八幡のちょっとリアルな大学生活。   作:23番

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夏休みに入りましたね、8月です。

長くなってしまいました、すみません。

「需要と供給」ですよね。

最近適当にタイトルをつけたせいで、内容が分かりづらいのでは?と気付きました。


読んでもらえるだけで嬉しいですが、意見感想などをいただけるともっと嬉しいです。

お手すきの際にどうぞ。


8月①

「はい、お兄ちゃん」

 

 小町が壁に掛けてあったカレンダーを取り、差し出してくる。お礼を言いつつ受け取るとボールペンを握る。夏休みは公務員の準備講座に車校、バイトと色々な予定が重なり、それに合わせて夕食などの用意も変わってくるため、リビングに共用として掛けてあるそれに書き記す。

 

 バイトは火曜、木曜、土曜の固定、準備講座は月曜、火曜、木曜とこちらも固定なため、丸一日自由な曜日は水曜、金曜、日曜ということになる。良かった...ちゃんと休みがあって...。

 

「水曜日と金曜日に車校行くの?」

 

 今日から始まる準備講座の細かな時間割とにらめっこして書いてるうちに小町も気付いたのだろう、問いかけて来る。

 

「ああ、水金とあとは、月曜の夕方以降も行けたら行く」

 

「毎週?」

 

「いや...」問われ、言葉に詰まる。もちろん体力的な面もあるが、そもそも葉山のバイトを知らなかった。

 

「いや?」急に黙りこくった俺を訝しんで、小町が上目遣いで覗き込んでくる。

 

「それも含めて、今日聞いてくる」

 

「ふーむ、小町はよくわかんないけど、無理はしないでね?」

 

 小町からすれば、夏休み中の特別講座も自動車学校のシステムも未知の領域の話だ。心配になるのも無理はない。しかし案外、飛び込んでしまえばその程度か、と思うことは世の中によくある。大学の講義もしかり、入学する前は選択をして大変だと思っていたが、実際は休みも作れるし2限からの曜日もある。

 だが、最悪を想定することは悪いことではない。その状況は避けられるし、最悪であることの方が少なく安堵する確率の方が高い。まあ、その過程は地獄なわけだが。俺のバイト先の某セキュリティ事件など、次のシフトに入る時何を言われるかビクビクして出勤したが、蓋を開けてみれば誰もそんなことがあったと知らない、俺だけが心配していたという結果だった。なぜかめぐり先輩は知っていたが。

 

「無理なんかしねえよ、悪いが講座とバイトのある日は夕飯頼むな」

 

 書き終わったことを確認し、カレンダーを元に戻すため立ち上がった小町の背に言葉を発す。

 

「あいあいさー!」ビシッと敬礼をして、ウインクを決めてくる。上げられた腕はやせ型と言えるほど細いのに、頼りになるからすごい。「あ、そろそろ準備する時間じゃない?」

 

「ああ、皿ありがとな」腰を上げ、リビングを後にする。

 

 

 部屋について一番にすることは着替え、ではなく電話だ。

 昨夜から挿されたままだった充電器を抜き、電話帳を開く。あ、か、さ...あった。名前をタップすると、暗く、赤と緑のボタンが表示された画面になる。上部にある名前は〈城廻先輩〉。

 

 基本的には問題のない講座とバイトのシフトだったが、隔週で火曜日の時間が少し変わり、夜のバイトに間に合わなくなる。その為、交代をお願いしようと思い電話を掛けるに至った。夜のバイトってなんか卑猥っ!

 会ってお願いするほうが確実かとも考えたが、めぐり先輩とシフトが被るのが最短でも木曜日であるためにこの手法に頼る。

 

『プルルルルル、プルルルルル』無機質な音だけが、鼓膜に届く。

 

 やがてその音も止み、通話が切れた。耳元で一分近く鳴り響いていたために静寂が一層静かに感じ、耳鳴りがする様な錯覚を覚える。いや、実際にしていたかもしれない。

 中学時代のトラウマが甦り、心臓の音が大きくなる。

 

 いやいや、そんな下心丸出しだった訳じゃないんだから、仕事上の用事だから。本当にその通りなのに、なぜか誰に向けるでもない言い訳が出る。

 

 もう一度、画面に表示される〈応答なし〉の文字を確認し、準備をする事にした。

 

 

―――

 

 

 携帯が鳴ったのは家を出て、自転車に跨った時だった。

 

「はい、もしもし」

 

 めぐり先輩からの折り返しであることを確認し、電話に出る。バイトの電話に出るときはお疲れ様ですが第一声だって教えられたな、でもめぐり先輩との間でそのセリフは...などと考えていると、スピーカーから発せられた声に携帯を落としかける。

 

『あ、出た。ひゃっはろー』

 

 こちらのすべてを見透かしたような笑みで、手を振る姿が鮮明に思い出された。携帯を握りなおし再び表示されている名前を確認するが、〈城廻先輩〉で間違いはなかった。

 混乱したままの頭でどうにか携帯を耳に当てる。

 

『比企谷君?あれ、めぐりこれ繋がってるよね?』そのセリフで、大体予想はついた。

 

「聞こえてますよ」冷め始めた脳みそを回転させる。

 

『あ、比企谷君だあ。ひゃっはろー』

 

「どうして雪ノ下さんが出るんですか」

 

『電話に出たのは君だよ』

 

「切りますね」

 

『えー、めぐりに用事があったんじゃないのー?』

 

「ぐ...」確かに用事はある、それを理由にこちらから電話を掛けたのも事実だ。「じゃあ城廻先輩に代わってください」

 

『どうしよっかなー』陽乃さんは焦らすような声を出す。

 

 余裕をもって家を出たが、それでも話をしていれば時間は過ぎてしまう。過ぎる時間は俺の心理を単調化させ、事を急がせる。それがいけなかった。

 

「どうすれば変わってもらえますか、何が望みなんですか」適当に終わらせようという、浅はかな言葉だ。

 

『うーん、比企谷君がデートしてくれたらかなあ』

 

「はあ、冗談はいいですから...どうすればいいんですか」

 

『冗談じゃないよ、私は本気』陽乃さんの声が、確かな芯の通ったものに変わる。『隼人の事は聞かない』

 

 鋭いが、甘い、そんな声質に圧倒され、返事ができない。とそこに耳元でガサゴソと音が鳴る。

 

