八幡のちょっとリアルな大学生活。   作:23番

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7月です。
春学期試験の月ですね。

あ、あの男が出てます。


読んでもらえるだけで嬉しいですが、意見感想などをいただけるともっと嬉しいです。

お手すきの際にどうぞ。


7月

「あっちぃ...」

 

 額に汗が滲み、手の甲で拭う。タオルを持ってこればよかった。

 背の高いコンクリートのビルに囲まれているのに、てっぺんに向かう太陽は容赦なく照り付けて来る。梅雨は終わり、気温は本格的な夏に近づいてきた。服もTシャツ一枚と、自分が用いる範囲で一番薄い格好をしている。

 

 今から半袖着てたら8月9月どうするんだ...、もう皮膚しか残ってないぞ。

 

 目的の棟に着きエレベーターのある方へと足を向けようとしたが、人の列が連なっているのが見え階段で登ることを選択する。

 目指す4階へとよっこらよっこら足を動かしていると、まばらに人が上っているのが分かる。運動不足解消かと考えたが、格好や雰囲気が俺と似たようなものを感じエレベーターを嫌ったのだろうか、と勝手に想像する。足に意識を集中すると疲れを意識してしまうためいつも別の事を考えるようにしていた。

 

 エレベーターに大勢で乗るとボタンの押すタイミングとか降りるときの「すみません...」とか色々不安なことがあってあまり好ましくない。ボタン押せなかった日には上の階までやり過ごし、あたかもこの階ですよ?といった顔をしながら降りて階段で目的階まで降りるという無意味なことをしなければいけなくなる。これは電車でも同じだ、席に座ると譲らなきゃいけなくなった時に自分という人間の無力さを味わい、隣の席の人が譲った暁には人格を全否定されるというダブルパンチを喰らう。ていうか人が下りる前に電車に突撃隣の晩御飯してくるおばさんはなんなの?今朝それで打った肘が未だに痛い。

 

「ふう...」

 

 階段を登り切り一息ついた。まだ思ったより体力は落ちていない。自転車通学が少し残っているからだろうか、それとも体育で一応身体を動かしているからか。

 階段から向かってT字路の様になっている通路を左に曲がろうとしたところで後ろ、つまり俺が先ほど昇りきった階段から慌ただしい足音がする。こんな足音を立てる奴は厄介な奴しかいない。

 

 逃げるように左に曲がると、右肩に衝撃が走る。

 

「っはよー!ヒキタニ君!」

 

 トレードマークの金髪が颯爽と登場する。衝撃は戸部の挨拶らしい。随分な挨拶だなあ?

 

「お...」

 

 言葉を返す前にバタバタと走り去り、右側の教室に消える。

 驚きに立ち止まっていると左側のトイレから女子学生が出てきて、目の前を横切りながら怪訝な視線を投げかけて来る。中途半端に上げていた腕が恥ずかしくなりポケットに突っ込んだ。

 

 戸部、そしてその女子生徒が入っていった教室に足を踏み入れる。

 

 ああ、この授業は一番嫌いかもしれない。

 

 

―――

 

 

「えー、12回に渡ってやってきたこのロジカルシンキングですが、残り3回で最後の発表をしてもらいたいと思います」

 

 爽やかな口調にはっきりとした顔立ち、今シャワー浴びてきた?と聞きたくなるワックスで撫でつけられた髪型。この大学の教員ではない男だ。なんとかという会社の特別な講座で、数年前から全国の大学で取り入れ始めているものらしい。

 ロジカル論理的云々言われると両手を前に出してクルクルしてしまいそうになる。

 

「これまでは隣同士、又はその前後と少人数でのグループワークでしたが最後はそれらを生かして少し大人数でのワークをしてもらいたいと思います」

 それでは最後の席替え用紙を配るので少々お待ちください。と言い、スーツに身を包んだ男たちが動き始める。

 

 前から順番に学生の手を渡り紙が送られてくる。席替えするなら最初に紙張り出して座らせときゃいいのに...。もっとコンセプトをシェアしてデフォにしていこうぜっ!

