八幡のちょっとリアルな大学生活。   作:23番

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8月の②です。

13巻が出ましたね。どこかの生徒会長さんが成長してしまっていましたが、とりあえずスルーします。すみません。

今回も長くなってしまいました。
供給…。

読んでもらえるだけで嬉しいですが、意見感想などをいただけるともっと嬉しいです。

お手すきの際にどうぞ。


8月②

 

 

 比企谷小町は困惑していた。一人残されたリビングのソファでカマクラを膝に乗せている。

 兄の帰還と共に連行、拘束、尋問を予定していたのだ。しかしそれは未遂、にもならず計画不実行のまま終わりを迎えてしまった。

 携帯の画面を表示させ、時刻を確認した。

 

『0:12 8月8日 月曜日』

 

「はあ」小町は思わずため息をつく。

 

 愛猫の頭をぐりぐりと撫でまわすと、力が強かったのか抗議の鳴き声と共に軽やかに床に降り、立ち去って行ってしまう。

 ショートパンツから伸びる太ももにあった温もりが消え、一人であることを今一度実感した。

 

 兄は成長していた。中学生の頃、人間に怯える野犬の様な振る舞いは見る影もなく今では複数のお姉ちゃん候補を侍らせるという荒業にも出ていた。

 もっともその自覚は”それほど”ないようだが。

 

 今日もその候補の一人、雪ノ下陽乃とのデートで間違いはなかった。

 ダークホース、台風の目、もしくは大穴。

 勝手に候補に加え、勝手に順位を低く見積もっていた。

 

 帰ってきた兄の様子を見れば何かあったことは明白だ。

 

 力のない「ただいま」がいつもの疲れからではない事に小町は訝しんでいたが、「おかえり!」とかまわず駆け寄った。

 対応は塩。ド塩。は〇たの塩よりしょっぱい。知らないけど。

 

 リビングを出て階段を上がる。兄がシャワーを浴びた気配はなかった。自分の部屋に上がったきり物音もしない為眠ってしまったのだろうかと考えた。

 階段を見るように顔を下に向け、自分の身体を見る。

 

 思い出すのは高校受験。兄の様々なサポートを受けたが、その過程で妹離れを考えていた。結果として全く離れられていないから、その思惑は失敗に終わったわけだが。

 あれから身長も伸びた。胸も少し大きくなった。体重も、恥ずかしながら少し増えた。

 自分で考え、二の腕をつまむ。うん、まだ大丈夫、と思う。

 

 兄の目線に近づいたことは嬉しく、くっつくたびに自慢げに鼻を鳴らすと怪訝な表情で頭を抑え付け縮めようとしてきた。それが楽しく、何度も繰り返してしまった。

 

 小町は目の前の扉の取っ手を掴み、ゆっくりと開ける。部屋にはジャケットだけ脱いだ兄がベッドにうつ伏せに倒れていた。体勢で分かるように疲れも確かにあるのだろう。それでもしっかりとジャケットはハンガーに掛けられているを見て、口元が綻ぶのが分かった。無頓着な兄に繰り返し言うことでやっと習慣化した。これも立派な成長だ。

 エアコンのリモコンを探し当て、電源を入れた。タイマーをセットするのも忘れない。

 

 ベッドに近づくと、スース―という寝息が聞こえていた。何も掛けておらず、薄手の掛け布団をお腹周りに掛ける。ピクリとも動かない為、意識は夢の中だろうと想像できる。

 ベッドの横に座り、学校の机で寝るのと同じ姿勢を取った。こんなくつろいだら寝ちゃうよ、と脳が言ってくるが無視して体重を預けた。

 

 早熟。早く、熟れる。

 同年代の友人を子供だと思うことはしばしば。由比ヶ浜結衣や一色いろはを子供っぽく思うこともあった。

 放任気味な家庭、これまた早熟な兄と共に育てば嫌でもこうなった。別に自分の事が嫌いなわけではない。

 

 ただ、兄も私もまだ青い、と小町は思った。

 

 だから、

 

「お兄ちゃん...おいてかないでね」

 

 小町の意識は、そこで途切れた。

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

 眩しい。

 目を閉じているはずなのに瞼を貫通するほど陽の光が刺さり、顔を背ける。

 

 エアコンをつけた覚えはなかったが部屋は適度に涼しく、再び眠気が襲ってくる。小町がつけてくれたのだろうか。

 薄手の掛け布団を被り直そうとしたところで、再度刺すような光が瞼の裏を赤く滲ませる。

 こうも邪魔されては気持ちが良くない。

 

 目を開けると、カーテンの隙間から夏の太陽が差し込んでいた。眩しい。

 気付けば顔の周りだけが熱い。

 熱を持つ頬に手を添えると、日焼けしていないかと心配になる。マスク焼けならぬカーテン焼けだ、笑えない。

 

 角度を変えた手に陽光が重なり頬まで届くような感覚がした。

 思い出した。

 

 頭の中で記憶がはじけるように再生され、連動して身体をがばっと起こす。

 意識した右頬だけが、かあっと熱くなる。

 そこで、ベッドについた左手にこそばゆい感触を覚える。みると貞子の様に髪を垂らす人の頭が。

 

「う」声を上げそうになるが、何とか堪える。小町だ。

 

 何やってんだこいつ。

 

 ミディアムという長さだろうか。ベッドに晒されるように広がるその髪は縁起がいいものにも見えた。少し伸びた髪の毛に相反して、変わることのないアホ毛に安堵にも似た感情を覚える。

 考えるより先に手が動いてしまっていた。小町の頭を撫でる。

 慌てて手を離す。幸い起きなかったようだ。小さな寝息を断続的に立てている。

 

 お兄ちゃんスキルオート発動も大概にしなきゃな。

 

 小町が起きないようにベッドから降り、いつの間にか掛けられていた(おそらく小町だろう)掛け布団を小町に返す。

 エアコンのリモコンを探し出し電源をつける。タイマーも忘れない。

 

 

 階段を降り顔を洗うため洗面台に向かう。鏡の前に立ち、薄く細めていた目を一気に開く。ピントを鏡面に映る自分の右頬に合わせる。が、特に何かが残っていることもなく、杞憂に終わった。

 昨晩の彼女の唇に怪しく、艶やかに光るグロスを思い出した。

 

「つくわけじゃないのか」ぼそりと呟く。

 

 そこで、一つの可能性を探り当てた。これ、夢オチじゃね?