『はあ...はあ...、ごめんね比企谷君、陽乃さんが勝手に...』

 

「あ、いや、大丈夫です」めぐり先輩の声に、日常に引っ張り戻されるような感覚を覚えた。

 

『それで、どうしたの?』奥でブーブーと嘆く陽乃さんの声が聞こえる。

 

「あ、バイトの事で...」咄嗟に先ほど書き記したカレンダーの記憶を引っ張り出し、交代を頼んだ。「...っていう感じなんですけど」

 

 こういう時に手帳があると便利だなと思う。電話しながらスケジュールアプリを開くにはスピーカーにしなければならず、打ち込むのも難しい。

 

『うん、大丈夫だよ!講座頑張ってね!』

 

 嫌な顔一つせず(多分)、快く受けてくれた。それどころか激励の言葉まで頂く。

 

「はい、ありがとうございます」

 

 部屋で電話が切れた時のざわざわとした胸のわだかまりは消え、城廻先輩への信頼へと昇華される。百戦錬磨のぼっちも、地に落ちたものだな、と誰の声でもなく頭に響いた。

 

『あの...ごめんね比企谷君、陽乃さんが代わって欲しいみたいなんだけど...』

 

 めぐり先輩も陽乃さんの我儘に困り果てているのだろうか、今度は申し訳なさそうな声を出す。本当のところは切りたいところだったが、お願いを聞いてもらった手前、助けを無下にする訳にはいかない。

 

「代わってもらって大丈夫ですよ」できる限り迷惑ではない雰囲気を意識して伝える。

 

『ありがと、ちょっと待っててね』

 

 そう言うと、奥で二人の会話が始まるが、何を言っているのかは分からない。すぐに厄介の元凶が来た。

 

『もしもし、代わりましてお義姉ちゃんだよー』

 

「だから漢字が違いますって」

 

 時計を確認する。急げば間に合うか。

 

『じゃあ、日曜日の15時、千葉駅ねー』

 

「いや、まだ行くとは言っ...『じゃあまたっ』

 

 言い終わらないうちに、見えない回線を手で引きちぎったかの様な音を立て、電話を切られる。

 

 あっけにとられるが、覚悟はしていたためそこまでのダメージはない。恐らくボディブローよろしく後から後悔の波に苛まれるのだろうと思う。

 

 跨りなおし、勢いをつけてペダルを踏みこむ。ギアの付いていない自転車は変則がなく、壊れにくい安定性があるように感じた。

 安定、安寧、安泰、実にいい響きだ。この言葉は誰しもが求めるだろう。危険か安全か、選択できるとしても大多数の人は安全を選ぶはずだ。そしてそれは彼女も同じ。

 

 あの夜の電話、突き放したのは俺の望みではない。しかし事実は変えられず、俺の精神を蝕み続けている。与えられる安心を、与えないのは罪だろう。

 

 放棄、虐待、縋る場所を求める彼女に対して行った俺の言動はその表現が近い気がした。それほどまでに、彼女の叫びは、幼く、か弱く、脳裏に響き続けるものだった。

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 今いる館で一番広い講義室。その真ん中あたり、左窓際の席二つに俺と葉山は座っている。視線を外に向けると、騒がしい車の往来に、人が蠢いているのが見えた。見ろ!人がゴミのようだ!

 

 陽乃さんの所為で時間を喰ってしまった俺は、自転車と電車の乗り継ぎを最高速でこなし、始業時間2分前という雪ノ下の小言待ったなし!の成績を残した。

 そんな時間に入室しては席もほとんど残っていない。注目を避けようと後ろの扉から入ったために前まで歩くことになったが、途中で目に入った金髪がそれを制す。わざわざ隣の椅子に荷物を置き、席を取っておいてもらい(頼んでない)、爽やかな笑顔で手を挙げ「比企谷」などと言われ周囲の女子の嫉妬の視線を独り占めしては(望んでない)、俺に選択肢など存在しない。

 

「~な為、えー、数的処理というのは公務員において~」

 

 バーコード頭の教員が試験の事や、公務員とは何たるかをご丁寧に説明している。公務員排出においては屈指の成績を残すこの大学だが、教壇に立つバーコードが言うような素晴らしい志を持った人物はいったい何人いるのか。社会に貢献をしたいのならそういった団体やら、企業に所属した方が直接的だろう。正体すら分からない、どこまでかも分からない、そんなものを公務だと胸を張っている方が阿保らしい。まあ、ここにいる俺が言えたことではないが。

 犬の糞を片付けて、何を救うのか。

 

「えー、では、教材に不備がないか、ざっと確認していきましょう」教員の合図で、室内が一斉に紙をめくる音に満たされる。

 

 右隣の男も例外なく、夏休みに入る前に学生窓口で受け取ってきた教材を開く。

 室内いっぱいの音が流れだした頃、俺も手を動かした。

 

「数的処理と言っても数学はほとんど出てきません」

 

 教員の言葉に続いて、順々にページを捲る。文章題、図、x,y、ん?

 

「少しは出てきますが、準備講座ということでゆっくり苦手意識を克服していきましょう」

 

 一つ、ページを捲ると、数式が現れた。あぁぁ、目がぁ、目があああぁぁぁぁ...。

 

 俺の挙動に、葉山が怪訝な反応を見せた。

 

 

―――

 

 

「お疲れ、比企谷」と、葉山が疲れていない表情で言う。

 

「...お疲れさん」

 

 講座が終わり、労いの言葉を掛け合う。体育会系ってすぐお疲れっていうよな、疲れてないくせに。

 俺の返事に満足げな表情で頷くと、机の上に広げられたものを片付け始めた。それに釣られ、俺も床から鞄を持ち上げる。

 

 この講座で使用する教材はそう多くなく、鞄も軽い。しかし今日は車校で申し込む書類が入っていた為、慎重にしまった。

 

「じゃあ、行こうか」

 

 葉山の合図で、同時に席を立つ。

 

 

 人を避け、エレベーターホールとは逆にある階段を使う。葉山の先導でこちらに来たため、少し意外に感じた。

 数段下を歩く彼が首だけで振り返り、質問を投げかけて来る。

 

「本当に良かったのか?予定とか」

 

「あ?」質問の意図が汲み取れず、思わず聞き返す。

 

「返事が全部『了解』とか『それでいい』とか一言だったから」

 