 受け取った学生から移動が始まり、教室内が突然の喧騒に包まれる。知った顔と離れる、近づくというイベントは授業中という概念を通り越して人の心理と口を動かす。まあ競技の集団行動みたいに黙って交差されても怖いからいいんだけど。

 

 俺の今度の席は、黒板を正面にして一番右のブロックの壁際だった。よかった、教室も映画もやっぱり通路に面してると安心するよね!え、俺だけ?いやいや。

 

 頬杖をつき、横目でメンバーを確認するが見知った顔はいない。いや、俺の前の列の一番左、俺のいる位置の対角線上に見知った金髪ヘアバンドがあった。

 前の列と合わせて10人ほどでのグループワークだろうか、二列ごとに不自然な空列がありブロックが形成されている。

 

 前の講師が再び口を開き、説明を始めた。東京郊外の再開発のアイデアを出すらしい。

 

「では、各グループで好きなように始めてください」

 

「じゃあ、はじめは全員の自己紹介からでいいかな」

 

 開始の合図とほぼ同時に、俺の前にいる男が声を出した。教室内はまだリーダー決めや牽制で時間を消費している中の事で、近くのグループの数人が首をこちらに向けたのが分かった。

 

「僕から時計回りで、どうかな」

 

 グループ内からパラパラと賛同の声が上がったのを確認し、満を持して彼が口を開く。

 

「僕は玉縄、海浜総合の元生徒会長なんだ。よろしく」

 

 白い歯が、きらりと見えた。

 

 

―――

 

 

 ざわざわ、ざわざわ。あ、別に賭け事とかしてないから。

 おばちゃんから親子丼を受け取り、水を取りに行こうとしたところで奥の机から声がする。

 

「ヒキタニ君ー、水あるよー!」

 

 俺の分を取っておいてくれたのだろう、両手に持ったコップを頭上に上げアピールをしている。恥ずかしいやめろ、いややめてください...。

 戸部の隣にいる玉縄も少し困惑した表情をしていた。

 

「サンキュ」

 

 彼らの向かいに座り水を受け取る。キンッキンに冷えてやがる...!!

 

 奇しくも同グループとなった俺たち3人は、玉縄の提案で昼食を共にしている。もっとも、彼の予定ではさらに数人の参加は見込んでいただろうが。

 

「いやー、みんな忙しいみたいだべー」

 

 本当のところは分からないが、グループワーク初日に昼食を利用して討論など皆忙しくなっても仕方ないだろう。かくいう俺も戸部に連れてこられなければ急用ができたり架空のお友達と御飯に行かなきゃいけなくなるところだったからな。

 

「そうだね、残念だけど僕たちだけで少しでもアイデアのプライオリティを順位づけて、ブラッシュアップして質を高めておこう」

 

 ...はっ!おっと少し意識が高くなっていたようだすまない。で、なんだって?

 

「っべー、玉縄君超頭いいじゃん!っべー」

 

 それなー、難しい言葉使ってる人見るとすごく頭いいように見えるよねー。ただ、言葉を弄するだけなら誰にでもできる。

 

「でもあれだべ?勝手に決めると皆困るかもしれないし今日は楽しく御飯食べるべー!」

 

 どんなに簡単な言葉でも、時には言葉にせずとも必要なことは伝わる。重要なのは横文字でも第二外国語でもないのだ。

 

「そうだな。悪くないアイデアも結構あったし、俺たちだけで精査してもあんまり意味ないだろう」

 

「そ、それもそうかもしれないね...」

 

 俺たち二人の言い分に渋々納得してくれたのか、玉縄もこれ以上先ほどの話題は出さなかった。

 

「それにしても、イベントの時の生徒会長さんに会えるなんて偶然だべー」

 

「本当だね、一緒の大学に入学しているなんて思わなかったよ。運命かな」

 

 おいおいよくそんなセリフ言えるなコイツ。恥ずかしくないのか、俺は聞いてるだけで恥ずかしいぞ。

 

「まあ、僕の場合は指定校だから、少し無理して上の学校に来たんだけどね...」

 

 いつもは体の前でひらひらさせている手だが、今は照れ臭そうに髪を掻いている。AOや推薦入学というものは恥ずかしいことなのだろうか。

 

「っべー!おんなじじゃんっ、俺もサッカーで推薦貰ってこの学校に来たんだべー」

 

 そうなのかい、と玉縄の顔が少し明るくなる。

 戸部の様にサッカーに打ち込む、玉縄の様に生徒会長として頑張るなど、非凡と言っていい行動は誇っていいものではないだろうか。努力は報われるべきなどとは言わないが、何もしてこなかった人間よりは報われていいと思う。親子丼うまっ。

 

「だから勉強むずかしいんだよなあ、このままじゃ単位落としそうだべー」

 

 学部固有の教科は入門など簡単に設定されているが、一部の教科はそうでもなく、レポートのあるものや全学部共通の科目も取らなければいけない為想像していたよりも大変だ。

 でもまあ、普通に話を聞いていれば問題はない。ただし...。

 

「あはは、確かに先生によっては難しい教科もあるね」

 