 映画の内容も、食事の味も、しっかりと記憶に刻まれている。しかし、車に乗った辺りからの記憶は曖昧だった。葉山の話をしたこと以外イマイチ覚えていない。

 

 リビングで、朝食の準備を始める。

 起きたときに確認していたが、もう一度時計を見る。登校まではまだ余裕がある。昨日早寝をしたおかげだろう。

 

 生卵をフライパンに割りながら、考える。

 夢オチの可能性はかなりある。今のところ8割夢オチだろう。すでに頭は切り替わっていた。

 いや、元からイタい子だとは思っていましたよ?思っていましたけど、そんな夢と現実をごっちゃにする程だとは思っていなかった。

 

 頬に手を添え、ゴシゴシと擦り取るように拭った。

 

 

―――

 

 

 ごうごうと音を立て、列車は進むよどこまでも。

 おっと、ついつい鼻歌が混じってしまう。

 小町がお祝いをすると言ってくれただけでお兄ちゃんは幸せ者だよ。おろろ…。

 

 

 

 玄関に腰を下ろし靴を履いていたところで、バタバタと階段を降りる足音と共に呼び止められた。「お兄ちゃん!」振り返ると、軽く息を切らした小町がいた。

 

「おはよう小町」

 

「お、おはよう。じゃなくて!」

 

「ん?」小町の謎の慌てように、首を捻る。

 

「あれ、なんともないの?」

 

「何がだ…」

 

 言いながら、昨晩の事だろうなと見当をつける。詳しいことは覚えていないが小町と会話した覚えはなかった。起きた時の俺の格好からも部屋に入ってそのまま寝てしまったことは想像できた。

 

「いや、大丈夫ならいいんだけどさ…」納得のいっていない様子を見せる。歯に挟まった食べ物が取れない時のような、不快感を含んでいるようにも見えた。

 

「じゃあ、行ってくる。朝ご飯は冷蔵庫に入れてあるぞ」

 

「ちょ、ちょっと待って!」何やら息を整える。「おにいちゃん!誕生日おめでとう!」

 

 小町は満面の笑みで、祝福の言葉を口にする。

 誕生日おめでとう。誕生日。また、記憶が刺激される。靄が晴れるように、磨りガラスを削るように、記憶が鮮明になり始める。

 

「そうか、誕生日か」かき消すように、目の前の妹に意識を向ける。「ありがとな小町」

 

「うん!」今夜はお祝いだからね、と言う。

 

「ああ、じゃあ行ってくる」

 

 後ろ手に、扉を閉める。

 認めてしまっては、何かが進んでしまいそうで、戻れなくなりそうで、懸命にぼかした。

 

 

 

 車内にアナウンスが響き、乗り換えの駅に到着した。夏休み中であることと通勤時間に被らないことで、車内に人はあまりおらず、大きな駅にも関わらず降りたのは数人だった。

 

 乗り換え先のホームに立ち、電光掲示板を見る。次の電車までは五分ほどあった。

 そういえばと、今日になって携帯を確認していなかったことに気付く。いや、嘘だ。メッセージを見るのを身体が拒否していた。しかし、先ほどメールの受信を示すバイブレーションが起こったのをポケットで感じていた為に見なければならない。

 新着メールは、3件。

 おーおー、今日は大分スパムメールにやられてんな。俺の個人情報ガバガバか。

 思考に反して、名前の上を滑らせる指は軽い。

 

<メールボックス

 全受信

〈城廻先輩〉8:31

〈一色いろは〉0:12

〈☆★ゆい☆★〉0:02

 

 

 無いはずの名がないことに少し安堵し、一つずつ開く。

 

――――――――――――――――

〈☆★ゆい☆★〉

お誕生日おめでとー!

今日0:02

ヒッキーお誕生日おめでとー!

誕生日パーティーやるから開いて

る日教えて!

 

今年もよろしくー!

――――――――――――――――

 

 お正月か。

 こいつの頭は年中謹賀新年状態だな。

 

――――――――――――――――

〈一色いろは〉

無題

今日0:12

先輩誕生日おめでとうございます~

また一つおじさんになりましたね(笑)

 

夏休み中にまたデートしましょうっ♪

今週末か来週末どっちがいいですか?

――――――――――――――――

 

 こいつ、あざとくないところまであざとく見えてきて困る。おじさんって言われて悪い気がしない俺は壊れ始めているのだろうか。

 ていうか拒否っていう選択肢はないのね。この手法詐欺師とかがよく使うやつじゃない?

 

――――――――――――――――

〈城廻先輩〉

お誕生日

今日8:31

お誕生日おめでと~

8/8で合ってるかな?

間違ってたらごめん!

悩みとかあったらなんでも聞くからね!

今年もよろしく!

――――――――――――――――

 

 うん、やっぱり誕生日の挨拶は今年もよろしくだよな。それ以外ないよな。マジめぐりん最高。

 

 ホームに滑り込んできた電車に乗り込み、前半二人に適当に返信をする。めぐり先輩にはたっぷり時間を掛けて内容を考えて返信をした。

 いや、やっぱりメールって緊張しちゃうよね。書いては消して書いては消して、サイトからコピペして、熟考すること二十分、送信ボタンを押したときには大学の最寄り駅に到着していた。結局コピペかい。

 悩んでいた時間が少し恥ずかしく、誰に見咎められるわけでもないのに地上への階段をそさくさと上がる。

 

 大学に併設されているコンビニに足を踏み入れる。ここはチェーンにも関わらず定休日もあり、夕方になると閉まる。ホワイトコンビニだ。大統領御用達かもしれない。

 サンドウィッチにおにぎりどっちにしようかなと考えつつ、右へ左へ視線を彷徨わせる。偶に小町が弁当を持たせてくれるが、今日は小町がおねむだったことと、めんどくさかったのと、面倒なので自分では作らなかった。

 あー、こういうことしてるから小町が見かねて作ってくれるんだろうなあ。ほんと、妹冥利に尽きる。

 南無南無と言いながら、サンドウィッチ伯爵の功績を称える為に手に取る。ついでにおにぎり子爵も崇め奉っとく。両方買うんかーい。

 

「楽しそうだな、何かあったのか?」

 

 指摘されたようご機嫌でピン漫才をしていたところで、後ろから声を掛けられた。葉山隼人だ。

 振り返ると、爽快な笑みを浮かべ軽く手を挙げて挨拶してきていた。「げ」

 

「おはよう」

 

「お、おう…」

 

「で、何かあったのか?」言いながら俺の隣に並び、棚の物色を始める。すぐにサンドウィッチを手に取る。

 

 意図したわけではないだろうが、葉山が俺と同じ商品を手に取った為自分の手に持つものを身体で隠す

 

「べ、別に何もねえよ…」

 

「ははっ、嘘つくの下手だな」気に食わない口角の上げ方を見せ、レジに向かっていく。

 

 それから特に掘り下げられることもなく、葉山はそういう奴か、と思う。

 俺もレジで会計を済ませ店から出ると頼んでもいないのに葉山が壁にもたれる形で待っていた。いや、自意識過剰か、素通りする。

 目の前を通ると壁から背中を離し、半歩程後ろをついてきた。人がいない為エレベーターのボタンを押す。

 投げかけるような視線を葉山に向けるが、肩を竦めるだけだった。

 葉山はこういう奴だったか?と思う。

 

 音もなくランプが灯り、扉が開く。乗り込むと目的の階を押した。

 会話はない。

 所詮、この状態に過ぎない。まあこの状況ことが異常と言えるのだが。

 偶々利害が一致し、同じ空間で事が過ぎるのを待っている。ただそれだけ。

 一つの箱に、偶然入っているだけ。肩が触れ合うことも、ましては心が触れ合うことなど未来永劫ない。

 

 意識しなければ分からない浮遊感を伴い、箱が停止する。扉が開くのと同時に葉山の指が〈開〉ボタンに重ねられた。

 アイコンタクトで礼をし降りる。やだ、八幡君シャイ過ぎ……!!