 いつぞや由比ヶ浜にも同じことを言われたな。どうしてこうリア充は返信に敏感なんだろうか。まるで中学時代の俺だ。はっ、まさか葉山が俺に恋して...いややめよう海老名さんが喜んでしまう。

 

「それでいいんだから他に言うことなんてないだろ」

 

 何かあった時困るからと交換した連絡先。電話帳に『葉山隼人』の文字があることに対する違和感は未だ拭いきれていない。しかし、葉山の送ってくるメールには俺のバイトの予定も考慮された無駄のない内容しかなく、文字通り返す言葉も無かった。

 

「ならいいんだけどさ」葉山が呆れたように苦笑する。

 

 せっかく生まれた会話を無駄にする意味もなく、今度はこちらから問いかける。

 

「そういえば、お前はなんのバイトをしてるんだ?」

 

「あれ、言ってなかったか」

 

「ああ」

 

「塾の講師だよ」

 

 個人経営のところだけどね、と続けた。

 

 葉山の答えを聞くと、妙に腑に落ちた自分がいた。朝方、彼のバイトは何かと疑問を抱いてから様々な憶測が脳内で飛び交ったが、居酒屋、ネカフェ、どれも似合わないもので最終的にたどり着いたのは美容師だった(無理)。

 

「なるほどな、曜日とかは決まってんのか?」

 

「ああ、火、木、金でシフトが組まれているから、金曜日の夜だけは申し訳ないけど車校は入れられないんだ」

 

 用事など誰にもある。しかし、それを彼はあたかも自分だけが世界で一番の悪者であるかのような表情を浮かべ、謝罪をしてくる。社交辞令の様なものだろうが、深読みしなければ分からない程の感情が込められている気がした。深読みしないと分からない感情的な社交辞令ってこれもう意味わかんねえな。

 

「わざわざ謝るような事でもねえだろ、俺だって土曜の夜はバイトだ」葉山の表情に軽度の嫌悪感を抱く。「こっちまで気にしなかんくなるからやめろ」

 

「すまない」どう受け取ったのか分からないが、葉山の表情が少し緩む。ドMかコイツ...。

 

 それきり会話は途切れ、黙々と足を動かした。すぐ近くと言っていた割には15分近く歩かされ、途中から恨めしい視線を背中に放ち続けた。

 

 

―――

 

 

「はいはいお待たせしました~」

 

 50代前半といったところだろうか、年齢を感じさせないしっかりとした物言いで語り掛け、時折見せる笑顔は可愛いと感じるほど愛嬌があった。おっさんだが、表情筋年齢とかあったら多分俺負けてる。

 

「こんな感じでどうかな~?」

 

 口角をあげたまま話す姿は、やはり可愛らしい。やだ...これが噂のおっさんずラブ...。いやまだ俺10代。

 

「明後日の水曜日からもう入れれるだけ入れてみたんだけど~」

 

 それぞれに渡された用紙を手に取る。

 ちなみに今俺たちがいるのはエントランスにあるカウンターだ。後ろには、予約キャンセル待ちとやらをしている人がちらほらと長椅子に座っていた。俺たちが申し込んだコースは、予約を優先どころか日付を伝えるだけでスケジュールを決めてくれるというもので、先ほど書いた希望日から仮のスケジュールを確認する。

 

 しばらくの沈黙のあと、葉山が口を開く。

 

「うん、俺は大丈夫だけど、比企谷はどうだ?」

 

「ああ、問題ない」

 

 葉山は無言で頷く。車校の職員に向き直り、「これでお願いします」と言った。

 

「はーい、ありがとうございます」

 

 上がったままの口角がさらに吊り上がり、裂けるんじゃないかと心配になる。

 

「では次回は水曜日ですね。本日お渡しした教材は学科のある日は忘れないようにしてください。貸し出しもしておりますが、書き込みなども授業内で行いますので、お気を付けください」

 

 先ほどまでの崩した話し方から、マニュアルの様な話し方に変わり少し面食らう。

 

「はい、よろしくお願いします」

 

 葉山は声で、俺は首肯で答えた。

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 ぱー、ともふぁー、ともつかない音で現実に引き戻された。壁にもたれ、時間を忘れるほど読みふけっていた本の終盤に栞を挟み、顔を上げる。するとまた同じような音。

 意識の覚醒を祝福するファンファーレにしては癇に障る。その音のした方向に首を巡らせると、駅のロータリーに一台の外車が停車しているのがに見えた。どんな野郎が運転しているんだかと運転席に目を凝らすと、ひらひらとこちらに向け手を振る陽乃さんがいた。

 何やってんのあの人...。

 

 げんなりとしながら彼女の車のある方向へ歩を進める。変な注目を浴びていないかと周りを窺うが、甲高いクラクションに意識を向けるのは一瞬の事で、既に気を留める人はいなかった。しいて言えば、高級そうな外車に乗る圧倒的な美人に目が釘付けとなっている二人組の若者が見ている程度か。

 

 その二人を見据えながら思う。今のクラクションの様に、自分の意識を持っていかれるようなことが起ころうと、大多数の人はものの10秒もすれば忘れてしまう。その他大勢のすることなどに、人は興味がないのだ。そうだと分かっていても人の目は気になり、大衆の面前でイレギュラーな事態に遭遇してしまえば、狼狽し、羞恥に溢れ、場を去る。人の評価など、一瞬の出来事で、それ以上は何も生まないのだ。

 

 目の前に近づく白い外車も、クラクションの音に目を向けた瞬間はそこら辺の成金野郎(偏見)がまた騒いでんのかと思ったが、今となっては高貴さを感じさせる佇まいだった。それこそ、彼女の様な人間を乗せるための白馬にすら見えた。

 

 俺が近づくと、助手席側の窓が下げられる。

 

「何やってるんですか」丁度下がりきった窓に顔を近づけ、恨み節をぶつける。「クラクションなんて使わなくても」

 

「いくら連絡しても気付かない君が悪いんだよー」

 

 そう言うと、助手席に伏せられていた携帯を手に取り、発信履歴を見せて来る。ギョッとしてポケットから携帯を取り出すと、数件の着信。

 しまった、と思った。昨夜、土曜のバイトでマナーモードにしていたのを思い出す。そしてバイブレーションを嫌い、ご丁寧にサイレントにしている自分を恨む。

 さらに言えば時刻は15時10分。ここに到着してから優に20分も充実した読書タイムに浸っていたらしい。

 その時には着信はなかったが、最高でも20分は待たせていた可能性が生まれる。

 