 二人が話している間に自分の取っている教科を頭の中で整理する。レポート課題は全く問題なく全学共通も苦手分野は避けつつ取った。となると最大の敵は、経済数学...。こればっかりは話を聞いていても分からん。嘘です。聞いているけど聞こえてません。鼓膜が数式だけ拒否するようだ。

 

「一応理系も考えてたから数学は全然余裕なんだけどよー、レポートだけ昔から本当に苦手でさ...」

 

 戸部が頭をがっくりと落とし項垂れる。

 その言葉に記憶が刺激された。マラソン大会の時期だっただろうか。戸部との会話で出てきた理系志望というセリフ。彼に似合わないその言葉に意外だと感じたのを覚えていた。まあそれも結局は葉山についていく形で文系にしていたのだから何の意味もない。

 

「あ、ヒキタニ君って国語の成績よかったべ!?」

 

 ガバッと頭を上げたかと思えば、眼を輝かせこちらに向かって口を開く。頭の上に電球が見えそうなひらめき顔だ。

 

「え、ああ、まあ理系科目よりは得意だと思うが...」

 

 俺の言葉を聞き、軽快な音を鳴らしながら掌を合わせ拝む仕草をした。

 

「お願い!俺のレポート見てくんね?」合唱した手の向こうにチラチラとこちらを窺う瞳が見えた。「どんな風に作ればいいか分かんなくてさ」

 

「いや、俺も初めてだし何が正解かなんて分かんねえぞ?」

 

「いやいや、やっぱりここはヒキタニ君でしょお!」

 

 もはや俺の言葉など聞く耳を持たず、わっしょいわっしょいと言わんばかりに持ち上げて来る。いやまあ、悪い気はしないけども。これがいろはすだったら俺のターン無しに事が済んでいるだけマシか。

 

「いやでもなあ...」

 

 それでも人の成績に責任など軽々しく持てるものでもなく、答えに渋っているともう一度戸部の発言がフラッシュバックした。

 

「なあ戸部、経済数学受けてるか?」

 

 一応経済学部1年の必修科目だが、相手が戸部の為確認をする。

 

「取ってる取ってる!めっちゃ取ってるべ!」

 

 めっちゃってなんだ。まあいい。

 

「じゃあ俺に数学教えてくれないか?そうしてくれたらレポートの件も考える」

 

「え!マジマジ!?全然教えるって!」戸部の上体がこちらに傾き、勢いに押され思わず仰け反る。「ヒキタニ君に教えることがあるか分かんないけどさ」

 

「いや、助かる。まじで数学分からん」

 

「じゃあどうして経済を選んだんだい...」今まで沈黙していた玉縄が口を挟み、思わず顔を向ける。「あ、いやまあ学部選びなんて人それぞれだしね...」

 

 言葉が尻すぼみになり、喧騒に消えていった。今の俺の視線はあまり良いものではないだろう。雪ノ下に罵倒、ではなく叱責を浴びる気がした。

 

「法学部が第一志望だったんだよ、落ちたけどこの大学に通いたくて一応受けておいた経済にしたんだ」

 

 この場をこのまま終わらせては、本当に腐ってしまうようで何とか口を動かした。腐るのは目だけで充分だ。

 言葉を聞いた玉縄の表情が少し、綻ぶ。

 

「なるほど、ここに通いたいってことはやっぱり公務員講座が目当てなのかい?」

 

「まあな」吹聴する様な事でもない為、軽く流す。

 

「っべーヒキタニ君すげー」

 

 何がすごいのか分かっているのか分からない物言いで戸部が話す。

 

「別にすごくねえよ、それよりさっきの条件でいいのか?」

 

「おう!いくらでも教えるって!ていうかそんな条件なくてもいつでも聞いてくれていいっしょ!」

 

 友達なんだからよっ、と続けた。

 

「それ、僕も参加していいかな」玉縄が口を開く。「不安な教科結構あって」

 

「いいねいいねー!みんなで勉強するべー!」

 

 喧騒に包まれる食堂を見渡す。大きな長机に様々なグループが陣取り、いびつな形で領地を形成している。そしてその向こう、壁際には主に少人数、一人や二人の学生がいた。

 

「じゃあいつやるか決めるべっ!」

 

 戸部の呼びかけに、視線を戻すと玉縄と共に携帯を取り出している。スケジュールの確認でもするのだろう。

 そのまま視線を下げると、大きな長机。このまま右に首を向ければ別グループの占有域が広がっているはずだ。

 

 学校とバイト以外の予定はない為、あまり意味をなしていないカレンダーアプリを開く。

 