 工藤静香を頭の中で流しながら目的の講義室へ入り、ゴールのピンが立っている席に腰掛ける。隣にイケメンが座るのはご愛敬だ。え、何がご愛敬って?周囲の女子の愛嬌がよろしくなるからに決まってんだろjk。

 

 始業まで時間がある。俺は本を、葉山はなんかの参考書を広げ、各々の世界に入った。

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 小町の待つ帰路を急ぐ。シャカシャカ自転車を漕ぎながら、先ほどの情景を思い出していた。

 

 葉山との挨拶もそこそこに電車に乗った俺は、乗り換えの駅で多分、海老名さんを見た。急ぎ足で歩いていると、同じく急ぎ足で歩く肩で髪をそろえた眼鏡の少女が前を横切った。咄嗟に俯きながらやり過ごし、少し経って振り返ると、青みがかった黒髪を一つに束ねた、すらりと背の高い女性に向かって手を振りながら近づいていったのが見えた。恐らく、いや、確かにあれは川…川なんとかさんだった。ああ、川崎沙希だ。ということは、見覚えのある少女は海老名姫菜だと、思う。

 もしかしたら、そう願っているのかもしれない。

 

 キコキコとルーティンをやり過ごすと、自転車を停め鍵を抜く。

 今度は家の鍵穴に鍵を差し、クルリと回すと軽快な音が鳴った。

 

 玄関に入り、靴を脱ぐ。何となく靴を揃える。

 リビングに続く扉は閉ざされていて、それが期待を膨らませてしまう。どきどき、どきどき、動悸かしら。

 

 そんな茶番をやり過ごし、夕食は何だろうと考えながら普通に扉を開ける。

 

 ぱぱんっ!ぱんっ!

 突然の破裂音に、思わず身体を捻り無様にびくついてしまう。小町ちゃんそこまでしてくれたのかい、と思うも一瞬、確実に一人では鳴らしきれない量のクラッカーが存在することに気が付き戦々恐々する。

 

 瞑った瞳をゆっくり開ける。明るい室内にカラフルな髪色が映えてもう一度目を細めてしまうが、意を決して開眼する。額が割れて第三の眼とか発現しちゃうかもしれない。

 そこには五人五色の表情を見せる美少女が総勢5人。

 一人は優しく、一人は悪戯めいて、一人は勝ち誇り、一人は照れながら、一人は当惑しながら。

 

「せーの…」という小町の掛け声で、一斉に声がする。「誕生日おめでとう!」一人が思い出したように机に手をやり、もう一発とクラッカーを鳴らす。ぱんっ!

 

「………」

 

「お兄ちゃん!反応は!?」呆けている俺に小町が近づいて言う。

 

「……なにこれ」辛うじて、声を出す。

 

「サプライズパーティーに決まってるじゃないですか先輩」一色いろはが悪戯っ子の様に言う。

 

「えへへ、ヒッキー騙されたでしょー!」由比ヶ浜結衣がしたり顔で言う。

 

「お、お誕生日、おめでとう…」雪ノ下雪乃が頬を桜色に染め、言う。

 

「ご、ごめんね八幡っ。勝手にお邪魔して…」戸塚彩加が気遣いながら言う。

 

「いや、いいんだ戸塚。ありがとう、なんなら泊っていっていいぞ」回らない頭で声を出すと、戸塚は恥ずかしがりながら答える。「は、八幡…」

 

「さいちゃんにだけ優しい!?」

 

「やっぱり戸塚先輩呼んで正解でしたねー」

 

「妹として嬉しいような嬉しくないような…」

 

 ようやく働き始めた脳みそに発破をかける。働け細胞!ワンッ・ツー・スリー・フォー!

 

「なに、どうしたの君たち…」

 

「先輩の誕生日を祝いに来たに決まってるじゃないですかー」一色が頬をプクーッと膨らませ言う。「結衣先輩の時は呼んでくれませんでしたしー」

 

「ご、ごめんなさい一色さん…」思いもしない流れ弾に肩をびくつかせ、雪ノ下が申し訳なさそうな声を出す。

 

「ふーん、別にいいですしー」

 

 一色は拗ねたように顔を背け、それを見かねた雪ノ下が困惑するよう手をワナワナと彷徨わせる。

 

「一色さん…、あの…」

 

「一色、その辺にしといてやれ」

 

「わーごめんなさい嘘です」仲裁に入るとすぐに雪ノ下に抱き着く。「私の誕生日をお二人で祝ってくれただけで大満足ですから!」

 

「そ、それならいいんだけれど…」

 

 視線を変えると、せかせかとクラッカーから延びる紙を片付ける由比ヶ浜がいた。戸塚もそれに習えだった。一色も雪ノ下も会話しながら自分の手元のクラッカーは片付けていて、由比ヶ浜が手に持つゴミ袋に入れた。

 

「はーいみなさーん、ご飯食べますよー」一足先にキッチンへと消えていた小町が叫ぶ。

 

 それを合図に、女性陣がせわしなく動き出す。誕生日パーティーという割には主役置き去り?こういうの初めてだからわからん。などと思っていると、トコトコと戸塚が近づいてきた。え?戸塚は女性陣じゃないのかって?女神だよ言わせんな。

 

「八幡、改めて誕生日おめでとう」

 

 ハニカミながらそう言う彼女(違う)は、偶に電車で会うジャージ姿ではなく、カジュアルな私服姿で心臓がドギマギする。世の中の大学生よ、木こりとか言ってごめん。木こり最高、絵本から飛び出してきたみたいだ。

 

「ああ、ありがとう戸塚」精いっぱいの気持ちを込めて、感謝をする。

 

 思いつき、確認する。

 

「そういえば戸塚の誕生日っていつなんだ?」

 

 やっば超自然、見た?ちょっと中学時代の自分に見せてやりたい。八幡ここまで成長したよ!自然すぎて多分答え返ってこないまである。

 

「えーっと」少し言いづらそうに、「僕は五月九日なんだ…」

 

 なん…だと…。え、今の暦ってなんだっけ、四月の終わりだっけ、君の嘘だっけ、なんだが新入生な気がしてきた。え?八月?八ってなんだっけ?