「...すみません」

 

 彼女の表情が恐ろしく、ゆっくりと視線を上げる。いや、恐ろしいのは表情ではないか。

 

「いいよ、優しい私は比企谷君を許してあげる」彼女の笑みと言葉にほっと胸を下ろしかけるが、続く言葉に息をのむ。「ただ...」

 

「ただ...?」思わず、繰り返す。

 

「君はお義姉さんの言うことを聞かなきゃいけないとは、思わない?」笑みに妖艶さを孕ませ、言う。

 

 恐れていたこと、それは陽乃さんにどんな形であれ借りを作ることだった。

 ゴクリと、何かを飲み込む音が身体で反響する。抗議の言葉か、漢字の訂正か、なんにせよ”覚悟”は体内に準備しておかなくてはならない。

 

 

―――

 

 

 西に向かい、車は国道を進んでいる。ちらと運転席に目をやれば、『美人の横顔』の検索トップに表示されても不思議ではない彼女がいた。ヒールの付いたサンダルを右足だけ脱ぎ、裸足を晒した足首からふくらはぎは細いが、太ももは女性らしさという成分を適度に含んでいるように感じる。細い腰、腕とのギャップか、シートベルトの所為か、豊満な胸が一層大きく見えた。

 

「どうかした?」

 

 俺の視線に気が付いた彼女が横目で確認してくる。胸を見ていたことがばれてしまったかと思い、どうにか誤魔化そうと慌てて視線を彷徨わせると、素足にキラリと光るペディキュアが目に入る。

 

「あ、いや、サンダル、脱ぐんですね...」

 

 だめだこれなんか変態臭いぞおい。まだ「胸大きいですね」の方が健全に聞こえる気がする。え?ちがう?

 

 国道を走る上で避けられない定期的な赤信号にタイミング悪く捕まると、陽乃さんはブレーキに掛けたままの右足を左足の太ももを少し持ち上げるようにして隠す。

 

「比企谷君のえっちー」陽乃さんの煽情的な動きに呼応するように柔らかなスカートが少し捲れ、白い肌がさらに露出する。

 

「な、なんでそうなるんですか」

 

 いやそうなるわ。現代でそれは立派なセクハラに値するだろう。バイト先のホワイトボードにも『ハラスメント撲滅』といった趣旨の注意喚起が記載された用紙が張り出されていたのを思い出した。

 髪切った?すらもセクハラと捉えられてしまう昨今、男は言動に細心の注意を払わなければならない。だから露わになった太ももなんかに負けない!八幡屈しない!

 

 気合と根性と世間体で視線をなんとか引っぺがし、青になった信号に目を向ける。

 

「あはは、比企谷君なら見られてもいいのに」

 

 絶対にからかっていると分かる口調で笑っている。ここで振り向いたら負けだろう。

 

「馬鹿なこと言っていないで、運転に集中してください」

 

 バツが悪く、助手席側の窓から過ぎ去る景色にピントを合わせては剥がされる作業に逃げる。

 

「集中してるよー、なんたって大切な雪乃ちゃんの大切な人だからね」

 

「シスコンですか...」

 

 軽口を叩き合いながらも、乗り心地の良さには驚かされる。高級外車のシートだけではない、これは運転手の技量によるものだと確信できた。雪ノ下家と車が関係すると、あまり気持ちのいい記憶は出てこないが、必ず少し年配の運転手が登場した覚えがある。

 そのイメージとはかけ離れた、スマートで清潔感に溢れるセダンタイプの車両には嫌悪感が全くと言っていいほどなかった。

 

「これは雪ノ下さんの車なんですか?」

 

 率直な疑問だった。陽乃さんらしいと言えばそうだろうし、らしくないと言えばそう思えるこの車は誰のものだろうか。大体の予測はつきながらも質問をする。

 

「ううん、これは父の車だよ」車で出かけることはあまりしないのか、カーナビをチラチラとみる。それにしては運転には慣れている様子で、彼女が分からなくなる。「父は外車コレクターでね、地下の車庫に何台も所有しているの」

 

 どこか呆れたように呟くその表情で、陽乃さんがその趣味を芳しく思っていないことが分かる。

 

「それを偶に借りてドライブしているって訳」

 

「いいんですか?」

 

 コレクターと聞くと、フィギュア然りカード然り、大切にしまいこみ、ショーケースに並べているところを想像してしまう。彼女の父親にとってそれが外車であり、車庫に値するのではないか。

 

「いいのいいの、車は乗るものでしょ、違う?」

 

「いやまあ、確かにそうですけど...」

 

「そういえば比企谷君は免許持ってるの?」カーブに差し掛かり、この話は終わりといわんばかりに会話のハンドルも一緒に切る。

 

「今車校に通ってるところです」

 

 嘘をつく必要もなく、正直に答える。ここから葉山を連想することなどできないだろう。

 

「そっか...」陽乃さんは何かを考えるように数台先の車を見つめる。「どう?順調?」

 

「いや、まだ今週通い始めたばかりなんでなんとも...」

 

 正面に向けられていたかと思えば、流し目をこちらに送っってくる。その視線の冷たさに背筋が凍った。車の中は冷房が効いているというのに、嫌な汗が噴き出すのが分かる。

 蛇に睨まれた蛙とはまさに今の俺の状態にぴったりだ。彼女の眼が爬虫類の様に吊り上がり、獲物を捉えるものに変化する錯覚を覚えた。思わず、強く瞬きをして、視界をリセットするようにと脳が緊急指令を出す。

 通常よりも深い瞬きをし終え、もう一度顔を確認する。「頑張ってね」と愛想よく激励する彼女の表情は、皆の知る雪ノ下陽乃だった。

 

 

―――

 

 

「君は映画、好きでしょ」

 

 は、の部分に含まれる断定的な言い草に、少し反抗心が芽生えた。

 

「どうしてそう思うんですか」

 

 目を合わさず、答える。

 

 国道を走ること30分、ここら辺で一番大きなショッピングモールに連れてこられた。行き先も、目的すらも聞いていなかった為、途中から拉致されているんじゃないかと思い始めた頃、この大きな建物が見えてきた。