 

 壁際にいた学生が去り際、食堂全体に向けて毒のある視線を向けていた、気がした。

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 折り、折り、折り、折り込み、もう一度折る。するとあら素敵。図書カードケースの包装紙が完成しました。コツは最後で両端を内側にキュッとしながら折ることだよっ!きゅるんっ。

 

 いつかめぐり先輩が教えてくれたやり方。もちろんきゅるんは俺が感じたことだ。

 

 教えに習い、備品の一つである図書カードの包装紙を折り続けている。時刻は11時。

 

「終わったよ~」

 

 優しい声色が後ろから響き、振り返るとめぐり先輩がいた。

 

「お疲れ様です、早いですね」

 

 レジ内の仕事とレジ外の仕事の二手に分かれ、商品整理に行った先輩だったが俺がいつも終える時間の倍の速さで帰ってきた。

 

「うんっ!比企谷君とお話ししたくてダッシュで終わらせてきちゃった!」

 

 ...はっ!思わず意識が天に昇ってしまうところだった。惚れてまうやろー!

 

「そんなに早く終わらせてきても面白い話は出てきませんよ」赤くなっているであろう顔を背けつつ答える。

 

「えへへ、別に比企谷君に面白い話は求めてないからいいんだよ~」

 

「ああ、なるほど...」 

 

 暗に期待されていないような口ぶりに、心がシュンとなった。

 

「あ、悪い意味じゃなくて、存在そのものが面白いというか、ああこれも悪い意味だ、うーん」

 

 一人で頭を抱え悩み始めた彼女がおかしく、思わず笑ってしまう。

 それを見ためぐり先輩も笑った。すまん戸塚。守りたい、この笑顔...。

 

 今度戸塚に会ったら謝ろう。ほんの出来心だったんだ!魔が差して!ついカッとなって!もうしないからっ!

 おっと最後のはする奴のセリフですね。

 

 俺の隣に立ち、包装紙を折り始めためぐり先輩だったが、こちらの胸のあたりを見たかと思えば何かに気付く。

 

「比企谷君って、5月からバイト始めたよね?」

 

「えーっと、そうですね。どうかしました?」

 

「一応3ヶ月は研修期間になってるけど、比企谷君優秀だからもうとってもいいかもね、それ」

 

 というと俺の胸元にある名札を指差す。透明のケースに紙を挟む至ってシンプルなものだが、名前の横に”研修中”の文字が印刷された紙も挟まれていた。

 

「いやいや、まだまだですよ」自分の名札を見つめ、研修中の紙が確かにあることを確認する。「まだ経験のない仕事もありますし」

 

 実際そうだった、定期購読関連や手書きの領収書の発行、各種検定の受付等々と挙げればまだ出て来る。そもそもお客さんが少ないうえに、頻度の少ない仕事だと滅多にやらない為メモしておかないと忘れてしまう。ラッピングなどもあるが、時期の関係もありまだ一度しかやったことがない。クリスマスシーズンにはもっと増えるのだろうか。店内を見渡すと、増えない気もした。

 

「それは私もだよ~、私ももうすぐ入って1年半くらいだけど、まだやったことない仕事あるし」

 

「え、城廻先輩でもあるんですか」思わず聞いてしまう。

 

「あるよ~、定期購読なんて一回も!」

 

 そもそも申し込む人が少ないからね、と言う。

 

「そうだったんですか...、やっぱり紙離れなんですかね」

 

 電子書籍の台頭や違法アップロードの横行により、最近の書籍全体の売れ行きは悪くなっているという。

 

「そうだね~、でもそれ以上に本のシステムが悪いから根本的に利益は上がらないんだけどね」

 

「そうなんですか?」

 

「うん、確かに電子媒体が発達してるのは原因の一つなんだけど、本って言うのは利率が悪すぎて採算がとりにくいんだよ。書店は昔、文化が残る場所みたいな扱いだったから何もしなくても売れたんだけど、経営努力をしてこなかったせいで惰性の今の状況になっているんだってさ」

 

「なるほど...」

 

 確かに単行本一冊売れたところで利益はたかが知れている。書店がない景色に、そのうち慣れていくのだろうか。

 

「でも、このお店がなくなることはないと思うから大丈夫だよ」

 

 俺の不安げな顔を見て察したのか、心を読まれた気がしてどきりとする。

 

「世の中には赤字部門というのが存在するのだよ比企谷君」掛けてもいない眼鏡を上げる仕草をする。「まあ、本が売れたときは嬉しいんだけどね」

 