 俺の心の眉が八の字になっていることを察したのか、戸塚が慌てて手を振る。

 

「あ、ううん大丈夫だよ八幡!言ってなかったしあんまり誕生日とか気にしてないから!」

 

 ぶんぶんと目の前で大きく手を振られるが、ショックのあまり心の眉が(以下略)

 

「すまん戸塚…、今からでも…」

 

「大丈夫だよ八幡!」戸塚が溌剌とした声を出すが、尻すぼみになり、「でも、来年は八幡に祝って欲しい…な」

 

 上目遣い、髪を耳に掛ける、可愛い。ごちそうさまです。

 

「ああ、約束する。今すぐ来年の手帳買ってきて書き留める」踵を返しかける俺を手で制し、ぷんぷんと効果音を出しながら怒ってくる。「もうっ八幡ったら!」

 

 尊い…。

 

「お二人さーん、どいてもらえますかー」

 

 キッチンから魅力的な料理を両手に抱えた小町が戻ってくる。雪ノ下、由比ヶ浜もその後ろに続く。

 戸塚と共に道を開けると、リビングの机に俺の好物ばかりが並べられていく。バランス悪そう…。

 

「先輩なに飲みますー?」背後から右手にお茶、左手にジュースを持った一色が問いかけて来る。

 

 重そうに腕をプルプルとさせているのを見かねて、手を伸ばし半ばふんだくるように奪い取る。そうしないと八幡恥ずかしくて動けなくなっちゃうっ。クリスマスでもないのにチキンが出来上がってしまうところだ。

 

「わー頼れるー」一色の表情は女子に嫌われるであろうそれになっていた。

 

「へいへい、だが俺に飲み物を聞くときはマッ缶の一つや二つ用意してもらわんと」

 

 気恥ずかしさは消えず、誤魔化すように話をすり替える。が一色はそれも承知のうちと言わんばかりに手をグッドの形にし、背中側を指さす。なに、表出るの?

 勝ち誇ったような笑みに不快感を全面に押し出しながら、一色の後ろを覗き見る。そこには見覚えのある黄色を基調とした麗しのマッ缶の束がそこに。

 

「おお…」

 

 あまりに荘厳な情景につい涙腺が潤みそうになる。病気かな。

 そんな俺を横目に、一色が片手でマッ缶を取り上げ自分の頬に当てるようにする。小顔効果かな?

 

「そう言うと思って買っておいたんですよ♪」

 

 結衣先輩のアイデアですけど、とぼそりと呟いたのを聞き逃さない。が、今大事なのはそこではないだろう。

 

「なんか、色々してもらって悪いな」

 

 言いながら、ちらと一色を窺うとキョトンとした顔をしている。こいつ今絶対失礼なこと思ってるだろ。かと思えば袖口で口元を抑え、瞳をアーモンド形にする。

 

「ふふ、いいんですよ、なんたって天下の誕生日なんですから」

 

 天下、天下か。いい響きだ。秀吉の天下統一は思ったより範囲が狭いが、俺程度ならリビング位がちょうどいいだろう。ごめんなさい調子乗りました。

 

「じゃあパーティー始めるよー!」由比ヶ浜の音頭に、皆が続く。

 

 宴のはじまりだ。

 

 

―――

 

 

 一色の受験の事、小町の生徒会の事、雪ノ下と由比ヶ浜の大学の事、戸塚のテニスの事、そして俺の事。

 なぜか余裕たっぷりの一色やそれをニヤニヤしながら見つめる小町、受験生よりもブルーな気分で成績開示を待つ由比ヶ浜の状態がおかしく、思わず笑ってしまう。雪ノ下は成績優秀者として表彰され、贈呈品まで貰ったとか。戸塚は小さなテニスの大会で5位入賞を果たしたらしい。

 

 一通りの工程を終え机の上の全ての皿の底がしっかりと見えた頃、またも由比ヶ浜の音頭で場面は切り替わる。

 

「さて!お待ちかねのプレゼントタイムだよー!」由比ヶ浜の掛け声に小町と一色がヒューヒューと声を上げ、戸塚が控えめに拍手をする。

 俺はというとどうにも居心地が悪く、心のソワソワが血管を通り全身へと張り巡らされていく錯覚を覚える。何故か正座した膝が落ち着かない。

 

 こんな感じで祝われるのは何度も言うが初めてで、自分の家にも関わらずアウェー感が半端ない。もうマジ中東、アウェーの洗礼だわ。

 生卵とか投げられちゃうのかしら…とビクビクしていると、牽制をしていた彼女らから一人手を挙げる。

 

「ぼ、僕最初でもいいかな…」

 

 勇気ある行動だと言わんばかりに歓声が上がる。え、なに俺に何かあげるのって試練みたいな扱いなの?クリアできたらワープできちゃうの?

 

「は、八幡!」急に名前を呼ばれ「ひゃい!」と変な声を上げて答えてしまう。一色あたりから「気持ち悪い…」と聞こえたのは気のせいだろう。と信じたい。

 

「八幡、イヤホンの調子悪いって言ってたよね。まだ買ってなかったらいいんだけど…」

 

 おずおずと差し出してくるそれをおずおずと受け取った。

 戸塚とは偶に電車が同じになる。行きの電車だったり帰りの電車だったりと固定ではないが、戸塚が可愛く手を振ってくるのを目で捉える度にアーメンアーメンしていたのは内緒だ。

 その時、俺のイヤホンの状態を話した覚えがある。音楽は聴こえるが、口元近くにあるマイク機能付き音量調整兼再生ボタンが故障してしまったのだ。携帯を操作すれば音量も曲の選択もできる為、わざわざ買いに行くのももったいないと思いながらも戸塚に言ってしまったのだろう。会話の種のなさがここで出た。え、普通の会話?ほんと?

 結局、イヤホンはその時から変わらず、音楽を耳元で聞くことだけができる機械のままだ。

 

「おお、ありがとう戸塚。全然まだまだ買ってないあのままだ」人からの純粋な厚意に、素直な感想が出る。

 

「ほんと?よかった~」胸に手を当て、ほっと撫でおろすような仕草をした。可愛い。

 

 人から一方的にプレゼントを受け取るというのは存外気恥ずかしいものだと分かる。なにかお返しをしなきゃと考えるが、そのお返しが世間一般でいう相手の誕生日になるのだろう。

 

「来年の誕生日は、絶対返すからな」すんなりと、絶対という言葉が出て来るが、それはついて出たものではないと確かに分かる。自分の底から出たものに違いなかった。

 

「うん!」戸塚のはじける笑顔で、俺の理性もはじけそうになった。

 

「はいはい!次あたし!あたしがいく!」由比ヶ浜が犬の様に手を挙げる。

 

 どうぞどうぞとダチョウ倶楽部ばりの譲りで、由比ヶ浜が一歩前に出る。やっぱり大事なのは譲り合いだよね!