 そして現在、モール内を陽乃さんに連れられて歩いている最中、会話に飛び出した単語でようやく目的地が分かる。

 

「読書をする人は大概、映画も嫌いじゃないよ」

 

「それは偏見じゃないですかね...」

 

「それに、比企谷君は映画嫌いになるほど観に行ってないだろうし」

 

 失礼だ、とも、正解だ、とも思ってしまう心を制御できずに、陽乃さんを見やる。抽象的な話題に抽象的な定義を乗せては、何が正しいのかなどもう分からない。大多数の人に言えることを声高々と叫ぶ占いに似ているな、と感じる。

 

「まあ、嫌いじゃないですけど」

 

「嫌いじゃない、ね」

 

 陽乃さんが口の中だけで噛み締めるように、繰り返す。それを眺めていると、彼女はなんでもないと言いたげに首を振る。

 

「最後に映画を見たのはいつ?」

 

 陽乃さんの疑問に、記憶を探る。一色...とは観ていないし、折本とは観た。とそこまで考えたところで、あの頃の葉山の表情が甦る。苦悩を抱えながらも、彼なりにもがき苦しんでいたその表情は、今の彼より遥かに健全だと思えた。

 

「そんなに前なの...?」

 

 陽乃さんの表情が、からかいを含んだものから、可哀想な生物を見つめるものに変わる。そんな目で見ないでっ。彼女の嗜虐的な視線も良いが、母性を感じさせるような瞳も良いと思いました。(末期)

 

「いや、そんなに前じゃ...」思考に風呂敷を掛けるように覆いかぶさった記憶を引っぺがし、急いで思い出す。あれは確か、「高2の秋か冬頃に観て以来ですかね」

 

 雪ノ下と由比ヶ浜と映画を鑑賞し、その後サイゼで感想を言い合った記憶が暖かな気持ちと共に甦る。眩しいくらいの懐かしさに、思わず目が細まる。

 

「それは誰と行ったの?一人じゃないよね」

 

 あれえ、おかしいな後半にクエスチョンマークが見えないぞ?女子にメールを送るときは、疑問形で送ると返信が返ってくる確率が高くなるらしいぞっ。ソースは俺、次の日の朝には『ごめーん寝てたー』と(以下略)。

 

「奉仕部の依頼で、ですよ」トラウマが勝手によみがえり、その元凶を作った彼女に恨みをぶつけるよう、少し口調が荒れる。しかし彼女は意にも介さない様子で、「比企谷君、友達と映画行ったことないの?」とさらに抉ってくる。

 

 なに?なんなのこの人。トラウマ掘り返し装置なの?どこぞの全自動卵割り機より需要ないぞそれ。

 他人の家に土足、どころかわざわざ丁寧に足に泥をつけてズンズンと進んでくる。

 

 いや、ある!あるぞ!どこかのずんぐりむっくりした体のトドの所為で記憶の奥底に封印してしまっていたが、俺には輝かしいあの子との思い出があるじゃないか!

 

「戸塚とは行きましたよ」顔に自信が満ち溢れるのが自分でも分かった。

 

 面接とかで戸塚君との思い出は?と聞かれたら、一発合格ものの表情を見せてしまうまである。

 

「ああ、あの可愛い男の子ね。女の子とは?」

 

「ないです...」

 

 止めて!八幡のライフはもうゼロよ!

 ずたずたに引き裂かれた自尊心と小さなプライドを優しく胸の中にしまい込み、どうにか平静を装う。

 

「そっか、じゃあ比企谷君の初めてを貰うわけだ」彼女の笑みが、艶やかで嗜虐的なものになる。

 

 やっぱり母性よりもこちらの方がいいと思いました。(手遅れ)

 

 

―――

 

 

「では、大学生2枚でご用意しましたのでご確認ください」

 

 チケットカウンターのお兄さんから券を受け取り、時刻と座席を確認する。

 

「あ、ありがとうございます」

 

 軽く会釈し、踵を返すように店員に背を向ける。

 人に運転してもらう機会など今までなかった為、ガソリン代の相場は分からないがとりあえず映画のチケット代は無理を言って払わせてもらうことにした。

「アメ車は500円玉を撒き散らしながら走っているようなものだ」と昔、父が毒づいていたのを思い出した。現代の乗用車がそのような燃費だったら売れないのではと考える。車に詳しくない為需要は分からないが、俺にそう言った後上司からの電話で「アメ車なんて課長すごいです羨ましいです」と見えてもいない課長様の虚像にお辞儀を繰り返す父親の姿がフラッシュバックした。

 

 歩を進め、壁際にもたれるようにして腕を組み、どこか遠くを見つめる陽乃さんに近づく。視線の先を追うと、大きな窓から空が見えた。穏やかな風で動かない雲は、1枚の大きな絵画かと思わせるほど優雅なものだった。

 

 視線を戻し、もう一度彼女を見る。

 

 今日の格好は、うなじが見える抜き襟、という奴だろうか。朝の情報番組で取り出たされていた気がする。そのネイビーのシャツをへその位置で結び、その下にはフレア寄りの白いスカートを履いていた。膝小僧が隠れるか隠れないかぐらいの丈だが、運転席はお尻が沈むからかさらに短くなる。というのは置いておいて、さらに足元に目を向けると黄色を基調としつつも、余計な派手さは微塵も感じないヒール付きのサンダルを履いていた。

 綺麗なラインを描く脚を手持無沙汰、この場合は脚持無沙汰というべきか、そうに交差し、手を耳に添えて揺れるイヤリングを確認している。一つ一つの仕草に気品が見えてしまうのは俺だけだろうか。

 

「お待たせしました」

 

 俺の存在に今気づいたのか、はっとした様子でこちらを覗いてくる。

 

「ううん、ありがとう」陽乃さんはお礼を述べるが、それだけでは済まず、鞄のファスナーに手を掛ける。「やっぱりお金払うよ、いくらだった?」

 

「いやいや、いいですから」

 

 鞄から財布を取り出そうとする陽乃さんの手を制す。こんな時に何だが、”美人は鞄が小さい”は本当かもしれないな、と思う。

 

「でも、後輩にお金出させるのってお姉さんとしてどうなの」

 

「俺が出せる瞬間なんて限られてるんですから、出せるときは素直に受け取っておいてくださいよ」なんとか説得しようと、御託を並べる。「無理な時はお願いしますから」

 

