「いたたた……」
その日の夜。私は寮まで帰路についていた。姫様たちの前では我慢していたけど、もう限界。気力を使い果たし、痛みと眠気に襲われ、気を抜けば倒れてしまいそうだ。いくら鍛えているといっても、流石にそう都合よくはいかない様子。
あの後、運動部をあちこちお二人と回ったけれど……やっぱり鳥姫様と月姫様の人気は凄まじい。今年入ったばかりの一年生ですら、知っていて当然の空気まであるくらいだ。それほど注目を浴びる立場なのに、果たして私はそんな立場で、数多の視線に、自分らしく振舞ったうえで、姫の公務を務めあげるなど……到底無理な気がする。剣術部の部長さん、斑鳩先輩は『ダイヤの原石』何て言ってたけど、そんなものは社交辞令のリップサービス……でもなかったような……?
最近は、何だか妙な自信が沸いてきたり、いろいろ泥沼だななんて思ったりする。でもとにかく私は、姉さんのために、そして姫様たちのために今できることを頑張らないと……。
それから少し歩いて、この花宮、最大の桜の木の近くにで出る。花宮に広がる桜の森は深く、そして一本の大きな桜が鎮座している。周りの桜よりも、とてつもなく古い桜の大樹。どこか威厳のある物を感じさせ、宵闇の中、ただ桜の花びらを散らしながら、静かに佇んでいる。そんな桜の名前は『夜叉桜』。これは雲雀から教わったものだ。
夜叉だなんて、おっかない名前だこと──―
古木の下に足を進める。この時間帯は、流石に花宮の外れであるここは、学生たちの姿はない。
ちょっと、休んでいこう。
帰りを待っている雲雀には悪いけど、今日は少し疲れた。
夜叉桜に背中を預け、すっと視線を上に向ける。まるで水のように隙間のない満開の桜。そして終わることなく散る花弁。この風景、そして香り……。こうして桜に触れていると、なぜか懐かしい感じがする。けど……私は桜の花は嫌いだ。ほんのひと時だけわっと咲いて、愛でようかと思ったときは、もう既に散っている。それは何もない人生にも似た、苦々しい儚さと美しさ。
「ん……?」
空を見上げる視界の端を、ふっと何か白いものが横切った。おそらくは花弁だろう。息を吐きだしながら、頭を下げる。そして、目の前に一人の少女が何の音もなく、私の目の前に立っている。
「だ、誰?」
少女はどう見ても子供に見える、だけど、巫女の様な服に灰色に近い髪の毛。どことなく私より年上の様な雰囲気だ。
さっきまで、私しかいなかったはずなのに、あたかも最初からいたような感じで、その女性は静かに佇んでいて──―。にっこりと、微笑んだ。
「あ、あの……」
「…………」
その女性は、微笑んだまま、その身を木陰へ──―。
恐る恐る、闇の中を覗き込んでみる。
「あれ? いない……」
そこに広がるのは物言わぬ闇のみ。彼女の痕跡となるものは、一つも感じられない。
なんだ、今の……。ひょっとしたら、幽霊でも見たのか……?
「まさか……ね……」
それから、少し経った後、急に背中に冷たいものが走ったので、私はさっさと寮に戻った。ようやく長かった一日が終わりを迎える。この学園に来て、桜森杏子先輩に出会い、さらに個性的な姫様方。この時間帯だと、鷹司先輩、ふーさん、桂木先輩みたいな方たちとお近づきになれた。
桜森先輩……なんだかこの呼び方だとしっくりこないな……。
花姫様は厳しすぎる人だけど、でも流石この
花宮の頂点に君臨している。しかも、あんなに一癖も二癖もある3人を従えている。それだけ器の大きな人なのだろう。
「ふあ……流石にねむいや……」
本格的に眠くなってきた。今日はあんな幻覚を見ちゃったくらいだし、もう寝よ寝よ。
「誰もいないけど……おやすみなさい」
──苦しい。胸が潰れるほど、苦しい。
──寒い。凍えるほど、寒い。
──痛い。全身の骨が砕かれてしまったように、痛い。
──指一本、瞼や唇すら動かすことの出来ない私の傍らで──。
──数多の命が消えていく音が聞こえる。
──数多の営みが焼き焦がされる臭いがする。
『どうして……どうして……』
──悲しげな声が聞こえる。
──耳元で聞こえるようでもあり、遠く離れた物陰から漏れ聞こえるようでもあり──。
──確かなのは、その声を聞いているだけで、私も涙が溢れそうになるほど、哀しい声であること。
──でも、既に動かない私の瞳、光も消え、濁った私の瞳は涙を流すことさえも許してくれない。
──これは報いである。
──私と……彼女が犯した罪への報いである。
『いや……いや……どうして、どうして……。どうして……私の命を奪わないのですか……』
──やめて……
『どうして、私以外の全てを……罪な気人々を……殺めるのですか……。これが……報いなのですか……呪いなのですか……』
──やめてよ
『うっ……ううっ……なぜ、私を殺さないっ……その方が……私も、貴方も……本望であろうに……この体に流れる血ゆえに……命まで取らぬと……そう言うのですか……』
──やめてっ……
『なんと心優しく……残酷なのでしょう……っ……ううっ……うあああぁ……』
──やめて、もうやめて……お願いだから……。
──なぜ、彼女が苦しまなければならないっ……この私に、全ての罪があると言うのにっ!
