の入った袋。

 

これは間違いなく、先週芳乃が渡した見舞いの品だった。一週間も経っていしまっているなら、とっくに湿気てしまっているだろう。

 

瞬時に、茄子が今香を焚いてくれと頼んだ理由を頭が理解してしまい、小さく声が漏れる。

 

「どうかしましたか?」

「いえー。少し香を取り落としてしまったのでー。ご心配なさらずー」

 

咄嗟に返事は出たが、見られることはもうないはずの茄子のほうを向くことが出来ないくらいに動揺していた。震える手で椅子を引き、なるべく気取られないように座った。

 

しばらくして、小さな病室に香の匂いが広がる。普段なら落ち着くこの香りが今日はやけに居心地悪く感じた。

 

「わぁ、いい香りですね。さすが芳乃ちゃん」

 

ゆっくりと深呼吸しながら、茄子は微笑む。目は包帯に隠されていても、心から喜んでくれているのは間違いなく見てとれた。

けれど、その気持ちが、今はたまらなく痛い。

自分には視覚も味覚もなくても、気を手繰れば生きていける、その自信があるだけに、彼女に代わってこの呪いのような病を受けることが、一層適した答えに見えてくる。彼女がそれを望まないことは知っているが、それでも芳乃は無理やりにそうしてしまいたかった。

 

次は何を失う?いつ失う?どうなってしまう? そんな、考えてはいけない筈の事を、芳乃は当人である茄子より考えている気がした。

当たり障りのない会話を続けるために、ひたすらに視線を泳がせる。動揺をひた隠しにする。少し細くなった茄子の腕が視界に入って苦しかった。

 

「芳乃ちゃん」

 

唐突に名前を呼ばれ肩が跳ねる。芳乃の返事は、自分の耳にも上ずっているように聞こえた。

 

「弱音を吐いてるつもりじゃないんだけどね? 最近、これは天罰なんじゃないか、って感じるんです」

 

息が詰まる。どう声をかけていいのか芳乃には見当もつかなかった。そこにあるのは、一秒先が来ることへの恐怖、それだけだった。

 

「きっといろんな刺激を受け過ぎた人間への、天罰。繋がって、受け取っていることに感謝を忘れてしまったから、神様に怒られちゃったのかな、なんて思うんです」

 

この病が何によるものなのかさっぱり見当もついていない芳乃には、口を噤み拳の震えをひたすらに握って収めようと試みる以外に出来ることは無かった。

茄子の方がやはり、芳乃よりもはるかにたくさん考えていたのだ。疲れてしまうくらいに。

でなければ、彼女がこんなことを言うことはなかっただろう。

 

「茄子殿、わたくしは仮に視覚と味覚を失ったとしても―――

「ううん。そういうことじゃないよ」

 

茄子はあくまで優しく、穏やかに諭す。そこには焦りも、怒りも、哀しみも、一切の負の感情は含まれていなかった。

 

「私は私で、芳乃ちゃんは、芳乃ちゃん。誰か一人が苦しめばいいんじゃなくて、これは私が、失うべきものだから」

 

茄子はもう一度、深呼吸をした。そしてゆっくりと起き上がり、芳乃の方に手を差し出す。

 

「芳乃ちゃん。手を、握ってくれる?」

 

芳乃が手に触れると、暖かい感触が伝わる。

 

「芳乃ちゃんはみんなの、たいせつな感覚を、この気持ちを。絶対に護ってあげてね」

 

ふふっ、といつものように笑う茄子。包帯に隠れてその目は見えない。

 

二人は陽が暮れるまで、そうしていた。

 

 

 

 

 

夜。病院を出た芳乃は真っ先に消毒とお香の混じった空気を肺から追い出すように息を深く吐き出し、頭を切り替えた。

 

茄子がこのままゆっくりと消えていくのを、指をくわえて見ているわけにはいかない。

 

どんな手段を使ってでも、望む結果を出さなければならない。

 

普段の自分とは思考を切り替える。何とかなるだろうなんて希望もすべて、捨てた。

 

感覚を失うと気が失われる現象。この原因を解明することが、芳乃だけに出来ることだろう。

 

そのためには感覚を完全に失った”終末期”の人間を、もっと詳しく調べる必要がある。

 

寝ている暇なんてない。これから、茄子の感覚が失われるまでが勝負だ。何度倒れても、斃れてはいけない。

 

残された時間は無為にするほど長くなかった。

 

 

 

 