 小ボケのつもりが、ただのたかりに聞こえたのは俺の人相の所為か。

 

「んー、まあそういうなら」

 

 渋々納得してくれたのか、引き下がってくれた。ここでこっちが折れたら後に小町の罵声が飛んでくることが確定していたので少し残念に思う。残念に思っちゃうのかよ。

 時間を調べていたわけではなかったが、丁度良く開場時間となった。陽乃さんに飲み物を買うことを提案し、列に並ぶ。そこで彼女が時間を調節していた可能性に気付き、鼻歌混じりの彼女を横目で見る。

 

 これから見る映画はこの劇場に入ってから決めたもので、事前に相談などはしていなかった。それに一度は陽乃さんが選択したハリウッド映画と、俺の希望した邦画で意見が食い違い、「私はいつでも来れるから」という理由で俺の希望した映画を見ることになったのだ。俺もいつでも来れますよと言ったが、来ないでしょと一蹴された。

 

 まさかとは思いながらも、すべて陽乃さんの掌の上で踊らされている気がして、彼女の底知れなさに勝手に恐怖を覚える。

 

「あ、比企谷君。ポップコーンは食べちゃダメだよ?」

 

 ぱっと思いついたようにこちらを向いた彼女は、俺の視線に少し驚きながらも話しかけて来る。

 

「え、いや、別にいいですけど、なんでですか?」少し気まずく、視線を逸らす。

 

「夜御飯入らなくなっちゃうでしょ?」

 

「まあ、そうですね...」

 

 俺の家庭にか、小町にかは分からないが、気を遣ってくれているのだとは分かり、流石の社交性だなと思う。

 

「せっかくのディナーだから、美味しく食べたいしね」

 

 ニコッと微笑む顔は幼く、可愛らしさしかなかった。ん?

 

「ディナー?雪ノ下さんこの後用事あるんですか?」

 

 だとしたら申し訳ないと思う。今日の待ち合わせ時刻が午後だったのも俺のバイトを気遣っての事だろうと薄々感じていたからだ。

 

「うん、目の腐った人と食事に行くんだー」

 

 ほお、陽乃さんの周りにはよく目の腐った人間が集まるものだ。あれですしね、ぼっちキラーですもんね、魔性の。

 

 

 胸の内が少しざわざわとしたのは、なぜだろうか。

 

 

「そうですか、気を付けてくださいね」

 

 何に気を付けるのだろう。

 ざわざわが少し膨らみ、口を開きたくなくなる。

 

「あれ、小町ちゃんから聞いてない?」

 

 目の淵から何かが侵食し、視界と考えようとする思考回路が狭まっていく感覚がした。陽乃さんの声も、微かな靄がかかり始めたが、知った単語に脳が反応する。

 

「小町、ですか?」

 

「うん、言っておいたはずなんだけどなあ」細い腕を組み、顎に手をやる仕草は、瓜二つに見えた。「今日、夜御飯に小町ちゃんのお兄ちゃん借りるねーって」

 

「え」

 

 陽乃さんは、最初と変わらない笑顔で、ずっと語り掛けてくれていた。

 

「ああ、目の腐ったって俺の事ですか...」

 

「そうだよー」と言い、彼女はクスクスと笑う。「こんな目をした人、そうそういるはずないじゃん」

 

「さいですか...」

 

 店員の呼び声で、カウンターに着く。いつの間にか先頭にいたらしい。それぞれに注文を口にして、陽乃さんの方が多く払う状態を何とか回避し飲み物を受け取る。

 会計時に取り出しておいた映画のチケットを陽乃さんに渡す。

 

「楽しみだね~、お願いしま~す」

 

 陽乃さんが入り口前の店員にチケットを渡し、ちぎられた半券を受け取る。その店員は女性だったが、陽乃さんの姿を見るなり尊敬や羨望の色が瞳に浮かんだのが分かった。そして、その後の俺を見る残念な目も。

 

 ごめんね、俺で、店員さん。

 逃れるように目的のスクリーンを探そうとすると、視界の端で何かが動いた。

 

 ぎゅっ。

 

「なっ」

 

「早く行こっ!ダーリン!」

 

 素早かった。俺の右腕を上半身全体で抱え込むようにし、抱き着いてくる。

 うっわやんわらけええええぇぇぇぇぇ...。じゃなくて。

 

「ちょっ何してんすか」

 

「早く行こーよー」

 

 制止も聞かず、引っ張っていく。その寸前、俺の背後に視線を送ったのを見逃さなかった。

 ズルズルと引っ張られながらも後ろを振り返ると、先ほどの女性店員の口がだらしなく半開いているのが見えた。まるで目の前で一つ概念を持っていかれてしまったかのような表情だ。

 

 目的のスクリーンの扉まで到着して、ようやく掴まれていた力が緩む。が離してはくれなかった。

 

「いや、ほんと何してるんですか...」

 

「んー?」とぼける仕草は外面100%だったが、俺の訝しむ視線に気が付くと語尾を引き締め始める。「勝手にはかられるの、そろそろうんざりしちゃって」

 

 そう言う彼女の顔は、今日一番、裏表のないものに見えた。

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 いつだろう、映画を観る前には消えていただろうか。胸の中のざわざわとした黒い影は、正に見る影もなく霧散していた。今もあの瞬間の感覚を思い出そうとしているが、指先がかする気配もない。

 

「着いたよ、比企谷君」

 

 右側から聞こえた声に窓の外を見渡すが、目の前には巨大なホテルしか見えない。え、ここ?

 近づくと天辺が見えないほどの高さを持つそのホテルは、誰しもが聞けばわかる名前のものだった。周りには噴水があり、湿気がすごそうだなと思いました(小並感)。

 

 回転扉の前に車を停め、陽乃さんが外に出る。

 俺も出ようかと迷い、シートベルトだけ外しておいた。

 

 タキシード姿の白髪紳士が陽乃さんと話をして、何かを受け取った。すると車のフロントを回り、運転席に乗り込んできた。目が合う。

 

「...よろしいですか?」

 

 なにが?

 

 助けを求めるように彼女を見ると、お腹を抱えて笑っている。

 え、どういうこと。降りればいいの?