 

「えへへ、ゆきのんと選んだんだけど、今度は私の番かなって」由比ヶ浜がそのまま話す。

 

「ま、まあ良いものだから、共有したいと思うのは当然の事と言えるわよね」雪ノ下が言う。

 

 言葉の意図が汲み取れないまま差し出された紙袋を受け取るが、そんなに重量のあるものではないらしい。

 そのまま開けると、今度は見覚えのある柄が目に入る。これは…。

 

「今度は俺かよ…」半ば呆れながら言ってしまう。

 

「うん!ヒッキーも沢山パソコン触るでしょ!」元気よく話し、それにと続ける。「これで、みんなでお揃いだし…」

 

 由比ヶ浜はお団子をくしくしと弄りながら、頬を赤らめる。

 

「お、おおう…」恥ずかしいからそういうこと言わないの…。

 

「へーなんですかそれー」一色がこそこそと近づいてきて肩口から紙袋を覗いてくる。なんか柔らかいものが…いや気のせい…いやでも…。

 

「そういえば雪乃先輩と結衣先輩同じ眼鏡持ってますよねー。あ、先輩が今貰ったのも同じなんですかー?」

 

 一色が確認なのか圧力なのか分からない声音で聞いてくる。こわい、こわいよいろはす。どうしたのん?

 

「掛けてみてよ!」由比ヶ浜が机に乗り出し語り掛けて来る。

 

「八幡の眼鏡姿かー、楽しみだね!」戸塚が楽しそうに笑う。

 

 見世物にされるのは御免だったが、女神の所望とあれば馳せ参ずるのが下僕の役目と言えよう!

 テレビのタレントがよくやる、先に下を向いてから顔を上げる流れを再現する。道化になるなら潔く!

 失笑や嘲笑を覚悟し勢いよく顔を上げたが、反応は期待、及び懸念していたものとは大きく違った。簡単に言うと女性陣の口が半開き、口を慎めよお前ら。

 

「わあ!八幡似合うよ!」戸塚の反応が一番早かった。

 

「そ、そうか?お世辞でもサンキュ…」

 

「お世辞じゃないよ!ね、小町ちゃん!」戸塚は横の小町に同意を求める。

 

「ううん、これは困った。お兄ちゃんの存在自体がポイント高くなっている…」

 

 何言ってんだこいつ…。

 

「そうかあ。短所があるなら隠しちゃえばいいのかあ」小町がウンウンと頷きながら感嘆の声を出す。

 

「ヒ、ヒッキー、やっぱりそれ学校で使わないで、欲しいな」プレゼントした本人がとんでもないことを言い出す。

 

「なんでだよ…」

 

「いや、思ったよりというか、似合うやつ選んだからなんだけど…」

 

 ボソボソと喋る由比ヶ浜の声はついに聞こえなかった。

 追い討ちをかけるように、その隣から一色が「そ、そうですよ先輩。それ家専用にしましょうよ。ほら、最近はやりの家専用シャアみたいな」と言う。

 

 君が言っているのは違う赤い彗星では?あとシャア専用ね?

 

「そ、そうね。比企谷君もそろそろ気を遣うということを覚えた方がいいものね」

 

「俺が外でこれを使わないことが気を遣うことに繋がるとかどんだけだよ…」

 

 雪ノ下の言い様に、少し不安を覚える自分が顔を出し始める。洗面所で見てこようかなと考えていると、それを察したのか由比ヶ浜がさらに身を乗り出す。

 

「いや、そういうことじゃなくて!あのー、ね!いろはちゃん!」

 

「え、そ、そうそう!雪乃先輩の言う通りですよ!私たちに気を遣ってください!」

 

 言って、ハッとした表情を見せる。何のことかわからず小町に目をやるが、生暖かいゴミを見るような目つきでこちらを見つめる。略して生ゴミを見るような目。なにそれゾクゾクッ。

 

「とりあえず、それは屋外使用禁止だから。小町さん管理の方お願いしていいかしら」

 

「えー、でも小町的にはこういう兄も良いというか「小町さん?」はい任せてください。完璧に兄を調教して見せます」

 

「なんでそんな物騒な言葉が出て来るの?俺どうなっちゃうの?」

 

 小町の発言にドキドキワクワク(末期)していると今度は雪ノ下が前に出る。

 

「次は私でいいかしら」雪ノ下は店でもらうような袋は持っていない。「と言っても、由比ヶ浜さんと一緒に作ったものだけれど」

 

 手にあったのは長方形の小さな包装用紙、ラッピングを2人でしたってことかしら?などと考えながら受け取る。軽い。

 

「サンキュ」

 

 目だけで開けていいか問うと、瞑目を以って許可が下りる。

 本日二度目の工藤静香を流しながら包装用紙を開けると、…革のケース?

 

「眼鏡入れだよ!」顔の前に持ってきて、クルクルと回していると見かねた由比ヶ浜が声を上げる。

 

「おお」なるほど。

 

 肌触りのいい革でできたそれは、お店で買ってきたと言われても何の疑いも持たないほどのクオリティだった。口を留め金で閉める仕様らしく、パチパチと試す。

 

「これお前らが手作りしたのか?」

 

 雪ノ下は顔を少し逸らしながら、由比ヶ浜は自信満々と言った様子で答える。

「ええ簡単なものだけれど」

「うん!一緒に作ったの!」

 

「まじかよ…」思わず、感嘆のため息が出た。

 

「うへぇー雪乃さん結衣さんすごーい…」

 

 横から顔を出すように近づいてきた小町も同じような感情を抱いたようだ。伸ばしてきた手に握らせる。

 

「で、由比ヶ浜はどこを担当したんだ?」

 

「え」由比ヶ浜の視線が泳ぐ。

 

 あまりにも高いクオリティに、あのぶきっちょで有名なガハマさんが入る余地はあったのだろうか。

 背後では妹と一色、戸塚が三者三様の称賛の声を上げていた。

 

「えーっと、素材選びと…仮縫いを少々…」由比ヶ浜の肩が言葉と共に小さくなっていく。

 

 ははーん、仕上げはお母さんと言わんばかりに雪ノ下が手を入れたんだな。それはもう幼稚園児の稚拙な歯磨きをすべて上塗りするが如く。

 

「由比ヶ浜さんが選んでくれたから、作れたのよ」

 

「ゆきの~ん」雪ノ下の優しい物言いに、由比ヶ浜が抱き着く。

 