 そう言うと、店の一角に視線を向けた。釣られてそちらを向くと、本の表紙が見えている棚がある。話題の本を取り上げ、簡単なPOPを作ってアピールするコーナーだった。めぐり先輩の担当だ。

 

「比企谷君も手伝ってくれてもいいよっ」いたずらっ子の様な笑顔を向けて来る。

 

「ええ、俺にできることならなんでも」

 

 意外だったのか、めぐり先輩が少し驚いた顔をしたがすぐに顔を逸らされた。

 

「えへへ、ありがと」照れくさそうに髪を手で梳き答える。「あ」

 

 そこで何かに気付いたかと思えば、急に踵を返し去っていく。めぐり先輩がこの反応をするときは決まっていた。

 階段のある方、先ほどまでめぐり先輩の視線が置かれていた方角を見る。社員が降りてきていた。

 

 素を見せてくれている、かは分からないがそうだとしたら嬉しく思う。

 

 ただ、たまに見せる辛そうな表情はどうにも晴れない。

 

 

 

 

***

 

 

 

 

「悪いな、比企谷」着替えを終えシャワーを浴びてきたのだろう、金色の短髪に少し水気を含ませた美少年が声を掛けて来る。「じゃあ、生協に行こうか」

 水も滴る良い男と言うが、彼ならカピカピのミイラになろうと美形と呼ばれるのではないかと感じる。それほどまでに整った顔立ちをしていた。嫉妬も湧いてこない。

 

 石で造られたベンチに座って待っていた俺の前を通り過ぎ、生協のある号館へと進むのを確認し、その背中を追うように腰を上げる。

 

 蛇口を捻り、顔を洗おうと水を掌で受けたところで葉山に声を掛けられた。春学期最後の体育ということで、この機会を逃せば一ヵ月半を超える夏季休暇に入ってしまう。どうにかコンタクトを取れないかと思案していたところでの呼び掛けであり、自分も考えていた運転免許取得の話ということで二つ返事で受け入れた。まあ、突然のことで「お、おお」しか言えなかったんですけどね。

 

 夏に差し掛かる直前のささやかな抵抗か、雲は厚く、風が強い。今日の体育は小町の助言で持ってきていた長袖のジャージに助けられた。

 

「生協に行くって、あそこなんかあんのか?コンビニしかイメージないけど」

 

 前を行く俺より少し高い背に向け、声を出す。

 

「使ったことないのかい?学生向けの色々な手続きができるんだよ。運転免許取得もその一つさ」

 

 見返り美男か、と突っ込みたくなるほど爽やかな物言いだった。ていうかさっきから俺褒めすぎじゃね?バーカバーカ、ぶさいくっ、キンパツッ、えー...虚しいからやめよう...。

 

「ほお」

 

「本当に知らないのか」俺の反応に苦笑し、答える。「写真館もあるし、床屋もあるよ」

 

「なんだそれ、そこら辺の寂れた商店街より活気あるんじゃねえか?」

 

「どっちも利用している人は見たことないけど」

 

「なんだよ...」結局寂れてるのかよ。

 

 棟に挟まれた長い坂を上ると、少し広い場所に出る。そのまま西に進み目的の生協のある館に入る。

 バイトを始めてから帰宅時間が延び、夜中に小町と会う時間は夕食の時間だけの日が増えた。まじ寂しい。深夜の一時に帰宅をすると、ちょくちょく両親と鉢合わせすることもあった。今まで長い時間話すことのなかった親と子が、些細なことをキッカケとして積もる話を...、なんてことになるわけもなく。ただいまとおかえりが逆になるだけだった。まあそれでも生活するうえで必要な会話もある。それが今回葉山との話題でも出た運転免許だ。

 

 社畜で娘にゲロ甘な親父だが。社畜故に必要なスキルというものには敏感らしい。俺が服を買いたいと言った(実際には小町だが)時には滅多にない羽振りの良さを見せ(小町のお陰だが)、支援をしてくれた。それもまあ、言い換えれば世間体の確保と言えなくもない。駄目だこれ全部小町の先導だ...。

 

 つい先週、偶然お袋と親父の帰宅時間に被り、いつも通りすぐに就寝しようとしたところで呼び止められた。夏休み中に自動車学校に通って免許を取れとの指令だった。お金は出すからマニュアルで取ってこいと言われ、学割とかの話を聞いて来いと言われたのを思い出す。

 

「ああ、あれのことか...」

 

「ん?なんだって?」俺の突然の呟きに、葉山が振り返る。

 

「いや、何でもない」

 