 

 何が何だか分からないが、とりあえず降りて扉を閉める。すると車は発進していき、少し先の地下駐車場と思しき入り口に消えていく。ああ、なるほど。

 

「すみません...」

 

「あははは」手の平を額に当てるようにして笑っている。「ごめんごめん、ふふ...じゃあ行こうか」

 

 堪えきれない笑いを無理して押し込んでいるが、肺が痙攣しているかのように空気が漏れ出す。

 さっきのは訂正だ。今が今日一番いい顔をしている。

 

 

―――

 

 

「ごちそうさま」陽乃さんが口元を拭き、言う。

 

「ごちそうさまです...」

 

「どう?口に合った?」

 

 この食事中だけでも何度目かのセリフがまた飛び出した。

 

「すごくおいしかったですよ」

 

 これまた何度も同じセリフを返す。同じことしか言わないから、同じことを聞いてくるのかもしれないなと思う。

 

 エレベーターの扉が開いた先は、地上37階のレストランフロアだった。

 正装をしている従業員しか見ていなかった為、自分の格好に不安を募らせながら上がってきたが、店のコンセプトなのか客層なのかオフィスカジュアル程度の姿をしている客の方が多かった。さらに言うとホールも通らず、夜景の見える個室に案内されたため、どんな格好でも問題はなさそうにも思えた。

 今日の服は小町の選択でジャケットスタイルだった為、落ち着いた雰囲気の店に相違はないようにも感じたが、小町は知っていたのではと少し恨む。

 

 恐らく場違いが服を着て歩いているように見えただろう俺とは違い、カジュアルながらも気品を兼ね備えた目の前の彼女は,バックの夜景すら従えているのではないかと錯覚するほどだった。

 

「本当にいいんですか?御馳走してもらっちゃって」

 

「もちろん、お祝いだからね」

 

 大学祝いもしてなかったし、と続ける。

 

「なんかすみません...」

 

「そこは、ありがとうございますだよ」

 

「ありがとうございます...」

 

 俺の言葉を聞いた彼女は満足げに頷き、右手に掲げたワイングラスを一口煽る。

 

「でも、そうだなあ...」グラスの中の液体を遊ばせていた彼女だったが、視線だけをこちらに向け、語り掛けて来る。「そっち、行ってもいい?」

 

「え、いいですけど...」言いながら、自分の左側をちらりと見る。

 

 椅子とソファの間の様な特殊なそれ、面倒だからソファと呼称させてもらうが、二人が腰掛けられるように作られていた。この個室にはそのソファが一つの机を挟むように設置されており、最大4人で利用できるらしい。

 食事の際は対面であったが、夜景でも観たいのかと思い少し右側にずれ一人分のスペースを開ける。

 

「ありがとう」

 

 既に横に来ていた陽乃さんが俺の隣に腰掛ける。ソファが沈み、またスカートが少し捲りあがる。が今度は手で押さえるようにして隠された。べ、別に残念じゃないし。ほんとだよ?ハチマンウソツカナイ。

 

 彼女はこちらに持ってきていたワイングラスの中の紫色に輝く液体をまた一口、煽る。

 眼下に広がる夜景は、圧巻の一言だった。

 

 そこで左肩にコツンと何かが乗った感触がした。何だと思う前に、袖をまくっていた腕に垂れた髪が軽くかかり、頭だと分かる。

 

「ちょ...」マテヨ、と頭の中で唱える。この時はまだ余裕があった。

 

 陽乃さんは黙ったままだ。

 

「雪ノ下さん、それほんとにお酒じゃないですよね?」いつの間にか机に置かれた空のグラスを右手で指さし、聞く。「酔ってます?」

 

「酔ってないよ。前にも言ったでしょ、酔えない。君もね」

 

 それにお酒じゃないし、これ。と視線を眼下の星空に固定したまま、力の抜けたような声で言う。

 

 それきり静寂が残った。陽乃さんの少し荒い息遣いだけを、耳が敏感に拾い、動悸を早める。

 良くないと思いながらも、身体が動かない。いや、そんなことはないのだ。緊急の事態でもない限りそんなことはない。頭のどこかで良いと思っているのだ。求めてはなくとも。

 

 先に口を開いたのは、陽乃さんだった。

 

「今日の映画、面白かった?」

 

「え、ああ、まあ、面白かった、ですよ?」

 

 嘘だった。

 

「嘘」

 

「はあ...いやまあ、そうですね、原作の方がよかったですね」

 

「大人になるとね、利害関係で人をみることが多くなるの」

 

 突拍子もない内容に、頭を働かせ、見つける。今日の映画での内容だった。

 

「子供の頃はいいのよね、すべてが綺麗で」

 

 

 

 映画に登場した大学生の男の子は、いじめられていた過去があり不登校となったと最初は言っているが、実はいじめよりも、成績が落ち始めたことの方が大きな理由だった。それ故、友人関係は冷え切ったが、瓦解することはなく、遊びにも誘われていたらしい。

 

 

 

「男も女も関係なくて、休みの時間はドッヂボールをして」

 

 陽乃さんの記憶だろうか、先ほどまで夜景を見ていた彼女の瞳が、遠い過去を見るものに変化する。

 

 

 

 ただその男の子は、2度と遊ぶことはなかったという。

 理由は、『汚いものを見たくなかった』から。

 

 

 

 そこで陽乃さんが体勢を直し離れるかと思ったが、さらに腰を近づけ、肩に手を回してくる。

 左を見れば、息がかかる距離に顔があるはずだ。

 通常ならば引きはがすところだが、陽乃さんの状態が気にかかるのと、身体が硬直しているのとで首すら動かない。頭にあるのは、映画のワンシーンのみだった。

 

「ねえ、男の人にとっての”利”って何かわかる?」

 

 陽乃さんの言葉に、艶めかしさが乗る。嗜虐的ともまた違う、背中をなぞられるような声色だった。

 

「な、なんでしょうね...」答えなど想像がつくのに、そんなことを言う。

 

「ふふ...身体だよ。からだ」

 

 肩に回された手が鎖骨と首筋に添えられ、びくりと体が反応する。

 可愛い、と陽乃さんが耳元で囁いた。

 

 

 

 その男の子は、『歩むはずだった人生のルートから外れることで、その道筋を客観的に見ることができた』と言う。故に、彼ら彼女ら汚れていく様子がよく分かったそうだ。そして、自分も。

 

 

 