 はいはい恥ずかしいからそういうのは他所でやってね。いやでも他の奴に見せるのは…。

 肩をトントンと叩かれ、いつの間にか近づいてきていた戸塚から眼鏡入れを受け取る。少し指が触れてドキッなんて……、今のなしで。

 しかし、由比ヶ浜も不器用なりに作ってくれたのだろう。プレゼントは出来ではなく、気持ちだといつか諭したことを思い出す。

 もう一度よく見ると、下の方に〈ヒッキー〉とローマ字で刺繍してあるのを見つけた。前言撤回だガハマの仕業だろ。

 

「おいこれ」

 

「それは由比ヶ浜さんに脅されてやったのよ」

 

「あれ!?ゆきのん!?」

 

「まあ、比企谷君にはそれぐらいがお似合いということよ」雪ノ下が食後のお茶を啜りながら言う。

 

「なにも言い返せねえ…」ぐぬぬ…と唸っていると、由比ヶ浜が横から「嫌だった?」と聞いてくるものだからこちらとしてもバツが悪い。

 

「…いや、サンキューな」もごもごと動かなくなる口を何とか開く。

 

 殆ど蚊の鳴くような声量だっただろう。しかし、蚊ほど耳が感知する音もないかもしれない。由比ヶ浜が耳ざとく聞いていた。

 

「どういたしまして!」

 

 彼女の笑みに、少し救われる。

 

「あのー、そろそろいいですかー?」

 

 振り返ると、焦れるような視線を向ける一色がいた。

 俺の身体が一色に向いたことを確認すると、ビニールの袋からこれまた紙の包装用紙を取り出す。

 

「はい!先輩、お誕生日おめでとうございます♪」

 

 にこやかに差し出されるそれを受け取り「開けていいか」と聞くと、「あげたもんだ、好きにしろ」と誰のモノマネかよくわからないことを言う。俺じゃないよね?違うよね?

 

 開くと革ともつかない、サラサラとした肌触りのカバーが出てきた。大きさ的に文庫が入るくらいだろうか。

 

「ブックカバーか?」一色に問いかけると、ピンポーンと軽快な声が返ってくる。

 

「先輩、いつも紙のカバーつけてるじゃないですかー。だから本のカバーなら使うかなって。それなら薄くて丈夫ですし邪魔にはならないかと」

 

 人差し指をクルクルと回し、どこか諭すように解説をする。

 

「おお、超助かる。いつも読み終わったあと捨ててるからよかった。サンキュ」

 

 一色にしてはとても実用的で利用可能なものをプレゼントしてくれたからか、するすると感謝の言葉が出てきた。

 

「え、あ、どういたしまして?」腹立つ顔で言う。

 

「なんで疑問形なんだよ…」

 

 不思議な肌触りにサワサワ触っていると、また後ろから手が伸びて来る。

 

「ヒッキー見せて?」

 

 何故か囁くような物言いに、少しドキリとしながら差し出す、雪ノ下も興味があるのかチラチラと伺っているのが分かった。

 気を取り直して再び前を向くと、一色がまた何かを取り出していた。後ろでは小町と戸塚が皿をできるだけ簡単に運べるよう一つにまとめているところだった。

 

「あと、これはおまけです」

 

 正座をしている彼女から受け取ろうと手を上げかけたが、それより先に一色が動く。

 片手を地面につき、上体がこちらに傾く。俺の胸の近くに頭が来たかと思うと「私だと思って、食べてもいいですよ」と囁いた。他の誰にも聞こえない大きさだった。

 

 心臓が跳ねる力を利用するかのように上体を後ろに逸らし、なんとか距離を取る。当の本人は艶やかという表現が正解と思える顔をしていた、十八歳には見えない。

 にっと笑ったかと思うと、手に持つそれを投げて来る。がさりと音を立てながらキャッチすると一色は後ろを向いてしまって「私も手伝いますー」と小町と戸塚の方へ行ってしまう。

 

 未だ心臓の音が鳴りやまないまま袋を見ると、紙袋に小さく設えられた小窓から美味しそうなクッキーが見える。様々な形があり、人型の物もあった。

 そこで背中に悪寒が走り、ばっと振り向くと、訝しむような視線をこちらに向けるお二人の姿が…。

 

「えーっと、ちょっとトイレ…」

 

 逃げるように立ち去るが、ジトっとした視線が追尾してきていたのは分かった。

 

 

―――

 

 

 用を足し、一度顔を洗おうと洗面台に立ったところで自分が眼鏡を掛けていたことに気付く。様々な評論を頂いたが、自分では当然かもしれないが違和感しかなく顔をしかめる。

 眼鏡を脇に置きバシャバシャと顔を洗う。目が悪い人は大変だな。

 

 リビングに戻ると、既に片づけは皿洗いに入っていた。早いなと思ったが、全員でやればこんなもんなのかとも思う。

 

「あ、ヒッキー戻ってきたよ小町ちゃん!」

 

 皿洗い班には入れてもらえなかったのか、机を拭いていた由比ヶ浜が小町に語り掛ける。

 

「はいはーい」とととっと近付いてくると、小さな箱を差し出してくる。「はいっお兄ちゃん!」

 

「おお、ありがとな小町」受け取るついで、頭をポンポンと撫でる。周囲から謎の視線を感じたのは気のせいだろう。

 

 どういたしましてーと言い、小町は片付けへと戻っていった。それと入れ違うように由比ヶ浜が近寄ってくる。

 

「何貰ったの?」

 

「ん、ちょっと待ってろ」

 

 リボンは解けたが、テープで止められていためカッターを取ってきて開ける。薄い正方形の形をしたそれの蓋を持ち上げると、鈍く、黒色の光沢をもつ財布が姿を現した。

 

「わあ、お財布だ」由比ヶ浜が観光名所を見たような声を出す。

 

 彼女の良いところだろう。

 

「そういえば、財布が壊れかけだったんだよな」思い出しながら言う。

 

 イヤホンと言い、財布と言い、私の私物…壊れすぎ…!次は心かな、そしたら新品の心が貰えるのかな…はは…。

 未だ新品の匂いが鼻孔を掠める財布を手に持ち、今一度周りを見渡す。

 

 自分の家に、人がいる。妹と戸塚というダブル天使以外、未だ関係性は曖昧で、触れたら崩れていまいそうな、足元のおぼつかないものかもしれない。それでも、この光景は忘れないだろう。とりあえず走馬灯に出ることは確実だ。

 

「ありがとな」

 

 代表して、由比ヶ浜に声を掛ける。

 

「うん」

 

 また優しい微笑みを向けてくれた。

 本当に、救われている。

 

 

 

―――

 

 

 

「ここでいいわ」前を行く雪ノ下が振り返り言う。

 

「ありがとね、ヒッキー」並んだ由比ヶ浜もこちらに向き直る。

 