「いやああぁっ!! 」
悲鳴をあげながら、一気に私は覚醒した。掛け布団を握りしめながら、飛び起きる。な、なに……今の夢……。気分は最悪、とにかく胸糞悪くて、訳の分からない夢。額に手を当てると、びっちゃりと汗が手に付く。
え……なに、この寝汗……。額だけじゃない……全身から滝みたいに……。いや、そんなものではない。
まるでお風呂から出てそのままベットに飛び込んだような、そんな大量の汗。……変な病気じゃないよね……?
「咲音? どうしたんだい、咲音?」
ドアの向こう側から雲雀の焦った声がする。まずい……どうしよう。とりあえず返事を──―。
「んっ、あ、ん、んっ……」
あ、あれ!? 口の中が乾いてる上に、喉が痛んで声がでない。一体どうなって──―。
「咲音? まっててね。すぐそっちに行くから」
え、いまなんて!? 鍵閉めてるし、ベランダとかがあるわけでもないし──―。
すると、なにやらドアノブからカチャカチャと音が鳴る。
えええっ!? 鍵開けてる!!??
カッチャン、と軽快な音をたてて鍵が外れる音が部屋に響く。
「咲音! 大丈夫かい?」
「ん、んっ……ご、ごめんなさい……怖い夢見ちゃって」
「怖い夢……どんな夢だい? 覚えてる範囲でいいから教えてくれる?」
そう言うと雲雀はきっ、と真剣な顔をして私をじっと見つめる。
「あ……えっと……とにかく怖くて……訳が分からない場所で、私が倒れてて……傍らで火事が起こってたり泣いてる女の人がいて……」
「そっか……その夢の内容に心当たりは?」
「全然……昨日は疲れてたからか、あんな夢見ちゃったのかも……」
「そうか……悲鳴が聞こえてきたから飛んできたんだけど……どうしよう。伝えていいのかな……」
「な、なに? 怖いことは言わないでよ……?」
雲雀の言葉に一瞬、夜叉桜の下で見た、奇妙な女性の姿を思い出す。ま、まさか、あれは本物の幽霊……?
「じゃあ、やめておこうか……」
「ご、ごめんね……」
「いや、大丈夫さ。でも、こんな夜更けに人騒がせなお嬢様だね。もし良かったら、今宵は朝までその寝顔、見つめててあげようか?」
「あ、それは大丈夫。大丈夫だからね? それに、今ベット凄いことになってるから……」
「凄いこと? ……あっ」
シーツを触った雲雀の顔が、見る見るうちに哀れみの色が浮かんでいく。
「咲音……恥ずかしがらなくて大丈夫。このことは誰にも言わないからね。天蕗先輩にも、花姫様にも」
「あ、これ汗ですっ! 勘違いしないでくださいっ!!」
「これ、全部汗? 本当に?」
「そうなの! ほら私びっしょりだし……と、というか……雲雀、いつの間に合鍵なんて作ってたの?」
「合鍵? 持ってないよ、そんなもの。だからちょっと手間取って……姫様に粗相をさせるハメになってしまった。申し訳ないね」
「お、おねしょじゃないもんっ! でも、じゃあどうやって……」
「この程度の鍵、ヘアピン2つもあれば、お茶の子さいさいですよ、姫様?」
にかっ、と笑い先の曲がったヘアピンを2本私にみせる。
「なぁ!?」
こ、この人……どうしてやたらと変なスキルばかり身につけてるのかしら……。油断も隙もあったもんじゃない。
「と、とにかく! もう大丈夫だから……シャワー浴びないと……」
「1人て大丈夫? 僕もまだだから、一緒に入ると手間が省けて助かるんだけど」
「1人で大丈夫です! 貴方と入ったら、もっと怖い目に遭いそうだからお断りです」
「つれないなぁ、まったく。わかったよ。僕はリビングに戻ってるから、困った事があればいつでも申し付けてください、お姫様」
雲雀は渋々といった感じで私の部屋から出ていく。しかし、鳥姫様といい雲雀といい、どうしてあんな感じの人達は僅かな隙も見逃さないのだろうか。とりあえず、お風呂入ろう……。
「そういえば、さっきの夢の女の人……花姫様に似ていたような気がする……気のせいかな……」
すこし、あの夢を思い返そうとしたが、既に忘れてしまっていたようで、霧がかかったように分からなくなってしまった。はぁ……ほんとに疲れてるよね……。寝たいけど……ベットがこんなんじゃ今夜は使えないし。なんか色々しんどい……。
「さっさとシャワー浴びてこよ……寝るのはソファでいっか……」