 

患者を探すという事自体は、どこの病院も既にパンク状態なので探すことはたやすいが、問題はその進行度だ。できれば進行度別にじっくりと観察したい。

そんなことが出来る人間は医者か研究者くらいだろうが、生憎芳乃にはそんなツテはない。自分の足で探す必要があった。

 

失せ物探しを得意とする芳乃にとってそれは易しいことなのか、というとそうでもない。気を手繰って探しているので、そもそも気を持たないものを探すのには力が及ばないのだ。

そもそも芳乃はこれまで「何の気も持たない生物・物質」に出会ったことがなかったため、これが果たして本当に人間、いや物質により構成されているのかすら疑問だった。

 

ただ、そんな過程や理論はどうでもいい。今は結果さえ出せれば事足りるのだ。

 

焦りすぎかと思わなくもないが、待つ時間も間違う時間もないのも確かだろう。茄子の体から存在が抜け落ちる前に、何としても栓をして、足りなくなった分を補充しなければならない。

 

静かな夜を、芳乃は歩き始めた。

 

都会の空には、一番星すら映らなかった。

 

 

 

 

 

 

それから一週間。芳乃はほぼ寝ずに街を渡り歩いた。患者の話を聞くたびに足を運び、人が来るまで気を読み解き続けた。

 

けれどわかったのはたった一つだけ。

 

感覚が失われることと、本人の気が減衰することは、何の関係もないのだということ。

 

つまり、いくら周りを良い気で満たしたところで回復の見込みはおろか、遅延の可能性すらない、ということだった。

 

芳乃は何度も、苦しみ踠く患者に気の蘇生を試み、そして悉く失敗した。

 

疲弊からか、聞こえなくなった者に酷い言葉を吐きそうになった。触れなくなった者を痛めつけそうになった。その逆も、何度もあった。

 

そのくらいに、誰一人報われなかった。

 

芳乃を走らせるのも、踏みとどまらせるのも、茄子の声、表情、仕草だけだった。

 

まだやれる、きっと次は、方法を変えれば。ラジオを聴き、病院を巡り情報を集める芳乃が、他者にどう見られていたかなんて、本人に考える余裕は無かった。

 

死神のようだ、なんて。思ってもみなかった。

 

 

 

 

 

 

そして、八日目の朝。

 

日本中が揺れた。

 

政府が、突貫ではあるが各地にシェルターを設置したことを明かしたのだ。

 

シェルターに入れる条件は、患者ではないこと。収容を望むこと。それだけだ。収容人数も現在の患者数を鑑みるに足りているらしい。芳乃はそれが可能だったことより、可能である人数まで健常な人間が減ってしまっていたことに驚いた。

 

そして何より。

 

これが全ての患者を見捨てるという最終通告であることに、絶望した。

 

医者だって人の子だ。体が健常である限りシェルターに入ることは許されるのだ、患者の苦しみ、死を見届けてきたのならば猶更自分の生を優先するだろう。

 

それを非難するつもりは無い。当然の権利ではあると思う。

 

けれど、呪わずにはいられなかった。

 

外は案の定、交通が麻痺し怒号が飛び交う、この世の終わりのような有様だった。とにかく、病院に行かないと。

 

芳乃は群衆とは真逆の方向に、走り出した。

 

 

 

 

 

病院にたどり着く頃には正午を回っていた。途中で道端に棄てられていた自転車を拝借したが、疲弊しきった体にはそれでも堪えた。

 

院内には見舞いの人間はおろか看護師一人居ない。みんな仕事を放ってシェルターへと向かってしまったようだ。

 

茄子以外の病室の戸を開ける気にはならなかった。時々耳に届いた呻き声も、聞こえなかったことにした。せっかくの感覚を無駄遣いしてしまった、と思った。

 

ふらふらと息を切らしながら階段を上がり、寄りかかるようにして戸をゆっくりと押す。

 

耳に飛び込んできたのは、ゆったりと疲れを解し、眠気を誘うようなオルゴールの音色。

 

「‥‥もしかして、芳乃ちゃん?」

 

戸の音に気付いた茄子がゆっくりと起き上がる。

 

「ええー。お見舞いに参りましたー」

「やった、見えなくても雰囲気でわかっちゃいました」

 

芳乃よりも元気にはしゃぐ茄子の心に、偽りは見えなかった。それが猶更芳乃の無力さを責めていた。

 