「別に、小町に言われたからだよ」

 

 つい口を出た言葉だったが、二人には通用しないらしくクスクスと笑われてしまう。

 

「一色さんのこともちゃんと送っていくのよ」

 

「はいはい」

 

「なんでそんなに適当なんですかー!」ぷんぷんと横にいる後輩がむくれていた。

 

 

 一夜の宴は終わりを迎え、月明かりも雲に遮られてしまったころ、小町に送っていくよう言われた。まあもともと天使を夜更けに外に出せるわけもなく、なんなら一夜と言わず泊っていくことも仕方なしと考えていたがそんな願望は虚空に消えた。

 必然的に彼女らも送っていくことになったが、肝心の戸塚はというと家を出て十分ほどで家の方向が違うからと帰っていってしまった。

 俺の目的はここで終了したのだが、帰っても小町の怒声が轟くだけなので駅まで送っていくことにした。

 

 

 駅構内に消えていく二人を見送り、少し先のバス停まで一色を送る。

 由比ヶ浜の悪戯めいた顔を思い出すと、今朝のメールからのサプライズと一本取られたことを思い出し少し悔しい。

 黙って考え事をしていた所為で、一色の行動まで気が回らなかった。

 いつの間にか前に立っていた一色にぶつかりかけ、つんのめる。口元に髪が触れ慌てて離れる。

 

「おま、なんで…」

 

「先輩、デートは今週末でいいですよね」一色は俺が触れてしまった箇所を揃えた指で擦りながら言う。

 

「は?」

 

「は?」いや君失礼じゃないそれ。

 

「え、あのメールもドッキリじゃないの、違うの」

 

「私と先輩のデートとサプライズが何の関係があるんですか…」

 

「いやほら、注意を逸らすとか違う事に意識を向けさせるとか」

 

「へー、先輩私とのデート意識してくれてるんですか」一色は口元に手を当て、プークスクスと言わんばかりに笑う。

 

 今日は虚を突かれすぎてもう容量オーバーだ。疲れた表情筋を労わるために一番素直に出てきた言葉をそのまま伝える。

 

「はあ…当たり前だろ…」

 

 一色の顔色が変わるその瞬間、曲がってきたヘッドライトの強い光につい顔を逸らす。ごうごうという音が止み、空気の抜けるような音を立て鉄の巨体が停車した。一色が止まったのはバス停に着いていたかららしい。

 目を開けると、とんっとヒールを鳴らし一色がバスに乗り込んだところだった。クルリと振り返る。

 

「じゃあ、次の日曜日。楽しみにしてますね♪」

 

 図ったように、扉が閉まる。

 首を傾げるようにして手を振る彼女に頷きで返す。夜の帳に包まれた世界で、彼女のステージだけが輝いて見えた。ここが世界の中心なのではないかと錯覚する。

 

 見えなくなるまで手を振る彼女は、一等星よりも輝いて見えた。

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 S字カーブを過ぎると直線が待つ。三速四速と入れ、40キロまでスピードを上げる。

 

「はーいオッケー。じゃあ次は坂道発進ね」助手席に座る教官が言う。

 

 来た。俺が、いや殆どの人が苦手とするであろう坂道発進。アクセルとクラッチの絶妙なバランスを保たなければ発進してくれない。サイドブレーキを上げてから発進する方法には慣れたが、手際よく、いや足際よくブレーキから足を離しアクセルとクラッチを調節する方法は未だ一回での成功はなかった。

 ハンドルを左に切り、小さな丘になっている場所へ車を進める。坂道を上がりきる前にブレーキを踏み、停車させる。

 

「はいじゃあ坂道発進お願いしますねー」

 

「は、はい…」緊張で声が裏返る。

 

 一つ息を吐き、素早くブレーキから足を離す。クラッチを上げつつアクセルを踏み込んだ。昨日の感覚ではこの辺りが噛み合うところだという記憶を頼りにギアが入るよう願う。

 ガタガタという音と共に、車が揺れ坂道を下がり始める。慌ててブレーキを踏んだ。

 

「あー、残念だったねー。じゃあもう一回やってみようか」

 

「はい…」

 

 だめだった。前日の記憶も虚しく、エンストしてしまった。これだからなー教習車ごとにクラッチの位置が違うのどうにかならないかなー、いやまあ、いろんな車に乗る人もいるだろうから?そりゃあ全部一緒なんて無理だとは思いますけどー。

 頭の中で愚痴呪文を唱えながらやると、今度はうまくいく。これくらい気楽にやったほうが膝も柔らかく動くんだよな。分かってんだけどなあ。

 

 坂を下りる直前、サイドミラーに教習車が映る。目を凝らすと金髪頭の葉山隼人だった。クランクに入るためゆっくり進みながらちらと様子を見ると、一発で坂道発進を成功させていた。教官と笑いあっている。

 この野郎こんなとこでも無双かよ。

 

「…君、比企谷君」

 

「あ!は、はい!」

 

「次クランクね?大丈夫?」

 

「すみません大丈夫です」

 

 くそお、どれもこれも葉山の所為だ。

 

 

 

―――

 

 

 

 教習が終わり、車庫から建物内へと進む。その途中で同じく教習を終えた葉山が歩きながらこちらに寄って来るのが分かる。

 

「お疲れ、比企谷」

 

「…お疲れさん」

 

 葉山特有のお疲れ攻撃にも慣れはじめ、汗を滴らせながらエアコンの聞いた室内へと足を踏み入れた。

 ふええ…超涼しい。このために生きてるって感じ…。今日の講習はこれで終わりだ。午前中から学科実技とこなしていた為に身体はもう悲鳴を上げ始めていた。ついでにいうと本日一回目の教官が恐い人で心は既に死んでいる。

 葉山と一緒に。なんかこの表現うざいな。葉山に続いて自分の教習内容が書かれたプロフィールの様なものをフロントに返す。そこで背後の自動ドアが開く音がする。

 なんの変哲もない音なのに、今日はやけに耳が敏感に反応するのは昨夜届いたメールのせいだろう。

 

 振り返ると、ヘアバンドで留められた額の汗を拭うようにしている男がいた。

 目が合う。顎で未だフロントのお姉さんと雑談に興じている葉山を差す。戸部が頷くのが分かった。

 

 一度、車校に設置されているウォーターサーバーへ近づき水を入れる。

 俺の動きが目に入ったのか、葉山も近づいてきた。

 

「あれ、隼人君じゃね!?」

 

 うっわあ偶然!と言いながら、戸部翔がこっちに走ってくる。

 

 偶然などではない。夏休み前最後の試験の後戸部を呼び出した。そこで葉山との一部始終を話し、戸部を車校に通わせることで偶然を装い会わせることにした。戸部もちょうど免許の取得を考えていたところでの作戦だった。