「だから、比企谷君は好きなんだあ。大人で、子供で、すごくかわいい」

 

 その言葉は、確信犯的に俺の耳に届けられ、脳に染み渡る。

 そこで限界が来た。

 

 陽乃さんの両手首を持ち、彼女の顔の横で小さく万歳をさせる格好にする。

 

「わあ、大胆だねー」

 

「やっぱり酔ってるでしょう」

 

「だから酔ってないって」むっとした表情を見せる。が、「あ、でも、雰囲気には酔ってるかも。はじめて」と言うと少し嬉しそうな顔をした。

 

「もう出ましょう。頭冷やした方がいいです」

 

 有無を言わせないようにさっさと立ち上がり、行こうとするが彼女が立たない。

 

「立たせて?」振り返ると、上目遣いで万歳をするように手を伸ばしている。

 

「はあ、まったく...」

 

 手を握るのは恥ずかしく、手首をつかみ立ち上がらせる。この逡巡さえも見透かされるようで、どうにも居心地が悪い。

 

「きゃっ」

 

 目を逸らしたせいで、油断していた。

 恐らく躓いたフリで、俺の胸に飛び込んでくる。反射で支えるが大して体重はかかっていない。その代わり、握るように俺のジャケットを掴む指が微かに震えているのが見えた。

 

「...も欲しいよ」

 

「え?」

 

 小さく、しかし強く訴えられた言葉は届いていたが、思わず聞き返す。しかしそれには答えず、俺から離れると向かいのソファから鞄を取り、扉へ向かう。

 

「ごめん、行こうか」

 

 こちらに顔を向けず、行ってしまう。

 

 

 

 その男の子は、その選択を全く後悔していないという。

『思い出を、綺麗なままで保存しておけるから』と。

 

 

 

―――

 

 

 街灯が二秒後の未来を照らす。どのアーティストの曲だったか。

 猫背の街灯が等間隔にオレンジ色の明かりを垂らし、その光の中だけ他の夜より暖かそうに見える。いや、実際に調べれば誤差の範囲で温かいのかもしれない。

 

「でね、雪乃ちゃんがねー」

 

 先ほどから右側の運転手は当り障りのない話を永遠と続けていて、もはやその道のプロなんじゃないかと思う。俺の返事がなくても成立するまであった。いやこれ、ただのシスコンのプロだ。

 

「雪ノ下さん」

 

 話を切られ、陽乃さんの反応が止まる。

 

 あのような状態を見ては、もう無理だった。彼女に使う言葉は、虐待、がやはりふさわしく思えてしまう。それほどまでに追い詰められていたのだろう。

 いや、そう思わなければ、自分で自分を律することができない気がした。

 

「葉山は...」

 

 それで察したのか、軽く息を止めたのが分かった。

 

 

 

 

 

「そっか」

 

 話し終えたのは、もう家の近くだった。

 

「すみません、こんなところまで送ってもらって」

 

「ううん、それは全然いいのよ」

 

 長い話をした所為か思ったより消耗していて、彼女の言葉に含まれる意味すら脳が考えなくなった。

 

「あ、その家です」

 

 ちょうどよく右手に家が見え、大海原に見つけた一つの港のような安心感を覚える。鉄の塊を岸に着け、アンカーを下ろすようギアを入れた。

 

「今日一日、ありがとうございました」言ってから、半日も一緒にいなかったことに気付く。

 

「こちらこそありがとう、楽しかったわ」

 

 当たり障りのない会話を済まし、ドアを開け外に出る。猫の様に伸びをしたかったが、何となく失礼に値する気がして我慢をした。

 フロントを回り、車の右側、家の玄関がある方へと進む。

 

 運転席の窓が開けられ、手招きとともに「耳貸して」と言われる。

 

 レストランでの一件が頭をよぎり躊躇するが、陽乃さんがボソッと「遅刻...」と言い始めたので、仕方なく耳を近づける。

 

「隼人の事だと勘違いされると思っていたけど、やっぱりそうなったからちゃんとするね」

 

「え、ちゃんとって...」

 

 そこで、陽乃さんの右手が俺の頬に、左手は襟足近くに添えられる。

 時間が止まるようだった。

 右頬に柔らかい唇が触れ、離れる。

 

 寝違えたかのように固まる首をどうにか向けると、口元を恥ずかしそうに隠す彼女がいた。

 

「誕生日おめでとう。はじめてだよ、私の」

 

 いつもの余裕な表情になりきれず、赤く染まった頬は可愛らしい、そう思った記憶だけは鮮明に覚えている。

 その日の記憶は、そこで途切れている。

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 雪ノ下陽乃は、「静ちゃんの事、笑えないなあ」と呟いた。

 

 目の前に表示されるメーター。速度を示すその針が、じりじりと時計回りに進む。数字が増えれば増えるほどハンドルは生き物のように意思を持ち始め、両手に力を込める。

 

 いつからだろう、夜の高速を走るようになったのは。

 

 左手をハンドルから離し、唇に触れる。不思議と恥ずかしさはなかった。

 初めてのチュウ、などと謳う曲もあったが、想像していた程でもないなと感じる。

 

 はじめて異性として人に興味を持ち、キスをしたいと身体が欲求したのだから、自分の恋愛観にそぐわないファーストキスだなと、雪ノ下陽乃は思う。

 それよりも、レストランでの一幕が何度も頭の中で再生され、顔に熱がこもる。彼の身体に触れるのは確かな自分の意志での事だったが、あんなことを言うつもりなどなかった。

 

『本物なんてものがあるなら、私も欲しいよ』

 

 足がもつれ、意図せず彼に体重を預けてしまい、思考回路ももつれてしまった。

 思い出してしまい、また顔が熱くなる。

 何度も過ぎ去る暖色の街頭が熱を持ち、こちらを照らしているのではないかと思った。

 

「あんな甘え方...」雪ノ下陽乃は、バックミラーに映る自分に向け、恨めしそうに呟いた。

 

 しかし、今夜の出来事で雪ノ下陽乃の意志は固まった。あれは彼女らに向ける、開戦の合図とも取られるだろう。

 

「やっぱり、雪乃ちゃんにはもったいないね」

 

 もう一度、鏡の中の自分に呟いた。

 




次も8月ですね。

デート回、プール回、需要と供給...ですよね...。

また、待っていただけると嬉しいです。

ではまた。
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