 呼び止められたと思ったのか、葉山が速度を緩め隣に並ぶ。なんとなく気恥ずかしく距離を空けるが、向かいから来た学生とぶつかりそうになり、慌てて戻ると肩が触れた。

 並んで歩いていると、折本となか...なか...中なんとかさん?と出掛けた光景が思い出される。生徒会選挙の時期であり、嫌な記憶であると共に、一生忘れられない記憶になった。

 

 そうこうしている間に、ほぼほぼコンビニと言っていい生協に着いた。葉山の先導で奥のカウンターに行くと、設置されているラックから一枚のパンフレットを手に取り見せてくる。

 

「これなんだけど、近くの自動車学校がこの大学と提携していて、2人で申し込むコースが人気らしいんだ」

 

「ほお、で、そのメリットは?」

 

 人気ならばそれなりのワケがあるのだろう。

 

「割引とキャッシュバック、あとは教習の順番を二人で受けられるように融通を利かせてくれるらしい」

 

「なんだよそれ...」

 

 割引とキャッシュバックを別にする意味あんのか...。まあ、そこらへんは大学と自動車学校の間に何らかの契約があるのだろう。それよりも...。

 

「後ろの気持ち悪い制度はなんだ」

 

 最近の奴等は大学内だけでなく、自動車学校通うのにも一人で満足に受けられないのか。

 

「はは、確かに。気持ち悪いな」

 

 聞きなれない声で、聞きなれない言葉を言うものだから、思わず葉山の顔をまじまじと見てしまう。しかし彼は、そんな事意に介さない様子で先を続ける。

 

「でも、この2人で受けさせるというメリットが車校側にもあるんだ」

 

「それ以外にもか?」

 

「寧ろそれ以外の方が重要らしい」そう言うとおもむろに鞄に手を入れ、銀色のボールペンを取り出す、俺もよく知っているものだ。「印鑑持ってるか?持ってたら申込用紙書くけど」

 

「持ってるには持ってるが、まだやるとは...」

 

 言い終わらない内に、葉山はカウンターへと進んでしまう。

 どうしてこう俺の周りには強引な人しかいないのかしらっ!本当に。

 

 どうせ書くなら机が必要だろうから、生協のすぐ脇にある椅子に腰かける。鞄を開き中から筆箱を取り出す。

 

「お待たせ」

 

 葉山が戻り、向かいに座ると申込用紙を差し出してくる。

 別に待ってなどいないし、紙を取りに行かせたのだからもうちょっと態度ってもんがあるだろう。俺の。

 

「それ以外の理由ってなんだ」

 

 筆箱から葉山と同じボールペンを取り出す。一瞬、葉山の視線が俺の手を捉えたのを、捉えた。何を隠そう、この頭でっかちなペンこそ総武高校卒業記念品の印鑑付きボールペンだ。

 一万回を超える押印数。これがシャチハタクオリティ!まあ、シャチハタはインク浸透印の総称みたいになっているから本当のメーカー知らんけど。

 

「簡単だよ、友達と一緒だから頑張れるってことさ。免許の取得にはかなりの金額が必要だから、やめるなんて言う人は少ない。ただ、辞めるまでいかなくてもても授業が億劫になったり、予約が取れなかったりとモチベーションが下がることは多く、車校に通えるギリギリの期間までかかる学生というがよくいるらしい。期間が近づくと車校側もなんとか取らせようと予約を優遇したりしなければいけなくなって、業務に支障が出るんだって」

 

 ついこの間、父さんの古くからの付き合いがある人に聞いたんだ。と恥ずかしそうに付け加えた。

 

「なるほどな...」

 

 まあ、確かに理にかなっている。友人同士で勉強をして、片方が片方の足を引っ張り共倒れなどよく聞く話だ。しかし、親の金が関わってくるとそうはいかない。30万円に近い大金を我が子に預け、車校に通っている気配がないなど恐怖以外の何物でもなく、口出しが入る。それにこの用紙を見る限り、一定の条件を満たせばトカゲのしっぽ切りもできるらしいから、二人仲良く最後まで行く確率は上がり、最後まで行かなくても途中まででも安定して通ってくれたらラッキーって感じか。

 

 葉山の話を聞きながら、殆ど記入をし終えた紙を見直す。するとその先に葉山の視線を感じた。

 

「なんだ?」

 

「いや、予想よりすんなりと乗ってきたな、と思って」葉山の眼が細められる。

 

「誘っておいて随分な物言いだな」図星を突かれた。「俺みたいな奴を誘ってくれる奴なんていないからな、数万浮いてラッキーだ」

 