 昨夜、俺が戸部に送信していた教習スケジュールに対しての返信が来た。つまり今日、この時に葉山に突撃するという趣旨の内容だ。

 

 水を一口含み、まずは事の顛末を見守る。

 

「…戸部か」葉山の表情は暗い。が発した声がそうでもないのは意外だった。

 

「は、隼人君もこの車校来てたんだ。っベーほんとすごい偶然だべー」

 

 おいなんだお前演技下手か。千葉村の不良演劇はどこいった。あ、元からあの気があったのかしら…。偶然偶然言うと怪しまれるぞ。

 

「偶然…まあ、学校も推奨しているから、そういうこともあるか」

 

 葉山が振り返りこちらを向く。背筋に暑さからではない嫌な汗が伝うのが分かる。寧ろ寒さからと言えよう、彼の眼が、冷たい悲しみを含み、凍てついた視線になっていた。

 

「まあ、大学で見かける奴もよくいるしな」嘘だ。人の顔なんて覚えていない。

 

「君は覚える程人と関わってないだろう」葉山の口調は軽くも、冷たい。

 

「失礼だなお前…」

 

「本当の事だろ」

 

 いかんいかん、こんな会話をするために戸部を呼び出した訳じゃない。戸部に目だけで合図を送る。

 それに頷き、「隼人君っ!」と声を上げた。

 

「あのさ…」言いかけたがそれを葉山が制した。

 

「戸部、どうせ比企谷に相談して来たんだろう」

 

 すべてを見透かしたような口調に、戸部が面食らった表情をした。

 忘れていた。こいつの洞察力を。雪ノ下、雪ノ下姉、そしてコイツにはどんなに捻ったことも意味をなさない。

 しかし、今回はヒントが多すぎるか、俺も騙したままいけるとは思っていない。戸部にかかっている。むしろ、戸部にかかるようにしている。

 

「それで、用は?」

 

 よし、とりあえず葉山の興味を引く、もしくは足を止めさせるという目的は達成された。あとは戸部がどうにか葉山を誘い出すだけだ。

 

「あ、いや、バレちゃったか…はは…」戸部が頭を掻くようにして微苦笑を浮かべる。

 

「……」葉山はまだ動かない。

 

 今しかないぞ。

 

「いや、なんでもないべ。はは…偶然見かけたもんだからさ…つい」

 

 は?

 

「本当に用はないのか」葉山が念を押す。

 

 歩み寄ってきているはずの言葉なのに、確実に距離を取ろうとしているように聞こえてしまう。いや、葉山はそのつもりなのだろう。

 

「ごめんっ、俺今から受付なんだわ。じゃあね隼人君ヒキタニ君」

 

「お、おいっ」思わず口をついて出た。

 

 しかし、戸部は俯き行ってしまおうとする。唇を噛むその表情に言葉が詰まった。

 俺たちの横を通り過ぎる瞬間、葉山が口を開く。

 

「どうして、そんな事をしたんだ」

 

 戸部の肩が一瞬跳ね、再び避けるように進む。受付へと逃げ込む彼に、俺は失望とも同情とも取れない感情を抱いた。

 視線を葉山に戻すと、なにかに耐えるような、苦虫を舌の上で踊らせているような、そんな表情をしていた。

 

 この空間に、救いはないように感じた。

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 一色いろはは決意する。

 

 職員室の一角、パーテーションで区切られたその場所で私は待っていた。ブレザーのポケットに無造作に突っ込んだ右手で、小さな、歪な塊を握りこむように弄ぶ。

 

「すまん、待たせたな」担任で、体育教師を兼ねる厚木がのっしのっしと入ってくる。

 

「いえ、お時間を取らせてすみません」軽く頭を下げた。

 

 いつも苦しくて開けてしまうシャツのボタンも一番上まで留め、リボンも限界まで締めた。生徒会活動に奮闘していた時でさえ、そんなこと気にしたことはなかった。

 

「まあ、単刀直入に言うと、学校側としても一色の希望を通すことは吝かではない」厚木は頭をポリポリと掻きながら、一瞬口ごもる。「しかし、ついていけるかは分からんぞ」

 

「はい、自分の身の丈に合っていないのは重々承知しています」身体は前のめり、語気も強くなる。

 

 すると、言葉の勢いに押されたように厚木が背もたれにもたれる。年季の入ったそれは、軋んだ音を立てる。彼が平塚先生に呼び出され、縮こまりながら説教を聞いていた姿を思い出し、顔がにやけそうになるのを堪えた。

 

「それでも、行きたいんです」心の底から、伝える。本物を手に入れる為に。

 

「…分かった」厚木が両ひざに手をぱんっと当て、勢いつけて立ち上がる。「一色の頑張りはみんな知っている。これからも精進し続けると約束できるなら、俺が話をつけよう」

 

「本当ですか!?ありがとうございます!」もう戻らないのではないかという程の勢いをつけて、礼をした。厚木が苦笑したのが分かった。

 

 じゃあ、と言い厚木が席を外す。

 緊張が解け、その場にへたり込みそうになるが、なんとか足に力を入れ職員室を出る。はきはきとお腹から声を出し、「失礼しました」も忘れない。

 すこし廊下を進み、角を曲がったところでついにしゃがみこんでしまった。そのままの勢いで目の前に現れた階段に座り膝を抱える。

 

 下着が見えているだろうなと頭をよぎったが、今はただ頑張った自分を抱き締めてあげたかった。それに夏休み中で校内に生徒はいない。

 もう一度ブレザーの右ポケットに手を突っ込み、小さな塊を取り出す。掌に載せるようにして、顔の前に持ってくる。

 

 三月、何かから逃げるようにして去っていく彼の背中を追いかけ、引き留めた。それが最後だと分かっていたから。チャンスはそこしかなかったから。

 引き留められたことに驚く彼の顔が、私の言葉で更に引き攣るのが分かった。今考えてもあの反応は失礼だ…。

 グダグダと駄々をこねる彼の胸倉を掴み制止させると、彼の着ていたブレザーの第二ボタンに指を掛け、勢いよく引き千切った。今までで一番という程力を込めた。それくらいしないと手に入らない気がした。

 今後悔していないのはあの時の自分のお陰だ。

 

 掌の上で、強く引っ張った所為で金具が曲がった彼のボタンをコロコロと転がす。こうしていると、彼のすべてを手に入れたようで心が弾むのが良く分かった。私はSなのかもしれない。確かに彼はマゾ気質がある。いやでも意外にSっ気なんて見せられたらイチコロで落ちそうで自分で自分が怖い。

 彼なら、何でもいいと思えた。彼であるのなら。

 

「逃がしませんよ♪」掌で踊る先輩に、そう呟いた。

 

 

 




次も8月になります。すみません。

待っていていただけると嬉しいです。

ではまた。

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