「ちょうどいいですね。まだ少し残っていたと思うので、よかったらお香を焚いてくれませんか?」

「はいー。わかりましたー」

 

芳乃が香の包みを開くと、そこには本当に一回分だけ残されていた。先週は机に置きっぱなしだった煎餅はどこかに片づけられてしまったようだ。

 

火をつけるとすぐに匂いが広がる。芳乃はこの匂いを嗅いだのがたった一週間前であることが、嘘のように思えた。

 

「無理はしていませんか?」

「体を壊さない程度には休憩をして、頑張っておりまするー」

 

嘘だけどそう言うしかなかった。目的を成功させるために。

 

「茄子殿ー。今日は少しなりとも解決できる方法を見つけたので参ったのでしてー。包帯を外してはくれませぬかー?」

 

目的は茄子の病を禊ぎシェルターに向かわせること。禊のためには彼女の目を見る必要がある。包帯を外して目が合うまで、苦しいが、彼女を騙す必要があった。

 

「ついに……見つけ出してくれたんですね」

「はいー。これでわたくしが居る限り安泰でしょうー」

「よかった……芳乃ちゃんなら、きっと何とかしてくれるって信じていました」

 

握手を求めるように手を向けてくる。芳乃がその手を握ると、そのまま抱き寄せられてしまった。

 

ゆっくりと息をしながら、抱きしめる。もう片方の手で髪を撫でられた。

 

「芳乃ちゃん、本当に、おつかれさまです。きっといろんな無茶をして見つけてくれたんでしょうね。こうやって触れていたら、私にはわかっちゃいます」

「バレてしまいましたかー。少し自分でも無茶が過ぎたとは反省しておりましてー」

 

うん、うん。と嬉しそうに声を弾ませて芳乃を撫でる。芳乃は、固まっていた何かが溶け出すような感覚を覚えた。

 

「今はまだ太陽は出てますよね? 窓まで連れて行ってくれませんか? 目が見えるようになったら、ちゃんとお天道様にお礼を言いたいなって。私、鷹富士茄子ですからっ、ふふっ」

 

芳乃に手を引かれて、茄子は窓にもたれかかるようにして立つ。

 

頭の後ろに手を伸ばし、包帯の留め具を、ゆっくりと外していく。

 

「芳乃ちゃん」

「はいー?」

「机の下にあるオルゴールを、止めてくれるかな」

「構いませぬよー」

 

芳乃はそう言い机の下をのぞき込む。

 

そこにあったのは、オルゴールではなかった。

 

小さな、ラジオだ。

 

「ごめんね芳乃ちゃん。もう、聞いちゃったんだ。シェルターの事」

 

振り向く頃には、茄子は既に窓のカギを開け窓枠に腰かけていた。その瞬間に、すべてを理解してしまう。

一歩、及ばなかった。

いや、一生及ばないままなのだろう。

体は止めようと駆けだすが、頭がうまく回らない。

 

「芳乃ちゃんは私じゃない、たいせつな誰かを、絶対に護ってあげてね。じゃあ芳乃ちゃんに、幸あれっ♪」

 

とびきりの笑顔で、頭から

 

落ちて、ゆく。

 

ズシン、と音が聞こえたが、覗きこむ気にはなれなかった。

 

一緒に後を追ってしまいそうな気がしたから。

 

空虚な生を味わいながら、行きにも増して力無く震える足で階段を降りる。

 

わざわざ客用出入口を使って、茄子の所にまで行く。

 

やはり即死だった。確認するまでもなく、わかっていたが。

 

じわじわと血溜まりが広がり続ける。包帯が取れかけていたがもう目を見る気にはなれなかった。見てはいけない、気がした。

 

血の朱が包帯の白を蝕んでいくのを、見つめ続ける。

 

朱が爪先まで届いたころに、雨が降り始めた。

 

空が、幸運の女神の死を悲しむように、大粒の雨を流し続ける。

 

それでも芳乃はそこを動くことは出来なかった。

 

自分の居場所は、茄子のもと以外に見つからなかった。

 

私じゃない、たいせつな誰かを、護る。そんな気にはなれなかった。

 

自分の信条を、大事な人の警告を守れなかったのに、幸なんてあるわけがないじゃないか。

 

天罰だ、これこそが、まさに天罰なのだ………

 

 

 

 

 

それから先は、よく覚えていない。

 

気がついたら、誰かにシェルターまで連れていかれていた。

 

そうして、一人の少女と、出会うことになった………

 

 

 

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