 視線を下げ紙に向かうが、しつこく食い下がってくる。

 

「でも、君なら馴れ合いなど捨ててでも一人で行動しようとするんじゃないのかい?」

 

「はっ、馴れ合いじゃねえよ。合理的な選択と言ってくれ。親に初期金額を請求すれば、この浮いた分は俺のものだ。逆に感謝したいくらいだね」

 

 少ししゃべりすぎたか、言ってから思う。しかし葉山は苦笑し、そのまま破顔した。

 

「はははっ、そうだな。契約だ」爽やかな顔で手を差し出してくる。「よろしく」

 

 なに?こいつ本格的に留学とか考えてんじゃねえの?ありそうだ...。

 

「オーケー」差し出された手に、ハイタッチで答える。

 

 じゃあ、スケジュールを確認しようか。と言われ携帯を取り出す。

 

「悪いが、夏休み中に講座が入ってていける日がちょっと制限されるかもしれん。大丈夫か?」

 

「ああ、そうなのか。実は俺も講座が入ってて...」

 

 既に入力されているのだろう、画面にカレンダーを表示しこちらに見えるように机に置く。

 

「ん?」なんか見たことある日付だな。

 

「どうした?」

 

「いや、なあこれ、公務員準備講座だったりするか?」

 

「え、そうだけど...よくわかったな」

 

「俺もその講座受けるから...」

 

 視線を上げると、少し驚いた表情を見せる葉山と目が合った。

 

 

―――

 

 

 地下鉄に続く階段を降りる。人のいない通路にスニーカーの乾いた靴音が響いた。通路の向こうから近づいてくるヒールの音に視線を向けると、20代だろうか、女性がこちらを見ていた。正確には葉山を。

 

 葉山の方をちらと見ると、電車の時間を気にしてか腕時計を確認していた。

 カツカツと鳴る音が一番大きくなり、徐々に小さくなっていく。通路を曲がったのか音が消え、再び乾いた音だけに包まれる。鼓膜に響き、身体を伝い、指先までささくれ立つような錯覚を覚える。

 

「なあ」

 

 彼はここを歩くような人間ではない。もっと華やかで、色があり、打てば響くような活気に囲まれているべきだ。

 

「どうして俺を誘ったんだ」単なる牽制のつもりが、止まらない。「もっといるだろう、大学の知り合いだとか」

 

 戸部とか、と声に出したつもりが出なかった。

 

「いや、いないよ」

 

 葉山の表情が、いつか見た哀しみを孕んだものになる。

 

「この大学に親しいと呼べる関係の人はいない」

 

 この大学には、の部分に引っ掛かりを覚えるが、彼の交友関係に知見はなく、流す。それよりも親しい人間がいないという言葉に意識が引き寄せられた。

 確かに、体育の授業でも特定の人物と一緒にいることは少なく、しいて言えば俺といる時間が一番長いくらいだった。しかし、葉山の名前は恐らく火曜4限の体育を選択している学生全員に知れ渡っているはずだ。それどころか、戸部と一緒に受けている英語の授業でも、後ろの席の女子生徒の会話で”法学部の葉山隼人”が話題に上がっていたのを覚えている。

 何かを投げかけるような戸部の眼と共に。

 

「馬鹿か、お前みたいなやつが人に囲まれていないわけがないだろう」

 

 知らず、口調が攻撃的になる。嫌悪感か、なぜか湧き上がる罪悪感か。

 

「はは...、まあ、俺にも色々あるってことさ」

 

 気力の灯が消えかかったようなか弱い声にも関わらず、これ以上は踏み込ませないといった力強さも感じられる声だった。

 

 改札に着くと、別の鉄道を利用するために別れる。

 

「今度会うのは講座かな。一緒に受ける友達がいないなら一緒に受けないか?」

 

「ケンカ売ってんのか...」

 

「ははっ、じゃあまた」

 

 俺の答えがない事も確かめずに、ホームに降りていく。

 

 気を抜くと、何の問題もなく、誰も困らず、誰も助けを求めていないように見えてしまう程の自然体は、落としたらすぐに割れてしまう硝子を思い起こさせた。

 

 

 

 

***

 

 

 

 

「ただいま...」

 

 春学期定期試験の最後となる金曜日を終え、帰宅した。

 少し戸部に話があった為、夕食の時間ギリギリになってしまった。

 

「おっかえりー!」リビングのドアを開けると、エプロン姿の妹が目一杯の笑顔で迎えてくれる。「テストお疲れ様!お兄ちゃんっ!」

 

「おお、さんきゅ」小町の持つフライパンからだろう、鼻孔をくすぐるいい匂いがした。「今日はなんだ?カツ丼か?」

 

「ピンポーンッ!」

 

 くるりと周り、既に食卓に置かれていたどんぶりに旨そうなカツが載せられた。卵と玉ねぎが絡み合い、きらきらと輝いているように見える。

 

「すげーうまそう」

 

 俺の月並みな感想にも、喜んでくれたのかピョンピョン跳ねる。尻尾があったら振りまくりだろう。

 

「がんばったお兄ちゃんにはご褒美をあげないといけないからねっ!」

 

「ありがとな、でもカツ丼って普通試験の前に食べるもんじゃねえの?」

 

「今日が安売りだったんだよ」

 

「お、おお...」

 

 身も蓋もないことをさらりと言われ、傷つく暇もない。

 

「ちょっと待っててね~」

 

 そう言うと、エプロンを畳み始めた。その横に行き、手を洗う。

 

「ありがとな、一週間飯作ってくれて」

 

 改めてお礼を言うことほど恥ずかしいものはない。しかし、言葉になければ分からないこともあると彼女達が教えてくれた。

 あれらしいぞ、彼氏は彼女に愛してるって定期的に言わなきゃいけないらしいぞ。そうしないとあなた本当に私の事愛してるの!?とかヒステリックされてしまう、らしい。だから俺はちゃんと伝える!

 

「愛してるぞ、小町」

 

 キリッ。決まった...、これにはヒースクリフも真っ青だ。

 

「小町はそうでもないけどありがとー!」俺の渾身のメッセージはいつものセリフにかき消されてしまった。「いいんだよ、小町お兄ちゃんより10日も早く夏休み入ったんだから」

 

 大学の夏季休暇のはじまりは遅く、8月からと言っていいだろう。その代わり終わりは遅い、遅いどころか高校時代より10日も伸びているのだ。なにこの天国。

 

「それでもだよ、9月は俺がいっぱい飯作るからな」

 

 下に掛けてあるタオルで手を拭き、小町の頭をわしゃわしゃと撫でる。

 

「えへへ、楽しみにしてるでありまーすっ!」

 

 

―――

 

 

「ごちそうさまでした」俺と同時に小町も言う。

 

 カチャカチャと音を立てながら皿を重ね始める小町を制し、机の上の皿をすべて自分の元でまとめる。

 

「いいの?」「ああ、風呂入ってこい」

 

「うーん、お兄ちゃんが洗い終わったら入るよ」

 

 俺の時間を使い、小町の時間を増やそうとしたのだが、肝心の妹には伝わらなかったらしく、頓珍漢な事を言う。

 

「なんでだよ...」

 

 妹の馬鹿さ加減には呆れたが、ニコニコとこちらを見る顔は言うことを聞かない時のもので諦める。

 スポンジに洗剤をつけ、潰しながら泡立てる。

 

 キッチンにくっつけられている食卓に座り、お茶を飲んでいた小町が思い出したように口を開いた。

 

「そういえばお兄ちゃん、大学のテストってどんな感じなの?できた?」

 

「まあ、できた、けど」

 

「けど?」

 

「思ったより拍子抜けって感じだな」

 

「どゆこと?」

 

 知らない世界に興味津々なのか、小町がオープンキッチンに身を乗り出す。

 

「いや、新しい勉強は勉強なんだけど、高校みたいに試験の為にって感じじゃないんだよ」

 

「ほお...?」

 

 なんとも歯切れの悪い俺の答えに、小町がよく分からない声を出す。まあ、分からないよな。

 

「俺もイマイチわからん、小町も大学行けば分かる」

 

 少し突き放すような言い方になってしまったかと思い、小町の表情を確認する。が、そうではないことが伝わっていたのだろう、穏やかな顔でこちらを見ていた。

 

「そっかそっか」椅子に座りなおし、コップに手を添える。「分かったら教えてね」

 

 色々、といたずらめいた顔で、八重歯を見せた。

 

「ああ、友達の作り方以外ならな」

 

「はあ...これだからごみいちゃんは...」

 

 そう言うと、俺が食器棚にしまい始めるのを確認し、リビングを出ていこうとする。扉が開く音と、小町の「あ」という声が重なり、視線を向けるとまた、いたずらめいた顔をしていた。

 

「免許取ったら、どこか連れてってねお兄ちゃんっ」

 

 捨て台詞の様に言い残し、扉が閉まる。

 

 

 明日から、夏休みだ。

 

 




 次は8月ですね。夏休みです。

 また、待っていてもらえると嬉しいです。


 ではまた。

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